ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2010年3月28日日曜日
Joyce Carol Oates, "The Falls"
この週末は寒かったのでどこにも行かず、家でジョイス・キャロル・オーツの小説、The Fallsを読んで過ごしました。オーツは歴史や政治や性や家族といった大きなテーマに正面から取り組み、かつ高度に物語性がありぐいぐい引き込む筆致で、もともと好きな作家なのですが、なにしろものすごい勢いで次々と作品を生み出すので(小説、短編集、ノンフィクションなど合わせるとこれまでに刊行した本の数はなんと50以上、それもそれぞれがとても重厚)、こちらが読むよりも彼女が書くスピードのほうが速いと思うくらいです。で、このThe Fallsも500ページ近くにもなる大著なのですが、ナイアガラの滝を舞台に、アメリカ20世紀後半の社会経済史や環境史を背景に、実にさまざまなタイプの人間の苦悩や葛藤、そして愛情のありかたを描き(ちょっとミステリー風な部分もあるので、読みたい人のために、これ以上ネタを明かすのはやめておきましょう)、それこそ寝食忘れて読ませる文章です。(テーマや作風としてはフィリップ・ロスに通じるものがあります。)1週間以上はかかるかしらんと思っていたのですが、3日間で読み終えてしまいました。読んでいるとあまりにもその世界に入り込んでしまうので、読み終わった頃には大きな満足感と同時に心身ともに疲労感があって、今日は他のことはもうなにもしたくない、という気分になりますが、まとまった数日間をそうした世界に入り込んで過ごすにはとてもいい作品です。主人公のAriah Littrellという女性は、決して皆に愛されるような人物ではないのですが、オソロしいほど肚がすわって毅然と現実に立ち向かい、ゆがみやねじれもありながらも愛情をもって誇り高い人生を生きる姿が感動的です。オーツの作品で日本語訳が出ているものもありますが、これは出ていないようなので、よかったら原作でどうぞ。
2010年3月21日日曜日
米下院、健康保険法案を可決
去年のクリスマスに、米上院が健康保険法案を可決したことを報告しましたが、本日、下院が219対212の僅差で法案を可決しました。いくつかの個別の項目について上院との交渉が残っているものの、法案の骨子はそのままでオバマ大統領の手にわたることが決定しました。ここに至るまでには、非常に長く苦しい道のりがあり、より網羅的で低額の皆保険制度を要求する立場からはいくつかの大きな譲歩もせざるを得ませんでしたが、オバマ氏が選挙運動において綱領の中核に掲げていた健康保険制度の抜本的改革が、とにもかくにも実現したことは、オバマ政権始まって以来最大の功績であるばかりでなく、1960年代の公民権法とならんで、アメリカ史に残るたいへん重要なことです。さまざまな問題を抱えながらもとにかく国民健康保険制度が存在する日本では、アメリカの保険制度がいかに異常かということがなかなかわかりにくいのですが、低所得者層に限らず、ミドルクラスや専門職につく人でも、民間の健康保険に入るために莫大な費用を払い、それでも既往症があると加入を拒否されたり、病気になった途端に加入を取り消されるといった、無茶苦茶な現状は、この立法で大幅に改善されることになります。現在保険に未加入な3200万人の人びとが保険に加入できるようになり、雇用者を通じて保険に入れない人にも比較的低額で保険が選べるシステムが整備されます。これでアメリカもようやっと、医療において一応先進国と言えるようになるでしょう。
