ニューヨーク・タイムズの、"Happy Days"というブログに10日ほど前に掲載された、Tim Kreiderという漫画家によるユーモラスでかつとても思慮深いエッセイがあります。たいへんエレガントな美文でもあり、日本の大学の英語の授業に使ったらいいんじゃないかと思うくらいです。
内容は、つまるところは「自分がしなかった人生の選択」をした同年代の友達の生活を眺めるときの複雑な気持ちについて。著者は、42歳で、結婚したことがなく、子供はもつつもりがない男性。同年代の周りの友達はほとんどが結婚して子供をもっていて、ゆえに自分の日常生活も今後の展望も、彼らとはかけ離れたものである。数十年前に比べると、男性にとっても女性にとっても、人生で選択できることの幅は格段に広がり、結婚するか、子供をもつか、といったことの他にも、職業やライフスタイルにおいて大小たくさんの選択を意識的にせよ無意識にせよするようになってきている。そして、40歳前後になると、そうした選択の結果が、日々の生活のありかた、そしてこれからの人生のありかたに、決定的な刻印を残すようになる。若いときは日々同じような暮らしをして同じようなことを考えていた友達も、数々のそうした選択によって、自分とは似ても似つかないような生活を送るようになる。そうしたときに、ふと人の生活や人生を自分のものと見比べて、羨望の念にかられたり、「あー、自分もあのときああしていれば、今頃あの人のような暮らしができていたはずなのに」と後悔したり、あるいは逆に、「あー、自分はあんな風にならなくてよかった」と安堵したりする。「隣の芝生は青い」というように、自分にはないものをもっている(ように見える)人の暮らしを羨むのは人の常であるのと同時に、周りの人たちの選択がどんな結果をもたらしたかを鑑定して、自分の選択を正当化したり、ひそかに優越感に浸ったりするのもありがちな感情である。自分が歩まなかった人生、選ばなかった道、実現しないまま終わった可能性、そうしたものを、それらを手にした友達という形で目の前に見せつけられるのは、辛いこともある。でも、同時に複数の道を追求してみてどれが一番よかったかを比べることはできないし、自分の人生を人の人生と比べてみたところでなにも達成されない。後ろを向いて道を見失うよりも、違う道を選んだ友達の姿を横から見て、自分は直接経験できないものを、より安全なところから見るのが、私たちにできる精一杯のことだ、といった要旨。
著者とほぼ同い年で、「周りの人たちと自分の日常生活がとても違う」という共通性もあって、私にはとても含蓄のある文章です。私がこれまでにしてきた人生の選択の多くは、意識的にしたものよりも、状況やなりゆきによってそうなったものが多いのですが、どのようにしてした選択にせよ、それらがもう修正不可能な結果をもたらしているものも少なくありません。そして、人生半ばになると、これまでにしてきた生き方が、これから残りの人生を規定する部分がかなり大きく、これから先の選択肢が無限にあるわけではありません。人生のそういう地点に立ったときに、自分が勝っているか負けているかといった目で周りを見回していたら、自分がどこにいるにせよ哀しいでしょうが、自分が直接には経験できないものを周りの人たちの人生を通じて垣間みることで、自分の限られた人生を少しでも豊かにできたらいいなあと思います。まあとにかく、なかなか素敵な文章ですので是非読んでみてください。
ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2009年9月28日月曜日
2009年9月26日土曜日
選択的夫婦別姓実現へ
選択的夫婦別姓を認める民法改正案を政府が早ければ来年の通常国会に提出する方針を固めたとのニュース。これは素晴らしい!夫婦別姓は、私が中学生の頃からたいへんこだわりを持っていた問題で、高校生のときに、夫婦別姓問題についての集会にも出たことがあるくらいで、私のフェミニストとしての意識の発達にかなり重要なポイントとなっていました。一時期議論がけっこう盛り上がったにもかかわらず、その後とんと話題にのぼらなくなった(私が日本を離れてからはそれほど熱心にフォローもしなくなってしまったのが大きいですが)ので、もう実現しないかと悲観していましたが、こうして与党となった民主党が積極的に取り組んでくれるのは、本当にありがたいです。もちろん、自民党の抵抗はかなり強いですから、民主党がよしと言ったからといってそうすんなり通過するとは思えませんが、少なくともこの問題がメインストリームの場で議論され、与党が支持をはっきり表明するということは、国民の意識にだいぶ変化をもたらすのではないでしょうか。夫婦別姓は家族の崩壊をもたらすという議論は、まったくナンセンスだと思います。同姓でも崩壊している家族はすでにたくさん存在するし、あえて別姓を選択しながら結婚し家族生活を営もうという人は、そのぶん「結婚とはなにか」「家族とはなにか」「自分たちはなぜ結婚するのか」といったことを意識的に考えて、お互いへのコミットメントが強い人たちでしょう。アメリカではすでに選択的別姓ですから、私の周りには同姓の人も別姓の人もいますが(著述活動をする学者はやはり別姓の人が多いです)が、日本でも、別姓でいるために事実婚にしている人たちや、法的に結婚して戸籍上は同姓でも通称で別姓にしている人たちは、そうした人たちです。夫婦別姓は「行き過ぎた個人主義」の顕われである、という議論もありますが、はたして「行き過ぎた個人主義」とはいったいなんでしょうか?
ちなみに私は今学期桜美林大学で、「結婚と家族の日米比較」というテーマの授業を担当しています。(おもに留学生を対象にした、英語で行う授業です。)さまざまな理由が重なって受講生が少なく、授業というよりはチュートリアルのような形式になりそうですが、参考までに、以下その授業の内容紹介です。
ちなみに私は今学期桜美林大学で、「結婚と家族の日米比較」というテーマの授業を担当しています。(おもに留学生を対象にした、英語で行う授業です。)さまざまな理由が重なって受講生が少なく、授業というよりはチュートリアルのような形式になりそうですが、参考までに、以下その授業の内容紹介です。
Course ContentThis course takes a comparative look at marriage and family in Japan and the United States. Through historical, sociological, and anthropological analysis, we will discuss the commonalities and differences in the institutions and lived experiences of marriage and family in the two countries. Topics we will cover include: changing arrangements for marriage and family, the government’s role in shaping marriage and family, rituals of marriage and family life, political discourses of “family values,” cultural ideals of marriage and family, and non-traditional marital and family relations. In addition to discussions of readings and films, we will take a field trip to a wedding hall. Students will also conduct interview and participant observation of family life with their host families.
Course RequirementsClass participation 40%
As a seminar with a heavy reading load and intensive discussion, a significant portion of the grade will be based on class participation. Regular attendance is mandatory. Students who miss five or more classes will fail the course unless they make an arrangement with the instructor to make up for the unavoidable absences. Attendance is not synonymous with participation. The class will be conducted in a discussion format, and it is assumed that when you are present, you have done the assigned readings and are ready to participate in discussion of the material. Class participation will be assessed based on: (1) the consistency and thoroughness of your preparation for each session, (2) your active participation in discussions and constructiveness of your ideas, and (3) your ability to build upon other students' ideas and to work collaboratively with others. Occasional mini-writing assignments will also be assessed as part of class participation.
Short paper 20%
Write a 5-page (i.e. approx. 1,250 word) paper analyzing one of the assigned films, discussing how “marriage” and/or “family” are portrayed in the film. Discuss the specific ideals of marriage/family that the characters subscribe to or struggle with, the sources of tension between those ideals and reality, and the ways in which the story resolves (or not) those tensions.
Final paper and presentation 40%
Over the course of the semester, you will be conducting participant observation of the family life of your host family. You will also conduct in-depth (at least two hours each) interviews with at least three of the family members (if three family members are not available for interview, we will make alternative arrangements). Based on your observation and interviews, you will write a 10-12 page (i.e. 2,500-3,000 word) paper that discusses the family relations, incorporating the ideas from the class readings and discussions. Detailed guidelines as to the ethics of research and writing will be provided. For students who do not live with a host family, an alternative assignment will be designed. In the final week, students will give a 15-minute presentation on their paper.
Required Texts
Beth Bailey, From Front Porch to Back Seat: Courtship in Twentieth-Century America
Nancy Cott, Public Vows: A History of Marriage and the Nation
Merry Isaacs White, Perfectly Japanese: Making Families in an Era of Upheaval
Gail Lee Bernstein, Isami's House: Three Centuries of a Japanese Family
Ruth L. Ozeki, My Year of Meats: A Novel
Film Viewings
Students are required to watch the following film prior to the days designated for discussion in the class schedule. Details TBA.Sex and the City (2008)
Family Game (1983)
If These Walls Could Talk 2 (2000)
Aruitemo Aruitemo (2008)
2009年9月24日木曜日
中学生のカム・アウト
27日発行になるニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載される、Coming Out in Middle Schoolという記事の全文が、既にウェブサイトで読めます。まずは、これだけの長文記事が新聞の付録に載るということに改めて感動。私は日本に来てから、新聞や雑誌の薄っぺらさ、読みごたえのなさに本当に落胆しているので、これだけ調査と執筆に時間と労力がかかった立派な記事を読むと、「あー、調査ジャーナリズムというものはこういうものなんだった」と感動します。日本だって、個々のジャーナリストにはもちろん優秀で意識が高く立派な仕事をしている人もいますが、なにしろそうした人たちが集めたデータや分析した内容を、それなりの紙面を割いて大衆に伝える媒体がなければどうしようもないのです。今の日本の全国紙や月刊誌・週刊誌の五倍くらいの(物理的にも内容的にも)厚みがあるメディアが、二、三はあってこそ、きちんとした言論の場、そしてハバーマスのいう「公共性」が形成されるはずだと思います。
まあそれはともかく、肝心の記事の中身ですが、アメリカのいろいろな場所(それも、いわゆる「リベラル」な風土で知られている場所ではなく、この記事の舞台となっているオクラホマのようなところでも)で、ゲイやレズビアン、あるいはバイセクシュアルとしてカム・アウトする中学生が増えてきている、という話です。自分がゲイであると認識するようになるのは30代や40代になってからという人も多いなかで、高校生や大学生のときならともかく、中学生がそんなに確固とした性的アイデンティティをもつものだろうかと、自らゲイである大人(この記事の著者も含め)のあいだからも懐疑の念もあるものの、最近では12、13歳でゲイとしてのアイデンティティを確信して、家族や友達にカム・アウトする中学生が多い(彼らは平均で10歳のときに初めて自分が同性に惹かれるということに気づいた)、とのことです。一世代前と比べると、同性愛に理解やサポートのある親や教師が多く、カム・アウトはしやすくなってきているとは言っても、ただでも生理的にも情緒的にも揺れ動く年齢で、友達同士のグループが形成されて仲間はずれやいじめも発生しやすい中学校という環境で、ゲイとして堂々と生きるのは今でもとても難しい。全国120の中学校では、Gay Straight Alliance、すなわちゲイとストレートの生徒たちの団結のためのグループが結成されて、ゲイの生徒へのハラスメントなどを防ぐ活動などが行われている、とのことです。そのいっぽうで、思春期に自分がゲイやレズビアンであることに気づきながらも、家族や友達の理解を得られなかったり変態扱いされたりして、あるいはそうなるとの恐怖から、鬱病になったりアルコールや薬物依存症になったり、自殺などの自己破壊的な行動に走ったりする男女も多いのが現実です。
同性愛のことに限らず、性にまつわる話題について、親や子供ときちんと話をするのは、たいていの場合、どちらにとってもとても居心地の悪いものでしょう。私も親とそんな話をしたことはありません。でも、アメリカでも日本でも、今の世の中で子育てをするにおいて、性についてきちんとした会話をするのは、親としてもっとも大事なことのひとつなんじゃないかと思います。思春期の男女が性に好奇心をもつのは当たり前。そのことばっかり考えているような時期があっても当たり前。なんだかよくわからないけどいろいろ試してみるのも当たり前。それをちゃんと受け止めて、性や身体について健全な意識と態度をもつように、そして自分のことも性行為の相手のことも大事にしながら、いい性生活が送れる大人へと成長していくように、きちんと話をすることは、とっても重要だと思います。そして、そのなかで、世の中の人の何パーセントかは同性愛者だったりトランスジェンダーだったりトランスセクシュアルだったりするのであって、それは変なことでも間違ったことでもない、ということ、そして、自分がゲイだと気づいたり、周りにゲイの友達がいたりしたら、恐怖感や疎外感をもったりしないで、そのアイデンティティを明るく温かく受け止めるべき、ということを、きちんと伝えるべきです。そして、子供がゲイだろうがストレートだろうが、親である自分は子供を同じように愛してサポートしていく、ということを子供が親から感じれば、沢山の困難が待ち受けているそれからの人生にも、ある程度の安心感をもってのぞめるはずです。ゲイの若者たちにも頑張ってもらいたいけれど、ゲイの子供をもった親たちにも、ゲイの友達をもった若者たちにも、ゲイの人々が安心して幸せに行きて行ける環境を作るために頑張ってもらいたいです。頑張れー!
