2016年11月21日月曜日

選挙直後のAmerican Studies Association 年次大会をふりかえって

コロラド州デンヴァーで4日間にわたって開催された、American Studies Associationの年次大会から帰ってきたところです。大学院生の頃からほぼ毎年参加してきたこの学会は、私にとっては知的な故郷ともいえる集まりです。アメリカにおけるAmerican Studiesという分野は、1930年代頃に書かれた包括的なアメリカ思想史や、「ニュー•クリティシズム」とよばれる文学批評のありかたへの批判から生まれた新たな文学•文化史研究にその起源がありますが、とくに1960年代からは、さまざまな社会運動に深くかかわってきた人たちがリーダーとなって、エスニック•スタディーズやジェンダー•スタディーズなどと密接につながりながら発展してきました。政治•思想的には、いわゆる「左」の人たちが圧倒的。リベラリズムの批判分析は大いになされますが、それは保守からではなくリベラリズムよりさらに左の視点からなされる、というのがこの学会の特徴です。学会の運営に携わる役員や年次大会のプログラム委員などの顔ぶれを見ても、白人男性はむしろ少数派で、学会での研究報告者や参加者たちも、人種やジェンダー、セクシュアリティなどにおいて実に多様。こういった集団ですから、トランプが大統領に選ばれた直後の年次大会は、例年にまして切迫感があるものでした。年次大会のプログラムをさっと見ると、いったいどんな学会なのか雰囲気が少しわかると思うので、興味のあるかたはこちらをご覧ください。

私は2年半前から、この学会の学術誌であるAmericanQuarterlyというジャーナルの編集長を務めています。この仕事についてはまた別の機会に投稿するつもりですが、編集長の任務中、年次大会では、編集会議だの学会の役員会議だのジャーナル主催のパネルの司会だのといった仕事がいっぱいで、何百とあるパネルを見学する時間がほとんどない、といった状態なのが無念。今回の年次大会では、 今年度の学会長であるRobert Warrior氏(彼はオサージ族のネイティヴ•アメリカンです)とプログラム委員のイニシアティヴで、選挙結果を受けて緊急に企画されたパネルもいくつもありました( 強制送還される可能性のある移民の学生を保護するための大学サンクチュアリ運動についてのセッションや、ダコタ•アクセス•パイプライン問題についてのセッションなど)。選挙の結果にショックを受けながらも、人種やジェンダーなどにかんする専門知識と長年の社会運動の蓄積、そして行動力と組織力を武器に、学会そして社会全体にとってのこれからの課題を活発に議論する人々のエネルギーに、力をもらいました。

見学することのできたもののなかでとくに印象的だったのが、政治•政策部会によって企画されたセッションで、部会のメンバー4人が今回の選挙結果について議論したパネル。American Studiesは学際的な手法に重きをおく分野なので、年次大会での報告やジャーナルに掲載される論文は、従来のディシプリンの枠を超えた分析手法を使ったものが多く、選挙のような狭義の「政治」を扱う場合にも、正統的な政治学で使われる手法とはずいぶん違った議論になるのですが、このセッションでは、American Studiesとかかわりをもちながらも政治学部に籍を置く研究者たち4人による報告だったのが特徴的。政治学の専門家が正面から選挙を分析することの有用性を感じると同時に、「う〜む」と思わされることも多いセッションでした。

その「う〜む」は、American Studiesと政治学との間にある明らかなギャップからくるものでした。4人の報告は、1970年代頃からのアメリカ政治における南部の流れ、今回の選挙での人種意識の動員のされかたや「セクシズム」の再構築のありかた、テレビなどの従来のメディアとソーシャル•メディアのかかわりなど、それぞれ学ぶところが多く、選挙以来いろいろ読んできた記事で得た情報を深めてくれるものでした。が、私がなにより気になったのは、いわゆる「インターセクショナリティ」(intersectionality)の分析の欠如。