ただし、今回の立法に至るまでの道筋や投票結果は、現在のアメリカ政治の限界も明るみに出しています。上下両院とも、投票結果は見事なまでに党ラインではっきりと分かれ、オバマ大統領が提唱していた、党を超えた冷静な議論と決定は、ついになされないまま、ぎりぎりセーフの可決となりました。このブログでも言及しているTea Partyの動きに垣間みられるような反政府の流れ、とくに連邦政府が運営する健康保険制度を「社会主義」と呼んで猛反対する層というのが、アメリカにはかなりの厚みで存在します。そうした層が、今年11月の選挙でどのように動員されるかによって、オバマ政権そして民主党のこれからが大きく左右されるでしょう。また、非合法移民の保険や、中絶問題(今回の法案では、中絶をカバーする保険に国民が加入することはできるが、連邦資金を中絶に充てない、という妥協案が入れられました)が今後どうなっていくか、アメリカの健康保険制度にはまだまだ大きな課題が残されています。
ところで、健康にちなんで、ニューヨーク・タイムズに載った「心の健康」に関する面白い記事。最近のある研究によると、「深く実のある会話を日常的にたくさんしている人のほうが、表面的な世間話しかしていない人よりも、幸せである」との結果が出たそうです。そんなことわざわざ「研究」しなくても、常識的に考えればそりゃそうだろうと思う、ともまあ言えるのですが、行動科学や社会科学ではそうした「常識的に考えれば当たり前」のことに実際にデータの裏付けをする、ということが結構あります。私には、この研究の調査方法がなかなか面白かった。被験者の服に録音マイクをつけてもらい、4日間にわたって12.5分ごとに30秒ずつ、そのときにしている会話を録音してもらい、その会話の内容を「実のある会話」と「表面的な会話」(事務的な会話など、「どちらにも入らない会話」というカテゴリーもある)に分けて、それぞれの人が日常的にしている会話の種類を分類する。その結果と、それぞれの人の「幸せ度」(本人の自己申告および友達や家族などの評価による)を照らし合わせて、会話の内容と幸せ度の相関関係を調べる、というのです。その結果、政治、宗教、教育、人生の意味などといったことについて「深く実のある」会話をたくさんしている人のほうが、天気やテレビ番組の話題(会話によっては、トピックがテレビ番組でも内容が「深く実のある」に分類されるものももちろんある)ばかりしている人よりも、明らかに幸せだ、というのです。幸せ度というのは、考えや感情を分かち合ってコミュニケーションをとることによって、人と意味のある関係を築いているかどうかで大きく違ってくるので、この結果はまあ驚くようなものではないでしょう。ただ、不幸せそうな人に「そんなにややこしいことを考えたり思い詰めたりしないで、もっと気楽にやろうよ」と言うのは間違っている、ということも示唆しています。気楽で実のない世間話ばかりしているよりも、ややこしいけれども本質的な会話をして人と意見を交わしているほうが、幸せにつながるかもしれないからです。まあ、この研究は被験者の母集団も小さいですし、相関関係は明らかになってもそれが因果関係であるかどうかはわからないので、あまり断定的な結果を導くのは危険でしょうが、なかなか面白いリサーチではあると思います。
2010年3月20日土曜日
兵藤裕己『<声>の国民国家』
書店でふと見かけて買ってきた、兵藤裕己 『〈声〉の国民国家 浪花節が創る日本近代 』を読んだのですが、この本、無茶苦茶面白い!明治20年代から太平洋戦争期までに全国で大流行した浪花節の歴史を追い、なぜこの時期に浪花節がそれほどの人気を博したのか、浪花節は近代日本においてどのような役割を果たしたのか、ということを考察した本なのですが、浪花節のことは本当にまるっきりなにも知らない私には、個々の情報についても、兵藤氏の全体の議論についても、「へえええー!」と思うようなことばかりで、たいへん読み応えがありました。
