2012年1月28日土曜日

『マイ・アーキテクト』ふたたび

ご無沙汰いたしました。新学期とともに突然大学の仕事が増え、たいへん面倒だけれどもたいへん重要なことなので手を抜く訳にもいかない、というタイプの仕事が一段落するところまで行ったところです。それにしても本当に、自分のことを棚に上げて言いますが、大学というのは民間企業では絶対にやっていけない種類の人間がたくさん集まっているところです。基本的な指示に従えない、あるいはルールを覚えていられない、というオジサンがやたらと多い。これをオジサンに特定するのは性差別・年齢差別ととられそうですが、実際にこういう人たちはたいていオジサンです。そして、自分のミスが生んだ面倒や、そもそも自分がするべきことを、他の人にさせておいて平然としているのもたいていオジサン。


という疲れた一週間のお口直しに、昨晩は友達と食事に行ったのですが、そのときに話題に上ったのが、私がこよなく愛する映画『マイ・アーキテクト』。一緒に食事をした友達は、もともとバングラデッシュ出身で、ペンシルヴァニア大学で学んだ建築学の研究者なのですが、建築にもバングラデッシュにもペンシルヴァニア大学にもつながりのある『マイ・アーキテクト』についての彼の意見を知りたくて、「私はあの映画がとっても好きなんだけど、建築家としてはどう思う?」と聞いてみたところ、なんと彼は監督(そして脚本と主演)のナサニエル・カーンと友達で、この映画の製作にもかかわり、映画最後のクレジットに彼の名前も出てくるとのこと!私にとってはこれはとてつもない興奮。この映画について私が思うところを話してみると、彼はすべてに同意してくれました。そのうちナサニエル・カーンに紹介してもらえるかも!あまりに嬉しかったので、食事から帰って家でふたたびDVD(最初は映画館で観たのですが、あまりにもよかったのでDVDを買い、今回観たのは五回目くらい)を観てしまいました。たしかに友達の名前も最後に発見。


とにかく好きな映画なので、もしかしたらこのブログでも以前に紹介したことがあったかもしれませんが、せっかくなので再び紹介しておきます。この映画の監督・脚本・主演をしているナサニエル・カーンという人物は、世界的に著名な建築家ルイス・カーンの息子。ただし、ルイス・カーンは三人の女性と子供を作り同時進行的に三つの家庭をもっており、彼はいわゆる「私生児」として、父親(彼が生まれたのは父親が六十一歳のとき)とはときどきの週末にしか時間を過ごしたことがなかった。自分が十一歳のときに死んだ父親が、どんな人物であったのか、父親の人生のなかで自分や母親はどんな位置づけであったのかを少しでも知ろうと、父親と一緒に仕事をした建築家や、ほかのふたつの「家族」、そして父親の設計した建物を訪ねてまわる。その過程で、エストニアからのユダヤ系移民として育ったルイス・カーンの生い立ち、建築家としてのビジョンや葛藤、仕事への姿勢などがモザイクのように少しずつ見えてくる。そして、ふたりの「姉」、その「姉」の母親のひとり、そして自分の母親との会話を通して、建築家としてではなく一人の男性そして人間としてのルイス・カーンも理解しようとする。


なにより素晴らしいのが、こうした複雑な立場と視点からルイス・カーンの人間像を組み立てていながら、けっして彼を全面的に賞賛したり非難したりすることなく、縮まるようで縮まらない父親との距離を見事に表現していること。出演する数多くの建築家の言葉や表情から、建築家としてのルイス・カーンの偉大さと限界の両方を伝えていること。カーンの建築が自分の人生や仕事や生活の一部になっている人たちの姿を通じて、「建築とはなにか」を深く考えさせてくれること。建築家や芸術家、またそれらの分野に限らず大きな仕事をする人について、仕事人としての偉大さと、私生活を含むひとりの人間としての生き方の関係を、どのように理解すべきか、安易な結論を出さずにじっくり考えさせてくれること。ルイス・カーンが正妻のもとを去ることはないと承知の上で、客観的にみればきわめて屈辱的な状況のなかで、シングルマザーとして子供を育てたふたりの女性の、カーンに対する畏敬と愛情のありかたを、価値判断なく描いていること。水上でオーケストラが演奏するクレイジー・ボート、三人の「きょうだい」の会話、自分の母親との会話、そしてなんといっても、バングラデッシュの議事堂を訪ねる最後のシーンで、「この建物を通じて、カーンは私たちに民主主義をもたらしてくれた」「家庭人や父親としては欠陥のある人だったかもしれないし、自分にもっとも近い人にはふさわしい形の愛情を十分に注げなかった人だったかもしれないけど、カーンはバングラデッシュの国民に限りない愛情を与えてくれた」と語る建築家の言葉と表情。あらゆる次元で静かな感動を与えてくれる映画です。私はフォートワースでカーン設計のキンベル美術館に行くことができてとてもラッキーでしたが、いつかはぜひバングラデッシュに行って議事堂を見てみたいと思っています。


