2010年9月10日金曜日

ハワイで人身取引訴訟

私が戻ってきてからの2週間にハワイでもっとも大きな話題となっているのが、今秋に裁判が行われると決まった人身取引問題。人身取引を含む労働問題を専門とする私の知り合いが労働者側の弁護士のひとりとしてこれと関連したケースに取り組んできたので、私はなおのこと興味をもっています。

強制労働の共謀と労働者搾取の容疑で起訴が決まったのは、オアフ島のカポレイという地域で農場を経営するラオス人のSous兄弟。2004年にタイから多額の就職斡旋費を払わされた44人の労働者「輸入」し、虚偽の契約書に署名させ、契約書に定められた額よりも少ない賃金で働かせ、さらにさまざまな費用を賃金から差し引いて(その結果賃金がゼロまたはそれに近くなった労働者もいた)、経営者の指示に従わなければ強制的にタイに帰国させると脅迫した、とのことです。Sous兄弟は、連邦労働省に定められているゲストワーカー・プログラムに基づいてこれらの労働者を呼び寄せたのですが、このプログラムでは、雇用者が労働者の航空費を含む交通費を受け持つこと、また、国の最低賃金を上回る賃金を払うこと、そして、労働者に斡旋費を課すことを禁じることなどが定められています。しかしSous兄弟は、労働者の航空費を出さず、契約書に定められた賃金を支払わず、きわめて劣悪な住環境(貨物用コンテナに窓の穴を開けたものに住まわせられていた労働者もいる)のもとで労働者を強制的に働かせた、とのことです。

Sous兄弟はラオスから移民してきて以来、ハワイの農業に多大な貢献をしてきた「アメリカン・ドリーム」の象徴として、地元の人々の信頼や尊敬を集めてきていただけに、このニュースの衝撃は大きいものとなっています。

これと関連して、先週には、ロスアンジェルスを拠点とする人材派遣会社Global Horizons Manpowerが起訴されることが決まりましたが、これはアメリカ史上最大の人身取引訴訟となるそうです。この会社は、アメリカでよい労働条件のもとで仕事ができると約束してタイから400人の労働者を呼び寄せたのち、労働者のパスポートを取り上げ、雇用契約に違反し、指示に従わない労働者は強制送還すると脅迫した、というもので、Sous兄弟の事件と類似したケースです。

人身取引というと、中国などからだまされて連れてこられた若い女性がニューヨークなどで監禁状態のなかで売春婦として働かされる、というものを連想しがちですが、青空のハワイでこのような事件が起きているという現実には、はっとさせられるものがあります。

2010年9月7日火曜日

A Happy Marriage

ホノルルに戻ってからまだ1週間強しか経っていないにもかかわらず、すでに日本での生活はとても遠く離れたことのように思え、自分の日本での生活とハワイでの生活があまりにもかけ離れている、ということに改めて気づかされて、とても不思議な気持ちになっています。自分をとりまく自然環境、街や建物の様子、交通事情から、時間の流れ、周りにいる人の種類、自分の人間関係、会話の内容にいたるまで、なにもかもがまるっきり違う。そして、ついこのあいだまで私の生活を濃厚に構成していたありとあらゆることについて理解してくれうる人というのが、自分の周りには少ない。私の友達は知的好奇心旺盛で賢い人たちなので、話せば想像力を働かせて興味をもって聞いてはくれるのですが、やっぱり自分の日本の生活はここの文脈ではまるっきり関係ないことなんだなあと感じることのほうが多いです。もちろん、誰でも、自分の育った環境や家族を含む人間関係と、仕事や交友関係などで築き上げてきた現在の生活のあいだでは、異文化間移動のような感覚をもつことが多いのでしょうが、そうした異文化性は、実際に国や言葉や文化が違うところ同士だと一段と強く感じられるものなのだと、今さらながら感じています。

