明日はヒラリー・クリントンが演説します。
ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2008年8月25日月曜日
ミッシェル・オバマ
コロラド州デンヴァーで、民主党全国大会が始まりました。今日のミッシェル・オバマの演説を聞きながら、私は思わず涙してしまいました。強くて賢くて美しくて愛情と信念にあふれた女性のモデルとはこういう人をいうのだなあとしみじみ思いました。オバマ氏本人の政策や背景ももちろんですが、こういう女性を妻にもつ人物を大統領にしようというアメリカには、私は素直な希望を抱きます。とにもかくにも、彼女の演説を見てみてください。
2008年8月22日金曜日
Sex and the City
今日8月23日、日本で『セックス・アンド・ザ・シティ』の映画版が公開になります。アメリカでは5月に公開されたので、私はもうだいぶ前に観ました。
ご存知のかたも多いかと思いますが、『セックス・アンド・ザ・シティ』は、1998年から6シーズンにわたってアメリカのケーブルチャンネルHBOで放映されてテレビ番組で、今回の映画はその主人公たちの数年後の姿を描いた映画版です。(テレビ番組のほうは、日本でもDVDで入手可能です。)マンハッタンの4人の女性(映画の物語の時点では、ひとりはブルックリン、ひとりはロスに住んでいる)が主人公の、恋愛遍歴が中心の物語です。テレビ番組を通じて主人公たちの性格やこれまでの遍歴を観客が知っていることが、ある程度の前提となって映画ができているので、元の番組のほうを一度も見たことがない人にとっては、映画はそれほど面白くないかも知れません。私は、テレビ番組が流行っていたときは、ときどき見たことはあっても特にファンではなかったのですが、再放送がほぼ毎日テレビでやっているので、シリーズ自体が終わってから見るようになりました。あまりにも現実離れした設定で、しかも究極的な恋愛至上主義の物語で、馬鹿馬鹿しいといえばその通りなのですが、けっこうはまりやすく、私はふとしたときに、妙に感情移入して、一人で見ながらおいおいと泣いてしまうこともあります。ちょうど、私がホノルルでマンションを買おうとして、自分の財政状況では自分の気に入るようなところはとても手が届かないことを認識してしょげていたときに、ふとテレビをつけると、主人公のキャリーがボーイフレンドと別れて、かつ、住んでいたアパートを出るか買うかしなければいけない状況になり、私に負けず経済力のない彼女が落胆しているところに、離婚したばかりでかつお金持ちの女友達のシャーロットが、「これを売って頭金にして」と要らなくなった婚約指輪を彼女にプレゼントする、というエピソードをやっていて、私は訳もわからず10分以上もぼろぼろ泣いてしまった、ということもありました。
映画のほうは、「30分の連続テレビ番組だったからこそ成功した素材を、むりやり2時間以上の映画にしている」と酷評した批評が多かったので、それほど期待していなかったのですが、仲良しのゲイの友達(「ジェイソン」と、しばらく前にブログで言及した「アンディ」)に誘われて、公開まもなく観に行きました。そして映画が始まって30分とたたないうちから私は大粒の涙を流し始め、なんと2時間15分の映画のうち実に2時間近く、ずーっと泣きっぱなしで、終わったときには目も鼻も真っ赤、身体も心もぐったり疲れ果てしまいました。「いくらなんだってそこまで感情移入するとは思っていなかった」とジェイソンとアンディに驚かれました。(「泣いたあとには甘いもの」と、帰りにアイスクリーム屋に行きました。)そしてさらに私は、その1週間後に、今度は女友達と、再び同じ映画を観に行ってしまいました。私が泣いた量は1回目の四分の三くらいでしたが、私の友達は一滴も涙を流さず、「エンターテイメントとしては楽しめるけど、私にはまるで感情移入できない」とクールに言っていました。確かに、くだらないといえばくだらない映画なので、2回もお金を払ってあんなものを観に行った私は、友達のあいだでかなり呆れられています。