とにかく、この映画、ぜひどうぞ。

2012年1月10日火曜日

Jeffrey Eugenides, _The Marriage Plot_

年が明けてから10日間もたってしまいましたが、遅ればせながら明けましておめでとうございます。2011年は、前半を日本で過ごしたこと、そしてそのあいだに震災が起きたことで、自分と日本社会との関係を考え直すことになりました。また、5月のアマチュア・ピアノコンクールでの経験は、いろいろな意味で自分の世界を広げ深めてくれました。私の身近にはとても悲しいこともあったけれど、素敵な出会いもたくさんあり、また、以前からの友達や知人と新たな関係を築くこともできて、とてもいい1年でした。研究者としても教育者としても執筆者としても、そしてピアノにおいても人間関係においても、より高きを目指す2012年にしたいと思っています。


さて、しばらくブログからご無沙汰していた理由は主にふたつ。ひとつめは年末年始の10日間をプライベートに徹して楽しく過ごしていたこと。詳細はヒミツ。(ムフフ)


ふたつめは、その10日間が終わってから新学期が始まるまでのあいだに、買ってあったJeffrey Eugenidesの新しい小説、The Marriage Plotを読んでしまいたくて、それに没頭していたこと。つい先ほど読み終わったところです(ちなみに新学期は昨日始まりました)。最後の部分はしゃくりあげながら読みましたが、読み終わってしばらくは、ひとりでじっくり思索にふけりたい気分になりました。物語として純粋に楽しめ、単純に「次がどうなるのか知りたい」という気持ちでページを次々とめくるような小説でありながら、知的にも情感的にも精神的(英語でいうところのspirituallyを指しているのですが、「精神的」というのはちょっと違うけれど、他によい日本語が思いつかない)にも大きな波に押されているような気持ちになる、傑作です。


この本を読みたいと思ったひとつの理由は、いくつかの書評を読んで、この小説の舞台が私が大学院時代を送ったブラウン大学であり、しかも、英文学を専攻する女性主人公が、自分の知的世界をとりまく脱構築などの批評理論と自分自身の現実の恋愛とのあいだで格闘する話だということを知っていたからです。物語は、アメリカの学界でデリダやバルト、フーコー、ラカンなどのヨーロッパとくにフランスの批評理論が全盛期であった1980年代前半に展開されます。私がブラウンにいたのはそのちょうど10年ほど後ですが、私が受けた教育や大学の文化はそうした理論の影響をおおいに受けたものだったので、まずは批評理論が小説でどのように取り扱われているのかに興味がありました。もちろん、アメリカの大学でのこうした批評理論をめぐる文化や言説を題材にとった小説は他にもたくさんあるのですが、ブラウン大学が舞台となると個人的な関心が増大。ブラウンと関係のない読者にはなんのことだかさっぱりわからないであろう、建物や場所や通りや店の固有名詞が散りばめられていて、私は小説の初めの三分の一くらいは、読みながらすっかりホームシックになりました。小説の初めのほうに、Madeleine's love troubles had begun at a time when the French theory she was reading deconstructed the very notion of love.という一文があるのですが、この文が象徴するように、この小説の脱構築の取り扱いは、ユーモアに満ちていると同時に、真剣で切ない。こむずかしい用語を濫用して訳のわからないことを自己陶酔的に語り続ける学者や学生を揶揄するような描写をした小説はいろいろありますが、この作品では、これらの理論に陶酔する学生たち、そしてそれと格闘し困惑する学生たちの姿を通して、批評理論や文学作品を通してまさに人生の意味を理解しようとする知的な若者たちの真摯な葛藤がとてもリアルに描かれています。


そしてまた、この女性主人公は、小説が文学ジャンルとしての権威を確立した時期でもあり、女性が法的にも経済的にも社会的にも安定した地位を得るのには適切な男性との結婚が必要不可欠であったヴィクトリア期の英米文学における結婚を取り扱った卒論を書きつつ、自分の将来が見えないまま大学を卒業し、まったく違ったタイプのふたりの男性との複雑な三角関係のなかで、自分の恋愛、結婚、勉学、生活を模索していきます。つまり、この主人公を通じてヴィクトリア小説を現代に置き換えることで、作者は、現代においても「小説」は可能か、という文学的な問いにも向き合っているのです。(このあたり、水村美苗さんの本格小説に通じるところも。)


