現代におけるもっとも重要な知識人のひとりと言って間違いないエドワード・サイード氏が亡くなって8年が経ちます。
サイード氏が長年白血病と闘っていたことは知っていましたが、2003年から2004年にかけてサバティカルをニューヨークで過ごし、コロンビア大学で客員研究員をしていた私は、そのあいだに一度でも講演を聴く機会があればと思っていたのですが、私がニューヨークに到着してまもなくサイード氏逝去のニュースを読みとても残念でした。アメリカのオリエンタリズムについての研究で学者としてのスタートをした私にとって、『オリエンタリズム』を初めとするサイード氏の一連の著作、そしてパレスチナ問題を中心にした活発で勇気ある言論活動は、なにものにも代えがたいインスピレーションとなってきました。20代前半に『オリエンタリズム』に出会っていなかったら今私は学者になっていなかっただろう(大学院に入るまで『オリエンタリズム』を読んでいなかったということ自体、いかに不真面目な学部生であったかということを露呈していますが)といっても過言ではありません。また、オリエンタリズムをはじめとするカルチュラル・スタディーズの道に入り、ピアノをせっせと練習して西洋文化に傾倒していた過去の自分に折り合いをつける術を探っていた頃、サイード氏が西洋音楽にも精通し音楽評論家としても活発な執筆活動をしていることを知ったときの妙な安心感も忘れられません。
そして、博士論文を書き始めた頃、友達と一緒にニューヨークまで車に乗ってメトロポリタンオペラを観に行ったときに、ロビーでサイード氏の姿を見たときの興奮。こんな機会はまたとないからと、緊張しながら勇気を振り絞って近づいていき自己紹介すると、サイード氏はとても温かく接してくださり、私の論文についてかなり具体的な質問までしてくださりました。(このエピソードについては、もしかしたら以前の投稿でも書いたことがあったかもしれませんが、ご勘弁ください。)本当に立派な人というのは、どんな相手にでも丁寧に温かく接するものだと実感し、オペラ以上(その夜観たオペラがいったいなんだったのかすら覚えていない)に感動して帰ってきたのを鮮明に覚えています。
Jadaliyyaという、アラブ研究のオンライン雑誌に掲載された、サイード氏追悼の文章がなかなか素晴らしいのでご紹介しておきます。執筆者は、ニューヨーク市立大学で文学を教えているAnthony Alessandrini氏。私がオペラのときに経験したのと同様のエピソードから垣間みられるサイード氏の人間性とともに、サイード氏の研究や言論活動全般に通じる精神性や姿勢について洞察した、とてもいい文章だと思います。「連帯のための大小の活動を続けながらつねに批評を忘れず、辛抱強い分析を欠かさず、しかし愚かさに対しては忍耐を示さず、公的知識人として社会に向き合いながら、ときには節制をとりはらった激発を表す」、というサイード氏の姿勢から学ぼう、という文章。なんと素晴らしい追悼文でしょう。パレスチナ国連加盟申請という情勢のなか、考えさせられることが多いです。
ハワイ大学アメリカ研究学部教授、吉原真里のブログです。『ドット・コム・ラヴァーズーーネットで出会うアメリカの女と男』(中公新書、2008年)刊行を機に、アメリカのインターネット文化や恋愛・結婚・人間関係、また、大学での仕事、ハワイでの生活、そしてアメリカ文化・社会一般についての話題を掲載することを目的に始めました。諸般の事情により、2014年春から2年半ほど投稿を中止していましたが、ドナルド•トランプ氏の大統領選当選の衝撃で長い冬眠より覚め、ブログを再開することにしました。
2011年9月28日水曜日
2011年9月26日月曜日
アメリカのシングル・ライフの実態?