泣いたといっても、恋愛コメディですから、全体が悲しいということはなくて、むしろ面白可笑しいのですが、私がそこまでこの映画に感情移入した理由のひとつには、私が主人公のキャリーと同い年で、ちょうど映画が公開になった数日前に40の誕生日を迎えたところだった、ということがあるかも知れません。『セックス・アンド・ザ・シティ』は、きゃぴきゃぴちゃらちゃらした4人の女性の恋愛物語だと言ってしまえばその通りですが、この映画が、そのへんにいくらでもころがっている恋愛ものとひと味違うのは、40代、つまりは「中年」を迎える女性たちの人生を、夢物語ながらにまっすぐに捉えている、ということです。もちろん、「まっすぐ」といっても、ニューヨークやロスアンジェルスで最高級のマンションに住み、靴や洋服を中毒者のように買いものし、それぞれキャリアがあるはずなのにいつ仕事しているのかまるでわからない4人の主人公たちの生活は、実際にはまるっきり現実味がなく、そういった意味ではこの物語はまったくのファンタジーでしかありません。それでも私は、この映画は、40代(主人公のひとりのサマンサは、物語の途中で50の誕生日を迎えます)のアメリカ女性のある種類の「現実」を、とてもよく描いていると思います。私が見るに、その「現実」とは3つあります。
ひとつは、「痛み」。人に裏切られたり、思いが叶わなかったりといった痛みは、もちろん20代や30代だっていくらでもありますが、この映画で描かれているのは、「本当に自分が愛して大事にしている相手でも、傷つけてしまうこともある」「本当にいい人でも、バカな間違いをすることもある」「どんなに後悔、反省、改心しても、とりかえしのつかないことがある」といったようなことです。酸いも甘いも経験して、いろんなことを乗り越えてきて、こうしたことはすでに理解して回避できるはずの大人たちであるがこそ、こうした「現実」の重みが大きいのです。
ふたつは、「前進」。そうした大きな痛みは、なにをどうしたってなくなるものではない。自分のおかした過ちは、どう償いをしても、自分のなかでも相手のなかでもきれいに消え去るわけではない。傷つけ合った二人は、いくら関係を修復したとしても、その傷を負う以前の関係と同じというわけではない。失ったものは、二度と戻ってこない。それでも、人は、長かったり短かったりする時間を経て、やがて、「しかたがない、よっこらしょ」っと起き上がって、また先に進んでいく。そこには、勇気だとか自信だとか決意だとかいった立派なものは別になく、あるのはただ、「しかたがないから重い腰をあげて前に進む」という現実だけです。ハッピーエンドでありながら、一面バラ色の結末ではなくて、苦いものも酸っぱいものもとりこんだ上で笑顔で進んでいく、というのが大人の物語らしいところです。
そして最後に、これはテレビ番組の『セックス・アンド・ザ・シティ』について以前から言われていたことですが、女友達の絆です。30代で独身でみながマンハッタンに住み、朝食からマルティーニまで四六時中集まって時間を共にしていた頃とは、4人の女性主人公たちの生活はだいぶ変わっています。それでも、大小の痛みそして喜びを4人で分かち合いながら、それぞれ別の方向ではありながらも手を取りながら前進していく、その女性同士の関係は、物語の表面では最大の価値がおかれている恋愛関係よりも、ずっと重みのあるものです。Boyfriends come and go, but girlfriends are forever.(ボーイフレンドは現れたり去ったりするけれど、女友達は永遠だ)という表現がありますが、私自身、ここ数年間、そのことを深ーく実感するようになりました。選択する生き方はみなそれぞれ違うし、だからこそ「女性として」経験することの内容もまるで違うけれど、人生の中盤で出会ういろんな喜びや悲しみを、一緒に歓声をあげたり涙を流したりしながら分かち合ってくれる女友達の存在は、本当にかけがえのないものです。
と、書いてしまえばいかにも陳腐な結論ですが、まあとにかく、よかったら観てみてください。『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくるニューヨークとはまるで違う世界ですが、出会いと別れと前進という意味では、ちょっと通じる部分もあるかもしれません。(ちなみに、『ドット・コム・ラヴァーズ』のことを、「在米日本人版『セックス・アンド・ザ・シティ』だ」と形容する人がけっこういます。)お楽しみください。
2008年8月9日土曜日
オバマ氏ハワイに到着
民主党大統領候補となることがほぼ確実となったバラク・オバマ上院議員が、9日間の休暇を生まれ育ったハワイで過ごすために、昨日8日、ホノルルに到着しました。