さて、せっかくのサバティカルなので、研究関係の本や論文に加えて、普段はあまり読む時間のない小説を読もうと、Rafael YglesiasのA Happy Marriageを読みました。ナショナル・パブリック・ラジオのFresh AirでTerry Grossが著者をインタビューしているのを聞いて興味を持って買ったのですが、読み終わってもう一度インタビューを聞いてみると、さらに感動がありました。この作品は、著者と2004年にがんで亡くなった妻の30年間にわたる結婚生活についての自伝的小説で、著者曰く、滑稽なこと、恥ずかしいこと、みっともないことなど、小説に描かれていることはすべて事実にもとづいたもの。20代のふたりが最初に出会ってあっという間に恋に落ちる、その若者ならではの情熱と欲望とそれをめぐる滑稽さ、そして50代で死を前にした妻と最期のときを過ごしながら、愛情や結婚や家族や死について模索する著者の思いが、実に率直に書かれていて、アッパーミドルクラスのニューヨーカーの生活感覚は想像できなくても、素直な共感をもって読みました。恋に落ちるときの興奮と混乱(若い主人公の頭のなかの描写はとても微笑ましい)や結婚生活についての苦悩、中年期に入って妻への愛情を新たな形で再確認・再発見する過程、そして生や死について、この文化ではこういうふうに言葉で表現するのだったと思い出しました。題名が示すとおり、結婚をおおいなる現実味をもって描きながら、強い希望を感じさせてくれる作品です。

2010年9月1日水曜日

クライバーン財団、新会長が就任

ホノルルでの生活に戻るにあたって、身の回りのものを揃える(といっても、私物は置いてあったのでそれほどないのですが)ための買い物をしていると、これまた日本との違いを再認識します。スーパーがなにしろでかく、売っているものもいちいち分量が多い。私は日本にいたとき、「独り暮らしには絶対に日本のほうが便利だ」と強く感じたものですが、それは、スーパーで売っている食料品の単位が小さく、独り暮らしにちょうどいいからです。1回か2回の食事でちゃんと使い切る分量になっている。そのぶん買い物にしょっちゅう行かなければいけないし、家族のいる人は1回の食事のために肉や魚のパッケージをいくつも買わなければいけないでしょうし、逆の不便もあるものの、食料がムダにならなくてよい。こちらでは、肉はすぐ使わないぶんは冷凍しておくにしても、野菜などは、使い切る試しがなくて、いつももったいないなあと思いながら残りを捨ててしまうのです。

また、金物屋(?)に電球を買いに行くと、包みもせずに剥き出しのままの電球をそのまま渡されるので笑ってしまいます。電球といっても、小さい丸電球ではなく、天井につける大きなU字型の電球で、包むといっても難しいし、どうせすぐ外に停めてある車に乗せるのだから、たしかに包装などしてくれなくてもいいのですが、車まで持って行くときに、ふたつのU字型電球をぶつからないように両腕に下げて歩いているのもちょっと滑稽な姿だし、日本だったらU字型だろうが何字型だろうが、丁寧に包んでくれるだろうなと思うと、なんだか可笑しかったです。

大学では、留守中に届いていた学術雑誌の山を前に目次に目を通したり、必要な本を探しに図書館を歩き回ったりしていると、「よーし、勉強するぞー!」というやる気が湧いてきます。正直言って、ハワイ大学は、アメリカの他の大学と比べてとくに知的な空気が充満しているというわけでもないのですが、それでも、アメリカの大学には「勉強しよう」と思わせる独特な雰囲気があると私は思います。また、私が帰ってきたのを喜んでくれる同僚や友達もたくさんいるし、とくに今私のいる学部の同僚は9割がたが、ビジョンとやる気を共有した仲間たちなので、財政やスタッフの不十分という構造的な問題を除いては(これがたいへん大きな問題なのですが)、仕事環境としてはとても恵まれていると実感します。

さて、話題は変わって、クライバーン財団です。クライバーン・コンクールを現在のような国際的に権威のある芸術イベントに、かつ多くの市民に支えられ地域コミュニティに根ざしたイベントに育てあげた、リチャード・ロジンスキ氏が、2009年のコンクールを最後に辞任し、今度はクライバーン・コンクール誕生のきっかけとなったモスクワのチャイコフスキー・コンクールの運営に携わるというニュースが出たことは『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の最後で書きました。ロジンスキ氏の他にも、重要なポジションについていたスタッフの何人かが、それぞれ別の理由でクライバーン財団を次々に辞め、財団は大きな転換期を迎えています。とにもかくにも、コンクールの運営責任者かつ財団のさまざまな活動を総括する財団長が決まらないことには、次回のコンクールを含め長期的な運営計画が立てられない。そして、ロジンスキ氏の実績が示したように、財団長次第でコンクールも財団全体も大きく成長できる(いっぽうで、まったくダメになってしまう可能性もある)。というわけで、財団理事たちは、ふさわしい人材を世界から公募し慎重な選出を行っていたのですが、このたび新財団長が決まりました。就任が決まったのは、David Chambless Wortersという人物。