まあそれはともかく、肝心の記事の中身ですが、アメリカのいろいろな場所(それも、いわゆる「リベラル」な風土で知られている場所ではなく、この記事の舞台となっているオクラホマのようなところでも)で、ゲイやレズビアン、あるいはバイセクシュアルとしてカム・アウトする中学生が増えてきている、という話です。自分がゲイであると認識するようになるのは30代や40代になってからという人も多いなかで、高校生や大学生のときならともかく、中学生がそんなに確固とした性的アイデンティティをもつものだろうかと、自らゲイである大人(この記事の著者も含め)のあいだからも懐疑の念もあるものの、最近では12、13歳でゲイとしてのアイデンティティを確信して、家族や友達にカム・アウトする中学生が多い(彼らは平均で10歳のときに初めて自分が同性に惹かれるということに気づいた)、とのことです。一世代前と比べると、同性愛に理解やサポートのある親や教師が多く、カム・アウトはしやすくなってきているとは言っても、ただでも生理的にも情緒的にも揺れ動く年齢で、友達同士のグループが形成されて仲間はずれやいじめも発生しやすい中学校という環境で、ゲイとして堂々と生きるのは今でもとても難しい。全国120の中学校では、Gay Straight Alliance、すなわちゲイとストレートの生徒たちの団結のためのグループが結成されて、ゲイの生徒へのハラスメントなどを防ぐ活動などが行われている、とのことです。そのいっぽうで、思春期に自分がゲイやレズビアンであることに気づきながらも、家族や友達の理解を得られなかったり変態扱いされたりして、あるいはそうなるとの恐怖から、鬱病になったりアルコールや薬物依存症になったり、自殺などの自己破壊的な行動に走ったりする男女も多いのが現実です。
同性愛のことに限らず、性にまつわる話題について、親や子供ときちんと話をするのは、たいていの場合、どちらにとってもとても居心地の悪いものでしょう。私も親とそんな話をしたことはありません。でも、アメリカでも日本でも、今の世の中で子育てをするにおいて、性についてきちんとした会話をするのは、親としてもっとも大事なことのひとつなんじゃないかと思います。思春期の男女が性に好奇心をもつのは当たり前。そのことばっかり考えているような時期があっても当たり前。なんだかよくわからないけどいろいろ試してみるのも当たり前。それをちゃんと受け止めて、性や身体について健全な意識と態度をもつように、そして自分のことも性行為の相手のことも大事にしながら、いい性生活が送れる大人へと成長していくように、きちんと話をすることは、とっても重要だと思います。そして、そのなかで、世の中の人の何パーセントかは同性愛者だったりトランスジェンダーだったりトランスセクシュアルだったりするのであって、それは変なことでも間違ったことでもない、ということ、そして、自分がゲイだと気づいたり、周りにゲイの友達がいたりしたら、恐怖感や疎外感をもったりしないで、そのアイデンティティを明るく温かく受け止めるべき、ということを、きちんと伝えるべきです。そして、子供がゲイだろうがストレートだろうが、親である自分は子供を同じように愛してサポートしていく、ということを子供が親から感じれば、沢山の困難が待ち受けているそれからの人生にも、ある程度の安心感をもってのぞめるはずです。ゲイの若者たちにも頑張ってもらいたいけれど、ゲイの子供をもった親たちにも、ゲイの友達をもった若者たちにも、ゲイの人々が安心して幸せに行きて行ける環境を作るために頑張ってもらいたいです。頑張れー!
2009年9月22日火曜日
目指せ介護大国にっぽん
NHK(私が住んでいる家には、BSもなにも見られないとてーも古いアナログテレビがあるだけで、前の投稿でも書いたように民放は見事になにひとつとして見るものがないので、NHKばかり見ているのです)の「ホリデーにっぽん」で、「僕がそばにいますから・インドネシア人介護奮闘記」という番組を見ました。インドネシアからやってきて、佐賀の介護施設で働きながら、介護福祉士の資格を取ろうと勉強している若者の生活を追ったものです。番組の視点はとても温かく人間的であると同時に、日本の介護の現場の抱える問題にも冷静な目を向けた、とてもよくできた番組だと思いました。社会の高齢化とともに介護の需要がどんどん高まるなか、供給は間に合わず、看護士などの資格と経験をもった労働者をインドネシアなどの国から受け入れるという試みが日本ではなされるようになってきていますが、日本語で介護福祉士の試験に合格するというのはこうした多くの外国人にとっては至難の業で、結局はしばらく労働だけ提供して故郷に帰るというケースも多く出ています。そのいっぽうで、病んだ老人は家族で世話をするのが当たり前で介護施設など存在しない社会からやってきたこうした若者が、日本の施設で暮らす老人と一生懸命コミュニケーションを交わし、心身ともに安らぎを与えようとする、その姿には、深く心打たれるものがあります。
私も、自分の家族の事情もあって、介護の問題は本当にひとごとではなく、自分のことについても、高齢化が進むことは必至の日本の将来についても、最近とてもよく考えます。
高齢化・少子化の流れは、そう簡単には変わらないでしょうし、現代の人々の仕事や生活のありかたからして、在宅介護はしたくてもできない家族が増えるばかりでしょうから、介護施設への需要、そして介護をめぐる福祉全般への需要は、これからどんどん拡大していくはずです。もちろん、移民や外国人労働者を大量に受け入れるという歴史や文化をもっておらず、外国人と接したことがないという人も多い日本では、肌の色も言葉も文化も違う外国人に、下の世話を含むきわめてプライベートな身の回りの面倒をみてもらったり、精神的に頼ったりするようなことには、多くの人が強い抵抗を感じることでしょう。でも、そんなことを言っている場合じゃない、という現実も、多くの老人とその家族に迫ってきています。
そして、短期の遊びやビジネスでさえ海外に行くというのは相当のストレスを伴うことなのに、言葉も文化も違う遠い外国に長期間滞在して、縁もゆかりもない町で、身体も動かず認知症もある、元気に回復することのない老人の介護をしようなどという、奇特な天使のような人々が存在するのだったら、そうした人たちを積極的に受け入れるばかりでなく、手厚い報酬と教育と職業訓練の機会を提供して、その介護士にとっても経済的・職業的に有益な経験になるような環境を整えるべきだと強く思います。
介護や看護といった分野での国際的な人の移動は、今に始まったことではありません。たとえばフィリピンでは、米国植民地化の歴史を背景に、20世紀半ばから、フィリピンで教育を受けた看護婦が大量にアメリカに渡り、現在のアメリカの医療においてフィリピン人の看護婦は欠かせない存在となっています。こうした看護婦の多くは、自分の家族を故郷においたまま何年間も、ときには十年以上もアメリカで暮らし、仕送りを続けています。先進国の収入と生活を手に入れるいっぽうで、搾取や差別を経験する看護婦も多く、労働争議も少なくありません。こうした歴史を考えれば、外国から介護士を受け入れれば介護の問題が解決するなどと単純には決して考えられません。(ちなみに、アメリカに渡ったフィリピン人看護婦の歴史については、『Empire of Care』というとても優れた研究書があります。)
ただ、日本における介護への需要拡大、そして世界における経済的不均衡が少なくとも数十年間は続くという現実があるのですから、だったらいっそのこと、介護のニーズという状況を、「対処しなければいけない問題」としてでなく、より肯定的にとらえて、日本は「介護大国」を目指せばいいのではないかと思います。身体的にも精神的にも弱っていく人々が、尊厳と人間性をもって人生の最後を送ることができるような介護のありかたを徹底的に追求し、家族があたたかくそれを見守ることができるような福祉制度を整備する。それを国の最優先事項のひとつにして、政府も民間も介護の実践や研究に大量の投資をする。国内においても介護にかかわる人々を育てることに投資をする。希望者がいれば外国からも積極的に介護士を受け入れ、資格取得への援助を最大限にし、資格取得後も教育やトレーニングをふんだんに提供して、本人が帰国を希望すれば最前線の介護を故郷に持ち帰ることができるようにする。介護される側にとっても、する側にとっても、介護される人の家族にとっても、人間的で温かい社会だということで世界から注目されるような「介護大国」を目指すことは、国の考え方次第では不可能ではないと思いますが、どうでしょうか。
私も、自分の家族の事情もあって、介護の問題は本当にひとごとではなく、自分のことについても、高齢化が進むことは必至の日本の将来についても、最近とてもよく考えます。
高齢化・少子化の流れは、そう簡単には変わらないでしょうし、現代の人々の仕事や生活のありかたからして、在宅介護はしたくてもできない家族が増えるばかりでしょうから、介護施設への需要、そして介護をめぐる福祉全般への需要は、これからどんどん拡大していくはずです。もちろん、移民や外国人労働者を大量に受け入れるという歴史や文化をもっておらず、外国人と接したことがないという人も多い日本では、肌の色も言葉も文化も違う外国人に、下の世話を含むきわめてプライベートな身の回りの面倒をみてもらったり、精神的に頼ったりするようなことには、多くの人が強い抵抗を感じることでしょう。でも、そんなことを言っている場合じゃない、という現実も、多くの老人とその家族に迫ってきています。
そして、短期の遊びやビジネスでさえ海外に行くというのは相当のストレスを伴うことなのに、言葉も文化も違う遠い外国に長期間滞在して、縁もゆかりもない町で、身体も動かず認知症もある、元気に回復することのない老人の介護をしようなどという、奇特な天使のような人々が存在するのだったら、そうした人たちを積極的に受け入れるばかりでなく、手厚い報酬と教育と職業訓練の機会を提供して、その介護士にとっても経済的・職業的に有益な経験になるような環境を整えるべきだと強く思います。
介護や看護といった分野での国際的な人の移動は、今に始まったことではありません。たとえばフィリピンでは、米国植民地化の歴史を背景に、20世紀半ばから、フィリピンで教育を受けた看護婦が大量にアメリカに渡り、現在のアメリカの医療においてフィリピン人の看護婦は欠かせない存在となっています。こうした看護婦の多くは、自分の家族を故郷においたまま何年間も、ときには十年以上もアメリカで暮らし、仕送りを続けています。先進国の収入と生活を手に入れるいっぽうで、搾取や差別を経験する看護婦も多く、労働争議も少なくありません。こうした歴史を考えれば、外国から介護士を受け入れれば介護の問題が解決するなどと単純には決して考えられません。(ちなみに、アメリカに渡ったフィリピン人看護婦の歴史については、『Empire of Care』というとても優れた研究書があります。)
ただ、日本における介護への需要拡大、そして世界における経済的不均衡が少なくとも数十年間は続くという現実があるのですから、だったらいっそのこと、介護のニーズという状況を、「対処しなければいけない問題」としてでなく、より肯定的にとらえて、日本は「介護大国」を目指せばいいのではないかと思います。身体的にも精神的にも弱っていく人々が、尊厳と人間性をもって人生の最後を送ることができるような介護のありかたを徹底的に追求し、家族があたたかくそれを見守ることができるような福祉制度を整備する。それを国の最優先事項のひとつにして、政府も民間も介護の実践や研究に大量の投資をする。国内においても介護にかかわる人々を育てることに投資をする。希望者がいれば外国からも積極的に介護士を受け入れ、資格取得への援助を最大限にし、資格取得後も教育やトレーニングをふんだんに提供して、本人が帰国を希望すれば最前線の介護を故郷に持ち帰ることができるようにする。介護される側にとっても、する側にとっても、介護される人の家族にとっても、人間的で温かい社会だということで世界から注目されるような「介護大国」を目指すことは、国の考え方次第では不可能ではないと思いますが、どうでしょうか。
2009年9月20日日曜日
アメリカ男女の「幸せ」度
今日のニューヨーク・タイムズの記事のなかで読者がもっともたくさん友達などにメールしている記事が、辛口批評で有名なMaureen Dowdによる論説。1972年からアメリカ人の「気分」を追って来た調査によると、1970年代から、アメリカの女性の「幸せ」度は低下してきているのに対して、男性は「幸せ」度が増している、とのデータが出ているそうです。社会階層や子供の有無、民族などにかかわらず(唯一アフリカ系アメリカ人の女性だけは、1972年と比べると今のほうがやや「幸せ」であるものの、アフリカ系アメリカ人の男性と比べるとやはり「幸せ」度が低いそうです)、女性は年齢を重ねるにつれて幸せでなくなるそうです。この説明としては、フェミニズム運動の成果によって、女性は仕事においてより多くの選択肢を手に入れ、エネルギーを注ぎ込む対象も増えたいっぽうで、家事の負担は依然として男性よりも女性のほうが大きく、女性は家庭と仕事の両方においてスーパーウーマンであることを、自分にも周りにも期待される。生活を構成する要素が増えれば増えるほど、それぞれにかけられるエネルギーは減少し、本人の満足度も低下する。また、ホルモンの変化を含む女性の身体の現実もあるいっぽうで、アメリカ文化は若々しい身体美をますます強調するようになり、整形手術などの手段を使ってまで若さを保とうとする女性も増えている。もともと女性は男性にくらべて自分に厳しいことが多いので、期待と選択が増えれば増えるほど、それらを実現しきれない女性は不満度が高まる。それに比べて、男性は、経済的余裕に平行して幸せ度が高まり、また、女性が仕事をするようになって、男性は自分がひとりで家計を支えなければいけないというプレッシャーからも解放されてきている。恋愛においても男性はトシをとってもいろいろと可能性があるのに対して、中高年の女性に世間は厳しい。