今や古典となった『想像の共同体』で、ベネディクト・アンダーソンは、近代国民国家の形成(より正確に言うならば、多様な人びとのなかでの「国民」意識の形成と浸透)における「国語」そして新聞などの印刷物が果たした役割を論じましたが、本書で兵藤氏は、近代日本に国民国家の理念をもたらしたものは、浪花節が代表する口頭的な物語芸能であったと説きます。芝の新網町などを初めとする都市の貧民街で生まれ、「下等」芸能として他の演芸者から蔑まれた浪花節の芸人たちは、自らもそうした貧民街の出身であり、「下級労働者」である聴衆は、そうした芸人たちの社会的位置と、彼らが語る法制度や政治機構の論理に抵抗するような物語、義理人情のモラル、そしてメロディアスな声に、ある意味では魅了され、またある意味では「からめとられて」ゆく。この本の面白さは、浪花節の芸能史を、近代日本の政治史・社会史・思想史として論じていること。つまり、兵藤氏は、浪花節が表象した「家族」や「義理人情」のモラルが、いっぽうでは「下からの国民形成」を達成するのと同時に、また他方では社会主義思想への防波堤としても機能することとなり、そしてそうした心性が、戦時下にファシズムと結びついていく、というのです。すごーい。一部抜粋:
それにしても、せっかく浪花節を題材とした『<声>の国民国家』というタイトルの本なのだから、音源がほしい。コストの点からCDなどを付けるのが無理なら、せめて読者が実際の浪花節を聴けるリンクとか録音とかの情報を参考文献に入れておいてほしかったですねえ。でも、とにかく面白いので、ぜひどうぞ。
今や古典となった『想像の共同体』で、ベネディクト・アンダーソンは、近代国民国家の形成(より正確に言うならば、多様な人びとのなかでの「国民」意識の形成と浸透)における「国語」そして新聞などの印刷物が果たした役割を論じましたが、本書で兵藤氏は、近代日本に国民国家の理念をもたらしたものは、浪花節が代表する口頭的な物語芸能であったと説きます。芝の新網町などを初めとする都市の貧民街で生まれ、「下等」芸能として他の演芸者から蔑まれた浪花節の芸人たちは、自らもそうした貧民街の出身であり、「下級労働者」である聴衆は、そうした芸人たちの社会的位置と、彼らが語る法制度や政治機構の論理に抵抗するような物語、義理人情のモラル、そしてメロディアスな声に、ある意味では魅了され、またある意味では「からめとられて」ゆく。この本の面白さは、浪花節の芸能史を、近代日本の政治史・社会史・思想史として論じていること。つまり、兵藤氏は、浪花節が表象した「家族」や「義理人情」のモラルが、いっぽうでは「下からの国民形成」を達成するのと同時に、また他方では社会主義思想への防波堤としても機能することとなり、そしてそうした心性が、戦時下にファシズムと結びついていく、というのです。すごーい。一部抜粋:
明治政府がイメージした家父長制的な国家像は、大衆に浸透する「国民」のモラルとのずれをかかえている。くりかえしいえば、日本近代の「国民」という物語は、制度外の擬似的ファミリーのモラルに、より多くの親近感をもつものだった。おもしろーい。これは、アドルノなどのいわゆる「フランクフルト学派」の批評理論の具体例として考えるとわかりやすいですね。
貧民街出自の芸人によって語られる制度外のファミリーの物語が、法制度による家族国家の構築をくわだてる政府のおもわくなどを超えた日本「国民」をつくりだしてゆく。(186)
法制度から逸脱する「義士」たちの物語が、政治・社会からとりのこされた下層の大衆の共同性をからめとってゆく。
そこに鼓吹される制度外のファミリーのモラルは、政治から疎外された者たちに、日本「国民」としての平等と解放を幻想させ、それは既存のヒエラルキーや法制度の枠組みにたいする暴力的破壊の気分さえ醸成するだろう。都市下層にわだかまる大衆の情念に、声と節調のレベルでかたちをあたえるのが、雲右衛門の義士伝だった。(192−193)