アメリカのシングル・ライフというと、『セックス・アンド・ザ・シティ』に描かれるような、さまざまな恋愛模様のなかで社交やショッピングを楽しむ華々しい暮らしをイメージする人が多いかもしれませんが、私は、実際のところは、日々の生活という意味では、独身女性にとってはアメリカよりも日本のほうが暮らしやすい部分がおおいにあると思っています。
私は初めて知りましたが、先週はNational Single and Unmarried Americans Week、つまり、「独身・未婚アメリカ人週間」だったらしいです。結婚という形をとらない人々の選択やライフスタイルを讃え支援しよう、という意図のものらしいのですが、そもそもそんな週が作られるということ自体に、アメリカのメインストリーム社会で結婚が規範となっていることが感じ取れます。結婚という法的制度が、さまざまな権利や特典や保護をもたらすからこそ、ゲイの人たちが異性愛者と同様に結婚できるための主張をしてきているわけですが、制度的に結婚できないからではなく、機会がないから、あるいは自ら選択して結婚していない人たちにとって、アメリカはなかなか肩身の狭い社会である、という事実も。ニューヨーク・タイムズの記事によると、家族関係においても、地域コミュニティにおいても、また社会全体においても、独身者は多くの場合既婚者よりも多くの時間や労力を貢献しているにもかかわらず、法的にも社会的にも独身者の生活状況やニーズは軽視されがちで、Singlismつまり独身差別と呼べるようなものも存在する、との説も。
アメリカが独身者に暮らしにくいと私が感じるのは、このような制度的なことの他にも、日常生活の細かなことが、独り暮らし向きにできていないからです。たとえば、スーパーで食料を買うことひとつをとっても、なにしろ売っているものの単位がやたらとでかい。私は一昨年から今年にかけて日本で生活して、スーパーで売っている肉や野菜の単位が小さくて便利なのにいたく感動し、シイタケがひとつずつ、セロリが一本(または二分の一本)ずつラップに包んであるのを見たときには、思わず写真を撮ってアメリカの友達に送ってしまったくらいです。アメリカでは、普通のスーパーではセロリは一房まるごとしか売っていないし、ベーコン(日本で売っているベーコンのパッケージの愛らしいこと、これまた涙が出そうになりました)なぞは日本で売っているものの20倍くらいの量でしか買えない。肉類は使わないぶんは冷凍しておけばまあよいとしても、野菜はどんなに頑張って使っても、使い切る前に腐って捨てることになる。買い物の不便だけでなく、社交生活もカップル単位のことが多いので、ちょっとしたパーティとなると皆配偶者や恋人同伴で来ることになっていて、他にも独身者が何人かいればよいけれど、独身者がひとりだけという場合はなんだかちょっと肩身の狭い気がしないでもない。
そんなふうにカップル主流の社会であるからこそ、長いこと恋人がいない人は「この人はなにか問題があるんじゃないか」と周りに思われたり、あるいは「自分はどっかおかしいんじゃないか」と思ったりしてしまいがちなようで、数日前のニューヨーク・タイムズの恋愛コラムに載ったエッセイも、8年間恋人がいないまま30代のほとんどを過ごした女性が、ずっとシングルであるという自らの状況を理解し打開しようとしていた頃を振り返ったもの(ちなみに彼女は現在は既婚)。周りの人たちがみんな普通に相手を見つけて結婚しているのに、自分がそんなに長いあいだ恋人のひとりもいないのは、自分になにか問題があるのではないか―自分が傲慢で高望みをしているんじゃないか、自己評価が低くネガティヴなオーラが出ているんじゃないか、口では恋人がほしいと言いながら実はfear of commitment(『性愛英語の基礎知識 』をご参考に:))があるんじゃないか、などなど―と思いがちで、それらの「問題」に向き合うべくいろいろ試してもみた。でも、実際に恋に落ちて結婚してみると、それまでずっとシングルだった自分が相手を見つけて幸せになったのは、傲慢だったり未熟だったりした自分が寛容で成熟した人間に変わったからではなく、傲慢だったり未熟だったりする部分もある自分を愛してくれる相手に、それまで縁がなかったのがたまたま出会ったからだ、との結論。つまるところは、「縁」。全体の論旨としてはまあ賛同するのですが、私は、独身者にはけっこう不便なアメリカに住んでいても、別段「結婚しなくちゃ」と思ったこともないし、何年間も恋人がいない時期もあるけれどそれはそれで特になんの不満も淋しさも感じず幸せで(と言えば言うほど負け惜しみのように聞こえそうですが、ホントにそうなのだから仕方ない)、「恋人がいないのは自分になにか問題があるからじゃないか」という発想をすることもない(本当は少しくらいそういう自省心があったほうがいいのかもしれませんが)ので、そう思って悶々とする人の気持ちはあまりよくわからないのが正直なところ。