「幸せ」かどうかよりも、選択肢があるかどうかのほうが、人間にとっては大事で、仮にそれらの選択肢が結果的に女性を不幸にするとしても、選択肢がないよりは幸せだ、という見方もありますが、とても暗い気分にさせられるデータです。
このデータは、アメリカに限らず、世界のいろいろな国で似たような現象が見られるらしいのですが、私のまったく非科学的な、まったくの個人的な印象によると、これは日本にはあてはまらないように思うのですが、どうでしょうか。世代による差異もあるでしょうが、中高年の日本人を見ていると、男性のほうが女性よりずっと幸せ、という風には見えませんが、どう思いますか?もちろん、「幸せ」観というのはそれぞれの文化に特有のもので、そもそも日本では「幸せである」ということにアメリカほどこだわらないような気もします。
「幸せ」かどうかよりも、選択肢があるかどうかのほうが、人間にとっては大事で、仮にそれらの選択肢が結果的に女性を不幸にするとしても、選択肢がないよりは幸せだ、という見方もありますが、とても暗い気分にさせられるデータです。
このデータは、アメリカに限らず、世界のいろいろな国で似たような現象が見られるらしいのですが、私のまったく非科学的な、まったくの個人的な印象によると、これは日本にはあてはまらないように思うのですが、どうでしょうか。世代による差異もあるでしょうが、中高年の日本人を見ていると、男性のほうが女性よりずっと幸せ、という風には見えませんが、どう思いますか?もちろん、「幸せ」観というのはそれぞれの文化に特有のもので、そもそも日本では「幸せである」ということにアメリカほどこだわらないような気もします。
2009年9月17日木曜日
アラン・ギルバート、NYフィル音楽監督デビュー
指揮者のアラン・ギルバート氏が、ローリン・マゼール氏の後任としてニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団の音楽監督としてのポジションに就き、2009−2010年のコンサート・シーズンの幕開けとともにデビューしました。新曲を含む意欲的な演目のコンサートの評がニューヨーク・タイムズに載っています。アラン・ギルバート氏は、現在42歳。両親ともにニューヨーク交響楽団のヴァイオリニストで(父親は既に引退)、母親はアメリカで活躍する日本人音楽家のパイオニアの一人である建部洋子さんです。私は直接インタビューはしなかったのでちらっと言及しているだけですが、『Musicians from a Different Shore』にも出てきます。ニューヨーク・フィルは、アメリカでもっとも歴史と伝統のある交響楽団であり、バーンスタイン監督のもとでは華麗な演奏や『ヤング・ピープルズ・コンサート』などさまざまな画期的な企画を通じてアメリカのクラシック音楽界をリードしたものの、近年では伝統にとらわれすぎて演奏やプログラミングに面白味が欠けるなどとといった批判もありました。また、これまで常任指揮者・音楽監督のポジションに就いてきたのはほとんどがヨーロッパ出身の音楽家でした。そういったなかで、ギルバート氏のような、アメリカ生まれの若手の指揮者がニューヨーク・フィルの音楽監督のポジションにつき、現代曲を含む新しい時代の音楽を創造していくということには、なかなか画期的な意味があると思います。ニューヨーク・フィルは、昨年の北朝鮮での公演に続いて、今秋はキューバで初公演をすることになっています。最近のアメリカのクラシック音楽界では、ロスアンジェルス・フィルハーモニー(これについては『現代アメリカのキーワード 』になかなかいいエントリーがありますので参照してください)がエサ=ペッカ・サロネン氏の後任としてベネズエラ出身のなんと1981年生まれのグスターヴォ・デュダメル氏を音楽監督に任命したことがたいへん話題になりました。ロスアンジェルス・フィルは、いろいろな意味でとても斬新なことをやっていて、おもに映画などのポップ・カルチャーの中心地として考えられているロスの芸術活動に新しいエネルギーを注いでいるのですが、ニューヨーク・フィルやロスアンジェルス・フィルが音楽監督の座をこれらの若者に委ねるというあたりに、アメリカという社会の前向きな姿勢とエネルギーを感じさせられます。
2009年9月16日水曜日
鳩山政権発足
いよいよ鳩山政権がスタートしました。これから日本の政治がどのように変わっていくのか、実際に日本で観察できるのはとても幸運なことだと思っています。それにしても、この鳩山内閣、いくらなんだって女性が少ないと思いませんか?象徴的な目的のためにとにかく女性を大臣に登用すればいいなどとはもちろん言いません。サラ・ペイリン氏のような女性がリーダーのポストに就くくらいだったら、知識と頭脳と経験をもった男性が就いたほうが、女性にとってもずっといいのは当然です。それでも、いくら女性差別への取り組みや成果が不十分だと国連の委員会に批判された日本だって、さまざまな分野で長年のキャリアを積んだ、有能で見識のある女性がたくさん存在します。私が直接関わることのある、ごく限られた分野でも、「あー、こういう立派な女性が日本にいるんだなあ」と頼もしい気持ちにさせてくれる女性に出会うことが多いのですから、日本全体には、そうした女性が大勢活躍しているはずです。せっかくいろいろな経歴の女性が民主党の新議員として登場したことだし、新しい時代の政治を唱える政権だったら、そうした女性がせめてもう数人、入閣してもいいだろうに、と思います。そして、そうしたことについて、女性団体を初め、国民がもっと声をあげて、指導者たちにプレッシャーをかけていくことが必要だと思います。
ついでに言うと、福田衣里子さんが「『先生』ではなく『福田さん』『えりちゃん』と呼ばれる国民と距離の近い政治家でいたい」と言ったそうです。政治家が「先生」と呼ばれることはおかしいと思うので、「福田さん」はいいですが、「えりちゃん」はちょっと。。。私は彼女のような人が議員となったのはいいことだと思っていますが、国民の声を代弁し、国民をリードするプロの政治家として選ばれたのだから、「えりちゃん」と呼ばれることを目指すようなことはやめて、もっと高い次元で仕事をしてくれることを期待します。だいたい、日本は女性が「かわいい」ことをきわめて高く評価する文化ですが、10代の女の子やポップ・アイドルならともかく、社会に出る大人の女性が、意識的にせよ無意識的にせよ、そうした「かわいい」という女性の理想に沿おうとするのは、正直言って馬鹿馬鹿しいと思います。もちろん、日常的な人間関係においては、男性にも女性にも「かわいい」と思われるほうが「憎たらしい」と思われるよりもいろんな意味で便利だし、目的達成にも効率的なのは間違いないでしょうが、「かわいい」女性像に社会全体がとらわれていることは、男性と対等の尊厳ある存在として女性が扱われることの足かせとなっているとも思います。まあ、男性政治家も「純ちゃん」とか「ユッキー」とかいう呼称を嬉しそうに使っているくらいですから、「えりちゃん」的な存在になることを目指しているのは、女性の政治家だけではないのはわかっていますが、政治家というのは国民に親近感を感じさせればよいというものではないでしょう。そんなことより、国民の尊敬と信頼を集めてインスピレーションを与えるような政治家が、増えていってほしいものだと思います。
ついでに言うと、福田衣里子さんが「『先生』ではなく『福田さん』『えりちゃん』と呼ばれる国民と距離の近い政治家でいたい」と言ったそうです。政治家が「先生」と呼ばれることはおかしいと思うので、「福田さん」はいいですが、「えりちゃん」はちょっと。。。私は彼女のような人が議員となったのはいいことだと思っていますが、国民の声を代弁し、国民をリードするプロの政治家として選ばれたのだから、「えりちゃん」と呼ばれることを目指すようなことはやめて、もっと高い次元で仕事をしてくれることを期待します。だいたい、日本は女性が「かわいい」ことをきわめて高く評価する文化ですが、10代の女の子やポップ・アイドルならともかく、社会に出る大人の女性が、意識的にせよ無意識的にせよ、そうした「かわいい」という女性の理想に沿おうとするのは、正直言って馬鹿馬鹿しいと思います。もちろん、日常的な人間関係においては、男性にも女性にも「かわいい」と思われるほうが「憎たらしい」と思われるよりもいろんな意味で便利だし、目的達成にも効率的なのは間違いないでしょうが、「かわいい」女性像に社会全体がとらわれていることは、男性と対等の尊厳ある存在として女性が扱われることの足かせとなっているとも思います。まあ、男性政治家も「純ちゃん」とか「ユッキー」とかいう呼称を嬉しそうに使っているくらいですから、「えりちゃん」的な存在になることを目指しているのは、女性の政治家だけではないのはわかっていますが、政治家というのは国民に親近感を感じさせればよいというものではないでしょう。そんなことより、国民の尊敬と信頼を集めてインスピレーションを与えるような政治家が、増えていってほしいものだと思います。
2009年9月13日日曜日
フレデリック・ワイズマン映画特集
アメリカのドキュメンタリー映画監督フレデリック・ワイズマンの作品18本が一気に上映されるという企画が、渋谷ユーロスペースで今週末始まりました。ワイズマンは、弁護士・大学教授を経由して映画監督になった人物で、1960年代から、学校、病院、軍隊、教会、議会などの組織に焦点をあてたドキュメンタリー作品を多数製作し、アメリカ社会の様相にえぐり込んでいます。芸術にも造詣が深く、とくにバレエが好きで、パリのオペラ座を描いた最新作が今秋公開になりますが、今回の特集はそれを記念しての企画です。私が見たことがあるのは、「高校」と「ドメスティック・ヴァイオレンス」と「州議会」ですが、ナレーションや音楽・効果音などのない、実に淡々とした作りでありながら、いやむしろそうだからこそ、とても深くものを考えさせられます。わかりやすいメッセージや安易な結論がなく、いろいろな角度からものごとの複雑をとらえ、見ている者が自分で考えることを強いる作品(しかも、近年の作品はどんどん長さが長くなっていて、ヘビーな題材に延々3時間近くも向き合わされる)ばかりなので、見ていて「楽しい」とは言えませんが、とても勉強にはなります。去年ワイズマン氏がしばらくハワイ大学を訪れ、私も一緒に食事をしたのですが、とくに夫人が私の研究に興味を示してくれ、「是非とも本を読みたい」と言ってくださって本をホテルに届けたということもあって、私はひいきにしています。彼の作品を見たことがない人は、是非どうぞ。
2009年9月10日木曜日
ものの申しかたにもの申す
「日本はここがおかしい」といった乱暴なものの見方や言い方はしないように心がけているのですが、今回は単刀直入に、文句です。
ひとつは、日本語の論文や研究ノートなどの文章や、一部の書物でかなりよく見かける、「紙面が限られているので、ごく一部の議論しかできないことをお断りしておく」とか、「字数が足りないので、拙論の一部だけしかご紹介できないことをお許しいただきたい」とか、「〜については別稿にゆずりたい」とか、そういった表現。言い訳臭いだけでなく、なんだか嫌らしい表現だと私には思えます。論文や研究ノートなら、初めから指定されている長さはわかっているのだから、そのなかにきちんと収まるように、データやポイントを抽出して、議論を整理して、文章をまとめるのが著者の仕事というものです。新聞や雑誌記事などでは、書きたいことの数十分の一、数百分の一の紙面しかもらえませんが、その字数である問題について原稿を書くことを承諾した以上、適切に焦点を絞って、その字数のなかで筋の通った論を展開するのが執筆者の責任というものです。その長さでどうしても書ききれない大きな議論なのだとしたら、その論を発表するのにはその媒体は不適切な場なのであって、別の媒体を使うべきです。だいたい、そんな言い訳だか謝罪だかわからないことを書くくらいだったら、そのぶんの字数を実際の内容に使えばいいのであって、読者のほうはデータなり論なりを読みたいと思って頁に向かっているのに、そんな訳のわからない挨拶を読まされてはうんざりしてしまいます。それに、「お許しいただきたい」とかいう表現って、丁寧なようでいて、実際は乱暴ではないでしょうか。相手には許さないという選択を与えていないわけで、そんな一方的なことを言うくらいだったら、そんな断りなしに、さっさと自分の論題に入って堂々と言いたいことを言えばいいのに。こういった「お断り」でなくても、文章や章の初めの部分で「ここでは〜について〜の視点から論じたい」とかいった表現をよく見ますが、これにもとても違和感を感じます。「論じる」と言って内容を紹介するんだったらともかく、「論じたい」って言われたって困ってしまう。論じたいんだったらさっさと論じればいいのに。