貧民街出自の芸人たちが鼓吹する擬似的ファミリーのモラルが、社会主義者たちのロジックを吸収・解体してしまう。戦争という国家的危機と、それに呼応するようにして流行する浪花節の声が、階級という差異・差別の感覚を溶解し、日本国民という均質で亀裂のない心性の共同体をつくりあげてゆく。(235)
それにしても、せっかく浪花節を題材とした『<声>の国民国家』というタイトルの本なのだから、音源がほしい。コストの点からCDなどを付けるのが無理なら、せめて読者が実際の浪花節を聴けるリンクとか録音とかの情報を参考文献に入れておいてほしかったですねえ。でも、とにかく面白いので、ぜひどうぞ。
2010年3月19日金曜日
Facebook上の痴話喧嘩
懲りずにまたしてもFacebookの話題です。昨日のニューヨーク・タイムズに掲載された記事は、Facebook上で口論する恋人や夫婦についての話。Facebook「友達」に公開した形での、ふたりの口論や痴話喧嘩は、往々にして他愛もないものであることが多く、当の本人たちとしては、「人前でこういうやりとりができるくらい、ふたりは親密で信頼しあっている」ことを「友達」に見せ、むしろ半分のろけのつもりでそうしたやりとりを公開していることが多いけれど、それを見せられたほうは、「もうやめてくれ」という気持ちになる、とのこと。とくに、ふたりのあいだで「普通」となっている言葉遣いや、皮肉やユーモアのセンスというのは、それぞれのカップルに固有のもので、本人たちは軽く冗談めかしたやりとりのつもりで交わしている文が、はたから見るとたいへん辛辣で本気で傷つくもののように取れることも多く、ふたりの仲を真剣に心配する「友達」も出てくる、とのこと。心配しないまでも、そうしたプライベートなやりとりは、Facebookのような「公共の場」でやるのでなく、自宅でやってくれ、と思う人も多いらしいです。なるほどねえ。私は、秋に北京に行ったときの帰りの飛行機(そのときの投稿で書いたと思いますが、雪でまる一日滑走路で待たされた挙句にフライトがキャンセルされて、北京に余分に一泊するはめになった)で後ろの席に座っていたいかにもお金持ちそうな夫婦のやりとりが、時間が経つにつれ明らかに険悪で緊張した雰囲気になってきているのが前の席の私の耳に入ってくる会話からもわかり、あのふたりはちゃんとふたりのままで家まで辿り着いただろうかと私は気になっているのですが、Facebook上でのカップルの口論はそれに似たようなものかもしれません。
それにしてもFacebookは、それが存在する前にはなかった種類の、さまざまな滑稽なジレンマを生み出しています。私自身、今困っているのは、しばらく「デート」していた相手と、「デート」する関係でなくなったときに、その人をFacebook上でどう扱うか(その人とは「デート」し始めの頃にFacebook上でも「友達」になった)、という問題。その人との将来の可能性がなくなったという落胆と悲しみを、Facebook上で他の「友達」とシェアしたいという気持ちもあるけど、そんな「アップデート」をその相手に見られたら嫌だ(私が嫌だというよりも、それを見た相手に気まずい思いをさせるのが嫌だ)。かと言って、彼を「友達」から外すのも、必要以上に事態を大ごとにするみたいだし、「友達」から外すほどショックを受けていると相手に思われたくもない、という気持ちもある。それに、彼とはこの先も実際に友達ではいつづけるつもりなので、私の普段の「アップデート」は彼に見ていてほしいと思うし、彼がどうしているのかも知っていたい。でも、彼がたとえば新しい彼女とラブラブの様子をFacebookに投稿するのを見たら、やっぱり嫌な気持ちがすると思う。ウーム、難しい。Facebookがなければ、ほとぼりが冷めるまでは連絡をしないでおいて、気持ちが落ち着いたり自分に新しい相手ができたりした頃にまたメールや電話をして友達づきあいを再開すれば済むものを、Facebook「友達」というややこしい関係のおかげで、ただでも複雑な状況や感情がますます複雑に...