ハワイはなにしろ地理的にアメリカ本土から隔離された周縁にあり、人口100万人強で数の上でも合衆国の政治へのインパクトが比較的少ないため、大統領候補が選挙活動中にハワイまでキャンペーンにやってくることはまずありません。歴史も、人種・民族構成も、文化もアメリカ本土とは大きく違うハワイでは、ワシントンを中心とする合衆国政治は、自国のこととはいえ、自分たちの日常生活とはかなりかけ離れたものという感覚をもっている人が多いのですが、ハワイを「故郷」とするオバマ氏が大統領選出馬は、ハワイの人々には大きな熱気を巻き起こしています。とはいえ、『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、ハワイの「ローカル」というアイデンティティはなかなか複雑なものがあり、ハワイで生まれ育ったからといって、誰もが「ローカル」を名乗れるわけではありません。とくに、ケニア人の父とカンザス出身の白人の母のもとに生まれ、ハワイでトップと考えられている名門私立校に通い、子供時代の一部をインドネシアで過ごしたオバマ氏のバックグラウンドは、ハワイで一般に理解されている「ローカル」アイデンティティとは大きく違うものです。オバマ氏を「ハワイ出身」としてお祭り騒ぎをするのはたやすいが、はたしてハワイで生まれ育ったこととオバマ氏の政策や理念とどんな関係があるのか、きちんと考えて議論するべきだ、と多少冷ややかな目で見る人ももちろんいます。
ハワイ云々は別にしても、私自身はオバマ氏が大統領になることを強く願っています。ハワイで大統領候補を直に見られることはそうないので、オバマ氏ハワイ滞在中の唯一の公開イベントである昨日の集会に行ってみようと、会場である空港近くの公園のほうまで出かけたものの、あまりにも道が混雑していて車を停めるところもなさそうだったし、待ち時間が何時間にもなりそうだったので(実際、仮に車が停められていても、オバマ氏が登場するまで3時間以上あったらしいです)、あっさりと諦めて戻ってきました。その集会の様子は、こちらでどうぞ。
また、昨日は、民主党大統領候補に出馬していた、ジョン・エドワーズ上院議員が、2006年にキャンペーンのスタッフと不倫をしていたというニュースが発表されて大騒ぎになりました。私は、貧困や医療といった問題にもっとも真剣に取り組んでいる(と私には思えた)エドワーズ氏の政策には一番共感していて、彼がオバマ氏のもとで副大統領候補になればいいと思っていたので、おそらくこのスキャンダルでその可能性がなくなってしまうであろうことは、とても残念です。とほほ。
2008年8月4日月曜日
日経新聞、週刊朝日
8月3日(日)の日経新聞と8月5日発売の週刊朝日に、『ドット・コム・ラヴァーズ』がかなり大きく取り上げられました。といっても、私のところにはまだ現物が届いていないので、私は見ていないのですが、話を聞くかぎり、どちらもかなりの紙面をさいてくださっているようですね。おかげさまで、アマゾンでの売り上げが急速に伸びて、最高では100位まで行きました。2桁の気分を味わうために、自分で数冊買おうかと思ってしまいますが、海外への発送はやたらと送料・手数料が高いので、やめておきます。(笑)
これらのおかげで、「記事見たよ!」と、何年間(ときには20年くらい)も音沙汰のなかった旧友から連絡をもらったり、幼なじみのお母様から私の実家に電話があったりなど、ここ数日はa few moments of fameを経験しています。さすが全国紙の影響力はすごいものです。
また、記事を読んで早速本を買って読んだというかたから、ファンレターも届きました。なかでも、自分はゲイ、あるいはレズビアンで、このように日本人の異性愛者が同性愛について偏見なくまたカジュアルに語るということにとても感銘を受けた、というメッセージが、私にはとても嬉しかったです。ゲイの文化や恋愛・セックスについて書いた章は、私自身とくに思い入れのある章です。日本では、人種や社会階層などの問題についてかなりリベラルな考えをする人でも、同性愛のことになるとかなりの無知と偏見をもっている人が多いのに、私は以前から驚いていました。同性愛のことに限らず、性文化がアメリカと日本ではまるで違うので、それほど驚くことではないのかもしれませんが、日本にも同性愛者は少なからずいるわけですし、一般の人々がもう少しオープンに同性愛について考えるきっかけがあるといいなと思っていました。それで、あまり説教臭くないトーンで、本の残りの部分と同じように面白可笑しい話を盛り込みながら、ゲイの人たちを人間的に描こうと努めました。一面的なステレオタイプを生み出したり強化したりする結果になっても困るし、かといってある程度は一般化した話をしないとポイントが伝わらないしで、叙述のバランスにもだいぶ気を遣って書きました。でも、ゲイの友達が多いとは言え、私自身は異性愛者なので、LGBTの人々の体験や思いは、想像でしかわかりませんし、「ゲイとはこういうものである」などと私が語る資格もありません。ただ、自分が異性愛者だからこそ、異性愛者の読者に伝えられることもあると信じて書きました。そんなわけで、ゲイやレズビアンの読者に、こうして喜んでいただけると、「この本を書いてよかった」と思えます。