もうひとつは、口頭でのプレゼンテーションを中心にしたイベント(研究発表とか、トークとか、ワークショップとか、なにかの説明会とか)で、あまりにも聴衆とのコミュニケーションを無視した一方通行なものが多いこと。聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノートあるいはパワーポイントの画面かなにかを見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さない(ように見える)まま、時間いっぱい一人で(トークや対談の場合は出演者同士だけで)とうとうと(というか、だらだらと)話し続ける。話の途中ではもちろん、終わった後で質問やコメントを受けつけるような設定になっていないので、それでも質問をする人はよほど勇気のある人ということになる。私が今回日本に来てから二ヶ月足らずのあいだに、こうした種類のイベントにもうたくさん遭遇しました。いくらなんでもこれはひどいんじゃないかと思います。話すほうだって、せっかく準備をして話すんだったら、聞いている人にちゃんとわかってもらいたいし、どういう反応をしているか知りたいのじゃないでしょうか。いくら日本人がおおむねおとなしいと言ったって、わざわざそういうイベントに来るような人は、その話に興味がある人なのだから、質問や感想はいろいろあるでしょうし、機会が与えられれば話をしたいと思う人は多いでしょう。そうしたコミュニケーションは、ごく当たり前のちょっとした工夫(話の最中にこちらから聴衆に質問をするとか)でずいぶんと促進されるのですから、そうしたことをもうちょっと考えるべきでしょう。でも、考えてみたら、私が昔受けた大学の講義なども、ほとんどはこの、「聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノート(パワーポイントなどというものはまだ存在しない時代でした)を見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さないまま、時間いっぱい一人でとうとうと話し続ける」形式だったような気がします。企業で営業をする人は、「プレゼンのしかた」のような訓練を受けるのでしょうが、そういう種類のごく基本的なことを、人前で少しでも話をする人は心がけたらいいと思います。
本日の文句はこれにて終了。
ひとつは、日本語の論文や研究ノートなどの文章や、一部の書物でかなりよく見かける、「紙面が限られているので、ごく一部の議論しかできないことをお断りしておく」とか、「字数が足りないので、拙論の一部だけしかご紹介できないことをお許しいただきたい」とか、「〜については別稿にゆずりたい」とか、そういった表現。言い訳臭いだけでなく、なんだか嫌らしい表現だと私には思えます。論文や研究ノートなら、初めから指定されている長さはわかっているのだから、そのなかにきちんと収まるように、データやポイントを抽出して、議論を整理して、文章をまとめるのが著者の仕事というものです。新聞や雑誌記事などでは、書きたいことの数十分の一、数百分の一の紙面しかもらえませんが、その字数である問題について原稿を書くことを承諾した以上、適切に焦点を絞って、その字数のなかで筋の通った論を展開するのが執筆者の責任というものです。その長さでどうしても書ききれない大きな議論なのだとしたら、その論を発表するのにはその媒体は不適切な場なのであって、別の媒体を使うべきです。だいたい、そんな言い訳だか謝罪だかわからないことを書くくらいだったら、そのぶんの字数を実際の内容に使えばいいのであって、読者のほうはデータなり論なりを読みたいと思って頁に向かっているのに、そんな訳のわからない挨拶を読まされてはうんざりしてしまいます。それに、「お許しいただきたい」とかいう表現って、丁寧なようでいて、実際は乱暴ではないでしょうか。相手には許さないという選択を与えていないわけで、そんな一方的なことを言うくらいだったら、そんな断りなしに、さっさと自分の論題に入って堂々と言いたいことを言えばいいのに。こういった「お断り」でなくても、文章や章の初めの部分で「ここでは〜について〜の視点から論じたい」とかいった表現をよく見ますが、これにもとても違和感を感じます。「論じる」と言って内容を紹介するんだったらともかく、「論じたい」って言われたって困ってしまう。論じたいんだったらさっさと論じればいいのに。
もうひとつは、口頭でのプレゼンテーションを中心にしたイベント(研究発表とか、トークとか、ワークショップとか、なにかの説明会とか)で、あまりにも聴衆とのコミュニケーションを無視した一方通行なものが多いこと。聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノートあるいはパワーポイントの画面かなにかを見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さない(ように見える)まま、時間いっぱい一人で(トークや対談の場合は出演者同士だけで)とうとうと(というか、だらだらと)話し続ける。話の途中ではもちろん、終わった後で質問やコメントを受けつけるような設定になっていないので、それでも質問をする人はよほど勇気のある人ということになる。私が今回日本に来てから二ヶ月足らずのあいだに、こうした種類のイベントにもうたくさん遭遇しました。いくらなんでもこれはひどいんじゃないかと思います。話すほうだって、せっかく準備をして話すんだったら、聞いている人にちゃんとわかってもらいたいし、どういう反応をしているか知りたいのじゃないでしょうか。いくら日本人がおおむねおとなしいと言ったって、わざわざそういうイベントに来るような人は、その話に興味がある人なのだから、質問や感想はいろいろあるでしょうし、機会が与えられれば話をしたいと思う人は多いでしょう。そうしたコミュニケーションは、ごく当たり前のちょっとした工夫(話の最中にこちらから聴衆に質問をするとか)でずいぶんと促進されるのですから、そうしたことをもうちょっと考えるべきでしょう。でも、考えてみたら、私が昔受けた大学の講義なども、ほとんどはこの、「聴衆と一度も目を合わせることなく、ひたすらノート(パワーポイントなどというものはまだ存在しない時代でした)を見ながら、聞いているほうがどれだけ理解しているか、理解しているとすればなにを考えたり思ったりしているのか、といったことにまったく興味を示さないまま、時間いっぱい一人でとうとうと話し続ける」形式だったような気がします。企業で営業をする人は、「プレゼンのしかた」のような訓練を受けるのでしょうが、そういう種類のごく基本的なことを、人前で少しでも話をする人は心がけたらいいと思います。
本日の文句はこれにて終了。
2009年9月7日月曜日
オバマ大統領の新学期スピーチ
アメリカでは新しい年度が始まっています。長い夏休みが終わって、再び学校生活に戻るときの、興奮と憂鬱の混ざった気分は独特のものがありますが、アメリカの高校生活では学年ごとに経験することがかなり違ったりするので(高校3年生はpromというダンスパーティがあるし)、そうした気分がますます強まるとも言えます。
オバマ大統領がヴァージニアの公立高校の始業式でしたスピーチの全文がこちらにあります。高校生を相手にしたスピーチなので言葉はきわめてシンプルで明快(なので、高校まで英語を勉強した日本人ならじゅうぶん理解できますので、ふだんこのブログで私が紹介するニューヨーク・タイムズの記事などを面倒で読まない人も、ぜひ読んでみてください:))でありながら、内容が濃く、生徒自身に責任ある行動とたゆまぬ努力を促す、厳しくかつやる気を与える演説です。とくに、
But at the end of the day, we can have the most dedicated teachers, the most supportive parents, and the best schools in the world – and none of it will matter unless all of you fulfill your responsibilities. Unless you show up to those schools; pay attention to those teachers; listen to your parents, grandparents and other adults; and put in the hard work it takes to succeed.
とか、
But at the end of the day, the circumstances of your life – what you look like, where you come from, how much money you have, what you’ve got going on at home – that’s no excuse for neglecting your homework or having a bad attitude. That’s no excuse for talking back to your teacher, or cutting class, or dropping out of school. That’s no excuse for not trying.
Where you are right now doesn’t have to determine where you’ll end up. No one’s written your destiny for you. Here in America, you write your own destiny. You make your own future. That’s what young people like you are doing every day, all across America.
とかいったメッセージは、恵まれた環境で育った保守派の政治家の口から出れば、歴史や社会構造が生み出した不均衡を無視してすべてを個人の自助努力に委ねる見方になりがちなのが、オバマ氏のような背景をもった人物が言うからこそ、説得力があるものです。そして、教師としては、「ペーパーというものは提出する前に何度か書き直すものだ」という具体的なメッセージがありがたい!
民主党新政権が、子育て支援や高校教育無償化などを通じて教育機会の均等化・拡大を目指しているのは結構なことですが、現代の教育はどういう人間の育成を目指してどういう形であるべきかという、本質的で具体的な議論が、政治家や官僚や教育者だけでなく、社会全体で、これから真剣になされることを強く願っています。
オバマ大統領がヴァージニアの公立高校の始業式でしたスピーチの全文がこちらにあります。高校生を相手にしたスピーチなので言葉はきわめてシンプルで明快(なので、高校まで英語を勉強した日本人ならじゅうぶん理解できますので、ふだんこのブログで私が紹介するニューヨーク・タイムズの記事などを面倒で読まない人も、ぜひ読んでみてください:))でありながら、内容が濃く、生徒自身に責任ある行動とたゆまぬ努力を促す、厳しくかつやる気を与える演説です。とくに、
But at the end of the day, we can have the most dedicated teachers, the most supportive parents, and the best schools in the world – and none of it will matter unless all of you fulfill your responsibilities. Unless you show up to those schools; pay attention to those teachers; listen to your parents, grandparents and other adults; and put in the hard work it takes to succeed.
とか、
But at the end of the day, the circumstances of your life – what you look like, where you come from, how much money you have, what you’ve got going on at home – that’s no excuse for neglecting your homework or having a bad attitude. That’s no excuse for talking back to your teacher, or cutting class, or dropping out of school. That’s no excuse for not trying.
Where you are right now doesn’t have to determine where you’ll end up. No one’s written your destiny for you. Here in America, you write your own destiny. You make your own future. That’s what young people like you are doing every day, all across America.
とかいったメッセージは、恵まれた環境で育った保守派の政治家の口から出れば、歴史や社会構造が生み出した不均衡を無視してすべてを個人の自助努力に委ねる見方になりがちなのが、オバマ氏のような背景をもった人物が言うからこそ、説得力があるものです。そして、教師としては、「ペーパーというものは提出する前に何度か書き直すものだ」という具体的なメッセージがありがたい!