ブログ投稿で「インターセクショナリティ」を簡潔に説明するのは無理があるのですが、あえてするなら、人種•民族•国籍•ジェンダー•性的指向•階級などといった社会的カテゴリー は、それぞれが別個に存在しているのではなく、相互に作用しながら形成されている、という考えかたのもとに、そうしたカテゴリーを軸にした力の不均衡のありかたを分析するものです。「インターセクショナリティ」という単語は、キンバリー•クレンショー(Kimberlé Crenshaw)という人種理論を専門とする法学者が1989年に発表した論文の影響によって一般化してきましたが、その考えかた自体は、19601970年代のフェミニズム運動、とくに白人ミドルクラス女性の視点や経験を中心にしたフェミニズムを批判する第3次フェミニズムのなかで、さまざまな形で実践されてきたものです。

たとえば、労働者階級の黒人女性の経験や位置づけは、(「労働者階級」の搾取)+(「黒人」に対する差別)+(「女性」の抑圧)によってできているという、「足し算」方式の理解では不十分で、そもそも「労働者」という概念がどのような人種的•性的意味づけをもって構築されてきたか、「黒人」としてのアイデンティティにはどのような性的意味づけが社会によってなされ、黒人コミュニティのなかでどのような性的規範が機能しているか、「女性」としての尊厳や理想にはどのような人種的•階級的意味付けが伴うか、といった、カテゴリーの「交差」を考えなければ、「労働者階級の黒人女性の経験や位置づけ」は理解できない。「カテゴリーの相互構築」を少し具体化していえば、19世紀の産業化のなかで、白人男性の労働者たちは、自分たちは「(黒人)奴隷ではない」「(中国人)苦力ではない」などと、人種的意味付けをされた他の労働形態と自らを差別化して階級意識を形成してきた。20世紀、とくに第二次大戦後から1970年代までには、工場などで身体を使って作業するなかで培われた 男性同士のつながりが、多くの場合労働組合によって組織化され、「家族を養う」という立場や能力が「労働者階級男性」としてのアイデンティティの中核をなすようになった。その中で、「男性不在の家庭」とレッテルを貼られた黒人や、女性の社会進出によって共働き家庭が一般化した白人ミドルクラスとの区別が、現実においても意識においても強化された。といった具合に、「労働者階級」というカテゴリー自体に、人種的•ジェンダー的刻印がなされているわけです。

ここ数十年における南部や中西部の保守化、とくに今回の選挙の流れは、このような人種•階層•ジェンダーなどの相互構築の様相をきちんと分析しなければ理解できないはずなのですが、メディアに出てくる記事などで、個々の分析はとても納得のいくものであっても、この「インターセクショナリティ」を満足のいく形でとらえたものはほとんど目にしません。そして、そうした記事を書いているのは、多くの場合政治学者。政治学者をひとまとめにして批判するつもりはありませんが、なぜAmerican Studiesでは常識となっているインターセクショナル分析が、政治学には応用されにくいのか、というのが素朴な疑問で、質疑応答の時間に質問してみました。すると、4人のパネリストは深く頷きながら、「その指摘の通り、政治学という分野はインターセクショナリティを扱う道具をもっていない。数量的分析を主な手法とする正統的な政治学では、統計をとったり分析したりするにあたって、人種•性•学歴などの変数を互いに分解して扱わなければいけないと同時に、人種意識やセクシズムなどを『測量』する方法も、American Studiesの視点から見れば馬鹿げているとしか思えないような手法しかもっていない。歴史的視点と質的分析をもってインターセクショナリティのありかたを深く扱ってきたAmerican Studiesから、政治学は学ぶべきことが多い」との回答でした。それと同時に、真に学際的な研究が、これからの社会にますます必要とされている。だからこそ、数量的なことは従来あまり扱ってこなかったAmerican Studiesのほうも、政治学から学ぶべきことが多いのだということを、今回の選挙は感じさせてくれました。

