2011年6月29日水曜日

チャイコフスキー・コンクール最終日

立て続けの投稿になりますが、前のものとはあまりにも内容が違うので別にして投稿します。

先週から、モスクワとサンクトペテルブルグで、チャイコフスキー・コンクールが開催されています。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の最後で言及したように、2009年までクライバーン財団長を務めていたリチャード・ロジンスキ氏を最高諮問および運営委員長として迎えた今回のチャイコフスキー・コンクール。ソ連崩壊後の予算削減や審査の不透明さなどで評判を落としていたチャイコフスキー・コンクールが名誉挽回をはかってのぞんでいるのですが、今回も一週間のあいだにいろいろなスキャンダルがあります。たとえば、ピアノ部門の予選で落ちたピアニストのひとりが、準本選の演奏者のひとりが演奏を終えるや否やステージに上がってショパンを弾き始めたとか、チェロ部門の本選のコンチェルトを指揮してきた人物が、リハーサル中にアルメニア人のチェリストについて民族差別的な発言をし、コンクール本部が「このような言動は許されるものではない」と公式発表をして降板に至ったとか。そしてまた、このコンクールでも演奏のすべてがネットで生中継されているので、夜中まで起きて演奏を観ながら、世界のいろんなところに散らばっているアマチュア・クライバーンの仲間たちとフェースブック上でコメントをしあったりなんかして、「あーあ、とうとう私もピアノオタクの仲間入りをしてしまったか...」と苦笑。しかし、こんなふうに、テキサスやモスクワで開催されているコンクールを、自宅にいながらにして無料で生で見られてしまうのだから、すごいものです。

私はピアノ部門しかフォローしていませんが、本選に残っている5人のうちのひとりは、2009年のクライバーン・コンクールで2位になった韓国のヨルム・ソン。彼女のモーツアルトのピアノ協奏曲第21番の演奏は、何度でも観たいというほど素晴らしく(ラフマニノフの第3番は、普通演奏されるのと比べると、妙なほどアーティキュレーションがきいていて、かなり変わった演奏でした)、それまでのソロの演奏とも合わせると、彼女が優勝候補のひとりであることは間違いなし。今からあと10分ほどで、彼女のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を含む最後の演奏が行われ、受賞者の発表となります。会場の雰囲気からなにから、クライバーン・コンクールとはずいぶん違って、そんな意味でも面白いので、興味のあるかたはごらんください。

オンライン・デーティングふたたび

そもそもこのブログは、2008年に発売となった拙著『ドット・コム・ラヴァーズ』にからめて、アメリカの恋愛・結婚・性にまつわる話題、そして現代アメリカ事情などを紹介するものとして始めたのですが、それ以来、投稿のトピックはずいぶんと広がり、私自身の興味という以外になんの脈絡もなくなってきました。と思っていたところ、現在発売中の『ニューヨーカー』誌に、『ドット・コム・ラヴァーズ』の初心に立ち返る(?)ような記事が。

オンライン・デーティングについてのけっこうな長文記事なのですが、さすが『ニューヨーカー』だけあって、内容・文章ともにたいへん充実していてウイットに富んでいる。1960年代に、今でいう「オンライン・デーティング」の原型となるものが誕生した歴史から掘り起こしているのがなかなか面白いし、記事の著者本人は人生において2度だけしたことがある「デート」のふたり目の相手と幸せな結婚生活を営んでいるゆえ、自らはオンライン・デーティングをしたことはないのだが、この記事執筆にあたり、オンライン・デーティング経験者の女性に数多くインタビューし、そのインタビュー自体が一種の「デート」のような雰囲気もあったというのがなんとも興味深い。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも、インターネットを介した人の出会いがなんだか怪しげなものと思われている日本と違って、アメリカではオンライン・デーティングがきわめてメインストリーム化していて、年齢や社会階層・職業を問わず、「ごく普通」のものとなっていることを書きましたが、この記事によると、オンライン・デーティングは、現代アメリカにおいて、男女のもっとも一般的な出会いの方法の第3位(第1位は「職場・学校で」、第2位は「友人・家族を通じて」)、6組に1組はオンライン・デーティングで知り合ったというほど、出会いの方法として一般化しています。それだけ一般化しているならば、サイトに登録している人たちの利用法もそれに呼応して洗練されてきているかというと必ずしもそうではなく、一般化・大衆化しているからこそ、どんな人物が登録しているかわからない、という側面もあり、デートに出かけた相手が犯罪歴のある人物だった、などという事例もきちんと取り上げています。

私にとって面白いのは、オンライン・デーティングにみられる人間模様をめぐる洞察やコメント。なかなか鋭くて気がきいている文が記事のあちこちに見られます。たとえば(訳すのが面倒なのでそのまま載せますが、とくに難しい英語ではないので、このブログを読んでいる人ならばだいたい理解できると思います)...