民主党新政権が、子育て支援や高校教育無償化などを通じて教育機会の均等化・拡大を目指しているのは結構なことですが、現代の教育はどういう人間の育成を目指してどういう形であるべきかという、本質的で具体的な議論が、政治家や官僚や教育者だけでなく、社会全体で、これから真剣になされることを強く願っています。
2009年9月2日水曜日
たかがFacebook、されどFacebook
ここ一週間で町田のさらに奥に引っ越しをしたので、しばらくブログを留守にしました。桜美林大学が管理している住宅で、前の住人の残した家具や日用品などが一通り揃っているところなので、自分で買いそろえなければいけないものは比較的少ないのですが、それでもやはり、新しい場所での生活を整えるというのは、けっこう手間のかかるものです。家のことをしながら、研究・音楽・出版・社会運動・ビジネスなど、いろいろな分野のかたと新しく知り合える機会に恵まれて、なかなか刺激的な日々を送っています。また、現代日本の歴史に残る政権交代を目撃することができて(日本に来てから選挙までの時間が短すぎて投票はできませんでした)、とても幸運です。これから先、日本が革新の方向に進んでいくか、それともネオリベラリズムに走っていくか、選挙結果だけで満足しないで国民がしっかりとモニターしていかなければいけないと思います。
まるで関係ありませんが、今週のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、Facebook Exodus、つまりFacebookからの大挙逃避、という記事が載っています。爆発的な勢いで普及したソーシャル・ネットワーキング・サイトのFacebookには、私も病にとりつかれたようにハマっているのですが、広告を出す企業との結びつきや、Facebookがもたらす人間関係のややこしさが面倒になって、きれいさっぱりFacebookをやめてしまうという人が少なくないのだそうです。このブログで既に何度か言及したFacebookについて、どこかに載せてもらおうかしらんと思って記事の長さの文章も書いたのですが、今のところ残念ながら掲載してくれるという媒体が見つかっていません。せっかく書いたものが自分のパソコンのなかにだけ入っているのはもったいないので、ここに載せておきます。この記事を読んで、Facebookを通じて私に「お友達リクエスト」をして、私が無視しても、気を悪くなさらないでください。
一日の計はFacebookにあり
ここ何年も、私は朝起きてトイレに行きシャワーを浴びた後、コーヒーを入れながらまずするのは、パソコンに向かってメールをチェックすることである。一晩のあいだに届いているメールの数は、日によって数件のこともあれば三十を超えることもあるが、一通り目を通して、すぐに対応すべきものを処理しているだけでも、じゅうぶんにコーヒーを一、二杯飲み干すだけの時間はたつ。
一日がメールで始まるというだけでも、すでにかなりのビョーキであるような気がするのだが、ここ一年ほど私の生活をさらに侵食しているのが、Facebookだ。メールに目を通し終わった後、次に私がするのが、Facebookをチェックすることである。現時点で私には156人のFacebook上の「友達」がいるのだが、世界のいろいろな時間帯に散らばっているそれらの「友達」のうち、少なくとも十人は、私が寝ているあいだに「近況アップデート」をしている。せっせと勉強に勤しんでいるべき私の指導学生が、ちゃんと勉強して本の感想を載せているか、それともパーティではしゃいでいる写真を載せているか。オバマ政権の医療改革について、私の友達はどんなソースから情報を得て、どんなコメントをしているか。ヨーロッパに旅行中の友達は、今どこにいるか。著者に原稿を書かせているあいだに自分は楽しそうに家族で東南アジアに旅行なんかに行っているけしからん新潮社の編集者は、昨日はラオスでなにを食べたか。そんなことが、これらの「近況アップデート」にざっと目を通すと、だいたい把握できてしまう。そして、ときには彼らが載せている写真やビデオやリンクを見て、またときには彼らの性格テストの回答などをフムフムと言いながら読んでいると、またそれだけであっと言う間に数十分がたってしまう。
単なるヒマつぶしと言えばもちろん言えるFacebook。しかし、最近では、私の友達のなかでも、Facebookの熱烈なファンと、頑固にFacebookに登録することを拒否し続ける人たちのあいだで、喧々諤々の議論がなされたりする。Facebookが現代の人間関係にどのような影響を及ぼしているかを学術的に研究する社会学者もいる。ほとんど依存症と言えるほどFacebookを頻繁にチェックする私は、Facebookという媒体には、かなり重要な社会的・文化的な意味があると思う。Facebook中毒者が、Facebookの使用を正当化するためにもっともらしい理屈を並べているだけと言えなくもないかもしれないが、ひとまずFacebookとはどんなものかを紹介してみよう。
Facebookとは
Facebookとは、2004年にハーヴァード大学の学部生四人が寮の部屋を拠点に開発して以来、爆発的に普及したインターネット上の無料ソーシャル・ネットワーキング・サイト(SNS)である。もとはハーヴァードの学生たちの交流を目的にデザインされたものだったのが、他大学に輪を広げ、そしてあっと言う間に年齢や職業、地域を超えて広がり、2009年8月時点では、世界で2億5千万人のユーザーがユーザー登録をしている。そのうち1億2千万人のユーザーは最低でも一日一度はログインし、3千万人のユーザーは最低でも一日一度は近況をアップデートしている。現在、日本語を含む50言語で利用可能で、利用者のうち7割以上は米国以外に在住している。いかにもデジタル世代の若者の文化という印象を与える媒体であるが、もっとも急速に利用者が増えているのは35歳以上の層である。
使い方は人によっていろいろだが、たいていのユーザーにとってのFacebookの主な用途は、友達や家族・親戚などと簡単に近況報告を交わしたり、写真や動画などをシェアすること、仕事や趣味などのためのネットワーキング、などといったことである。
また、「サーチ」機能を使って、何年も、ときには何十年も音沙汰のなくなっていた旧友やクラスメート、昔の知人などを探し出して連絡を復活する、といったことも頻繁になされる。また、就職に応募してきた人物や、「デート」を始めた相手について探りを入れるために、その人物をFacebook上で探し出して、その人がどんな人たちと「友達」でどんなことをFacebook上に載せているかなどをチェックする、といったこともよくなされる。
ユーザーは、自分がFacebookに載せる情報のうちどの部分をどれだけの人に公開するかを設定できるので、個人情報や「友達」リスト、近況アップデートなどを、「友達」以外に見られたくなければ、「サーチ」で出てくるのは名前や居住地などに限ることができる。ただし、Facebookに特徴的なのは、日本で流通しているミクシーなどのサイトと違って、ほとんどの人は本名を使ってユーザー登録しており、顔写真を載せている人の割合もとても高い、ということだ。だからこそ人探しが可能であり、ソーシャル・ネットワーキングとしての機能を果たすようになっているのだ。つまり、匿名性をたのみにして自由な発言をしたりインターネット上ならではの人間関係を築くための場というよりは、ユーザーの現実の人間関係や社交生活を広めたり深めたりして促進するための道具、としての機能が高い。
また、Facebookは、企業や団体、個人によって、イベントや商品などの宣伝や、社会運動などの活動のためのキャンペーン道具としても使われる。2008年の大統領選挙で、とくにオバマ陣営がFacebookをはじめとするインターネット媒体を効果的に利用してとくに若い支持者の輪を広げていったことはよく知られている。パレスチナ占領やイラン政権に抗議する世界中の人々がFacebook上で組織されたりするし、地域コミュニティでの政治集会やデモのための人集めにもFacebookは使われる。
Facebookがなくす物理的距離の壁
人間関係のためのツールとしてのFacebookの一番のメリットは、「友達」との情報の交換が簡単である、ということだ。お互いの日常生活が重なっている親しい相手とであれば、わざわざFacebookを使わなくても会って話をしたり電話やメールを交換したりするだろうが、話をしたいと思っていながらもしばらく連絡をとっていない友達や、わざわざメールや電話をするほど親しくはないもののお互いがどうしているかくらいは知っていたい相手というのはいるもので、そうした人たちに一斉に自分の近況を知らせるにはとても便利である。家族の写真を載せたりすると、しばらく会っていない知人に子供の成長を知らせたりもできるし、旅行中に写真やビデオを載せる人も多い。
とくに、日頃顔を合わせることのない、遠隔地に住んでいる相手が、どんな生活を送ってどんなことを考えているのか、といったことをフォローできるのは、便利でもあるし、なかなか興味深くもある。時差があるところに住んでいる相手とは、電話をするのも難しかったりするが、Facebookは、自分が好きなときにログインして、「友達」が載せたものを見て、それに「コメント」するなりプライベートな「メッセージ」を送るなり、「なるほど」と思って見るだけにするなり、あるいは同時にログインしている友達と「チャット」機能を使っておしゃべりするなり、自分の都合と意思によって決めればよいので、距離と時間の制約から解放されてコミュニケーションができる。
私はハワイの自宅の仕事机でパソコンに向かい、山手線に乗っている新潮社の編集者(前述のラオスでおいしそうな食事をしていたのと同一人物)とFacebookのチャット上で日米のデジタル文化の違いについておしゃべりをしたこともある。もちろん、本当にそうした話をしたいと思ったら、きちんとメールを交換すればいいのだが、そうするといかにも改まった仕事の話という感じになってしまうところが、お互いたまたまFacebookにログインしているというときに(つまり、お互い切迫した用事に迫られていないときに)ちょっとおしゃべりする、という気軽さがよいのである。
現在私は普段の生活の拠点であるハワイを離れて日本に長期滞在中なのだが、Facebookでアメリカの友達に自分の生活ぶりを知らせ、また友達がなにをしているかをフォローすることで、自分が遠くにいるという感覚はかなり減少する。日本で地震があったというニュースが入れば、数時間後にはアメリカの複数の友達が、「大丈夫だった?」とメッセージを送ってくる。「アップデート」に「地震はびっくりしたけど、なにも落ちてくるようなところには寝ていないので大丈夫です」と一言書いておけば、156人の友達全員に無事を知らせることができる。日本の街並や居酒屋の食事、友達との団欒の様子などの写真を載せれば、私の日本での生活をアメリカの友達に伝えることができる。また、学生が論文の一章を書き上げたという知らせや、夏休みが終わって新学期が始まろうとするときの同僚たちの興奮と憂鬱の混ざった感情、反抗期の息子の言動についての友人の愚痴を「近況アップデート」で読んだり、友達の子供がよちよち歩きを始めるようになった様子をビデオで見たりすることで、私は日本にいながらにして別の場所での人間関係を同時進行的に経験することができる。
このように、世界のいろいろな時間帯、気候、文化のなかで暮らしている友達の動向を画面上でいっときに見られるということは、我々の物理的な距離についての意識にかなり深い意味合いをもっているのではないだろうか。通信における空間的・時間的な壁が取り払われるといういっぽうで、自分が今ここで暮らしている状況とはずいぶん違う環境で暮らしている人がたくさんいるものだ、ということも実感させられる。なにしろ、自分がミーミーと蝉の鳴く夏の東京の朝、眠気まなこでパジャマのままパソコンに向かっているときに、ハワイの友達が「ハリケーンがそれてよかった」、中国への旅行を終えてテキサスに滞在中の友達が「中国も暑かったけど、テキサスは熱い」、とか書いているのを読んでいると、そして、ブータンにフィールドワークに行っている学生やモンゴルから帰ってきた学生がアップロードした写真を見ていると、世界は小さいような大きいような、実に不思議な気持ちになるのである。
人間関係の均質化
Facebookがもたらす距離感の変化は、物理的な空間や時間に限られたものではない。この新しいコミュニケーション手段によって、人間関係をめぐる距離感にも、かなりの変化がもたらされている。
そのひとつは、Facebook上の「友達」の均一化である。Facebookでは、いったんユーザーが別のユーザーを「友達」として許可すれば、その「友達」のあいだに区別はつけたくてもつけられない。つまり、兄弟だろうが同僚だろうが上司だろうが幼なじみだろうがクラスメートだろうがお隣さんだろうが昔の恋人だろうが今の夫だろうが、皆同じ「友達」の輪に入り、それらの「友達」全員が、自分がFacebookに載せるアップデートや写真やリンクなどを見ることになる。