とはいえまあ、恋愛はやっぱりいいものです。ムフフ。
私は初めて知りましたが、先週はNational Single and Unmarried Americans Week、つまり、「独身・未婚アメリカ人週間」だったらしいです。結婚という形をとらない人々の選択やライフスタイルを讃え支援しよう、という意図のものらしいのですが、そもそもそんな週が作られるということ自体に、アメリカのメインストリーム社会で結婚が規範となっていることが感じ取れます。結婚という法的制度が、さまざまな権利や特典や保護をもたらすからこそ、ゲイの人たちが異性愛者と同様に結婚できるための主張をしてきているわけですが、制度的に結婚できないからではなく、機会がないから、あるいは自ら選択して結婚していない人たちにとって、アメリカはなかなか肩身の狭い社会である、という事実も。ニューヨーク・タイムズの記事によると、家族関係においても、地域コミュニティにおいても、また社会全体においても、独身者は多くの場合既婚者よりも多くの時間や労力を貢献しているにもかかわらず、法的にも社会的にも独身者の生活状況やニーズは軽視されがちで、Singlismつまり独身差別と呼べるようなものも存在する、との説も。
アメリカが独身者に暮らしにくいと私が感じるのは、このような制度的なことの他にも、日常生活の細かなことが、独り暮らし向きにできていないからです。たとえば、スーパーで食料を買うことひとつをとっても、なにしろ売っているものの単位がやたらとでかい。私は一昨年から今年にかけて日本で生活して、スーパーで売っている肉や野菜の単位が小さくて便利なのにいたく感動し、シイタケがひとつずつ、セロリが一本(または二分の一本)ずつラップに包んであるのを見たときには、思わず写真を撮ってアメリカの友達に送ってしまったくらいです。アメリカでは、普通のスーパーではセロリは一房まるごとしか売っていないし、ベーコン(日本で売っているベーコンのパッケージの愛らしいこと、これまた涙が出そうになりました)なぞは日本で売っているものの20倍くらいの量でしか買えない。肉類は使わないぶんは冷凍しておけばまあよいとしても、野菜はどんなに頑張って使っても、使い切る前に腐って捨てることになる。買い物の不便だけでなく、社交生活もカップル単位のことが多いので、ちょっとしたパーティとなると皆配偶者や恋人同伴で来ることになっていて、他にも独身者が何人かいればよいけれど、独身者がひとりだけという場合はなんだかちょっと肩身の狭い気がしないでもない。
そんなふうにカップル主流の社会であるからこそ、長いこと恋人がいない人は「この人はなにか問題があるんじゃないか」と周りに思われたり、あるいは「自分はどっかおかしいんじゃないか」と思ったりしてしまいがちなようで、数日前のニューヨーク・タイムズの恋愛コラムに載ったエッセイも、8年間恋人がいないまま30代のほとんどを過ごした女性が、ずっとシングルであるという自らの状況を理解し打開しようとしていた頃を振り返ったもの(ちなみに彼女は現在は既婚)。周りの人たちがみんな普通に相手を見つけて結婚しているのに、自分がそんなに長いあいだ恋人のひとりもいないのは、自分になにか問題があるのではないか―自分が傲慢で高望みをしているんじゃないか、自己評価が低くネガティヴなオーラが出ているんじゃないか、口では恋人がほしいと言いながら実はfear of commitment(『性愛英語の基礎知識 』をご参考に:))があるんじゃないか、などなど―と思いがちで、それらの「問題」に向き合うべくいろいろ試してもみた。でも、実際に恋に落ちて結婚してみると、それまでずっとシングルだった自分が相手を見つけて幸せになったのは、傲慢だったり未熟だったりした自分が寛容で成熟した人間に変わったからではなく、傲慢だったり未熟だったりする部分もある自分を愛してくれる相手に、それまで縁がなかったのがたまたま出会ったからだ、との結論。つまるところは、「縁」。全体の論旨としてはまあ賛同するのですが、私は、独身者にはけっこう不便なアメリカに住んでいても、別段「結婚しなくちゃ」と思ったこともないし、何年間も恋人がいない時期もあるけれどそれはそれで特になんの不満も淋しさも感じず幸せで(と言えば言うほど負け惜しみのように聞こえそうですが、ホントにそうなのだから仕方ない)、「恋人がいないのは自分になにか問題があるからじゃないか」という発想をすることもない(本当は少しくらいそういう自省心があったほうがいいのかもしれませんが)ので、そう思って悶々とする人の気持ちはあまりよくわからないのが正直なところ。
とはいえまあ、恋愛はやっぱりいいものです。ムフフ。
2011年9月21日水曜日
Troy Davis死刑執行
