2010年1月11日月曜日

鬱の増加はアメリカ化のしるし?

普段アメリカに住んでいる私にとって、ここ十年ほどのあいだに、鬱との診断を受け投薬などの治療を受ける人が日本で急速に増えてきたのはなかなか興味深い現象です。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも言及したように、アメリカではフロイトの流れをくむ精神分析の文化的影響も強く、とくに知識層のあいだではサイコセラピーとよばれるもののために、臨床心理学者やカウンセラーのところに通う人がとても多いですし、社会において精神医学が占める位置というのも、日本よりずっとメジャーです。以前からアメリカでは、恒常的または一時的に「自分は鬱だ」という人はとても多く、私はそれに文化的に強い違和感を感じることもあります。それでも、身体的あるいは社会的な要因で実際に鬱やそのほかの精神の病に苦しむ人はたくさん存在しますし、そうした人たちにとって、精神医学が助けになることももちろんです。私自身も、ときどきセラピストのところに話に行きますし、あまりにも落ち込んで身体的症状が出たときには、医者に行って薬をもらったこともあります。ですから、日本でも、鬱という症状についての社会的スティグマが多少は減り、鬱について普通に話ができるようになったのは、いいことだと思っています。そうやって社会の態度が変わることで、助けを必要とする人びとが割と普通に心療内科や精神科の門をたたけるようになり、職場や家族や友達の理解も多少は得られ、孤立してひとり苦しむことが少しは減っていると思うからです。それと同時に、あまりにも急速に鬱だという人が増えてきた(私の身近だけでも、鬱で入院や通院、休職などをしている人が何人もいます)のは、やはり社会的・文化的現象のひとつではあると思います。(ちなみに、アメリカに長年住んできた私からみると、日本での鬱患者の治療にはとても違和感があります。もちろん、鬱には分泌物のバランスといった化学的な要因もありますから、投薬も大事でしょうが、精神の症状である以上、その人の生活や人間関係でなにが起こっているかということをきちんと医者が理解し、セラピストやカウンセラーが定期的にじっくりと話を聞くということがなくては、よくなるはずがないのではと思うのですが、ひたすら投薬ばかりで医者に5分と話を聞いてもらっていないという鬱の人に何人も会います。)

と思っていたところに、先日のニューヨーク・タイムズ日曜版の雑誌に、「精神病のアメリカ化」というタイトルの記事が載りました。これはとても興味深いです。いわゆる「精神病」と考えられる症状は、地域や文化によってとてもさまざまな種類があって、それらの多くは時代の特徴や社会通念と関連していると思われる。(たとえば、東南アジアでは、人を殺さんばかりの怒りにとらわれた後で記憶喪失になる男性や、男性器が身体の内側に埋まってしまうのではないかという恐怖にとらわれる男性が多い。中東では、とりつかれたようになって大声で笑ったり叫んだり歌ったりする人が多い、など。)ところが、最近では、世界各地で、数種類の特定の精神病—とくに、鬱、PTSD、拒食症—がまるで疫病のようなスピードで広がっている。それと同時に、アメリカ式の精神医学による診断や治療の方法も世界に広まり、それぞれの社会で伝統的にとられてきた対処方法に替わるものとなってきた、ということです。「病気」と「医学的理解」はニワトリと卵のようなもので、どちらが先に来るものとは言い切れない部分が多い。鬱のような症状があった人は、以前からもたくさんいたでしょうが、鬱という概念が社会で一般化して、医学用語として正当性を帯びることで、専門家もメディアもそして一般人も、その言葉でさまざまなことを理解するようになる。こうして「鬱」の人が増える、というわけです。

もちろん、ある症状を説明する言葉や概念が一般化するということは、悪いことではないですし、「言葉が一般化した」ということは、必ずしも症状そのものが言葉で作られただけの「気のせい」だというわけではありません。名前がつくことによって、対処のしかたもわかってくるし、本人にとっても力になることも多いでしょう。でも、精神病についての診断や治療はとくに、「病」とはどういうもので、どういう「治療」をするのが適切かという、きわめて特定の文化的理解のなかで形成されてきた部分が多く、アメリカ的な理解や治療方法を異文化に移植しても、問題は解決されるどころか悪化する可能性がある、ということです。なるほど。日本で鬱の人が増えてきたのは日本がアメリカ化してきたことのしるし—なのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、自他共に鬱とよぶ人が増えているからには、その人たちが暮らす文化や社会のなかでそれに対応していく方法がきちんと生み出されていかなくてはいけません。