日本からくるメールには必ず、「とにかく暑い」と書いてあります。よっぽど暑いんですね。水分をたくさんとって、元気のつくものを食べて、残りの夏を乗り切ってください。
2008年7月28日月曜日
デートの会計 その2、そしてインターネットと読書
昨日、『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」と、もう一人のゲイの友達(ここでは「アンディ」としておきましょう)と一緒に食事と映画に出かけ、先日の投稿に書いた、ゲイの人同士のデートの会計について聞いてみました。「ジェイソン」は、よく知らない相手や、もう二度と会わないかもしれない相手と、貸し借りの関係を作るのは嫌なので、初めてのデートのときにはいつも割り勘にする、と言っています。ただ、しばらく交際するようになってからは、お互い順番におごり合いっこをするそうです。彼は、ここ数年間つき合っているボーイフレンドがいるのですが、彼ともそうしています。私も一緒に三人で出かけるときなどは、私のぶんまで二人のうちのどちらかが払ってくれることもあり、私もときどき彼らのためにおごったり料理を作ったりします。(ただ、「ジェイソン」はヴェジタリアンで、彼が来るときはかなり考えて料理をしなければいけないので、ついつい彼とは外で食事をすることが多くなります。)「アンディ」はシングルなのでよくいろんな人とデートに出かけますが、デートに誘ったほうが払うのが普通、と言っています。
話題は変わって、先日の「ニューヨーク・タイムズ」に、インターネットと読書についてのこんな長文記事が掲載されました。ビデオもあって面白いので、ちょっと見て(読んで?)みてください。インターネット時代に育った十代の若者や大学生の「読書離れ」について、多くの人が危機感を抱いていますが、一日に何時間もインターネットでものを調べたり読んだり、あるいは友人知人とチャットやメールをしたりする若者は、本当に「読書離れ」しているのでしょうか。従来の紙の本の読書と、ネット上での「読書」は、どう違うのでしょうか。莫大な量の情報がネット上でアクセスできるようになったことは、私たちの知識や思考を豊かにしているのでしょうか、それとも貧困にしているのでしょうか。インターネットという媒体に懐疑的な人たちは、静かに座って本をひろげ、線的な叙述と思考に集中する、という伝統的な「読書」が若者の日常生活から姿を消してきていることに強い危惧の念を抱きます。そのいっぽうで、インターネットの可能性をよりポジティヴに評価している人たちは、従来の「読書」とは、本あるいは著者から読者への一方的なコミュニケーションであるのに対して、ネット上での読者は、「読書」の過程で、自分の興味に応じて関連資料を同時に調べたり、コメントを書き込んだり、他の読者と対話したりすることができるぶん、より能動的で積極的だ、という見方をします。こうしたトピックはえてして偏った議論になりがちですが、いろんな視点から話を展開しているあたり、さすが「ニューヨーク・タイムズ」です。私は、かつては本を読みふけって育った文学少女で、内容もそうですが物体としても、紙の本というものをこよなく愛しているし、今では本を書く人間になったので、本という媒体の将来はとても気になります。それと同時に、「デート」はもちろんですが、自分の読書やリサーチ、執筆などが、インターネットという媒体ができたことによって、それまでとは比較にならないくらい可能性が広がったのも確かで、インターネットのない生活はもはや想像できません。ひとくちにインターネットといっても、そこにある情報や、その使いかたは、ほんとうに複雑多様なので、ひとくくりにして乱暴な議論をせずに、その実体をきちんと丁寧に考えていきたいと思います。
追伸 私の高校と大学の同級生だった男友達(普通のお友達です)のお父様が、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださいました。私は、そのお父様が駐在中にロスのお宅にしばらく遊びに行ったことがあるので、ご家族そろって仲良くさせていただいているのですが、そのお父様は、この本を読んで、息子に、「真里ちゃんの男性遍歴が赤裸裸に書いてあって、びっくりした。お前が出てくるんじゃないかと思ってハラハラした」と言っていたそうです。読者はそれぞれ、いろんな読み方をするもんですねえ。(笑)