全国で強い反対運動が起こるなか、つい一時間ほど前、ジョージア州でTroy Davis被告の死刑が執行されました。Davis氏は、1989年に警官を射殺したとして有事判決を受け、以来3回死刑執行の直前にまで行っていました。しかし、もとの判決に使われた物的証拠がきわめて信頼性の低いものであったことや、証言をした目撃者の数人が証言を取り下げたことから、死刑に反対する団体や、アメリカの裁判制度や処刑制度の問題点(とくに、処刑制度に内在する人種差別)に抗議する団体などが、Davis氏の死刑をとりやめさせるための運動を続けてきました。とくに今回の処刑に至るまでには、インターネット上で幅広い署名運動が繰り広げられ、私のところにもメールやフェースブックを通じて各方面から署名の依頼がきました。その結果、63万以上という記録的な数の署名が集められ、死刑執行の予定時刻の直前になって連邦最高裁が数時間この案件を検討したものの、結局、執行を取り下げることはせず、予定時刻より4時間遅れてDavis氏は他界したとのことです。
死刑にかんしては、日本を含め世界中でさまざまな立場から議論がありますが、アメリカではとくに、歴史的に刑事裁判や処刑制度が人種と密接に絡み合っていて、奴隷制度の延長ととらえる見方も多くあります。以前にもこのブログで紹介した、私の同僚Robert PerkinsonによるTexas Tough: The Rise of America's Prison Empireが、テキサスの例を中心にそのあたりの歴史を鮮明に描いています。この本はPENのノンフィクション賞を受賞するなど、とても大きな反響を呼んでいます。あまりにも恐ろしい歴史が生々しく描かれているので、読んでいてなかなか辛くなる本ですが、アメリカの歴史を理解するにはこうしたものもとても重要ですので、是非どうぞ。
死刑にかんしては、日本を含め世界中でさまざまな立場から議論がありますが、アメリカではとくに、歴史的に刑事裁判や処刑制度が人種と密接に絡み合っていて、奴隷制度の延長ととらえる見方も多くあります。以前にもこのブログで紹介した、私の同僚Robert PerkinsonによるTexas Tough: The Rise of America's Prison Empireが、テキサスの例を中心にそのあたりの歴史を鮮明に描いています。この本はPENのノンフィクション賞を受賞するなど、とても大きな反響を呼んでいます。あまりにも恐ろしい歴史が生々しく描かれているので、読んでいてなかなか辛くなる本ですが、アメリカの歴史を理解するにはこうしたものもとても重要ですので、是非どうぞ。
2011年9月15日木曜日
ブラウン大学シモンズ総長辞任
2001年9月11日のテロ事件から10年、アメリカでは各地でさまざまな追悼行事が開催されたり、各種メディアがこの10年を振り返る特集をしたりしています。私は2011年9月11日には、普段と同じように車を運転して大学に向かうときのラジオを聞いて、なにかただごとではない事態のようだけれども、なにがなんだかよくわからない、という状態で大学に着き、その日だんだんと状況を理解するようになったのでした。初めはなにがなんだかよくわからないけれども、徐々にわかってくるにつれて、顔が青くなって胃にずっしりと重いものが入ったような気持ちになるのは、東日本大震災のときに再び経験しました。当時の映像を見ると、そのときの感覚が生々しくよみがえってきて、世界貿易センターからは遠く離れたハワイにいても、胸が苦しくなる思いでした。
さて、話変わって、先ほど、私が大学院6年間を過ごしたブラウン大学の現総長、ルース・シモンズ氏が、今年度をもって総長のポストを辞任する意向を明らかにしたとの発表がありました。シモンズ氏は、2001年に、アイビー・リーグ大学の総長になった初の黒人となって話題となりました。当時ブラウン大学では、学生新聞が、保守の評論家デイヴィッド・ホロウィッツ氏が黒人奴隷の子孫への補償に反対する広告記事を掲載したことで大論争のさなかにあり、そんななかで彼女が黒人女性であるということはさらに話題性を呼びました。就任してすぐ、シモンズ総長は、「奴隷制と正義に関する委員会」を設立し、1764年の設立以来、大学設立にかかわった人物たちが奴隷貿易で財を成したという事実を含め、ブラウンがどのように奴隷制にかかわってきたかの歴史を徹底的に調査する任務を与えました。私の知り合いもこの委員会に入っていましたが、当然ながらこの調査と報告書の作成はなかなか大変な作業だったようです。
