2018年9月1日土曜日

アイオワ、言語、アメリカ、歴史−−柴崎友香『公園へ行かないか?火曜日に』

 友達に薦めてもらい、出版社の人に送ってもらった、柴崎友香『公園へ行かないか?火曜日に』を読了。

 『新潮』その他の文芸誌に掲載されたエッセイを加筆修正してまとめたものなので、章から章へと話が順に展開されていくわけでもないし、話が前後したり繰り返しがあったりするし、各章で扱われているトピックによって、私には共感の温度にだいぶ差があったけれど、それがまた、メモワールとも紀行文とも小説とも評論ともつかぬ不思議な魅力の仕上がりの一要素になっている。

 すべての章の素材となっているのは、アイオワ大学のIWP (International Writing Program)に参加するため、2016年の大統領選に重なる時期に3ヶ月アメリカに滞在した著者の体験。IWPについては、『日本語が亡びるとき』の最初の部分で水村美苗さんが活き活きと描いているし、私の優秀な教え子が博士論文で扱っていることもあって、個人的に興味津々。水村さんのように、長いアメリカ生活経験をもち、英語で会話だけでなく文学作品を読み書きをすることもできるような参加者はともかくとして、世界各国から集まってくる、多くは英語を母語としない作家たちにとって、アイオワでの毎日は実際のところどういうものなのだろう、そこで何を感じたり学んだりするんだろう、と思っていた。舞台芸術や視覚芸術なら、言葉ではなくその芸術媒体を通してコミュニケーションが成立する部分も多いだろうけど、なにしろ作家である彼らの媒体は言葉。共通言語である英語の能力もまちまちだし、お互いの作品をその人の使っている言語で読むことができないなかで、参加者同士の意思疎通はいったいどんなものなのだろう、と単純な疑問を抱いていた。これまでに日本人作家たちも数多く参加してきたらしく、そのほとんどは水村さんと比べると英語力がかなり低いのではないかと想像すると、彼らのアイオワ体験は果たしてどんなものだったんだろう、と、正直言って覗き見趣味的な興味もあった。

 そうした関心にこの作品は大いに答えてくれるだけでなく、他にもたくさん考えたり感じ入ったりする材料を提供してくれた。

 表題作からして、なんとも不思議な雰囲気の文章。気軽でのどかで呑気な散歩に出かけたつもりが、「公園」というものの理解が目の前で覆されることによって、著者の頭の中ではそれが生きるか死ぬかという話に発展し、その体験から、自分とアメリカのあいだ、そして参加者同士のあいだにある、文化や言語ひいては世界観の深く大きな溝を認識するようになる。その洞察の過程が、柔らかくて優しく、そして著者の限定された英語の理解力や表現力をも表している不思議な日本語で綴られていて、そのミスマッチかんがなんともいえない。他の章の文章も、あまり気にせずに読んでいると面白くさらっと読み流してしまいがちなのだけど、よく考えてみると、言葉を介して世界を体験したり表現したりする、ということの意味が、作文上のありとあらゆる選択に込められていて、同じ内容を伝えるにしてもストレートな評論文では実現しにくい効果が発揮されている。

 私にとって一番パワフルだったのは、「ニューオーリンズの幽霊たち」。ここで描かれている、ホイットニー・プランテーションや第二次大戦博物館の展示の様子は、アメリカ研究、とくにミュージアムなどを通しての歴史の表象ということへの私の学問的関心からしても、「そうそう、そうなのだ〜!」と思うことばかりだけれど、それがあくまで個人的な体験や反応という形で書かれているということに、この文章の迫力がある。

 著者は、一般的にアメリカのミュージアム展示というものがお金も知恵も工夫も凝らされて作られているということの理解とそれへのリスペクトをもち、人間として、また作家としての純粋な知的関心も強くもっている。それと同時に、歴史のナラティブというのはどんなものでも特定の人間や集団の視点や立場から作られていて、そのナラティブを受け取るほうもまた、特定の人間や集団の視点や立場からそれに反応する、ということが、そんなよーけごっつい言葉使わんとも(著者の真似して大阪弁で書いてみたけど、私にとって大阪弁は物真似でしかないので、大阪の人はそんな表現はしないかもしれない)、鮮明に伝えられている。米軍の潜水艦と日本の船団との交戦を再生した展示で、自ら発射した魚雷の異常航行で9人の生存者だけを残して潜水艦が沈んだ、という結果を「体験」して呆然とする著者。日本では普通、日米戦争においてアメリカを被害者ととらえる歴史に触れることはないし、しかもアメリカが勝利した第二次大戦におけるアメリカの功績を記念する博物館で、真珠湾攻撃の展示ならともかく、台湾海峡での日本との交戦の展示でアメリカの潜水艦が沈没するのを体験するとは想像していなかった、しかもそれを大学の文学プログラムに招かれてアメリカにやってきた日本人ビジターとして体験するということの位置付けをどのように考えたらいいのか。頭も心もどっと疲れた著者の様子が、ミュージアムを出て路面電車を探すなにげないシーンに見事に描かれている。その文章の中で出てくる、著者の父親についての話も、強烈に印象的で、歴史とは、文化体験とは、ということを別の角度から考えさせられる。

 最終章の「言葉、音楽、言葉」で語られている、大阪弁、共通語、英語についての考察は、水村美苗さんの論とつながる部分もあってとても鋭いと思ったし、この考察のなかで音楽の話、そしてボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の話が入っているのも、とても納得。

 他にもいろいろコメントしたいことはあるのだけど、この本を読んでいると自分が書きたいことがあれこれ出てくるので、そちらに向かうことにします。