2010年3月14日日曜日
同性愛が精神病でなくなるまで
今日、加藤周一についてのドキュメンタリー、「しかし、それだけではない」を観に行こうと友達と渋谷で待ち合わせたにもかかわらず、劇場に行ったら「その映画は先週で終わりました」と言われ、ガーン。代わりにランチに加えて2軒でお茶をしたので、ゆっくりおしゃべりができてよかったのですが、ちょっと悲しいです。(ちなみに渋谷では4月にアンコール上映があるらしいです。)
渋谷への往路、iPodで、前にもこのブログで言及したナショナル・パブリック・ラジオの番組This American Lifeを聴いていたのですが、81 Words (81 Wordsというのは、同性愛を精神疾患の一種と定義した精神医学会の文書に使われた単語数を指す)というタイトルのエピソードが、リサーチとしても語りとしてもなかなか素晴らしい。1973年にアメリカ精神医学会が、「同性愛は精神病ではない」と宣言したことによって、同性愛者の社会的地位や取り扱いに大きなインパクトをもたらしたのですが、当時は精神科医の実に9割以上(自身が同性愛者であった精神科医も含む。ただし当時は、同性愛者は精神科医として臨床にあたることは禁じられていた)が同性愛は精神病の一種だと信じていたという思想的・文化的風土のなかにあって、どういう経緯で精神科医たちの見解が変わり、医学上の定義が正式に変えられることになったのかを解き明かす物語です。一人の英雄的存在がそうした変化を可能にしたわけではなく、いろいろな人物や団体の勇気ある行動や、リーダーの地位にある人物のオープンな姿勢と決断など、さまざまな要因が流れを作った結果だということがわかります。また、同性愛のもつ意味や社会的地位などといった、政治的・社会的・道徳的な問題について、科学がどういった役割を果たすかということについても、考えさせてくれます。話の肝心な部分がハワイで展開される、というのも私にとっては興味深いです。良質なラジオ・ジャーナリズムの醍醐味・面白味が味わえますので、ぜひ聞いてみてください。
2010年3月13日土曜日
サミュエル・バーバー生誕百周年
数日前まで、本の原稿を仕上げるのに、一週間ほど電話ですら誰とも話をせず家にこもりっきりでせっせと仕事をしていました。この私が一週間も人としゃべらないでいられるものなんだと、自分で感心してしまいました。とは言っても、メールとかFacebookとかはやっていたので、まったく外界から遮断されていたわけではないのですが、まったく声を出さないでいるというのも不思議な感覚なので、ふと私にはまだ声があるのかしらと、一人で「あー」とか言ってみたりしました。(笑)原稿は無事に書き終えて(クライバーン・コンクールについての本です。刊行スケジュールが決まったらもちろん宣伝を兼ねてお知らせします)、一週間の家ごもりを取り返すため、ここ数日は、美容院に行ったり日帰り温泉に行ったり飲み会に行ったり買い物に行ったりして過ごしています。
原稿を書いているあいだ、あまりにもピアノ音楽のことばかり考えていたので(クライバーン・コンクールの演奏ビデオは今でもすべてインターネット上で見られるので、何度も何度も見聴きしていました)、ちょっとは違うものを聴こうと思って、Carolina Chocolate Dropsという、バンジョーを初めとするアメリカ南部のアフリカ系アメリカ人の伝統音楽をアレンジするバンドの最新アルバム、
Genuine Negro Jigを聴いています。これはすごーくいいですよ!ナショナル・パブリック・ラジオのポッドキャストで彼らのインタビューがあったのを聴いて、早速アルバムをダウンロードしたのですが、思わず何度も聴き直してしまうくらいいいです。で、クラシック音楽からはちょっと離れていようとも思っていたのですが、今年はアメリカの作曲家サミュエル・バーバーの生誕百周年で、ナショナル・パブリック・ラジオでいろいろな関連番組をやっていて、ついつい聴いてしまいます。バーバーは私がとても好きな作曲家で、Souvenirsというピアノ組曲のなかの数曲とは、しばらく前にずいぶん格闘しました。(あまり演奏されない曲なので、知らない人が多いのではないでしょうか。)