The dating profile, like the Facebook or Myspace profile, is a vehicle for projecting a curated and stylized version of oneself into the world. In a way, the online persona, with its lists of favorite bands and books, its roster of essential values and tourist destinations, represents a cheaper and more direct way of signalling one's worth and taste than the kinds of affect that people have relied on for centuries--headgear, jewelry, perfume, tattoos. Demonstrating the ability, and the inclination, to write well is a rough equivalent to showing up in a black Mercedes. And yet a sentiment I heard again and again, from women who instinctively prized nothing so much as a well-written profile, was that, as rare as it may be, "good writing is only a sign of good writing." Graceful prose does not a gentleman make.

この最後の二文、私のような人間には耳が痛い。私は、知性に満ちてきちんとした文章を書ける人、こちらが書いていることをちゃんと理解して反応していることを示す中身のあるメールを書ける人、ということをとにかく重視してしまうのですが、つき合うようになってからメールでずっとやりとりするわけじゃなし、文章至上主義には大いなる限界がある、ということに私も気づいてきました。

It is an axiom of Internet dating that everyone allegedly has a sense of humor, even if evidence of it is infrequently on display. You don't have to prove that you love to curl up with the Sunday Times or take walks on the beach (a very crowded beach, to judge by daters' profiles), but, if you say you are funny, then you should probably show it. Demonstrating funniness can be fraught. Irony isn't for everyone. But everyone isn't for everyone, either.

この「ユーモアのセンス」というのが、アメリカではとくに重視されがちなだけに、その感性が合っていることはかなり重要なポイント。この最後の一文は簡潔にして雄弁。この文、入試の日本語訳の問題として出題したら、面白いだろうなあ。(笑)

Gregory Huber and Neil Malhortra, political scientists at Yale and Stanford, respectively, are sifting through OK Cupid data to determine how political opinions factor in to choosing social partners. Rudder, for his part, has determined that Republicans have more in common with Republicans than Democrats have in common with Democrats, which led him to conclude, "The Democrats are doomed."

え〜、そんな〜!ショック!

ちなみに、日本では、インターネットを介した出会いというのは若者のするものというイメージがあるかもしれませんが、アメリカでは、オンライン・デーティングの利用者でもっとも急速に拡大しているのは、50歳以上の男女だということです。そうした中高年の「デート」事情も実例を詳しく取り上げながら考察していて、たいへん面白いです。『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださっている方には、楽しめると思うので、是非読んでみてください。


2011年6月26日日曜日

7/2(土)ピアノ・マラソン in 東京

本日は宣伝です。今回、日本からアマチュア・クライバーン・コンクールに参加した人たち5人(日本人参加者はさらに数名いたのですが、アメリカやヨーロッパ在住の人もいるので、今日本で集まれる人たち5人)が集まって、今週土曜日にジョイント・コンサートをします。コンクールに向けてせっかくみんなせっせと練習したことだし、フォート・ワースでの一週間があまりにも楽しかったので、その興奮と感動を他の人とも共有しよう、という主旨で開催することになりました(私が言い出しっぺで、実際の手配はすべて人にやってもらっている:))。この5人のなかでは確実に私が一番下手くそなのですが、もうコンクールは終わっているわけだし、誰が上手いとかいうよりも、とにかくそれぞれの人の演奏に表れる人間性や音楽に込める思いを感じ取っていただければと思います。もちろん入場無料ですが、募金を集めて芸術文化活動を通じて震災復興の支援をしている団体に寄付する予定です。

日時 7/2(土)開場15:00 開演15:15
場所 日仏文化協会 汐留ホール(ゆりかもめ汐留駅そば)
演奏者 大澤玲子・大村和元・小林創・大和誉典・吉原真里


プログラムに載せる文章をワタクシが担当したので、宣伝を兼ねて、以下その文章を添付いたします。


*****

私たちは、523日から29日まで、アメリカのテキサス州フォート・ワース市で開催された、第6回アマチュア・クライバーン・コンクール(正式名称はThe Sixth International Piano Competition for Outstanding Amateurs、略称IPCOA)に参加しました。