Worters氏は(私と同じ)42歳。ボストン郊外で育ち、母親はジュリアードでヴァン・クライバーン氏の師でもあったロジーナ・レヴィン氏に師事したピアニスト。デイヴィッド氏本人も子どもの頃からピアノを学び、ニューイングランド音楽院の予科に通って高校卒業時には賞をとったものの、大学では音楽の道には進まず、ハーヴァードで経済学を専攻。ハーヴァード在学中に、全米最古の男声合唱団であるハーヴァード・グリークラブに在籍し運営に携わったのが、アート・マネージメントにかかわるきっかけとなる。その後、Boston Musica Vivaという室内楽団、そして24歳のときに北西インディアナ・シンフォニー・オーケストラの運営に当たり、シラキュース・シンフォニー・オーケストラを5年間運営した後、1999年からノースカロライナ・シンフォニーの会長を務めてきた、という人物です。この経歴をみても、アート・マネージメントに携わる人々は、仕事のあるところを転々としてキャリアを築いていく(日本と違って、アメリカで「転々とする」というのは国内でも時差のあるような距離を移動するわけですから、かなりのおおごとです)のだということがわかります。ロジンスキ氏ももともとはテキサスとは関係のない人であるにもかかわらず、フォート・ワースというコミュニティの特性を深く理解し、自ら地域の生活にコミットして強いネットワークを築き、クライバーン・コンクールを世界的かつ地域的なイベントに育て上げていったわけです。新会長の指揮下で、クライバーン・コンクールが、そしてクライバーン財団全体が、どういう方向に進んでいくのか、見るのが楽しみです。自分と同い年の人が運営しているかと思うと、さらなる親近感をもって注目しそうです。

2010年8月29日日曜日

ホノルルでの36時間


普段の本拠地ホノルルに戻ってきました。空港で荷物を受け取るときに、必死になって荷物を詰め込んだ大きいほうのスーツケースを他人に持っていかれる(空港に残されていたその人のスーツケースはまったく同じデザインのものだったので間違えてもおかしくはないのですが、それにしても、名札がついているのだから持ち去る前にチェックしそうなものです)というハプニングがあり、いきなりがっくり。数時間後に私が家でシャワーを浴びているあいだに、私のスーツケースを持って行った人から留守電に伝言があり(名札に書いてあった番号を見てかけてきたのでしょう)、「あなたの荷物を持ってきちゃったみたいです、ごめんなさい、私の荷物がそちらの手元にあるのでしたら、中はごちゃごちゃなので見ないでください」と言ったまま、名前も連絡先もメッセージに入れずに切れている。どうしようもないのでそのまま昼寝(飛行機のなかで角田光代
『庭の桜、隣の犬 』を読んでいたらほとんど眠れなかった)し、数時間後に荷物は自宅まで届けられました。日本の宅急便のようとまではいかないまでも、意外にてきぱきした対応でした。

到着以来一日半がたったところですが、一年間の日本生活を経てから戻ってくるホノルルでの生活は、なんとも不思議な気持ちがします。自分のモノがいっぱい詰まった自分のマンションに戻ってきて、自分の車を取り戻し、よく知った道を運転して行きつけのお店に行って用を足したり友達と食事をしたりするのですから、もちろんほっとする部分も大きいですが、それと同時に、十年以上住んでいるうちにすっかり慣れて当たり前になっていたことが、今度はいろいろと新鮮に感じられます。こういうことは、少したつとまた慣れて忘れてしまうので、それを新鮮と感じているうちに書き留めておきましょう。最初の36時間にとりわけ印象に残ったことを挙げてみると...

1.道ですれ違う人、エレベーターで乗り合わせた人、店で目が合った人などが、にこりとしたりHiと挨拶すること。日本でのそういったやりとりの不在が私の目には奇異に映ったぶん、今度は逆に、人がそうするということが新鮮に思えます。

2.いろんな種類の人がいること。ほんとうにまあ、サイズにしても形にしても色にしても、よくもまあこんなにたくさんの種類の人がいるなあと思います。ニューヨークやカリフォルニアと比べたら、ハワイの多様性はより限定されたものですが、それでも、アラモアナ公園を30分間ジョギングしているだけで、一年間まるで見なかった人たちがたくさん見られ、なんともいえない新鮮さと解放感をおぼえます。