以後11年間、ブラウン大学は、シモンズ総長のもと、学部生のためのneed-blind admission(奨学金の必要性の有無に関係なく、優秀な学生を入学させ、必要な学生に奨学金を与えること。日本の入試のシステムから考えると意味がよくわからないかも知れませんが、学費が年間5万ドルを超えるアメリカの私立大学の入学審査は非常に複雑で、人種などのアイデンティティ・ポリティクスに加えて、優秀だけれども奨学金をもらえなければ入学できないという学生の扱いはとてもややこしくなります)の確立、教員のための研究環境の充実、医学部の強化など、さまざまな取り組みにおいて成果をあげてきました。などというと、まるで私はブラウンの広報部の人間のようですが、私自身はシモンズ総長下のブラウンを経験していないし、特に大学の宣伝をするつもりもないのですが、ブラウンでの6年間は私の人間形成にとても大きな役割を果たしたと思っているので、愛着もあり、なんだか、「シモンズ総長、おつかれさまでした!」と言いたい気分。
ハーヴァードの現総長ドルー・ギルピン・ファウスト氏を初め、アメリカのエリート大学に女性の総長も増えてきました。女性であればいいというわけではもちろんありませんが、大学生の過半数が女性である現代、大学界のリーダーシップに女性がそれなりの数で存在することはやはり必要。ちなみに、私の所属するハワイ大学のアメリカ研究学部では、今年度初めて、女性の教員が過半数を占めるようになりました。1997年に私が入ったときは、白人のおじさん(おじいさん)たちの中に私がひとりぴょこんと入った状態だったので、その頃と比べると、実に長い道のりを来たものだなあと感慨深いです。新人の採用を含め、職場環境をよりよいものにするように、ビジョンをもって粘り強く努力を続けることの重要さを実感。
さて、話変わって、先ほど、私が大学院6年間を過ごしたブラウン大学の現総長、ルース・シモンズ氏が、今年度をもって総長のポストを辞任する意向を明らかにしたとの発表がありました。シモンズ氏は、2001年に、アイビー・リーグ大学の総長になった初の黒人となって話題となりました。当時ブラウン大学では、学生新聞が、保守の評論家デイヴィッド・ホロウィッツ氏が黒人奴隷の子孫への補償に反対する広告記事を掲載したことで大論争のさなかにあり、そんななかで彼女が黒人女性であるということはさらに話題性を呼びました。就任してすぐ、シモンズ総長は、「奴隷制と正義に関する委員会」を設立し、1764年の設立以来、大学設立にかかわった人物たちが奴隷貿易で財を成したという事実を含め、ブラウンがどのように奴隷制にかかわってきたかの歴史を徹底的に調査する任務を与えました。私の知り合いもこの委員会に入っていましたが、当然ながらこの調査と報告書の作成はなかなか大変な作業だったようです。
以後11年間、ブラウン大学は、シモンズ総長のもと、学部生のためのneed-blind admission(奨学金の必要性の有無に関係なく、優秀な学生を入学させ、必要な学生に奨学金を与えること。日本の入試のシステムから考えると意味がよくわからないかも知れませんが、学費が年間5万ドルを超えるアメリカの私立大学の入学審査は非常に複雑で、人種などのアイデンティティ・ポリティクスに加えて、優秀だけれども奨学金をもらえなければ入学できないという学生の扱いはとてもややこしくなります)の確立、教員のための研究環境の充実、医学部の強化など、さまざまな取り組みにおいて成果をあげてきました。などというと、まるで私はブラウンの広報部の人間のようですが、私自身はシモンズ総長下のブラウンを経験していないし、特に大学の宣伝をするつもりもないのですが、ブラウンでの6年間は私の人間形成にとても大きな役割を果たしたと思っているので、愛着もあり、なんだか、「シモンズ総長、おつかれさまでした!」と言いたい気分。
ハーヴァードの現総長ドルー・ギルピン・ファウスト氏を初め、アメリカのエリート大学に女性の総長も増えてきました。女性であればいいというわけではもちろんありませんが、大学生の過半数が女性である現代、大学界のリーダーシップに女性がそれなりの数で存在することはやはり必要。ちなみに、私の所属するハワイ大学のアメリカ研究学部では、今年度初めて、女性の教員が過半数を占めるようになりました。1997年に私が入ったときは、白人のおじさん(おじいさん)たちの中に私がひとりぴょこんと入った状態だったので、その頃と比べると、実に長い道のりを来たものだなあと感慨深いです。新人の採用を含め、職場環境をよりよいものにするように、ビジョンをもって粘り強く努力を続けることの重要さを実感。
2011年9月5日月曜日
アメリカ国家建設と小説の興隆
本日はアメリカはLabor Dayの休日ですが、その名の通りせっせと労働に勤しんでおります。