録音によるオーディションを通過して世界からフォート・ワースに集まった出場者は70人。 出場者の「本業」は、医師や弁護士、建築家、レーシングカーデザイナー、投資家、主婦、大学教授、プログラマーなど多種多様。また、音大のピアノ科で大学院まで卒業している人や、各地でコンクール出場やオーケストラとの共演を重ねCDまで出しているような人から、独学でピアノを学びふだんは人前で演奏する機会がまるでない人まで、ピアノとのかかわりかたも実にさまざま。 こうした人々が一週間のあいだ、ふだんはアマチュアにはまるで縁のないような大きなホールで、ハンブルグ・スタインウェイDという素晴らしい楽器で、立派な審査員たちの前で、何ヶ月も何年も懸命に練習を重ねてきた音楽を演奏するのです。

今日のピアノ・マラソンで演奏する5人は、誰も準本選に残らなかったので、コンクール本番の舞台に立ったのは予選のほんの12分間のことでしたが、その12分のあいだに私たちは、実に多くのことを経験し、学び、感じ取りました。また、他の出場者たちの演奏を共に聴くことで、さまざまな感動や興奮や発見を共有しました。出場者たちはみな、指がよく動くということを超えて、それぞれの生きざまや人柄を感じさせる、実に人間的な演奏を披露し、プロの演奏とはまた違った感動を与えてくれました。そしてまた、本番を前にする恐怖や緊張、音を通じて自分をさらけだす覚悟、実力を出し切れなかった落胆や思いがけない発見をした興奮、身体を揺さぶられるような演奏を聴いたときの衝撃、などを同じ空間で共有し、演奏の合間にバーや居酒屋(フォートワースにも居酒屋がありました)やレストランでわいわいと戯れながら、誰にはばかることなくオタッキーなピアノ談義に花咲かせた仲間たちとのあいだに生まれた友情と絆は、なにものにも代えられない人生の宝物となりました。

このコンクールを機に、私たちはみなそれぞれ、自分にとっての音楽の意味、自分の人生や生活におけるピアノの位置づけなどを、深く考え直すと同時に、ピアノの素晴らしさを新たな次元で発見することとなりました。このコンクールは私たちにとって、ピアノの演奏そのものについても、そして、大げさな表現に聞こえるかもしれませんが、人生についても、根本に立ち返って考えなければいけないと思わせてくれるような、強烈で濃厚な体験だったのです。本日のピアノ・マラソンでは、私たちがコンクールにむけてせっせと練習した演目を披露すると同時に、フォート・ワースで私たちが手に入れた刺激や発見を皆様と分かち合う、という目的で企画しました。演奏の腕前ということだけでなく、そのような私たちの感動や興奮を感じ取っていただければ嬉しいです。

2011年6月25日土曜日

ニューヨーク州、同性婚成立

昨日は、サントリーホールでダニエル・ハーディングが新日本フィルを指揮するのを観に行った後、とあるパーティで自分がピアノを演奏してきました。アマチュア・クライバーンでの大失敗が頭の隅でちょっとトラウマになっていて、とくにバーバーの最初の一曲では問題の箇所に近づくと「大丈夫かな」と思ってしまい案の定失敗する、という結果になるのを恐れていたのですが、そういうことはなく、細かい間違いはいろいろありましたが、楽しんで弾くことができました。やはり、大きなホールで審査員や赤の他人の前で演奏するよりも、こじんまりした場所で友達の前で弾くほうが、自分らしい演奏ができるというものです。自分で言うのもなんですが、この日のシャコンヌにはなかなか魂がこもっておりました(笑)。