これはなかなか複雑な状況である。日常生活では、誰でも多かれ少なかれ、相手によって違う自分を演じるものである。ボスと接するときと息子と接するときの自分が違うのは当たり前だし、女友達とおしゃべりする内容と仕事のクライアントと会っているときの会話も違って当然だ。ところがFacebookではコミュニケーションにそうした差別化をすることができない。近況アップデートが「夏はやっぱりビアガーデン」だろうが、「イイ男を見つけるのはどうしてこう難しいんだろう」だろうが、「授業がつまらなくて耐えられない」だろうが、そのメッセージは「友達」すべてに送られる。
これを人間関係の民主化・カジュアル化として肯定的にとらえることもできる。相手によって言葉や内容を選んだり、かしこまったりせず、すべての「友達」相手に同一のメッセージを送り、同一の自分を見せる。それは確かに、ある意味では画期的なことである。ひとつの自分を「友達」みんなに公開することで、それぞれの相手とのつきあいがオープンなものにもなるし、それまで存在しなかった関係が築かれることにもなる。
私は、特別親しかったわけでもない知人、Facebookがなかったらおそらく「ちょっとした知り合い」で終わっていたであろう人について、Facebookを通じていろいろなことを知ることがある。その人がどんな本を読んでいるとか(「アップデート」で本についてコメントする場合もあるし、「自分が人生でもっとも影響を受けた本15冊」といったリストをアップロードする場合もある。「友達」にそうしたリストを送られたら、自分も同じリストを作ってアップロードする、チェインメールのようなFacebook上の慣習がある)、どんな時事問題に関心をもっているとか、どんな音楽が好きだとか、そんなふうに週末を過ごしているとか、そんなことを垣間みているうちに、相手にとても好意をもつようになって、Facebookの外でもより頻繁に連絡をとりあうようになり、仲良くなった相手が何人もいるのだ。また、普段は指導生として勉強の話をする相手が、大学の外ではどんな暮らしをしているのか、遊ぶときにはどんなことをして遊んでいるのか、家族はどんな人たちなのか、といったことを覗けるのも興味深い。また、何年も、ときには何十年も会っていなかった昔の友達や、昔の「デート」の相手が、今はどんな人間になっているのか、仕事はなにをしているのか、家庭は持っているのか、禿げているか太っているかあるいはものすごくイイ男になっているか、といったことを知って安心したり幻滅したりするのも、なかなか面白い。
Facebookのおかげで、親しい友達についても、知らなかったことをいろいろ知るようになった。大人になってからできた友達というのは、よほど多くの時間を共有しなければ、お互いがそれまで生きてきた人生のあらゆる段階や側面についてそう突っ込んで知るのは難しい。アメリカで暮らしていると、友達の多くは、いろいろな国で、まるで違う環境で育ち、今の職業や生活にいたるまでに実にさまざまなことをしてきているが、それまでには聞いたことがなかったような話や事実が、Facebookのちょっとした「ノート」などで出てきて、友達について新発見をする、ということがよくある。
Too Much Information
そのいっぽうで、この人間関係の民主化・均質化こそがFacebookの悪であると主張して、周りの友達がみなFacebook友達になっているにもかかわらず、頑なにユーザー登録を拒む人もいる。そして、活発なユーザーたち自身にとっても、Facebook独特のコミュニケーションのありかたには、辟易するものもある。
その大きなひとつが、英語で言うところのtoo much information (口語的に略してTMIと言ったりもする)、つまり情報過多である。ひとが「近況アップデート」としてFacebookに載せる情報は、明らかに「友達」全員に知らせるべき種類のもの(「昨日無事男の子を出産しました。母子共に元気です。息子の名前はダニエル、体重は6.5ポンドです。」など)、多くの人にとって重要度はそれほど高くないけれども知らされたほうは微笑ましい気持ちになるもの(「両親の結婚50周年記念のパーティに親戚じゅうが集まりました」)、知る価値のあるもの(「メジャーなメディアではとりあげられていないけれど、オバマ政権の医療改革案にはこういう側面がある」)ばかりではない。日常の雑事やふと思ったこと、感じたことなどを気軽に投稿できるのがFacebookの特性であるから、とくにテキストメッセージやTwitterなどを通じて短文でメッセージをやりとりし合うことに慣れている若者たちは、多くの人にとっては「どうでもいいこと」、たとえば、「お腹が減ったから今からマクドナルドに行ってくる」「あー眠い」「このカフェでなっている音楽は嫌いだ」といったメッセージも、「友達」が載せればすべて自分のページに入ってくる。自分が本当に親しい相手が書いたものであれば、なんらかの文脈があって興味がもてるかも知れないが、小学校のとき以来顔を会わせていない相手、あるいは自分の上司や学生について、こんな日常の雑事まで知りたくない、と思う人も多いだろう。物理的にも感情的にも適当な距離があったからこそ気持ちのいい関係を保っていたのに、やたらと具体的な日常生活のあれこれや、むきだしに表された感情など、「そんなこと知りたくないよ」と思うようなことを、なんのフィルターもなく送り込まれるのはいい迷惑だ、というような相手もいるだろう。
私も、仲良しの同年代の友達になら、「とってもハッピーです」といった恋愛についての簡単な近況報告をしてもいいが、仕事上のつきあいしかない相手にそんなことを知らせようとは思わない。昔の恋人に新しい彼女ができたとか婚約が決まったとかいうことも、本人から、あるいは知り合いを通じて聞くのならいいが、Facebookで何十人あるいは何百人の「友達」と同じ扱いで知らされるのは、あまりいい気持ちがするものではない。また、学生がこちらの言うことをきかないでフラストレーションがたまっているときに愚痴を言おうと思っても、その学生もその「近況アップデート」を読むと思うと手が止まる。同じく、学生のほうも、学生仲間同士だったら教授の悪口やゴシップも交換するだろうが、その教授が見ている場では言うことが限られるだろう。
実際、こうしたことにじゅうぶん注意を払わなかったために、大きなツケを払うことになった人のエピソードもいろいろある。ある大学の教授は、授業で「『近代』とはなにか」をどうやって簡潔に説明したらいいか困って、ウイキペディアで「近代」を引いてそれを使った、ということを笑い話としてFacebookの「近況アップデート」に載せたら、それを見た学生が、「大学教授がウイキペディアを出典にして近代史の授業をしている」という噂を流し、その教授は大学運営者から叱責される、ということになった。叱責にいたることも、そのエピソードがまたインターネットを通じて全国に知られわたることも、デジタル時代ならではの恐ろしさである。また、Facebook上で上司の悪口を言ってクビになった人や、酔いつぶれ・二日酔いが続いていることを「近況アップデート」に載せていたのを見られて応募していた職をけられた人などの話も聞く。
「友達の友達なみな友達」か?
さらに面倒なのが、Facebook上の「友達」管理である。Facebookでは、ユーザー登録している誰かと「友達」になりたいと思ったら、その相手に「友達リクエスト」を送り、自分のことを「許可」してもらわなければいけない。つまり、双方の合意があってのみ、「友達」になって情報をシェアできるのだ。こうした「友達」は、ユーザー登録していそうな人をサーチ機能で探して自分でリクエストを送る場合もあるし、また、共通の知人が、「あなたはこの人と友達なんじゃないかしら?」と指摘して、双方が許可することによって「友達」になることもある。いったん「友達」になると、自分とその人のあいだに何人の共通の「友達」がいるかがページに表示されるようにもなっている。
「友達」の数は、人によって、十人未満のこともあれば、数百人のこともある。私の周りでは、平均して70人から200人くらいを「友達」としている人が多いようである。
Facebookにユーザー登録したばかりの頃は、知り合いが次々と見つかるのが面白く、「友達」が増えていくのが嬉しくて、あまりなにも考えずにどんどんとFacebook上の「友達」を増やしていく人が多い。私自身もそうだった。同じ頃にユーザー登録した友達と「Facebook友達」の数を競ったりといった、子供じみたことをしてしまったりもする。また、とにかく「友達」の数を増やそうと、よく知らない人、あるいはまったく知らない人にまで「友達リクエスト」を送る人というのもいるようである。自分の「友達」になっている人の「友達リスト」を見て、顔写真が気に入った人に「友達リクエスト」を送っている、という輩もいるらしく、その人の「友達リスト」を見るとやたらとキレイな女性ばかり何百人、というような男性もいる。
数人しか「友達」がいないよりは、50人くらいはいたほうが、なんとなく気分がいいものだが、しばらくして、自分がいろいろな近況アップデートを載せ、「友達」のアップデートもたくさん入ってくるようになって、「うーむ、ちょっとマズいかも」という気持ちになることがある。前述したように、上司や学生、クライアントには見せたくないが、クラスメートや友達にはぜひ見せたい種類のメッセージもある。「昨日のデートはさんざんだった」といったメッセージを、昔の恋人や、もしかしたら恋愛の可能性があるかもしれない相手が見るのも問題である。
だったら「友達」をもっと選択的に選べばいいとは言っても、どこでどう「友達」の境界線を引くか、という判断は現実にはなかなか難しいものである。「友達リクエスト」を送ってくれた相手を無視したり拒否したりするのは気分のいいものではないし、Facebook上で共通の知人がいる相手の場合には、「誰それは『友達』なのになぜ自分は『友達』にしてくれないんだ」、といった感情が湧いても当然だ。いったん「友達」許可した相手を、「友達」の輪から外すというメカニズムもあるのだが(そっと外すぶんには、相手にはそのことは知られないが、その相手が自分のページを見ようとすると見られなくなるので、いずれ気づかれる可能性は高い)、わざわざそんなことをするのも不必要にことを大ごとにしているようで、なんだか気まずい。
私は、いろいろややこしいので、自分の学生は「友達」に入れない、そしてすでに「友達」になっている学生には、「私生活の道具として使っているFacebookと、学生との関係には境界を引いておきたいので、すみませんがあなたを『友達』から外しますが、気を悪くしないでください」というメッセージを送ろうかとも検討した。だが、実際のところ、近況を日常的にフォローしたいような学生もいるし、かといって、ある学生は入れるが他の学生は入れないとなるとそれはそれで問題を生じるので、結局、すでに「友達」の学生はそのままにして、大学院生は入れるが学部生は入れない、というところで線を引いている。
離れられない、離せない
このように人間関係を楽しくも複雑にもしてくれるFacebookであるが、人々の生活の質、大げさに言えば人生経験におけるFacebookの影響についても、賛否両論ある。
距離を超えたコミュニケーションが簡単になり、社会的地位や年齢、地域などを超えて気軽に人々が情報やアイデアを交換するようになって、たとえヴァーチャルなものであれ、人の生活や意識が多少は広がる、という側面はたしかにある。いつもの生活では、学校や仕事と家を往復し、家族や親しい仲間といつも似たような会話をしがちなのに対して、Facebookの世界では、普段は自分とはだいぶかけ離れた生活を送っている「友達」のライフスタイルや関心をも日常的に垣間みるようになる。また、家族や友達と定期的に連絡をとろうという意思はあってもなかなか電話やメールに実際に手が届かない、という人にとっては、Facebookはまめな近況報告を簡単にしてくれる。大学に進学したり就職したり結婚したりして遠いところに引っ越していってしまった子供が元気にやっているか、どんな仲間とどんなことをして暮らしているのか、といったことをフォローしていたい親にとって、Facebookは安心感を高めてくれる道具である。
そのいっぽうで、いつでもどこでも友達と「近況アップデート」を交換しあう状況、ときには「友達」から離れたくても離れられない状況、そして自分の人間関係のなかに濃淡をつけられない状況が、暮らしや人間関係を平板にしてしまう、ということもある。ひと昔前までは、実家を遠く離れた大学に進学する若者にとって、親や兄弟のもとを離れ、一人で寮暮らしをしたりルームメートと共同生活をしたりしながら、自分独自の人間関係やライフスタイルを築き、勉強や議論を通じて自分が育ってきた世界の外の価値観を学んでいくことで、ひとりの大人としての人格を形成していくものだった。大学進学前、あるいは大学を休学して、行き先を誰にも告げずに一人で長い旅に出る、というようなことも、アメリカではそう珍しくないが、そうした旅とは、自分にとって居心地のいい環境や人間関係から敢えて自分を切り離して一人で違う世界を経験したり静かにものを考えたりすることにある。半年の大学生活の後に帰省した子供が、見違えるように大人になっていたとか、数年間姿を見なかった幼なじみが、まるで別世界の人間のように変貌していた、といったことを経験する人は多いだろう。しかし、Facebookでたえず故郷の家族や友達と連絡をとりあい、自分の生活や経験、感情について逐一報告をしあう状況のなかでは、自分を大事に思ってくれている人たちとつながっているという安心感があるいっぽうで、そうした人たちから切り離されることによって学ぶことも減ってしまうかもしれない。