ホノルルからデンヴァー(ちなみに、私が到着してからの最初の2日間はハワイとそれほど変わらない気温だったのですが、一晩のあいだになんと気温が20C以上下がり、木曜日はなんと雪でした!)の往復の飛行機のなかで読んだのが、社会学者Arlie HoschildStrangers in Their Own Land: Anger and Mourning on the American Right9月に刊行されたばかりの新刊ですが、この選挙結果により本書のレレバンスはさらに高まり、ベストセラーになっています。選挙の前に読んでいれば、少しはトランプ当選に直面する心と頭の準備ができていたかもしれない。

社会科学的視点(とはいっても、この著者は社会学の中でも質的分析を主な研究手法としているので、大きな「社会科学」のなかではメインストリームではないのでしょうが)とエスノグラフィックな深い質的分析を合わせて、「ティー•パーティ」層といわれる保守派の人々の意識や生活を描いたものです。著者は、アメリカのアカデミアの中でも左で定評のあるカリフォルニア大学バークレー校の社会学者で、これまでにジェンダーや労働や市場を扱った多くの著者がある人物。本書では、5年間にわたって「ティー•パーティ」の牙城のひとつであるルイジアナ州の湿地帯のコミュニティに入り込み、保守派を自負する人々と親しい交友関係を築きながら、彼らの生活や意識を密接に取材し分析しています。とくに、地元に雇用と発展をもたらすとの触れ込みで誘致された石油産業が、地域の環境や経済におよぼしている影響に焦点をあてながら、公害の影響をより受けている地域の人々のほうがそれ以外の地域の人々よりも産業規制に反対するのはなぜか。大企業の利益を優先する政策が彼らの生活をさらに苦しくするにもかかわらず、彼らが自由市場主義を賛美し、共和党を支持し、トランプのような人物に投票するのはなぜか。人々が自らの経済的利害に反する政治的選択をするのはなぜか。といった問いを丁寧に探索していきます。

著者自身はあきらかなリベラルで、研究対象としている人々とは世界観や意識がまるで違い、取材対象の人々もそのことは百も承知。そのうえで、彼らのコミュニティに入り込み、インタビューやフォーカス•グループで率直な話を聞き、一緒に教会やタウン•ミーティングに通い、彼らの見るテレビ番組を見、ひとりひとりの人間として彼らについての理解を深めていきながら、自分自身のなかにある「共感の壁」をなんとか崩そうとする、著者のその真摯な姿勢が、研究者としても人間としても素晴らしい。最終的には「ティー•パーティ」の世界観や政治意識を是認するわけではなく、彼らがもっている考えが事実とどうずれているかをきちんと指摘しているのですが、彼らについて価値判断を下すのではなく、なぜ彼らがそのような意識をもつにいたったのか、彼らにはアメリカ社会や世界がどう見えているのか、をきわめて誠実に描いていて、説得力があります。自分にこういう研究ができるだろうかと考えると、(この著者は白人女性であるのに対して自分は日本人女性である、ということが意味することは別にしても、)私は人格的器量が不十分なような気がします。本書は人種問題については分析が薄く、選挙以後すでに各地で起こっているマイノリティへの攻撃やムスリム「登録制」をめぐる問題についてはこの本の枠組みでは説明できない、という印象ですが(このような質的研究においても、本当に深いインターセクショナル分析を完徹するのはとても難しいのだ、ということを再認識します)、トランプ政権を前に、リベラル•保守の両方の人々に広く読まれるべき一冊だと思います。また、 リベラル•保守にかかわらず、日本の読者にとっては、アメリカの社会の一面を知るうえでとても参考になると思うので、じきに和訳が出版されるのではないでしょうか。

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2016年11月12日土曜日

ブログ再開のご挨拶



個人的な事情により、長いあいだ投稿を中止していましたが、このたびドナルド•トランプ氏が次期大統領に決まったことを機に、ブログ執筆から私を遠ざけていたいろいろな思いを振り切って、再びこのブログを再開することにしました。

トランプの勝利が確定したときには、あまりの衝撃で蒼ざめたまま椅子から立ち上がれない状態がしばらく続きました。政治の展開で自分がこれほど精神的な打撃を受けたことはありません。2000年も2004年も結果に憤怒はしましたが、今回のように涙はしませんでした。