さて、先日、ニューヨーク州の上院で、同性婚を認める法案が通過し、クオモ知事の署名を経て、ニューヨーク州では同性婚が合法となりました。賛成・反対双方が熱のこもった議論を続け、最後まで結果が見えなかったのですが、最終的に4人の共和党議員が賛成派に加わることによって、ニューヨークは、コネチカット、アイオワ、マサチューセッツ、ニューハンプシャー、ヴァーモントに次いで6番目に同性婚を認めた州となりました(ちなみに州ではないですがワシントンDCでも同性婚は合法)。この背景には、自らカトリック信者であるクオモ知事が、この法案を成立させるために、人間性と政治的手腕を駆使して、影響力の大きい共和党議員やウオール・ストリートの有力者を説得して味方につけ、反対派に勝るキャンペーンを展開した、という経緯があるそうです。同性愛者のなかにも、法の下の平等という見地から同性婚が合法化されるのは正しいことだとしつつも、自らはパートナーとの関係を結婚という形にすることには興味のない男女もたくさん存在し、結婚という形式がふたりの関係のありかたとして至上のものと理解させることに警鐘を鳴らす人もいます。が、ニューヨークのような大きな州で同性婚が合法となったことは、今後の全国的な流れに大きな影響を与えることは間違いなく、ニューヨークではもちろん、各地でおおいなる祝福イベントが開催されています。

2011年6月24日金曜日

是枝監督『奇跡』さすが〜!

私が是枝裕和監督のファンであることはこのブログで以前にも言及したと思いますが、新作の『奇跡』を今日観てきました。さすがの是枝監督!前作の『空中人形』とも、子どもを扱った『誰も知らない』とも、それ以前の他の作品とも全然作風が違う映画なのですが(『歩いても歩いても』とは、登場する役者がだいぶ重なっていることと、家族ものであるという意味ではけっこう共通するところがありますが、核となる物語はだいぶ違う)、今回もやはり素晴らしかったです。九州新幹線開通とタイアップしてもっと大々的な「新幹線映画」としてマーケティングされるはずだったのが、震災の影響でずいぶんと違った状況になった、と聞きました(今日一緒に観に行った友達に教えてもらいました、ありがと〜)が、私としては、そんなJRの宣伝映画のようになってしまうよりも、このほうがずっと作品としてよかったはずだと思います。子どもの兄弟ふたりが主人公なのですが、とにかくこのふたりの役を演じている前田航基・旺志郎兄弟が素晴らしいし、他の子役も、子どものひたむきさや無邪気さだけでなく、子どもならではの冷静さや直截さや計算高さや間抜けさを、見事に演じきっています。純粋な子どもが離れた家族を元に戻そうとして懸命に走り回る、というだけなら単におセンチなお涙頂戴で終わるところが、そうではなく、子どもたちの小さな大冒険を通じて、子どもたちの成長や、彼らをとりまく大人たちの大人らしさも大人げなさが、絶妙な距離感で描かれています。

是枝監督の作品を観るといつも、日本の風景や人と人の距離感の捉え方に、とても強い共感をおぼえ、ハワイで観るときは(私はこれまでの是枝監督の作品のほとんどはハワイで観ています)「そうそう、日本っていうのはこういうところなのよね〜」と、無性にホームシックになります。是枝監督は海外生活をしていた人なのかしらんと思ったりもしましたが、そういうわけではないようです。私は是枝監督に会ったことはないし、この先も会うことはないだろうと思いますが、是枝監督にプロポーズされたら即座に「はい」と言ってしまうであろうと思うくらい、いつも彼の作品の根底に流れる人間性や価値観や社会観に共感します。でも、お子さんもいるらしいし、プロポーズされる見込みはまるでなし。

ちなみに、今日NHKでやっていた、岡本太郎を支えた女性、敏子さんという人物についての番組もなかなか感動的でした。初めのうちは、「偉大な男性の陰には、偉大な女性がいるってことね」などと思いながら軽い気持ちで見ていましたが、番組が終わるころには畏敬の念に変わり、愛情の形はいろいろ姿を変えても、ひとりの人物をあそこまで信じきり、その人物の可能性を実現することに自分の生涯を捧げることができたら、なんと幸せなことだろうと思うようになりました。

2011年6月19日日曜日

竹澤恭子さん、カッコいい〜

ここのところ、毎日のようにいろいろなコンサートに行っているのですが、昨日はサントリーホールのチャンバーミュージック・ガーデンの最終コンサートに行ってきました。メナヘム・プレスラー、竹澤恭子、豊嶋泰嗣、堤剛という豪華なメンバーで、シューマンのピアノ四重奏曲、ドホナーニの弦楽三重奏のためのセレナード、ドヴォルザークのピアノ四重奏曲第2番というプログラム。シューマンのピアノ四重奏曲はいつか自分が弾いてみたいと楽譜を買って、アンダンテ・カンタービレだけ譜読みはしてあるものの、一緒に弾いてくれる人が見つからずにそのままになってあるのですが、昨日の演奏はもう涙が出るほど美しく、天国にいる気分でした。プレスラー氏の演奏はBeaux Arts Trioがハワイに来たときに一度聴いたことがありましたが、なにしろ信じられないほど柔らかく静かな音でありながら実にクリアで、「これぞ音楽!」という神髄を感じさせられます。87歳という年齢でこの鋭い耳と指とは、驚嘆。2009年のクライバーン・コンクールのときにインタビューもさせていただいたのですが、忙しいスケジュールのなかひとりひとりに実に丁寧に真摯に接してくださって、そこもまた感動。

