2009年12月19日土曜日

日本語を読むすべての人に読んでもらいたい本 加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』

加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読みました。この本は、ほんとうにすごい。日本語を読むすべての人に読んでもらいたい本です。読んでいる最中から、興奮して何人かの友達に、「頼むからこれは絶対に読んでちょうだい、そして子供や生徒にも読ませてあげてちょうだい」と嘆願するメールを送ってしまったほどです。(笑)

私はかねてから、日本の中学・高校での勉強の教えかた、とくに教科書のありかたは、根本的に間違っていると感じてきました。私は数学がとくに苦手だったのですが、たとえば高校の「行列」で、なんだってカッコの中に数字を縦横に並べて、それを掛けたり足したりするのか、そうすることにいったいなんの意味があるのか、一度たりとも説明を受けた記憶がありません。微分・積分の導入部分で、せっかくきれいに曲線を引いたと思ったら、ある接点をとって直線を引いたりする。そしてその直線を軸に曲線をくるくるまわしたりする。二次元までで頭がいっぱいの私は、こうやってくるくるまわってしまうともうそれこそ自分の頭のほうがくるくるまわってしまうのですが、なんだってくるくるまわす必要があるのか、まわすとなにができるのか、誰も説明してくれなかった。そして、くるくるまわした挙句に、今度は二枚の平面でそれをスライスしてその体積を求めたりする。なぜそんなことをしなくちゃいけないのか、せめてちょっとくらい説明してくれれば、興味をもってやったかも知れないのに、意味を説明されないまま、ひたすら問題の解き方を記憶して当てはめるばかりで、私にはまるっきり不毛に感じられたのです。数学は嫌いだったからなおのことでしたが、嫌いではなかった歴史だって、意味がわからなかったことについては似たようなものです。「東フランク王国が云々」とか一文だけで書かれていたって、その「東フランク王国」とはいったいなんなのかもわからない。私は少し前にプラハに旅行をしようと思っていたことがあって(代わりにクライバーン・コンクールに行くことになったので、プラハとは似ても似つかぬテキサスに行き、プラハはとりあえず延期になりました)、そのときに、チェコの歴史に関する本を読んだのですが、そのときに初めて「ああ、東フランク王国とはこういう意味だったのか」と理解しました。私は、高校の世界史の教科書は、今のものの十倍くらいの厚さであるべきだと思っています。それぞれの地域や国が、地理的、文化的にどんなところで、どんな人たちがどんなふうに暮らしていて、というところからまず実際の人間についての話だという実感をもたせて、それぞれの出来事やら流れやらについて、もっとイメージが湧くような描写をもって説明してくれないことには、なんのことだかさっぱりわからない。そして、その出来事や流れがどういう意味をもっていたのか、ということを考えるように差し向けてくれなければ、それを学ぶことの必然性がわからず、ひたすら年号やカタカナや漢字を暗記するばかりになってしまう。歴史というのはいろいろな因果関係や相関関係のなかで形成されるものだから、そうした関係が理解できれば、それを構成する出来事や年号はしぜんと覚えられるはずなのに、そういうふうに教科書も授業もできていない。

この本は、日本近現代史において第一線の研究者である東大教授の加藤陽子先生が、神奈川の栄光学園の中学・高校生を相手に、日清戦争から太平洋戦争までをカバーした五日間の特別講義をし、そのときの講義録を本にしたものです。授業のありかた、そしてこの本のありかたの根底にあるコンセプトそのものが実に見事。複雑怪奇にしてきわめて重要な二十世紀前半の日本の歴史や国際関係史を、ダイナミックに説明するその内容もさることながら、「歴史を学ぶとはどういうことか」「歴史的にものごとを考えるとはどういうことか」「第一線の歴史家たちはどういう問いに答えようとして、どういう資料をどういうふうに分析しているのか」といったことを中高生向けにわかりやすく、かといって、中高生相手だからといってレベルを下げることなく、むしろ頭の柔らかい好奇心旺盛な中高生相手だからこそ、大きく根源的な問題をどんどん投げかける。それぞれの国でさまざまな立場にいた人たちの状況や思考パターンを説明し、自分がその立場だったらなにを考えてどんな選択をしていただろうかと、自分たちの頭でいろいろ考えさせ、なぜ「それでも、日本人は『戦争』を選んだ」のかを検討させる。検討させる際に、地図やら統計データやらいろいろな立場の人の日記やら手紙の抜粋やら、そしてまた古今の歴史家たちの研究やらをふんだんに紹介し、資料を分析して論点を導き出すという作業を披露する。なんと素晴らしい!

レナード・バーンスタインがニューヨーク・フィルの指揮者・芸術監督を務めていた時代に、彼が成し遂げた最も意義のあるプロジェクトのひとつに、Young People's Concertがありました。これは、子供たちを相手に、「音楽とはなにか」を教えるためのコンサート・シリーズだったのですが、子供たちにもわかるように、かといって子供相手だからといって内容を薄めるのではなく、むしろ子供相手だからこそ、根源的なことに訴えかけ、選曲も本格的でショスタコヴィッチなども平気で入っている。こういう形で、若者に自分でものを考えることを教え、そのための道具を与えることこそが、教育の本質だと思います。中学生や高校生が勉強に興味をもつためには、それぞれの分野の第一線でどんなことが行われているのか、それをやることによってどんなことが可能になる(かもしれない)のか、それがどんな意味をもつのか、といったことを、情熱的にかつわかりやすく語ってくれる人を連れてくるのは、とてもいいことだと思います。

歴史の教え方ということの他にも、内容的にも、知らなかったこと、考えたこともなかったことだらけで、とても読み応えがあり、勉強になります。ただでも複雑な時代のことで、高度な内容を扱っているので、さらさらと読み流すというよりは、一章に一日くらいかけて(実際の授業はその形でなされたわけですし)じっくり読むのがおススメです。

こういう先生に、こういう授業で勉強を教わっていたら、人生が違ったんじゃないかと思います。また、アメリカ史なりアメリカ文化なりジェンダー研究なりで、似たようなプロジェクトを、どこかの中学や高校でやらせてもらえたらいいなあなどとも思います。もちろん、こういうことは私立学校だからこそできることで、また基本的学力も高い栄光学園の生徒相手だからこそ大きな問いに対して大きな答えが返ってくるのでしょうが、カリキュラムにおいて自由がききやすい私立学校は、こういった独創的な教育をどんどんやってほしいものです。

ちなみに、加藤陽子先生の「研究の手ほどき」的なウェブサイトはとても充実していて、私はこれもずいぶん勉強になりました。研究者としても、また教師としても、たいへん尊敬すべき人であるのがこれからも明らかです。