明日は学部の授業に加えて大学院のゼミのある日なので、その準備に忙しいのですが(アメリカの大学院の人文系の授業では、毎週一冊本を読んで論じるのが普通なので、学生も大変ですが、教えるほうも、すべての本をちゃんと読み直して準備をしようと思うとかなり大変)、今週の課題はCathy DavidsonのRevolution And The Word: The Rise Of The Novel In America。アメリカ建国初期に興隆した「小説」をジャンルとして分析し、この時期に小説というものが誰によってどのようにして書かれ、どのような仕組みで流通し、誰によってどのように読まれたのか、という社会史的な考察と、実際に多くの読者に読まれた作品が当時どのような「意味」を持っていたのかを脱構築的な手法を使って検討したもの。もとは1986年に出版されたものですが、今読んでも、というか、今読むとなおのこと、興奮する内容。18世紀後半から19世紀初頭にかけての「読者」がどのようにして小説を読みなにを感じ取っていたのかを、現存する本の余白に書かれたメモや人の日記や手紙を手がかりに探っていく手法はまさに探偵のようで、それを辿っていくだけでもワクワクするし、さまざまな政治思想や建国の理想と相容れないさまざまな社会の現実が入り混ざった混乱の時期に、なぜ小説というジャンルが育っていったのか、感傷小説やピカレスク小説、ゴシック小説など、いわゆる「高尚な」「純文学」のカテゴリーにはあまり入れられることのない小説が、この時期に興隆し「小説」というジャンル、そして「小説家」という職業を生み出していったのはなぜなのか、テキストそのものの内外から多角的に分析するそのさまは、読みながら「おー!」と拍手したくなる素晴らしさ。アメリカ史やアメリカ文学史に馴染みのない人には厳しいかもしれませんが、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』で論じられていることと重なる部分が多く、イギリスからの独立を果たした建国初期のアメリカと、明治大正期の日本における「国民文学」としての小説の歴史を考えるととても興味深いです。
私はこの本は大学院生のときに読んで以来、実に20年ぶりに読み返しましたが、私はこの本を読んで、「アメリカ研究という学問がこういうものなのだったら、これを職業にしてもよい」と興奮したのを思い出しました。当時読んだのは1986年版でしたが、2004年に再版されるにあたって著者があらたに書いた序文が、これまたすごい。自らの過去の研究をふりかえってこのように位置づけられるのは本当に立派。Cathy Davidsonは、今ではデジタル知を含む新しい時代の「知」のありかたを研究して、現在は新著のNow You See It(こちらは私はまだ未読)のプロモーションで全国を駆け回っていますが、アメリカ建国初期の小説とデジタル時代の知とはずいぶんかけ離れたトピックのようでありながら、実はおおいにつながっているということが、Revolution And The Wordをじっくり読むとよくわかります。この本はアメリカ研究の分野では「古典」の一部となっているものですが、こうした本をあらためて読み返すのは、アメリカ研究の学説史を概説する大学院の授業(興味のあるかたは、こちらのシラバスをご覧ください)を教えているおかげ。ときどきこうして古典を読み返すと、以前に読んだときにはじゅうぶん理解していなかったことがわかったり、新たな発見があったりして、とてもよいものです。
明日は学部の授業に加えて大学院のゼミのある日なので、その準備に忙しいのですが(アメリカの大学院の人文系の授業では、毎週一冊本を読んで論じるのが普通なので、学生も大変ですが、教えるほうも、すべての本をちゃんと読み直して準備をしようと思うとかなり大変)、今週の課題はCathy DavidsonのRevolution And The Word: The Rise Of The Novel In America。アメリカ建国初期に興隆した「小説」をジャンルとして分析し、この時期に小説というものが誰によってどのようにして書かれ、どのような仕組みで流通し、誰によってどのように読まれたのか、という社会史的な考察と、実際に多くの読者に読まれた作品が当時どのような「意味」を持っていたのかを脱構築的な手法を使って検討したもの。もとは1986年に出版されたものですが、今読んでも、というか、今読むとなおのこと、興奮する内容。18世紀後半から19世紀初頭にかけての「読者」がどのようにして小説を読みなにを感じ取っていたのかを、現存する本の余白に書かれたメモや人の日記や手紙を手がかりに探っていく手法はまさに探偵のようで、それを辿っていくだけでもワクワクするし、さまざまな政治思想や建国の理想と相容れないさまざまな社会の現実が入り混ざった混乱の時期に、なぜ小説というジャンルが育っていったのか、感傷小説やピカレスク小説、ゴシック小説など、いわゆる「高尚な」「純文学」のカテゴリーにはあまり入れられることのない小説が、この時期に興隆し「小説」というジャンル、そして「小説家」という職業を生み出していったのはなぜなのか、テキストそのものの内外から多角的に分析するそのさまは、読みながら「おー!」と拍手したくなる素晴らしさ。アメリカ史やアメリカ文学史に馴染みのない人には厳しいかもしれませんが、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』で論じられていることと重なる部分が多く、イギリスからの独立を果たした建国初期のアメリカと、明治大正期の日本における「国民文学」としての小説の歴史を考えるととても興味深いです。