それにしても、昨日のコンサートで私は改めて竹澤恭子さんに惚れ直しました。ラフォルジュルネのときに聴いた彼女のソロもパワーと叙情性に満ちていて素晴らしかったけれど、室内楽での演奏も絶品。彼女の出す音には底力と主張が自然に表れているのだけれど、それが他の演奏家たちと見事にアンサンブルをなしている。なにしろカッコいい。演奏も最高だし、笑顔や身のこなしに、つねに高きものを目指している人ならではの風格と謙虚さと美しさがあって、私にとって40代の女性の理想は彼女のような人物。本当の美しさというものを、全身で体験させていただいた思いでした。

このコンサートをはさんで、先週末から今日にかけては、邦楽づくめ。先日は三橋貴風氏の尺八とパイプオルガンのアンサンブルという実に面白いコンサートに行き、今日はお箏の演奏会に行ってきます。

2011年6月14日火曜日

井上ひさし『雨』

今日は、新国立劇場中劇場で、『雨』を観てきました。井上ひさしの作品であるということ以外になにも知らずに行ったのですが、脚本、演出(栗山民也)、演技(市川亀治郎、永作博美ほか)、舞台装置、音楽・音響、衣装などどれをとっても文句なしの素晴らしさで、芸術作品として傑作を観たという満足感でいっぱいです。江戸の時代物であるこの物語は、主人公である貧民が、ある旦那に見間違われるのをよいことに、姿をくらましたその人物になりすましてその生活を享受し、妻や愛人や彼をとりまく人々の疑念をかわしながら徐々にその旦那になりきっていく、という設定。このように、姿をくらましていた人物がある日突然帰郷し、本当にその本人なのかと周囲が疑いの目を向けるなかでそのコミュニティに根を下ろしていく、という物語は、西洋にもあり、16世紀フランスの史実を素材にしたThe Return of Martin Guerreという物語は、歴史家Natalie Damon Davisが研究書としても扱いまた映画にもなり、その焼き直しとして南北戦争期のアメリカを舞台にしたSommersbyという映画もあります。どちらもたいへん面白いのですが、この『雨』も、似たような物語の展開のなかで、江戸日本の商人文化や、大名・商人・百姓・貧民の力関係や人情、そして豊かな日本語の口語文化などを見事に描き出す、スケールの大きな作品。芸術的にも情感的にも知的にもとても満足できる傑作だと思いました。私はふだん、こまばアゴラ劇場のような小劇場で演劇を観ることが多く、客席から手の届くような距離で役者が演じる空間ならではの臨場感が高く密な経験は大好きなのですが、こうした大きな舞台でたっぷりとお金のかかった作品を観るのも、別の形の感動があります。今月末まで上演していますので、時間のあるかたは是非ともどうぞ。

それにしても、今日の公演には、高校生の団体が来ていたけれど、学校がよくあの作品を学生の観劇に選んだなあ、脚本を知らないで選んでしまったのかなあ、と思うような性的なテーマ(?)もありますよ。(笑)

2011年6月12日日曜日

パフォーマンスさまざま

先週木曜日はサントリーホールでアシュケナージ指揮のN響公演で神尾真由子さんのプロコフィエフのヴァイオリン協奏曲2番(風邪気味の体調をおして行ったのですが、風邪もふっとぶ崇高さと迫力でたいへん素晴らしかったです)とショスタコヴィッチ交響曲5番を聴き、昨日は国立能楽堂で能と狂言を観てきました。明日は新国立劇場で井上ひさし作の『雨』を観に行きます。というわけで、それぞれまるっきり違うタイプの舞台芸術を立て続けに経験し、しかも自分がピアノで舞台に立って間もなくのことなので、なおのこと興味深いです。