2008年7月26日土曜日
ホノルル便り--デートの会計、シャワー、そしてFacebook
ホノルルに戻ってきました。私が留守にしていたあいだはかなり蒸し暑かったそうですが、今ではこちらは東京よりずーっと快適な気候です。日本にいるあいだは毎日食べ飲み歩いていたので、ちょっと運動しなくてはと、夕方の海辺の公園でのジョギングも再開しました。ダイアモンドヘッドを見ながら、そよ風の吹くなか、夕暮れ時の海辺をジョギングできるのですから、文句は言えません。東京での数週間はほんとうにいろんな刺激や出会いが多くて楽しかったですが、ハワイでの暮らしも違った意味でよいものです。
さて、私の友達のお母様が『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで感想や質問をくださいました。なかなか面白いので、私の回答を含めて以下にご紹介します。
1 オンライン・デーティングで知り合った相手と会っているときに、過去につき合った人の話をするということに、驚いた。
これは、オンライン・デーティングに限らず、「デート」するようになった相手とはよくあることで、私だけのことではないようです。「過去にどんな相手とどんな恋愛関係をもってきたのか、それらの関係はどんな理由で終わったのか、といったことから、その人の恋愛に対する態度がかなりわかる」という理屈だと思います。30代後半にもなって、真剣な恋愛を一度もしたことがないような人はむしろ危険信号だし、かといって、過去の別離をずっと引きずってそれを今の関係に持ち込むような人も困るし、恋愛において同じようなパターンを繰り返しているとすればそれにはなにかの意味があるだろうし、など、話を聞くほうとしてもいろんな思いがありますが、過去の恋愛にまったく触れないことのほうが不自然だという考えは、一般的なようです。
2 オンライン・デーティングで知り合った人とお洒落なレストランなどに行く場合の会計は、割り勘なのか、それともどちらかが払うのか?そういったことに関する決まりや合意はオンライン・デーティングをする人たちのあいだにあるのか?
デートでは男性のほうが払うのが礼儀、という観念は日本同様アメリカでもかなり一般的です。だから、たいていは、男性のほうが払う意思表示をします。そこで女性のほうが、「いいです、払います」という意思表示をするのも礼儀のひとつです。そこで実際に割り勘にする場合もあれば、女性に少なめの額をもらう場合もあれば、「いいよ、いいよ」と言って男性が払う場合もあります。そのあたりは、男性のお財布状況と感性によるでしょうが、普通は、男性は、自分が相手のぶんも払えないようなお店には初めから連れて行かないでしょう。経済的に自立していて「自分のことは自分でする」という女性が比較的多いアメリカでも、このあたりの感覚は割と伝統的と言えます。ですから、いわゆる「タダ飯ねらい」でデートに出かける女性も存在します。ただし、「デート」からステディな関係に移行してからは、女性のほうが男性よりもずっと収入の多い場合などは、女性がいろいろな支払いを受け持つということは珍しくありません。
私自身は、実際につき合うようになった相手が、愛情表現のひとつとしてときどきプレゼントをくれたりご馳走してくれたりといったことはもちろん大歓迎ですし、私も相手にそうしますが、きちんと収入のある者同士の関係で、恒常的に経済関係が不均衡(つまり、いつも一人が相手のぶんを払う)な状況というのは、ふたりの関係そのものに不健全だと思うし、毎回男性に払ってもらうのは嫌なので、数回以上「デート」するようになる相手とは、たいてい割り勘にするか、あるいはおごり合いっこをするようにします。ただ、初めてのデートで、いちいちそうした交渉をするのも面倒臭いので、男性のほうがぜひ払うと言えば、ありがたくご馳走になるようにしています。
ゲイのカップルのデートの場合は、このへんがどうなっているのか、私にはよくわかりません。デートに誘ったほうが払うのかもしれないし、割り勘にするのかもしれないし、その場の雰囲気によるのかもしれません。近々、「ジェイソン」や「マイク」に聞いて、ご報告します。
3 その場の勢いで、ロマンチックな夜を過ごすことになった場合、シャワーは浴びるのか?