たかがFacebook、されどFacebook。インターネットがもたらす人間関係や意識、生活の変化は、意外なところでも展開されている。
まるで関係ありませんが、今週のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、Facebook Exodus、つまりFacebookからの大挙逃避、という記事が載っています。爆発的な勢いで普及したソーシャル・ネットワーキング・サイトのFacebookには、私も病にとりつかれたようにハマっているのですが、広告を出す企業との結びつきや、Facebookがもたらす人間関係のややこしさが面倒になって、きれいさっぱりFacebookをやめてしまうという人が少なくないのだそうです。このブログで既に何度か言及したFacebookについて、どこかに載せてもらおうかしらんと思って記事の長さの文章も書いたのですが、今のところ残念ながら掲載してくれるという媒体が見つかっていません。せっかく書いたものが自分のパソコンのなかにだけ入っているのはもったいないので、ここに載せておきます。この記事を読んで、Facebookを通じて私に「お友達リクエスト」をして、私が無視しても、気を悪くなさらないでください。
一日の計はFacebookにあり
ここ何年も、私は朝起きてトイレに行きシャワーを浴びた後、コーヒーを入れながらまずするのは、パソコンに向かってメールをチェックすることである。一晩のあいだに届いているメールの数は、日によって数件のこともあれば三十を超えることもあるが、一通り目を通して、すぐに対応すべきものを処理しているだけでも、じゅうぶんにコーヒーを一、二杯飲み干すだけの時間はたつ。
一日がメールで始まるというだけでも、すでにかなりのビョーキであるような気がするのだが、ここ一年ほど私の生活をさらに侵食しているのが、Facebookだ。メールに目を通し終わった後、次に私がするのが、Facebookをチェックすることである。現時点で私には156人のFacebook上の「友達」がいるのだが、世界のいろいろな時間帯に散らばっているそれらの「友達」のうち、少なくとも十人は、私が寝ているあいだに「近況アップデート」をしている。せっせと勉強に勤しんでいるべき私の指導学生が、ちゃんと勉強して本の感想を載せているか、それともパーティではしゃいでいる写真を載せているか。オバマ政権の医療改革について、私の友達はどんなソースから情報を得て、どんなコメントをしているか。ヨーロッパに旅行中の友達は、今どこにいるか。著者に原稿を書かせているあいだに自分は楽しそうに家族で東南アジアに旅行なんかに行っているけしからん新潮社の編集者は、昨日はラオスでなにを食べたか。そんなことが、これらの「近況アップデート」にざっと目を通すと、だいたい把握できてしまう。そして、ときには彼らが載せている写真やビデオやリンクを見て、またときには彼らの性格テストの回答などをフムフムと言いながら読んでいると、またそれだけであっと言う間に数十分がたってしまう。
単なるヒマつぶしと言えばもちろん言えるFacebook。しかし、最近では、私の友達のなかでも、Facebookの熱烈なファンと、頑固にFacebookに登録することを拒否し続ける人たちのあいだで、喧々諤々の議論がなされたりする。Facebookが現代の人間関係にどのような影響を及ぼしているかを学術的に研究する社会学者もいる。ほとんど依存症と言えるほどFacebookを頻繁にチェックする私は、Facebookという媒体には、かなり重要な社会的・文化的な意味があると思う。Facebook中毒者が、Facebookの使用を正当化するためにもっともらしい理屈を並べているだけと言えなくもないかもしれないが、ひとまずFacebookとはどんなものかを紹介してみよう。
Facebookとは
Facebookとは、2004年にハーヴァード大学の学部生四人が寮の部屋を拠点に開発して以来、爆発的に普及したインターネット上の無料ソーシャル・ネットワーキング・サイト(SNS)である。もとはハーヴァードの学生たちの交流を目的にデザインされたものだったのが、他大学に輪を広げ、そしてあっと言う間に年齢や職業、地域を超えて広がり、2009年8月時点では、世界で2億5千万人のユーザーがユーザー登録をしている。そのうち1億2千万人のユーザーは最低でも一日一度はログインし、3千万人のユーザーは最低でも一日一度は近況をアップデートしている。現在、日本語を含む50言語で利用可能で、利用者のうち7割以上は米国以外に在住している。いかにもデジタル世代の若者の文化という印象を与える媒体であるが、もっとも急速に利用者が増えているのは35歳以上の層である。
使い方は人によっていろいろだが、たいていのユーザーにとってのFacebookの主な用途は、友達や家族・親戚などと簡単に近況報告を交わしたり、写真や動画などをシェアすること、仕事や趣味などのためのネットワーキング、などといったことである。
また、「サーチ」機能を使って、何年も、ときには何十年も音沙汰のなくなっていた旧友やクラスメート、昔の知人などを探し出して連絡を復活する、といったことも頻繁になされる。また、就職に応募してきた人物や、「デート」を始めた相手について探りを入れるために、その人物をFacebook上で探し出して、その人がどんな人たちと「友達」でどんなことをFacebook上に載せているかなどをチェックする、といったこともよくなされる。
ユーザーは、自分がFacebookに載せる情報のうちどの部分をどれだけの人に公開するかを設定できるので、個人情報や「友達」リスト、近況アップデートなどを、「友達」以外に見られたくなければ、「サーチ」で出てくるのは名前や居住地などに限ることができる。ただし、Facebookに特徴的なのは、日本で流通しているミクシーなどのサイトと違って、ほとんどの人は本名を使ってユーザー登録しており、顔写真を載せている人の割合もとても高い、ということだ。だからこそ人探しが可能であり、ソーシャル・ネットワーキングとしての機能を果たすようになっているのだ。つまり、匿名性をたのみにして自由な発言をしたりインターネット上ならではの人間関係を築くための場というよりは、ユーザーの現実の人間関係や社交生活を広めたり深めたりして促進するための道具、としての機能が高い。
また、Facebookは、企業や団体、個人によって、イベントや商品などの宣伝や、社会運動などの活動のためのキャンペーン道具としても使われる。2008年の大統領選挙で、とくにオバマ陣営がFacebookをはじめとするインターネット媒体を効果的に利用してとくに若い支持者の輪を広げていったことはよく知られている。パレスチナ占領やイラン政権に抗議する世界中の人々がFacebook上で組織されたりするし、地域コミュニティでの政治集会やデモのための人集めにもFacebookは使われる。
Facebookがなくす物理的距離の壁
人間関係のためのツールとしてのFacebookの一番のメリットは、「友達」との情報の交換が簡単である、ということだ。お互いの日常生活が重なっている親しい相手とであれば、わざわざFacebookを使わなくても会って話をしたり電話やメールを交換したりするだろうが、話をしたいと思っていながらもしばらく連絡をとっていない友達や、わざわざメールや電話をするほど親しくはないもののお互いがどうしているかくらいは知っていたい相手というのはいるもので、そうした人たちに一斉に自分の近況を知らせるにはとても便利である。家族の写真を載せたりすると、しばらく会っていない知人に子供の成長を知らせたりもできるし、旅行中に写真やビデオを載せる人も多い。
とくに、日頃顔を合わせることのない、遠隔地に住んでいる相手が、どんな生活を送ってどんなことを考えているのか、といったことをフォローできるのは、便利でもあるし、なかなか興味深くもある。時差があるところに住んでいる相手とは、電話をするのも難しかったりするが、Facebookは、自分が好きなときにログインして、「友達」が載せたものを見て、それに「コメント」するなりプライベートな「メッセージ」を送るなり、「なるほど」と思って見るだけにするなり、あるいは同時にログインしている友達と「チャット」機能を使っておしゃべりするなり、自分の都合と意思によって決めればよいので、距離と時間の制約から解放されてコミュニケーションができる。
私はハワイの自宅の仕事机でパソコンに向かい、山手線に乗っている新潮社の編集者(前述のラオスでおいしそうな食事をしていたのと同一人物)とFacebookのチャット上で日米のデジタル文化の違いについておしゃべりをしたこともある。もちろん、本当にそうした話をしたいと思ったら、きちんとメールを交換すればいいのだが、そうするといかにも改まった仕事の話という感じになってしまうところが、お互いたまたまFacebookにログインしているというときに(つまり、お互い切迫した用事に迫られていないときに)ちょっとおしゃべりする、という気軽さがよいのである。
現在私は普段の生活の拠点であるハワイを離れて日本に長期滞在中なのだが、Facebookでアメリカの友達に自分の生活ぶりを知らせ、また友達がなにをしているかをフォローすることで、自分が遠くにいるという感覚はかなり減少する。日本で地震があったというニュースが入れば、数時間後にはアメリカの複数の友達が、「大丈夫だった?」とメッセージを送ってくる。「アップデート」に「地震はびっくりしたけど、なにも落ちてくるようなところには寝ていないので大丈夫です」と一言書いておけば、156人の友達全員に無事を知らせることができる。日本の街並や居酒屋の食事、友達との団欒の様子などの写真を載せれば、私の日本での生活をアメリカの友達に伝えることができる。また、学生が論文の一章を書き上げたという知らせや、夏休みが終わって新学期が始まろうとするときの同僚たちの興奮と憂鬱の混ざった感情、反抗期の息子の言動についての友人の愚痴を「近況アップデート」で読んだり、友達の子供がよちよち歩きを始めるようになった様子をビデオで見たりすることで、私は日本にいながらにして別の場所での人間関係を同時進行的に経験することができる。
このように、世界のいろいろな時間帯、気候、文化のなかで暮らしている友達の動向を画面上でいっときに見られるということは、我々の物理的な距離についての意識にかなり深い意味合いをもっているのではないだろうか。通信における空間的・時間的な壁が取り払われるといういっぽうで、自分が今ここで暮らしている状況とはずいぶん違う環境で暮らしている人がたくさんいるものだ、ということも実感させられる。なにしろ、自分がミーミーと蝉の鳴く夏の東京の朝、眠気まなこでパジャマのままパソコンに向かっているときに、ハワイの友達が「ハリケーンがそれてよかった」、中国への旅行を終えてテキサスに滞在中の友達が「中国も暑かったけど、テキサスは熱い」、とか書いているのを読んでいると、そして、ブータンにフィールドワークに行っている学生やモンゴルから帰ってきた学生がアップロードした写真を見ていると、世界は小さいような大きいような、実に不思議な気持ちになるのである。
人間関係の均質化
Facebookがもたらす距離感の変化は、物理的な空間や時間に限られたものではない。この新しいコミュニケーション手段によって、人間関係をめぐる距離感にも、かなりの変化がもたらされている。
そのひとつは、Facebook上の「友達」の均一化である。Facebookでは、いったんユーザーが別のユーザーを「友達」として許可すれば、その「友達」のあいだに区別はつけたくてもつけられない。つまり、兄弟だろうが同僚だろうが上司だろうが幼なじみだろうがクラスメートだろうがお隣さんだろうが昔の恋人だろうが今の夫だろうが、皆同じ「友達」の輪に入り、それらの「友達」全員が、自分がFacebookに載せるアップデートや写真やリンクなどを見ることになる。
これはなかなか複雑な状況である。日常生活では、誰でも多かれ少なかれ、相手によって違う自分を演じるものである。ボスと接するときと息子と接するときの自分が違うのは当たり前だし、女友達とおしゃべりする内容と仕事のクライアントと会っているときの会話も違って当然だ。ところがFacebookではコミュニケーションにそうした差別化をすることができない。近況アップデートが「夏はやっぱりビアガーデン」だろうが、「イイ男を見つけるのはどうしてこう難しいんだろう」だろうが、「授業がつまらなくて耐えられない」だろうが、そのメッセージは「友達」すべてに送られる。