私は、狂言は観たことはあったけれど、能をきちんと観たのは今回が初めて。ある人(この人がまた大変面白い人物で、彼についてもいろいろ紹介したいのですが、それはまたの機会に)のお誘いで行ったのですが、彼がいろいろと解説をしてくれたり私の質問に答えてくれたりするので、そうでなければ訳がわからなかったであろうことがいろいろ納得。近代西洋的なパフォーマンスの概念や現代の人々の音感や時間の感覚とはあまりにも違う形態であるだけに、近代に染まった私の頭にはたいへん新鮮でした。

ちなみに、明日から、モスクワとサンクトペテルブルグで、第14回チャイコフスキー・コンクールが始まります。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の最後でも言及したように、前クライバーン財団長のリチャード・ロジンスキ氏が運営委員となり、クライバーン・コンクールでウェブキャストを担当したモリー・マックブライドがこちらでも初のウェブキャストを行うとのこと。2009年のクライバーン・コンクールに出場した人の名前も何人か観られます(クライバーンで2位になったヨルム・ソンも出場)。なかなか興味深い展開。また、このように世界各地のコンクールをまわるのはプロのピアニストばかりではなく、アマチュアの世界でも。今回のアマチュア・クライバーン・コンクールに出場した仲間たちの何人もが、今月末に行われるボストン国際ピアノ・コンクールにも出場します。みんな、ホントによくやるなあ。私なぞは、テキサスの経験が強烈すぎて、「自分にとってのピアノとはなにか」と考え込んで眠れなくなったりしているのに...

2011年6月5日日曜日

余韻さめやらず

先週2日に東京に戻ってきました。年齢とともに時差解消に時間がかかるようになるというのは本当で、夜普通の時間に寝ても毎日夜中の1時半だの朝の4時だのに目が覚めてしまいます。昨日は、睡眠不足のまま学会に出てさすがに疲れたので、「今ここで寝てしまってはますます体内時計が狂う」と知りつつも耐えられずに夕方5時半に寝てしまい、その後3回目が覚め、ついに4時半に起き出しました。仕方ないので、朝5時過ぎにジョギングに出かけるという、自分らしからぬ行為に出るのも時差のなせるワザ。出かけてみれば、空気はひんやりと気持ちがいいし、車もほとんどいないし(さすが皇居周り、そんな時間でも他にもランナーはいるけれど、昼間の混雑した時間のように人をよけて走る必要はない)、交番のおまわりさんは「おはようございます」と声をかけてくれるし、けっこういいことづくめ。朝一番で元気が出たところで、たまった雑事や仕事を片付けよう、という気になります。

テキサスでの興奮と刺激と発見に満ち満ちた二週間の後で、日本の政治状況に直面すると、まったくもってげんなりした気持ちになりますが、テキサスで生まれたアマチュアピアニストたちの絆は、フェースブックやメールのおかげで、みんなが世界各地にちりぢりになった後でも、ちゃんとつながっています。ワークショップやコンクールでの音楽体験が、とてつもなく貴重で素晴らしいものだったという気持ちは皆が共有しているもののようで、また、それぞれの日常という現実に戻ってからも、なんとかテキサスで学んだり感じたりしたことを自分の一部にしていこうという思いも共通しているようです。また、ヨーロッパやカリフォルニアや日本で、みんなが時差ぼけと興奮と疲労でなかなか眠りにつけないなか、「寝ようとすると頭のなかにはいつも(コンクールでxが演奏した)スカルラッティが流れている」と私がフェースブックに投稿すると、「僕の頭に流れているのは(yが演奏した)ブラームスのヘンデルのテーマによる変奏曲だ」とフランス人の出場者がコメント、それに続いて同胞日本からの出場者が「僕はドビュッシーのベルガマスク組曲」、さらにニューヨーク在住の日本人出場者は「私は『羊は安らかに草をはむ』」、ヒューストンで医師をしているワークショップ仲間は「私なんてアルカンよ、まいったか」といったやりとりが続いています。仲間以外にはまったく意味をなさないやりとりには違いありませんが、世界の各地に散った人たちが、こうして共に聴いた音楽を、てんでんばらばらの時間帯に、頭のなかで追体験しているなんて、なんとも素敵なことではありませんか。また、私が、「飲み会で銀座に行ったついでに、山野楽器の楽譜売り場に寄って、次はなんの曲をおぼえようかと考えていたんだけれど、あまりの選択肢に圧倒されて優柔不断で決められず、結局手ぶらで帰ってきた」、と投稿すると、それについてコンクール参加者からまたいろいろなコメントが。私は、他の出場者が演奏した曲で自分も弾いてみたい曲は山ほどあるのだけれど、今回の体験で、自分のピアノの腕を一段階上に持って行こうと思ったら、単に好きな曲を次々と弾いているだけではダメで、また、単に練習時間を増やせばいいというものでもない、ということがよくわかったので、ではどうしたらよいかと迷っているあいだに時間が切れてしまったのですが、それについては他の出場者も似たような思いをしている人が多いようです。そのいっぽうで、アマチュアなのだから、とにかく自分が好きな曲を弾くのが第一、という考えも至極もっとも。というわけで、ともかく私も『羊や安らかに草をはむ』を弾こうと思うのですが(これはテクニック訓練にもよさそうだし)、まあとにかく、こんなやりとりが世界のいろんなところのピアノ愛好家と日常的にできるなんて、なんとも面白い。