私はこの本は大学院生のときに読んで以来、実に20年ぶりに読み返しましたが、私はこの本を読んで、「アメリカ研究という学問がこういうものなのだったら、これを職業にしてもよい」と興奮したのを思い出しました。当時読んだのは1986年版でしたが、2004年に再版されるにあたって著者があらたに書いた序文が、これまたすごい。自らの過去の研究をふりかえってこのように位置づけられるのは本当に立派。Cathy Davidsonは、今ではデジタル知を含む新しい時代の「知」のありかたを研究して、現在は新著のNow You See It(こちらは私はまだ未読)のプロモーションで全国を駆け回っていますが、アメリカ建国初期の小説とデジタル時代の知とはずいぶんかけ離れたトピックのようでありながら、実はおおいにつながっているということが、Revolution And The Wordをじっくり読むとよくわかります。この本はアメリカ研究の分野では「古典」の一部となっているものですが、こうした本をあらためて読み返すのは、アメリカ研究の学説史を概説する大学院の授業(興味のあるかたは、こちらのシラバスをご覧ください)を教えているおかげ。ときどきこうして古典を読み返すと、以前に読んだときにはじゅうぶん理解していなかったことがわかったり、新たな発見があったりして、とてもよいものです。
2011年9月2日金曜日
大学教授の頭のなか
新学期が始まって2週間がたちました。今のところ、学部・大学院の授業とともに順調ですが、いつものことながら、学部の授業ではいくら言ってもきちんとリーディングをこなして授業にやってくる学生とそうでない学生とに新学期早々に分かれてしまい、リーディングをやってこそ授業で私が話していることがきちんと理解できるのだということをいかに伝えるかが難しい。過去には、課題を読んでこない学生があまりにも多く、ディスカッション形式の授業が成立しないので、読んで来なかった学生に「この授業時間のあいだ図書館にでも行って読んできなさい」と追い出したこともあるのですが、2週間目からそういうことをすると空気が悪くなるので、優しく温かく笑顔をもって、リーディングに向かわせる方法を模索中。
学期中は授業の準備とさまざまな雑用、そして進行中の執筆その他の仕事をこなすのが精一杯で、それ以外のものを読んだりする時間はまるでないのですが、学期が始まると同時にアマゾンから届いてしまい、誘惑に勝てず忙しいさなかに読んでしまったのが、ハーヴァードの社会学者Michele LamontによるHow Professors Think: Inside the Curious World of Academic Judgmentという本。以前にこの著者のMoney, Morals, and Mannersという本を読んでむちゃくちゃ面白く(アメリカとフランスのアッパーミドルクラスの意識を比較した研究)、また今学期の大学院の授業では彼女のThe Dignity of Working Men(こちらはアメリカとフランスの労働者階級の男性の意識を比較したもの)を使うことにもなっているのですが、この本はこれまたたいへん興味深い。タイトルを直訳すると「大学教授はどのように考えるか―学術評価という不思議な世界の内側」ということになりますが、アメリカの学界、とくに社会科学や人文科学の分野での権威ある財団の助成金のピア・レビューの仕組みをフィールドワーク調査で分析したものです。学問の世界にいる人以外には「そんなものがなんで面白いのか」と思われるかもしれませんが、私にとっては、複数のレベルでとてもワクワクする研究でした。まず、実際にここでとりあげられている財団の助成金や類似した助成金・奨学金に定期的に応募する立場の人間として、また、こうした助成金のピア・レビューを依頼されることもある立場の人間として(私は最終パネルのメンバーにはなったことはありませんが、その前の段階の査読は何度かしたことがあります)、このピア・レビューの仕組みがどれほど合理的に機能していて、ピア・レビューをする研究者たちはどのような思考パターンを経て決定に至るのか、という全体像の分析を読むことは、実用的なレベルで参考になる。