人生の半分をアメリカで過ごし 、いろんなアメリカの姿を見てきて、こうした展開も予想できたはずなのに、なぜ自分がこれだけ衝撃を受けるのだろう。その理由はおもにふたつ考えられます。

ひとつは、アメリカとかかわるようになってからの37年間、私がアメリカについて信じてきたことを、今回ほど根底から否定されたことはなかった、ということ。アメリカの歴史は、虐殺や略奪や追放や排斥や搾取といった、あらゆる暴力に満ちた歴史であり、その社会経済は、人種や国籍や性や階層や性的志向などのさまざまな不均衡のもとに成り立っている、ということは、じゅうぶん認識していたつもりです。それでも、自分があえてアメリカを生活の場として選び、アメリカを理解することを仕事にしているのは、 アメリカという社会 が、自由や平等といった理念を尊び、異なるものを受け入れる包容力を持ち、多様性に価値をおく社会である、と信じてきたからです。そして、多くの人たちがさまざまな社会運動を通じて、社会の不平等や不均衡を少しずつ克服するよう闘ってきたその歴史と姿に、感銘を受けてきたからです。政府やさまざまな制度はともかくとして、アメリカを構成する人々のほとんどは、そうした価値観こそを国のプライドとしている、大らかな人々だと、信じてきました。その信念は、今まで自分が体験してきたことと、身につけてきた知識の両方から培われたものでした。それが、今回のトランプ当選で、根本的に否定されてしまった。少なくともそう思えるほど、トランプ氏が選挙キャンペーン中に公表してきた政策案やこれまでの言動は、そうしたアメリカの価値観の対極にあるものでした。

もうひとつは、アメリカ研究者として、これほど自らの無能と非力を感じたことはなかった、ということ。僅差になる可能性はあっても、いくらなんでもトランプが当選することはあるまい、と確信していました。いや、正直なところを言えば、かなりの大差でクリントンが当選するだろうと思っていました。私自身は、クリントンを熱心に応援していたわけではまったくありません。サンダースを支持していた人たちの多くと同じで、クリントンの背景や政策は支持できないことが多いけれども、いくらなんでもトランプに大統領になられては世界全体が大変なことになるので、妥協候補としてクリントンに投票する、という立場でした。そして、私の周りにはトランプ支持者はひとりもいません。友達の親などで、普段は共和党支持だという人はいても、今回ばかりはいくらなんでもトランプには入れない、と言っていました。もちろん、そもそもトランプが共和党候補として選ばれているのだから、アメリカ全体を見回せば相当数がトランプを支持していることはわかっていたけれど、一連の予想統計をみても、まさかトランプが当選するとは想像しませんでした。予想がまったく外れただけではなく、結果が出てからも、そうなった理由を説明することが自分にはまったくできない。アメリカ研究者を名乗りながら、自分がアメリカの現実から乖離したバブルの中で生きていただけでなく、アメリカの社会をまるで理解していなかった、という事実を、今回ほど残酷に突きつけられたことはなかった。自分はいったいここで何をしているんだろう、私はこれから何をしていけばよいのだろうと、根源的な問いが今も頭のなかを大きく占めています。

選挙翌日のホノルルの様子は、2011.3.11の東日本大震災の翌日の東京と少し似ていました。もちろん、震災は誰も望んでいなかった自然災害であるのに対して、大統領選は国民の約半数が参加した民主的なプロセスで、投票者数の半数近く(絶対得票数ではクリントンが過半数を占めた)が、それが国にとってよいことだと信じて自主的にトランプに投票したのですから、状況としてはまったく比較にならないのはもちろんです。ただ、その事態に直面しての世の中の空気という点では、私がこれまで経験してきたことのなかでは震災翌日の東京がもっとも近い。なにかとんでもない大事態が起こったけれど、それがいったい何を意味しているのかをまだじゅうぶんに把握できず、ただ衝撃と悲しみとパニックが渦巻いているのが、人々の表情に滲み出ているのです。とくにハワイは民主党支持者が圧倒的なので、トランプ当選を祝福している人たちの姿をそのあたりで見かけるわけではなく、呆然とした空気の共有感はさらに大きい。

