2008年12月22日月曜日

日本の高校で英語の授業を英語で行うことの愚かさ

13年度からの日本の高校学習指導要領改訂案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という方針が示された、というニュースを読みました。水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で英語教育と日本語教育について真剣な提言をしているすぐそばから、水村さんが頭を抱えて嘆く姿が目に見えるような馬鹿馬鹿しい案を文科省が提示してくるのですから、「あー、こりゃあダメだ」と思わずにはいられません。

一般の日本人が、目も当てられないほど英語ができないのは、確かに憂えるべき事態です。中学高校で嫌というほど英語の勉強をさせられ、立派な大学で二年間は英語の授業をとった人たちでも、英語の新聞を読んだりテレビのニュースを見たりしてすんなり理解することができるような人は非常に限られているし、それどころか、自分の仕事の内容を簡単に英語で説明ことはもちろん、街で英語で道を聞かれて普通に答えることだってままならない、というのが平均的な日本人の大卒の英語力でしょう。英語圏で生活していると、一般の日本人がいかに英語ができないかということが日常的に認識されて、本当にいたたまれない気持ちになります。私の父親はかつてメーカー系の商社に勤めていた関係で、私も子供の頃にアメリカに住んでいたことがあり、父の仕事関係のオジサン達と接することも多かったのですが、「よく日本のオジサン達は、こんな英語力で、日本経済をここまで成長させてきたものだ。これだけ英語ができなくてもこれだけ日本の製品を世界で売ることに成功しているということは、日本の技術力がよっぽど優れたものであるに違いない」と、子供ながらに思っていたものでした。今でも、大学で言葉を使って仕事する人たちでさえ(そして、英米文学などを専門にしている人でさえ)、日本人は恥ずかしいほど英語ができないのが実態です。

あれだけみんなが英語の勉強に躍起になっていながらこの状況なのですから、日本の英語教育のありかたが根本的に間違っているのは確かです。が、「言葉は使うもので、多用すれば生徒の意識も変わる」だの「まず先生が使うのが第一歩」だのという理屈で、英語で英語の授業を行うことをその解決策にもってくるということは、まったくもって見当違いです。

確かに、言葉というものは音楽と同じように、日常的にたくさん耳にしていれば、音にも慣れるし自然に身についてくるという面はあります。英語圏で生活している子供が「自然に」英語ができるようになるのは、一歩家を出れば学校でも街でもほとんどすべてが英語という環境にいるのですから、当たり前といえば当たり前です。でも、英語を耳から慣らして自然に身につけるという方法を学校教育で行うには、小学校なり中学校なりで初めて英語を学ぶときから、月曜から土曜まで毎日最低一、二時間、きちんとした英語に触れていることが必要です。私立学校ならそうしたことも不可能ではないかもしれませんが、文科省のカリキュラムに沿って限られたリソースで英語の授業をしている公立学校で、そんなことはまず実現不能でしょう。

第一、この案を生み出した人たちは、「英語で英語を教える」ということが、いったいどういうことを意味しているのか、まるでわかっていないのが明らかです。そんなことがきちんとできる高校の英語教師は、全国で百人にも満たないのではないでしょうか。五十人いるかどうかも疑問です。英語の文章を読んで正確に理解し、自分の言いたいことを正確に作文ができるようになるために最低限必要な、基本的な英語の文法や構文を、日本語を母語とする生徒にきちんと説明するということが、日本語でもどれだけ難しいことか、そして、それを英語で行うということがどれだけ非生産的なことか、文科省の役人(なり、この案を作るのに関わった「専門家」なり)はまるでわかっていないようです。それ以前に、外国語を学ぶということがどういうことか、そのごく基本的なことが、まるでわかっていないとしか思えません。

「生きた英語」ができるようになるのを目指すのは結構なことですが、そのために、「和訳と作文偏重」の英語教育を「英会話重視」に変更するなど、愚の骨頂です。最低限の単語の意味とその正しい用法を覚え、構文と文法を理解し、それを使って作文するという作業に時間をかけずに、会話などできるようになるわけはありません。文法や作文重視が悪いのではなくて、むしろ文法や作文をじゅうぶん重視していない、また、文法や作文を教えるときの教え方が間違っているのだ、と私は思っています。構文や文法や単語や句の用法をきちんと身につけるのに一番大事なのは、パズルのように英語の「問題を解く」のではなく、基本的な文例をひたすら丸暗記することだと思います。そうして文例を覚えれば、単語だけ入れ替えればそれに類似の文をすらすらと言えるようになるのです。

ハワイ大学で私が教えている日本人の大学院生のひとりに、実に感心するくらい英語がよくできる学生がいます。読解力をとっても授業での発言をとっても論文で書く文章をとっても、実にしっかりした英語なので、私はてっきり彼女が帰国子女なのだろうと思っていたのですが、話を聞いてみるとそうではなくて、大学院でハワイに来るまではずっと日本で育って、地方の公立学校の授業で英語を勉強した、「普通の日本人」なのです。「どうしてそんなに英語ができるようになったの?」と聞いてみたところ、中学のときに少しアメリカにホームステイをしたときに、あまりにも英語がわからないのにショックを受け、英語ができるようになろうと一念発起して、自分なりの方法を考案してひたすら勉強した、ということです。その方法を聞いてみると、なんときわめて古典的な「丸暗記法」。学校の教科書や自分で買ってきた参考書をひたすら丸暗記することで、構文や単語の使い方を身につけ、リスニングや発音に関しては、教科書についている付属テープを繰り返し聞きながら、自分も同じペースで言えるようにひたすら練習した、ということです。私はこの丸暗記が、語学習得の基本かつもっとも効果的な方法だと強く思います。ただし、なぜある文がそういう構造になっているのか、理屈を理解していなければ、丸暗記しても応用ができないので、その理屈は、生徒がじゅうぶん理解できるように、丁寧に日本語で説明するべきです。

ついでになりますが、日本人は英語の発音コンプレックスがあり、なにかというとRとLの発音に執着しますが、そんなことを心配するのも間違っています。もちろん発音は「正統的」な発音に近ければ近いほど、わかってもらえる確率は高まるので、その基本はきちんと覚えるべきですが、日本人は英語の発音というときに、舌を丸めたり伸ばしたりすることにばかりやたらこだわります。でも実際は、発音がちょっとくらい違っていたって、単語の使い方と文の構造が正しければ、文脈で相手は理解してくれます。発音に関していえば、RやLを初めとする子音の発音なんかよりも、ずっとずっと重要なのは、アクセントの位置と母音の発音です。アクセントの位置と母音の発音が間違っていたら(また、母音のないところに母音を入れて発音したら)、いくらRやLやTHがきれいに言えても、絶対に通じません。

それにしても、この「英語の授業を英語で」案は、あまりにも愚策で、情けなくなります。水村さんと一緒に文科省に抗議に乗り込んで行きたい気持ちです。