バーバーは、『プラトーン』を初めとする数多くの映画にも使われた『弦楽のためのアダージオ』があまりにも大ヒットしてしまったために、他のたくさんの作品がかえって注目されなくなってしまったとか、いわゆる芸術音楽の作曲家としては真剣に取り扱われなくなってしまったりとか、複雑なキャリアをもった人でしたが、私は彼のピアノ音楽も、ヴァイオリン協奏曲も、チェロ協奏曲も、歌も、とっても好きです。で、その『弦楽のためのアダージオ』ですが、なぜこの曲がここまでポピュラーになるほどの情感的反応を人びとにもたらすか、ということを音楽的に解説した番組があります。短いですが、よくわかるし、解説者の曲に対する愛情も伝わってくるし、とてもよいです。これを聴くと、「もう一度『アダージオ』を聴いてみよう」という気になりますよ。
2010年3月6日土曜日
親の罠 と 『センセイの鞄』
親が亡くなったからこれを聞いたわけではなくて、たまたま買い物に行く道中でかけていたポッドキャストがこの番組だったから聞くことになったのですが、とにかく、以前にもこのブログで紹介したことのある、ナショナル・パブリック・ラジオの番組、This American Lifeで、Parent Trapというエピソードが2週間前に放送されました。親が子のためによかれと思ってしたことが、結果的に子にとって、そして時には親にとっても、一種の罠、あるいは檻のようになってしまう、ということが、2本のまるで違う種類のストーリー(この番組で語られるのはすべて取材にもとづいた実話で、当事者の肉声も出てきます)を通して語られるのですが、これはなかなかすごい。最後まで聞きたくて、買い物から帰ってイヤホンを外して、スピーカーにつなげて残りを座って聞いてしまいました。
1つ目の話は、娘が16歳のときにガンで亡くなった母親が、その後娘が毎年誕生日に読むようにと13通の手紙を書いて父親に託した、という話。その娘は、毎年その手紙を開けて読むことで、亡くなった母親の愛情やサポートを感じるのと同時に、だんだんとその手紙が精神的な負担にもなり、また父親との関係をも複雑なものにした、という話。その話の最後がまたなんとも言えないのですが、ここでは明かさずにおきましょう。
もう1つの話は、チンパンジーを人間の家庭で育てたら、どれだけ「人間的」な感情や行動を身につけるだろうかという実験のために、生後間もないチンパンジーを家で育てた夫婦が、やがてその「ルーシー」を野生に戻そうと決めた、という話。そのルーシーが、まずはどのように「人間として」の生活や感情を学び、その後どのように「チンパンジーとして」の生き方を学んだか、という話なのですが、これはいろんな意味でコワくなるような話です。どちらの話も、実にいろんなことを考えさせられるので、是非聞いてみてください。英語のヒアリング練習にもこれはとてもいいと思いますよ。
それとは関係ないですが、これまただいぶ遅ればせながら川上弘美の『センセイの鞄 』を読みました。文章はきわめて平易で滑らか、描写も愉快でもあり豊かでもあり、たいへん読み易いのですが、私にとっては、一気に読んでしまうというよりは、ゆっくり時間をかけて読む作品でした。37歳の独身女性と、学生時代の国語の先生が、居酒屋で出会って徐々に親交を深めていくうちに、お互い静かで温かい思慕の情が生まれる、という一種の恋愛小説。文庫版に載っている斎藤美奈子による解説によると、この本は中高年の男性を「舞い上がらせた」そうですが、世のオジサンたちというのは、いくらなんでもそこまで単純じゃないんじゃないでしょうか。この作品が気に入るのは、70がらみの男性が30代の女性と恋愛関係になって、幸せに人生の幕を閉じるという、その展開自体というよりは、人と人が知り合っていく過程、その、なんとなくぎくしゃくもして滑稽でもあって、でもそのなかに小さな喜びとか悲しみとかがたくさん詰まっている、そのさまが、優しくかつリアルに書かれているからじゃないでしょうか。70がらみの男性が若い女性と性を含めた恋愛関係になる話で、斎藤美奈子が言うところの「核心」を「はぐらかさない小説」といえば、たとえばフィリップ・ロスの『ダイング・アニマル』がありますが、このふたつの作品の違いは、日本的感性とユダヤ系アメリカ人的感性の違いというか、なんだか笑ってしまうくらい違うのですが、どちらもたいへん面白いです。ひとつは女性の視点から、もうひとつは男性の視点から書かれている点でも比較が面白いです。