選挙の翌朝大学に行くと、教員も学生も、顔を合わせると何も言わずに抱擁して泣いている場面を何度もみました。私自身、大学院のゼミの授業では、口にした一文目の途中で泣き出してしまい、それを受けて、学生たちも老若男女を問わず(6人しかいない授業なのですが、イギリスから最近アメリカに帰化した58歳の男性から、30代の先住ハワイアンの男性、父親が軍人でアメリカ各地を転々として育った20代の白人女性、トロント大学を卒業してすぐハワイ大学にやってきたフィリピン系カナダ人女性など、顔ぶれはかなり多様)、みなポロポロと涙を流しながら、思うところを1時間半ほど話し合ってから、予定していた授業の内容に移りました。

しかし、蒼くなって呆然としている、という状態はそう長くは続きませんでした。トランプ政権の誕生によって現実となりうるさまざまな政策案は、ムスリムや移民、LGBTQ、アフリカ系アメリカ人、女性など、さまざまな人たちの権利や安全を脅かすもので、多くの人たちが、その恐怖をすでにとてもリアルに感じている。自分の家族は国外に強制追放されるんだろうかとの恐怖を話しにくる学生、自分は学位取得までアメリカに残れるんだろうかと心配する留学生、やっと 同性のパートナーと結婚したのにそれが無効になるんだろうかと不安を口にする学生。自分が信じてきたアメリカはこんなものではないはずだ、という悲しみは、恐怖と怒りと混ざり合って、一大危機に面した国の空気となっています。学生たちの悲しみや恐怖や怒りを、どのように受け止めれば良いのか。また、少数でも確実に存在するトランプ支持者の学生や、怒りの対象となって自分たちのほうが被害者になったかのように感じる白人学生の思いに、どのように向き合うのが教育者として正しいのか。といった話が、私の同僚たちのあいだでここ数日間ずっとなされています。

多くの人たちが感じている恐怖や不安は、決して想像や思い込みによるものではありません。すでに全国各地で、スワスティカの落書きや、ムスリムの人への暴力行為や、LGBTQへの嫌がらせなどが起こっています。本当に悲しいことに、ハワイ大学のキャンパスのトイレにも、#BlackLivesDon’tMatterという落書きが昨日発見されました。マイノリティや女性への蔑視を堂々と公表した人物が大統領に選ばれたことで、自らの差別意識を正当化された人たちが、暴力的な言動に出る勇気を得ているのです。そして、こうした事件はこれからどんどん増えていくだろうと思わます。

アメリカはこんな国ではないはずだ、どうしてこんなことになってしまったのだろうか、との思いが募るばかりですが、そのいっぽうで、「やはりこれがアメリカだ」と希望を抱かせてくれることもたくさんあります。あえて大雑把な表現をすれば、なにしろアメリカ人は行動力と組織力のある人たちです。選挙の翌日から、各種団体はもちろん、実に多くの人たちが、トランプが綱領に挙げてきた政策の実現を阻止し、トランプ政権によって立場を脅かされる人々を守るための、具体的な行動を開始しています。それは例えば、国外追放される危険のある学生やその家族たちを守るために、大学のキャンパスを警察や移民管理官が大学の許可なしには入ることのできない保護地域に指定するための署名運動であったり、堕胎の自由が脅かされるであろう状況をふまえてのPlanned Parenthoodなどの団体への寄付強化キャンペーンであったり、暴言暴力や嫌がらせにあった人たちのためのホットラインの設置であったり、ローカルなものから全国的そして国境を超えたものまでさまざまです。
 
また、メディアでも報道されているように、多くの都市で、トランプ当選に抗議する集会や行進が、自然発生的に起こっており、時間が経つにつれて、 運動は組織化されてますます拡大していくでしょう。こうやって、納得のいかない状況を黙って受け入れず、すぐに声をあげ行動に移すアメリカの人たちの態度と組織力を見ると、「そうだ、これこそがアメリカだ」と確認させられます。そしてとくに、高校生や大学生を含む若い人たちが、立ち上がって、雄弁に発言し果敢に行動している姿に、感動と勇気と希望を感じます。