より理論的なレベルでは、社会科学や人文科学において、「優秀さ」「独創性」「明瞭さ」といった概念が具体的にはどのように理解され評価されるのか、また、そうした理解や評価が、多分野の研究者によって構成されるパネルの議論のなかでどのように交渉されていくのか、といった分析がたいへん興味深い。とくに、研究企画の「優秀さ」といった基準と、財団が支援する研究や研究者の「多様性」といった基準がどのように絡み合うか、そして、「多様性」のなかでも、アメリカの公の場で議論が集中しがちな人種やジェンダーの多様性の他にも、大学の種類(東海岸のエリート私立大学と、他の地域の州立大学といった相違)やディシプリンや研究トピックの多様性といったものを、研究者たちがどのように天秤にかけるか、といった分析が、たいへん面白く、たとえばこうした手法を、それこそピアノ・コンクールでの評価に応用して、審査員たちが「芸術性」「技術性」「曲の理解や解釈」といったものをどのように評価するのか分析したら、たいへん興味深いはず。
学期中は授業の準備とさまざまな雑用、そして進行中の執筆その他の仕事をこなすのが精一杯で、それ以外のものを読んだりする時間はまるでないのですが、学期が始まると同時にアマゾンから届いてしまい、誘惑に勝てず忙しいさなかに読んでしまったのが、ハーヴァードの社会学者Michele LamontによるHow Professors Think: Inside the Curious World of Academic Judgmentという本。以前にこの著者のMoney, Morals, and Mannersという本を読んでむちゃくちゃ面白く(アメリカとフランスのアッパーミドルクラスの意識を比較した研究)、また今学期の大学院の授業では彼女のThe Dignity of Working Men(こちらはアメリカとフランスの労働者階級の男性の意識を比較したもの)を使うことにもなっているのですが、この本はこれまたたいへん興味深い。タイトルを直訳すると「大学教授はどのように考えるか―学術評価という不思議な世界の内側」ということになりますが、アメリカの学界、とくに社会科学や人文科学の分野での権威ある財団の助成金のピア・レビューの仕組みをフィールドワーク調査で分析したものです。学問の世界にいる人以外には「そんなものがなんで面白いのか」と思われるかもしれませんが、私にとっては、複数のレベルでとてもワクワクする研究でした。まず、実際にここでとりあげられている財団の助成金や類似した助成金・奨学金に定期的に応募する立場の人間として、また、こうした助成金のピア・レビューを依頼されることもある立場の人間として(私は最終パネルのメンバーにはなったことはありませんが、その前の段階の査読は何度かしたことがあります)、このピア・レビューの仕組みがどれほど合理的に機能していて、ピア・レビューをする研究者たちはどのような思考パターンを経て決定に至るのか、という全体像の分析を読むことは、実用的なレベルで参考になる。より理論的なレベルでは、社会科学や人文科学において、「優秀さ」「独創性」「明瞭さ」といった概念が具体的にはどのように理解され評価されるのか、また、そうした理解や評価が、多分野の研究者によって構成されるパネルの議論のなかでどのように交渉されていくのか、といった分析がたいへん興味深い。とくに、研究企画の「優秀さ」といった基準と、財団が支援する研究や研究者の「多様性」といった基準がどのように絡み合うか、そして、「多様性」のなかでも、アメリカの公の場で議論が集中しがちな人種やジェンダーの多様性の他にも、大学の種類(東海岸のエリート私立大学と、他の地域の州立大学といった相違)やディシプリンや研究トピックの多様性といったものを、研究者たちがどのように天秤にかけるか、といった分析が、たいへん面白く、たとえばこうした手法を、それこそピアノ・コンクールでの評価に応用して、審査員たちが「芸術性」「技術性」「曲の理解や解釈」といったものをどのように評価するのか分析したら、たいへん興味深いはず。
これと関連する日本の研究としては、佐藤郁哉・芳賀学・山田真茂留『本を生みだす力』があります。これも私はとても興奮して読みました。大中小いくつかの出版社に焦点をあてて非常に丁寧なフィールドワークをもとに日本の学術出版の仕組みを分析したものです。日本とアメリカでは学術出版の仕組みがおおいに違うので、その違いを垣間みるだけでも私にとっては個人的に面白かったですが、編集者たちがどのように学術的知の創造とビジネスとしての出版に向き合っているか、ミクロとマクロの両方の次元で分析されていて素晴らしい。
素晴らしいのですが、とりあえず今学期の授業や目前の自分の仕事への直接の関係度は比較的低いので、刺激と興奮だけ大事にして、まずしなければいけない仕事を片づけなければ...