3.英語を話すのに、自分の頭が普段より10%くらい多くのエネルギーを使っているのに気づくこと。日本にいるあいだも、授業は留学生を相手に英語で授業をしていたのだし、ニュースなどはインターネットを通じて英語のものを読んだり見たりしていたので、それほど英語から遠ざかっているとは思っていませんでしたが、すべてが英語の生活に戻るには、頭がギアチェンジをしないといけないんだなあと認識して、ちょっとびっくりしました。英語が口から出てこなくて困るということはとくにないのですが、そうしたことよりも、「この人は日本という文脈を共有しないんだ」という前提を意識して話をすることに、ちょっとしたエネルギーを要するからだと思います。

4.店で出てくる食事の量が多いこと。これは、日本人が初めてアメリカに行くときによく言うことですが、かれこれ21年間もアメリカに住んでいる自分が今さらこのことについて驚くことが自分で驚きでした。が、ほんとうに多い。せっかく天気のいいハワイに戻ってきたのだから、健康的な生活にしようと、今日の朝食は近所の行きつけのコーヒーショップ(ちなみに『ドット・コム・ラヴァーズ』の「ジェイソン」は毎週土曜日にこのお店でボーイフレンドと朝食をしています。一緒に住んでいるのに、毎週こうしてわざわざ近所のお店に朝食に出かけて片方がご馳走するというふたりの儀式が、私にはとても心温まるし羨ましいです)で「フルーツとグラノラとヨーグルト」のボウルとコーヒーを頼んだのですが、それで出てくるのがこの写真のもの。かなり頑張ってなんとか食べ終わりましたが、その数時間後には友達とランチでルーベン・サンドイッチを食べることになり、これまたかなり努力をして食べ終わりました。


5.なにしろ快適なこと。日中の最高気温は26度くらい。我が家にはエアコンがないのですが、窓を少し開けておくだけで気持ちのいい風が入ってきて、きわめて快適。夜ももちろんぐっすり眠れます。あまりにも気持ちいいので、東京が暑いのを口実に長らく運動をさぼっていた私は、これで運動しなければ罰が当たるだろうと、夕方さっそくジョギングに行ってきました。しばらくさぼっていたおかげで、すっかり体力が低下しているのを実感しましたが、青空のもと海を見ながら夕暮れ時にジョギングできるなんて、なんて幸せなんでしょう。

6.よしとされている(らしい)男性像が日本とまるで違うこと。日本に着いたばかりのときに、日本のサラリーマンがすっかりかっこよくなっていることに驚き、また、日本の男性の過半数がゲイに見えることに驚いたものですが、しばらくしてそれに慣れてからこちらに来てみると、同じ「かっこいい」男性でも、体格やら姿勢やら身のこなし(とくに歩き方)やら顔の表情やらが、日本とはまったく違うのが新鮮です。街を歩いている人を見ても、テレビを見ても、それはあきらか。もちろん、よしとされている女性像もそれと同じくらい、あるいはそれ以上に違うのですが、それについてはまた後ほどゆっくり。

7.お年寄りが元気なこと。日本は長寿国ですから、もちろん元気なお年寄りもたくさんいますが、それと同時に、見ているだけで「そんなふうにしなくていいですよ」と言いたくなるぐらい、なんだか申し訳なさそうな様子でいるお年寄りも街には多い。社会や世相がそうさせているのでしょう。ハワイにだって、もちろん、家の外にも出られないくらい心身が弱っているお年寄りは違うでしょうが、少なくとも外で見かけるお年寄りは、姿勢も上向きで表情も明るく、声にもはりがあるような気がします。天候もあるでしょうが、とくにハワイのような島社会では、地縁血縁で結ばれたコミュニティが健全だから、というのが大きいのではないでしょうか。

というわけで、興味深い逆(どちらが「逆」なのかもうわからなくなってきましたが)カルチャーショックを味わいながらのホノルル生活再順応をスタートしています。また引き続きご報告します。

2010年8月26日木曜日

『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』小林秀雄賞受賞

以前にこのブログで紹介した、加藤陽子さんの『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』が、小林秀雄賞を受賞したそうです。素晴らしい!去年の小林秀雄賞は、私がかねてから敬愛している水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』だった(私は訳あって今この本を再度熟読・精読しています。読めば読むほど、学ぶこと、考えさせられることの多い本です)し、この賞の選考委員は私と感性や価値観が通じ合うようです。『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』も『日本語が亡びるとき』も、とにかくだまされたと思ってみなさんに読んでいただきたいです。