私も昨日、ホノルルのアラモアナ公園前の沿道でのサインホールディングに参加してきました。参加者は百数十人と、大都市の抗議集会と比べれば小規模ではあったものの、選挙からほんの3日後のホノルルでの運動にすれば、決して悪くはないし(明日日曜日にはより大きな行進が予定されています)、20代の若い人たちが中心になって企画された催しであったことも、そして、私が指導している日本からの留学生が一番乗りで来ていたのも、とても嬉しかったです。彼女は博士課程の資格試験を来学期に控えて、私に言われて次から次へと何十冊もの研究書を読みまくっている最中。それでも、アメリカ社会を学ぶためには、書物を読むだけではなく、こうした現場に足を運んで自ら発言することも大事なのだ、ということを、私から言われなくてもきちんと学んでくれていて、涙が出そうでした。


アメリカ研究者としての自分の立場や役割をどう考えるべきなのか、という問いは、これからじっくりと考え直していかなければいけないと思っています。自分がこれまで情報や知識を得ていたソースや方法、自分が関心を向けてきた対象などを見直す必要があるかもしれません。そして、もっと根本的に、自分はいったい何をしようとしているんだろうか、何をするのが私の仕事なんだろうか、ということを、深い反省を含めて真剣に考えていこうと思います。

簡単に答が出るような問いではないのはわかっていますが、ただ、今の段階で自分が出したひとつの答。それは、私は、「考える」ことで生計を立てさせていただいている、このご時世において実に優遇された立場の人間である。学生の授業料や国民の税金の一部は、私がアメリカの歴史や社会や文化について「考える」ことに使われている。そんな特権的な立場におかせていただいている以上は、深く精緻に多面的に「考える」作業を、徹底的に続けていくことこそが、私の義務なのだ、ということです。

選挙結果を振り返って、メディアでもアカデミアでも、反省を含むさまざまな分析や評論が飛び回っています。 多くの人々にとってあまりにも衝撃的な結果だったために、この展開をわかりやすく説明するような論を目にするとすぐ、「そうだ、これだ!」と飛びつきたくなるのも自然でしょう。私自身も、そうした説明にすがりつきたくなるのが正直なところです。そして、いろいろな説明には、それぞれ正当な部分があるでしょう。

しかし、今回のような社会の動きは、「低学歴層白人男性の反撃」だの「変化を求める民衆」だの「エスタブリッシュメントの拒絶」だのといった単純な説明で捉えきれるものでは到底ないだろうと思います。そして、レイシズムやセクシズムが大きな要素であったことは間違いないにしても、「レイシズム」や「セクシズム」というのは、アフリカ系アメリカ人への差別やメキシコ移民の排斥や、女性が大統領になることの拒否といった形だけで表れるものではない。アメリカ社会においては、「人種」「性」「階層」といったカテゴリーは、相互に作用しながら形成されてきているものですから、トランプを支持した人たちは「経済問題」を「人種問題」よりも「重視」して投票した、という説明ではとうてい不十分なのです。曲がりなりにもアメリカ研究を本職としている人間としては、一見納得がいきそうな明確な説明の誘惑を極力退け、これまでよりさらに真剣に、丁寧に、じっくりと、考えていく覚悟をしています。

真剣に、丁寧に、じっくりと考えるためには、タイムリーな話題を簡潔で明快な文章で一般の読者に提供していくブログという形式は不適切かもしれません。これまでしばらくブログを中断していたのも、そういった考えがあったのも理由の一つです。ただそれと同時に、ハワイという個性的な場所に長年住み、仕事や生活をしているアメリカ研究者だからこそ、私がこの視座から提供できるものもあるのではないかと信じたい。ので、自分が納得のいくペースで、投稿をしていくつもりです。政治の話題だけでなく、音楽や本やもっと軽く楽しい話題についても書くつもりですので、読んでくださる皆さま、またどうぞよろしくお願いいたします。