これを人間関係の民主化・カジュアル化として肯定的にとらえることもできる。相手によって言葉や内容を選んだり、かしこまったりせず、すべての「友達」相手に同一のメッセージを送り、同一の自分を見せる。それは確かに、ある意味では画期的なことである。ひとつの自分を「友達」みんなに公開することで、それぞれの相手とのつきあいがオープンなものにもなるし、それまで存在しなかった関係が築かれることにもなる。
私は、特別親しかったわけでもない知人、Facebookがなかったらおそらく「ちょっとした知り合い」で終わっていたであろう人について、Facebookを通じていろいろなことを知ることがある。その人がどんな本を読んでいるとか(「アップデート」で本についてコメントする場合もあるし、「自分が人生でもっとも影響を受けた本15冊」といったリストをアップロードする場合もある。「友達」にそうしたリストを送られたら、自分も同じリストを作ってアップロードする、チェインメールのようなFacebook上の慣習がある)、どんな時事問題に関心をもっているとか、どんな音楽が好きだとか、そんなふうに週末を過ごしているとか、そんなことを垣間みているうちに、相手にとても好意をもつようになって、Facebookの外でもより頻繁に連絡をとりあうようになり、仲良くなった相手が何人もいるのだ。また、普段は指導生として勉強の話をする相手が、大学の外ではどんな暮らしをしているのか、遊ぶときにはどんなことをして遊んでいるのか、家族はどんな人たちなのか、といったことを覗けるのも興味深い。また、何年も、ときには何十年も会っていなかった昔の友達や、昔の「デート」の相手が、今はどんな人間になっているのか、仕事はなにをしているのか、家庭は持っているのか、禿げているか太っているかあるいはものすごくイイ男になっているか、といったことを知って安心したり幻滅したりするのも、なかなか面白い。
Facebookのおかげで、親しい友達についても、知らなかったことをいろいろ知るようになった。大人になってからできた友達というのは、よほど多くの時間を共有しなければ、お互いがそれまで生きてきた人生のあらゆる段階や側面についてそう突っ込んで知るのは難しい。アメリカで暮らしていると、友達の多くは、いろいろな国で、まるで違う環境で育ち、今の職業や生活にいたるまでに実にさまざまなことをしてきているが、それまでには聞いたことがなかったような話や事実が、Facebookのちょっとした「ノート」などで出てきて、友達について新発見をする、ということがよくある。
Too Much Information
そのいっぽうで、この人間関係の民主化・均質化こそがFacebookの悪であると主張して、周りの友達がみなFacebook友達になっているにもかかわらず、頑なにユーザー登録を拒む人もいる。そして、活発なユーザーたち自身にとっても、Facebook独特のコミュニケーションのありかたには、辟易するものもある。
その大きなひとつが、英語で言うところのtoo much information (口語的に略してTMIと言ったりもする)、つまり情報過多である。ひとが「近況アップデート」としてFacebookに載せる情報は、明らかに「友達」全員に知らせるべき種類のもの(「昨日無事男の子を出産しました。母子共に元気です。息子の名前はダニエル、体重は6.5ポンドです。」など)、多くの人にとって重要度はそれほど高くないけれども知らされたほうは微笑ましい気持ちになるもの(「両親の結婚50周年記念のパーティに親戚じゅうが集まりました」)、知る価値のあるもの(「メジャーなメディアではとりあげられていないけれど、オバマ政権の医療改革案にはこういう側面がある」)ばかりではない。日常の雑事やふと思ったこと、感じたことなどを気軽に投稿できるのがFacebookの特性であるから、とくにテキストメッセージやTwitterなどを通じて短文でメッセージをやりとりし合うことに慣れている若者たちは、多くの人にとっては「どうでもいいこと」、たとえば、「お腹が減ったから今からマクドナルドに行ってくる」「あー眠い」「このカフェでなっている音楽は嫌いだ」といったメッセージも、「友達」が載せればすべて自分のページに入ってくる。自分が本当に親しい相手が書いたものであれば、なんらかの文脈があって興味がもてるかも知れないが、小学校のとき以来顔を会わせていない相手、あるいは自分の上司や学生について、こんな日常の雑事まで知りたくない、と思う人も多いだろう。物理的にも感情的にも適当な距離があったからこそ気持ちのいい関係を保っていたのに、やたらと具体的な日常生活のあれこれや、むきだしに表された感情など、「そんなこと知りたくないよ」と思うようなことを、なんのフィルターもなく送り込まれるのはいい迷惑だ、というような相手もいるだろう。
私も、仲良しの同年代の友達になら、「とってもハッピーです」といった恋愛についての簡単な近況報告をしてもいいが、仕事上のつきあいしかない相手にそんなことを知らせようとは思わない。昔の恋人に新しい彼女ができたとか婚約が決まったとかいうことも、本人から、あるいは知り合いを通じて聞くのならいいが、Facebookで何十人あるいは何百人の「友達」と同じ扱いで知らされるのは、あまりいい気持ちがするものではない。また、学生がこちらの言うことをきかないでフラストレーションがたまっているときに愚痴を言おうと思っても、その学生もその「近況アップデート」を読むと思うと手が止まる。同じく、学生のほうも、学生仲間同士だったら教授の悪口やゴシップも交換するだろうが、その教授が見ている場では言うことが限られるだろう。
実際、こうしたことにじゅうぶん注意を払わなかったために、大きなツケを払うことになった人のエピソードもいろいろある。ある大学の教授は、授業で「『近代』とはなにか」をどうやって簡潔に説明したらいいか困って、ウイキペディアで「近代」を引いてそれを使った、ということを笑い話としてFacebookの「近況アップデート」に載せたら、それを見た学生が、「大学教授がウイキペディアを出典にして近代史の授業をしている」という噂を流し、その教授は大学運営者から叱責される、ということになった。叱責にいたることも、そのエピソードがまたインターネットを通じて全国に知られわたることも、デジタル時代ならではの恐ろしさである。また、Facebook上で上司の悪口を言ってクビになった人や、酔いつぶれ・二日酔いが続いていることを「近況アップデート」に載せていたのを見られて応募していた職をけられた人などの話も聞く。
「友達の友達なみな友達」か?
さらに面倒なのが、Facebook上の「友達」管理である。Facebookでは、ユーザー登録している誰かと「友達」になりたいと思ったら、その相手に「友達リクエスト」を送り、自分のことを「許可」してもらわなければいけない。つまり、双方の合意があってのみ、「友達」になって情報をシェアできるのだ。こうした「友達」は、ユーザー登録していそうな人をサーチ機能で探して自分でリクエストを送る場合もあるし、また、共通の知人が、「あなたはこの人と友達なんじゃないかしら?」と指摘して、双方が許可することによって「友達」になることもある。いったん「友達」になると、自分とその人のあいだに何人の共通の「友達」がいるかがページに表示されるようにもなっている。
「友達」の数は、人によって、十人未満のこともあれば、数百人のこともある。私の周りでは、平均して70人から200人くらいを「友達」としている人が多いようである。
Facebookにユーザー登録したばかりの頃は、知り合いが次々と見つかるのが面白く、「友達」が増えていくのが嬉しくて、あまりなにも考えずにどんどんとFacebook上の「友達」を増やしていく人が多い。私自身もそうだった。同じ頃にユーザー登録した友達と「Facebook友達」の数を競ったりといった、子供じみたことをしてしまったりもする。また、とにかく「友達」の数を増やそうと、よく知らない人、あるいはまったく知らない人にまで「友達リクエスト」を送る人というのもいるようである。自分の「友達」になっている人の「友達リスト」を見て、顔写真が気に入った人に「友達リクエスト」を送っている、という輩もいるらしく、その人の「友達リスト」を見るとやたらとキレイな女性ばかり何百人、というような男性もいる。
数人しか「友達」がいないよりは、50人くらいはいたほうが、なんとなく気分がいいものだが、しばらくして、自分がいろいろな近況アップデートを載せ、「友達」のアップデートもたくさん入ってくるようになって、「うーむ、ちょっとマズいかも」という気持ちになることがある。前述したように、上司や学生、クライアントには見せたくないが、クラスメートや友達にはぜひ見せたい種類のメッセージもある。「昨日のデートはさんざんだった」といったメッセージを、昔の恋人や、もしかしたら恋愛の可能性があるかもしれない相手が見るのも問題である。
だったら「友達」をもっと選択的に選べばいいとは言っても、どこでどう「友達」の境界線を引くか、という判断は現実にはなかなか難しいものである。「友達リクエスト」を送ってくれた相手を無視したり拒否したりするのは気分のいいものではないし、Facebook上で共通の知人がいる相手の場合には、「誰それは『友達』なのになぜ自分は『友達』にしてくれないんだ」、といった感情が湧いても当然だ。いったん「友達」許可した相手を、「友達」の輪から外すというメカニズムもあるのだが(そっと外すぶんには、相手にはそのことは知られないが、その相手が自分のページを見ようとすると見られなくなるので、いずれ気づかれる可能性は高い)、わざわざそんなことをするのも不必要にことを大ごとにしているようで、なんだか気まずい。
私は、いろいろややこしいので、自分の学生は「友達」に入れない、そしてすでに「友達」になっている学生には、「私生活の道具として使っているFacebookと、学生との関係には境界を引いておきたいので、すみませんがあなたを『友達』から外しますが、気を悪くしないでください」というメッセージを送ろうかとも検討した。だが、実際のところ、近況を日常的にフォローしたいような学生もいるし、かといって、ある学生は入れるが他の学生は入れないとなるとそれはそれで問題を生じるので、結局、すでに「友達」の学生はそのままにして、大学院生は入れるが学部生は入れない、というところで線を引いている。
離れられない、離せない
このように人間関係を楽しくも複雑にもしてくれるFacebookであるが、人々の生活の質、大げさに言えば人生経験におけるFacebookの影響についても、賛否両論ある。
距離を超えたコミュニケーションが簡単になり、社会的地位や年齢、地域などを超えて気軽に人々が情報やアイデアを交換するようになって、たとえヴァーチャルなものであれ、人の生活や意識が多少は広がる、という側面はたしかにある。いつもの生活では、学校や仕事と家を往復し、家族や親しい仲間といつも似たような会話をしがちなのに対して、Facebookの世界では、普段は自分とはだいぶかけ離れた生活を送っている「友達」のライフスタイルや関心をも日常的に垣間みるようになる。また、家族や友達と定期的に連絡をとろうという意思はあってもなかなか電話やメールに実際に手が届かない、という人にとっては、Facebookはまめな近況報告を簡単にしてくれる。大学に進学したり就職したり結婚したりして遠いところに引っ越していってしまった子供が元気にやっているか、どんな仲間とどんなことをして暮らしているのか、といったことをフォローしていたい親にとって、Facebookは安心感を高めてくれる道具である。
そのいっぽうで、いつでもどこでも友達と「近況アップデート」を交換しあう状況、ときには「友達」から離れたくても離れられない状況、そして自分の人間関係のなかに濃淡をつけられない状況が、暮らしや人間関係を平板にしてしまう、ということもある。ひと昔前までは、実家を遠く離れた大学に進学する若者にとって、親や兄弟のもとを離れ、一人で寮暮らしをしたりルームメートと共同生活をしたりしながら、自分独自の人間関係やライフスタイルを築き、勉強や議論を通じて自分が育ってきた世界の外の価値観を学んでいくことで、ひとりの大人としての人格を形成していくものだった。大学進学前、あるいは大学を休学して、行き先を誰にも告げずに一人で長い旅に出る、というようなことも、アメリカではそう珍しくないが、そうした旅とは、自分にとって居心地のいい環境や人間関係から敢えて自分を切り離して一人で違う世界を経験したり静かにものを考えたりすることにある。半年の大学生活の後に帰省した子供が、見違えるように大人になっていたとか、数年間姿を見なかった幼なじみが、まるで別世界の人間のように変貌していた、といったことを経験する人は多いだろう。しかし、Facebookでたえず故郷の家族や友達と連絡をとりあい、自分の生活や経験、感情について逐一報告をしあう状況のなかでは、自分を大事に思ってくれている人たちとつながっているという安心感があるいっぽうで、そうした人たちから切り離されることによって学ぶことも減ってしまうかもしれない。
たかがFacebook、されどFacebook。インターネットがもたらす人間関係や意識、生活の変化は、意外なところでも展開されている。