さて、私は13ヶ月余の日本生活をひとまず終えて、明日いったんハワイに戻ります。帰国子女ならぬ帰国オバサンとしての18年ぶりの日本生活は、驚くこともいっぱいでしたが、旧友たちと関係を深めたり、新しく知り合ったかたたちを通じて知らなかった世界を垣間みたりと、とても実り豊かな滞在でした。仕事の面でも、日本滞在中に2冊の本が発売になり、今後の仕事の可能性も広がって、有意義なときを過ごしました。年明けにはまた日本に戻ってくる予定ですが、それまでは普段どおりハワイから、いろんな話題を提供していくつもりです。日本での一年間を経てからだと、ハワイやアメリカ本土もまた別の視点から見られるのではと、ちょっと楽しみなような、ちょっとコワいような気持ちでいます。そういったことも投稿しますので、引き続き読んでいただけたら嬉しいです。

2010年8月23日月曜日

アメリカの大学「親の子離れ対策」

アメリカの新学期が始まる時期の今、とくに大学生活の始まりにまつわる話題が多いです。以前の投稿でも書いたように、アメリカでは大学生活は親元を離れて自立するための時期と一般的に考えられているものの、寮生活を始める子どもを大学に送り届ける親の側にはいろいろと不安がつきもので、部屋に荷物を運び終わってからもなかなか子どもに別れを告げることができず、何日間も大学街に滞在して子どもの動向を見守る親もいる、とのこと。子どものほうは、親の庇護や監視から解放されて同世代の新しい仲間と新生活を始めることにワクワクしているものの、親のほうがなかなか子離れできない、というのはよくあることのようで、そうした親に、「子どもはもう新しい生活を始めているのだ」と認識させさっさと家に帰ってもらうための対策として、わざわざ親子離れのための式のようなものを開催する大学まである、とのこと。ニューヨーク・タイムズの記事によると、たとえばアイオワ州にある有名私立大学のGrinnell Collegeでは、新入生が寮に入る日に、荷物を運び終わった後で全員が体育館に集まり、親は講堂の片側、学生は反対側に座って、「子どもはもう別世界に行ってしまったんだ」と親に気づかせ、正式にお別れを言って大学を去らせる、という儀式をしているそうです。

学生のプライバシー保護や自己責任の観点から、20歳前後の学生を自立した大人として扱う(たとえば、アメリカの大学では、学生本人の署名による許可がなければ、大学は親に成績や生活状況を報告できない決まりになっています)いっぽうで、大学教育のコストが加速度的に上昇している(アメリカの私立大学では、授業料と寮費や食費を合わせると年間5万ドルもするのが一般的です)なか、子どもが大学でどんな生活を送っているのかと、しきりに首を突っ込む親が増えているのも事実。日本でも、私が学生だった頃は、子どもが大学に入ってしまえば後は親の出る幕はまるでなく、親もそれを歓迎していた(と思う)ものですが(親を卒業式によんでもいいということを私が知らなかったので、卒業式にすら来ませんでした)、今では大学でも親のための説明会やら懇親会やらがやたらとあるらしく、就職対策にまでも親がいろいろと口を出してくるそうです。やれやれ。親も大変ですが、子も大変、大学の先生も大変です。

2010年8月19日木曜日

「外国語を話すベビーシッター求む」

親友の家族旅行にくっついて美ヶ原高原に一泊旅行に行ってきました。あいにく霧や雲で星空や周辺の山々はあまり見えなかったものの、首都圏の猛暑が嘘のように涼しく、きれいな空気をいっぱい吸ってきました。帰途は、中学生ふたりの要望(そして一家の母親と私の支持&絶叫系乗り物の苦手な一家の父親の諦念と寛容)により、富士急ハイランドに行きました。私はジェットコースター大好き人間なのですが、日本で遊園地に行ったのは大学のとき以来で、今ではさすがに大人同士でジェットコースターに乗りに行くということはないので、このおかげで久しぶりの体験ができてたいへんコーフンしました。さすがに乗り物も私が大学のときとくらべるとかなり進化していて、「ええじゃないか」という、いかにも人を小馬鹿にしたようなネーミングの乗り物は、ただごとではなくコワい(けど楽しい)!「フジヤマ」には3回(中学生キッズは4回)も乗ってしまいました。ふと考えてみると、そういう乗り物に長時間並んでまで乗るのは、10代後半からせいぜい30歳くらいまでの若者で、我々はもしかしたら最年長の部類だったのかもしれません。ああいう体験をわざわざしたいという人間の心理は、興味深いものがありますね...と、一応ちょっと知的(?)なコメントをして、「ええじゃないか」に乗るのに2時間も並んだ自分たちを正当化してみようとしたけど、やっぱりただのアホか?(笑)