私は、初めはこの質問の意味がよくわからなかったのですが(質問の意味がよくわからないということ自体、こういったことについての私の感覚がかなりアメリカンであることの印なのかも知れません)、要は、セックスの前にシャワーを浴びるのかということだそうです。日本の感覚では、特に初めての相手とそういうことになるときは、汗など落として清潔にして臨みたいし、それが相手に対する礼儀でもある、ということなのでしょう。
こうしたことは、個人の好みによる部分が大きいでしょうが、私の経験では、アメリカでは概して、その場のノリでベッドに入ることになる場合は、やはりその場のノリを維持することが大事なので、普通はそのままベッドに入ります。その途中でシャワーが入ると、自分がシャワーを浴びたり、相手がシャワーから出てくるのを待っていたりするあいだに、「今日セックスをするのはよくないかもしれない」などと冷静な声が頭をよぎったりして、いざという場になってぎこちないことになるようなこともあるんじゃないでしょうか。(もちろん、それならやめておいたほうがいい、ということもあるでしょうが。)セックスが済んだあとには、汗もかくし、シャワーを浴びることは多いですが(二人で一緒にシャワーに入ることもある)、ホットな雰囲気のままそのまま寝てしまうこともあります。アメリカの人はたいてい朝シャワーを浴びるので、夜を一緒に過ごすなら、シャワーは朝浴びることが多いです。
最後の質問は、実に面白い質問ですね。どうでもいいことのようでいて、実は、こうした些細なことに、文化的感覚の違いというものが一番よく顕われるものかもしれません。
ところで、話は変わりますが、ここ数日間、すっかりFacebookにはまっています。これは最近日本語でもできるようになったSNSサイトで、友達数人から「招待」が送られてきたので少し前にアカウントを作ったのですが、初めはほとんど使っていませんでした。ところが、いったん始めると、「友達」の「友達ネットワーク」から、何年も連絡が途絶えていた自分の友達が何人も見つかったりして、けっこう面白いし、多くの人に同時に近況報告などができるので、便利なことも沢山あります。だから、つい次々といろんな友達のプロフィールをチェックしてしまい、メッセージを送ったり写真をアップロードしたりしているうちに、あっという間に何時間もたってしまいます。既にメールを中心に毎日の生活がまわっているような状態で、メールに費やす時間をもっと制限しないとまるで仕事がはかどらない、と思っているそばから、もっと耽溺しやすいFacebookにはまってしまいました。
日本滞在中、『ドット・コム・ラヴァーズ』について講演したときに、日本とアメリカでのネット文化の違いについての質問やコメントを、おもに若い学生さんたちから多く受けました。日本では、ミクシーなどのSNSサイトを使っている人は多いけれども、本名や顔写真を載せている人はまずいないのに対して、Facebookを初めとするアメリカの同類サイトでは、ほとんどの人は本名を使い、顔写真を含む個人情報をたくさん載せている、とのことです。私は日本のSNSサイトを使ったことがないのでわかりませんが、確かにFacebookではたいてい皆、本名を使っています。だからこそ友人知人を検索できるし、また、本名を使わないのであれば、なんのためにネットワーキングをするのかわからない、という理屈だと思います。このあたりの違いは、インターネットという媒体への感覚と態度、そしてネット上の行動規範(ネットに載せるものへのアカウンタビリティを含め)をめぐる文化的な差異によるものが大きいのでしょう。もちろん、アメリカでも、ネット上の個人情報を悪用した犯罪などは存在しますが、一般的には、日本の多くの人が警戒するほどの危険は感じられません。また、たとえば、日本では、大学教授のメールアドレスを調べるのにはかなりの苦労がいりますが、アメリカでは、ごく基本的なネット検索をすれば、大学に教員として所属する人のメールアドレスは数分以内で出てきますし、そうでないと日常的な仕事に大変な支障をきたします。こうしたことからも、ネット文化の違いが感じられますね。
Facebookは、はまると時間がどんどん吸い取られるということの他にも、社会文化現象として特有のものがあると思います。手書きの手紙を郵便で送るという文化から、メール文化に移行して、物理的な距離をへだてたコミュニケーションのありかたはとても大きく変わったことを、外国に住んでいると特に実感しますが、Facebookのような媒体は、そうした短縮コミュニケーションをさらにずっと先の段階に移行させます。こうしたサイトで人が交換するメッセージは、普通のメールの文章よりもずっと短いですし、また、「メッセージ」ですらなく、キスマークとかバラの花束などのいろんなアイコンを送り合うだけの、言葉なしの「コミュニケーション」が、こうしたサイトでは主流のようです。本当にコミュニケーションが促進されているのだか、それとも単に我々を怠慢にしているのかは、大きな疑問だと思います。それに比べて、オンライン・デーティングでは、少なくとも、言葉を使って自分を表現し、相手とコミュニケーションをするということが出会いの核となっているので、同じネット上の交際といってもだいぶ種類が違うように私には思えます。
それでは、また。
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