私は初めて知りましたが、先週はNational Single and Unmarried Americans Week、つまり、「独身・未婚アメリカ人週間」だったらしいです。結婚という形をとらない人々の選択やライフスタイルを讃え支援しよう、という意図のものらしいのですが、そもそもそんな週が作られるということ自体に、アメリカのメインストリーム社会で結婚が規範となっていることが感じ取れます。結婚という法的制度が、さまざまな権利や特典や保護をもたらすからこそ、ゲイの人たちが異性愛者と同様に結婚できるための主張をしてきているわけですが、制度的に結婚できないからではなく、機会がないから、あるいは自ら選択して結婚していない人たちにとって、アメリカはなかなか肩身の狭い社会である、という事実も。ニューヨーク・タイムズの記事によると、家族関係においても、地域コミュニティにおいても、また社会全体においても、独身者は多くの場合既婚者よりも多くの時間や労力を貢献しているにもかかわらず、法的にも社会的にも独身者の生活状況やニーズは軽視されがちで、Singlismつまり独身差別と呼べるようなものも存在する、との説も。
アメリカが独身者に暮らしにくいと私が感じるのは、このような制度的なことの他にも、日常生活の細かなことが、独り暮らし向きにできていないからです。たとえば、スーパーで食料を買うことひとつをとっても、なにしろ売っているものの単位がやたらとでかい。私は一昨年から今年にかけて日本で生活して、スーパーで売っている肉や野菜の単位が小さくて便利なのにいたく感動し、シイタケがひとつずつ、セロリが一本(または二分の一本)ずつラップに包んであるのを見たときには、思わず写真を撮ってアメリカの友達に送ってしまったくらいです。アメリカでは、普通のスーパーではセロリは一房まるごとしか売っていないし、ベーコン(日本で売っているベーコンのパッケージの愛らしいこと、これまた涙が出そうになりました)なぞは日本で売っているものの20倍くらいの量でしか買えない。肉類は使わないぶんは冷凍しておけばまあよいとしても、野菜はどんなに頑張って使っても、使い切る前に腐って捨てることになる。買い物の不便だけでなく、社交生活もカップル単位のことが多いので、ちょっとしたパーティとなると皆配偶者や恋人同伴で来ることになっていて、他にも独身者が何人かいればよいけれど、独身者がひとりだけという場合はなんだかちょっと肩身の狭い気がしないでもない。
そんなふうにカップル主流の社会であるからこそ、長いこと恋人がいない人は「この人はなにか問題があるんじゃないか」と周りに思われたり、あるいは「自分はどっかおかしいんじゃないか」と思ったりしてしまいがちなようで、数日前のニューヨーク・タイムズの恋愛コラムに載ったエッセイも、8年間恋人がいないまま30代のほとんどを過ごした女性が、ずっとシングルであるという自らの状況を理解し打開しようとしていた頃を振り返ったもの(ちなみに彼女は現在は既婚)。周りの人たちがみんな普通に相手を見つけて結婚しているのに、自分がそんなに長いあいだ恋人のひとりもいないのは、自分になにか問題があるのではないか―自分が傲慢で高望みをしているんじゃないか、自己評価が低くネガティヴなオーラが出ているんじゃないか、口では恋人がほしいと言いながら実はfear of commitment(『性愛英語の基礎知識 』
とはいえまあ、恋愛はやっぱりいいものです。ムフフ。