さて、先日のニューヨーク・タイムズに、ニューヨーク近辺で、外国語を話すベビーシッターを積極的に雇おうとする家庭が増えている、との記事があります。アメリカでは、ベビーシッターやナニーといった家事労働には、メキシコやフィリピンなどの出身の女性が従事していることが多いのですが、少し前までは、子どもが言語的に混乱しないように、また、子どもの英語力が遅れるのを避けるために、英語以外の言語を母語とするベビーシッターにも、英語のみを使用することを要求する家庭が少なくなかったのに対して、多文化主義やグローバル化の流れによってそうした考えかたもかなり変化を遂げ、最近では、子どもに自然にスペイン語を身につけさせるために、ベビーシッターに敢えてスペイン語のみを使うよう要求する、といったケースが増えているそうです。

私の友達にも、異なる言語を母語とする夫婦が、子どもを育てる上で言語の問題をどうしようかと模索している人たちがけっこういます。赤ん坊のときから2カ国語(または3カ国語)を家の内外で日常的に使って、自然にすべての言語を身につけ、かつそれぞれをきちんと区別し使い分けられるようになっている子どももいます。そのいっぽうで、複数の言語をある程度は解するものの、どの言語も完全には駆使できなくなってしまう、という子どももいて、そうした状況になるのを避けるために、敢えてバイリンガル教育はせず、生活している土地の主要言語のみを使っている、という家庭もあります。また、夫婦のどちらも中国語は話さないけれども、わざわざ中国人のベビーシッターを雇って、子どもに中国語を教えてもらっている、という家庭もあります。

私自身は子どもがいないので、現実問題としてそういうことを考える必要はありません。が、2カ国語を使って仕事や生活をし、両方の言語で思考や執筆をする人間としては、また、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』に数多くのことを考えさせられている人間としては、単に用が足せるという以上の、深い言語能力を身につけ、それぞれの言語の背景にある歴史や文化を深く理解する人間を育てるためには、どういう道がもっとも有効なのだろうかと、よく考えます。

私は、ごく一般的にいえば、外国語というものは、母語での基礎的な言語能力に、強い必要と欲求と努力が加われば、大人になってからでもじゅうぶん高度な力を身につけられると思っている(現に私の周りにも、大学を卒業するまで外国に行ったことがなかったけれども、きちんとした勉強によりプロとしてじゅうぶん仕事ができる英語力を身につけている日本人がたくさんいます)ので、必ずしも早く始めればいいというものでもないだろうと思っています。たしかに、小さいときからその言語に接していれば、耳が慣れるという側面は強いだろうし、たえず聞いていれば発音もよくなるでしょうが、言語能力においては発音よりもずっと大事なことがあるので、それはさほど重要なこととは思いません。また、この記事でも指摘されているように、幼少のときに毎日ベビーシッターがスペイン語や中国語を話していたとしても、ベビーシッターにつかない年齢になって、その言語から離れてしまえば、子どもというのはすぐその言語を忘れてしまう、ということもあります。ただ、言語を身につけるということとは別に、子どものときから、別の言語を母語とする大人に日常的に接することで、世の中にはいろいろな言語を話す人たちがいて、同じものやことがらをそれぞれの言語では違う表現をする、という基本的なことを体感的に理解することには、かなり意味があるのではないかと思います。(ちなみに私は、小学5年生のときに親の駐在でアメリカに行きましたが、それまで日本語を使う人としか接したことのなかった私には、「アメリカの人たちは、机をみて『ツクエ』と思わない、お腹が空いたときに『オナカガスイタ』と思わない」ということが、しばらくさっぱり信じられなかったのを覚えています。)そして、自国の外に(そして自国の中にも)さまざまな文化をもつ人たちが生きているということを現実として理解し、異なる言語を話す人たちに変な距離感やコンプレックスを抱かず普通に接し、多様な文化や歴史に積極的な興味を養うことこそが、外国語習得に一番重要なことではないかと思います。