ところで、フォートワース滞在中は毎日興奮していて、いろいろ書きたいことを落ち着いて書けなかったのですが、音楽体験そのものの他にも今回あらためて実感したのが、テキサスの人々の温かいホスピタリティー。前にも書いたように、私は2009年のコンクールを取材したときの縁で、辻井伸行さんのホストファミリーをつとめたデイヴィッドソン夫妻のところに滞在させていただいたのですが、このふたりの寛大にして温かい歓待ぶりといったら、言葉では言い表せないほど。プロのコンクールと違ってアマチュア・コンクールにはホストファミリー制度はないので、他の出場者はみなホテルなどに滞在しており、デイヴィッドソン夫妻も私を泊める義務などまったくなかったのですが、わざわざ「ぜひともうちに」と言ってくださって、私が居心地よくそして気楽にいられるようにありとあらゆる心遣いをしてくださいました。私の演奏のときにはもちろん張り切って応援に来てくださるし、私がワークショップやコンクールで作った新しい友達の話をすると、とても積極的に興味を示して、彼らについてあれこれと質問をしてくる。私の誕生日がちょうどコンクール最中だったので、コンクールの休みの日にはフォートワースでも有数の素晴らしいレストラン(Eddie V'sというレストラン。食事、サービス、ジャズ演奏、どれをとっても素晴らしいですので、フォートワースに行く機会のある人は是非どうぞ)でご馳走してくださり、また、誕生日当日には、私がワークショップとコンクールで作った新しい友達と一緒にお祝いしようと、午後のコンサートと夜のコンサートのあいだの時間に家でパーティをホストしてくださって、20人ほどのためにワインや食事、ケーキを用意してくださいました。来てくださった友達も、ひとときコンクールの会場を離れ、人の家でテキサスの暮らしを垣間みることができて楽しかったようですし、デイヴィッドソン夫妻も、私を通じてプロのコンクールとはまったく違った出場者の人間性や雰囲気に触れることができてとてもよかったと、おおいに喜んでくださいました。私がダラスの友達のところに出発する日の朝には、「友達のところに行くのにはぴかぴかの車で行ったほうがいいだろう」と、ホストファーザーのジョンさんがわざわざ木の下に停めてあって多少汚れのついた私のレンタカーを洗車にまで持っていってくださいました。そして、コンクールでできた私の友達や、日本の私の親や友達にも、「テキサスに来たらぜひ私たちを訪ねてほしいと伝えてくれ」と本気で言ってくださる。この夫妻に限らず、私が接したテキサスの人たちは、本当にみな温かくオープン。私のふだんの生活では、政治的に保守であり、私とは縁のない富裕層に属している彼らのような人たちとは、親しくなる機会がないのですが、こうして二週間も泊めていただいて、彼らの生活ぶりや人柄に接してみると、いわゆるcompassionate conservativeというのはこういう人たちなんだな、と納得。自分がそうする能力と余裕があるのであれば、ものや時間や気持ちを他の人に分けるのは当然のこと、という、当たり前といえば当たり前の態度のもと、あらゆる行為において信じられないほど寛大。彼らの人間性に触れることができたのも、今回の大収穫でした。

では、テキサスの余韻に浸りながら、まずは、『羊は安らかに草をはむ』の楽譜を手に入れ、そしてのばしのばしにしていた仕事に取りかかることにします。