主人公をそれぞれの形で愛するふたりの男性がまたたいへん興味深い。ふたりとも、「ブラウン大学みたいなところには、こういう人たちがいるんだよなあ」というような、とてつもない頭脳の持ち主でありながら、賢いがゆえに何事にも簡単に答を出そうとはせず、自分の生きる道についても不安や疑問を抱えて世に出る。ひとりは生物学の研究助手として立派な第一歩を踏み出しながらも、重度の躁鬱病を患い、この病が自分自身にも恋人との関係にも深く影を落とす。もうひとりは大学で宗教を専攻し、卒業後世界を旅し、カルカッタでマザーテレサのもとでしばしボランティアをしたりしながら、宗教について真剣に悩み、自分の精神性を模索する。このふたりの男性を通して精神病と宗教が対の構造に置かれているのですが、だからといってこの小説は、宗教とは単なる妄想だとかイデオロギーだとかいった乱暴なメッセージを提示しているのではありません。物語の終盤、ふたりの男性が思いがけずあるパーティで顔を合わせ真剣に議論をする場面があるのですが、それからさらにしばらくしてこの議論の内容が明かされる部分から小説の最後にかけては、私はもうそれこそ、知的にも情感的にも精神的にも圧倒されっぱなしでした。


他にも言いたいことはたくさんあるのですが、こんなすごい作品を前にしては、なにをどう言葉にしてよいものやら、自分がとても小さく思えてしまいます。ピュリツアー賞を受賞したEugenidesの前作品Middlesexは、私はどうも入り込めずに終わったのですが、もう一度読み返してみようと思いました。ソフィア・コッポラによって映画化された初小説The Virgin Suicidesもぜひ読もうっと。


あまりにも面白かったので、ネットでEugenidesのビデオをいくつか見てみましたが、こちらの講演がとくによかったです。私は小説の一部を朗読されてもじゅうぶんに味わえないことが多いのですが、後半の質疑応答はとてもよいですので見てみてください。


とにもかくにも、2012年の最初に読んだ小説がかくも素晴らしい作品であったということは、この先がよい1年になることを暗示しているような気が勝手にしています。






2011年12月23日金曜日

Pico Iyerの描くフクシマ

先日Christopher Hitchensについての投稿で、彼が雑誌Vanity Fairのライターであったことに言及しましたが、スーパーのレジに並んでいるときにこの雑誌の今月号が棚にあって手に取ると、Pico Iyerが福島原発について書いた記事があったので買いました。


Pico Iyerは、イギリス生まれのインド系で、アメリカとイギリスを行ったり来たりしながら育ち、オックスフォードとハーヴァードで教育を受け、その後ジャーナリスト、エッセイスト、評論家として世界各地をまわり、長年日本に住んでいる、グローバル化時代を象徴するような人物。私は一昨年、桜美林大学でアメリカ人の日本についての紀行文を扱う留学生向けの授業を教えたときに、彼のThe Lady and the Monk: Four Seasons in Kyotoをリーディングのひとつにしました。この本を含め、私は彼の書くものには、なんともアンビヴァレントな思いがあります。イギリス、アメリカ、インドという文化をそれぞれ自らの一部として育ちながら、どの場所にも百パーセントは属していないという感覚をもち続け、北朝鮮からイースター島まで世界各地をまわって旺盛な好奇心と鋭い観察眼で文化や人々をとらえる、彼の姿勢には共感をおぼえますし、また、異文化間の融合や葛藤についての彼の描写は、型にはまった理論にしばられず、現実味があって、面白いものが多いと思います。そのいっぽうで、なんともオリエンタリスト的とかエキゾチック趣味としかいいようのない記述もここかしこにあって、読んでいてイライラすることも。この福島原発についての記事も、まさにその一例。


この記事は、血液学・腫瘍学を専門とするアメリカ人医師で、チェルノブイリ事故およびそれ以後のあらゆる原発事故においての現地で調査や治療にあたってきたRobert Gale氏についてまわりながら、福島第一原発で作業にあたる従業員たちの姿を描いたもの。Gale氏は、福島原発事故がもたらす放射能についての報道や政府の反応は危険を過大視しているものが多いという立場をとり、居酒屋などで原発の従業員たちの質問に答えたり相談に乗ったりしながら正確な情報を提供しようとしている人物。放射能の危険性については、専門家のあいだでも評価がわかれ、Gale氏の立場に反論するものも少なくなく、また、これまでの彼の研究や治療方法についての批判もある、ということをきちんと説明してGale氏の位置づけを明確にしている点では、よい記事だと思います。そしてまた、危険を承知の上であえて原発での作業に足を運ぶ男性たちの姿の描きかたも人間的で、James Nachtweyによる写真もなかなかよい。


でもそのいっぽうで、話の行き着くところは、自分の命や健康に不安を抱きながらも作業をする従業員たちの、自己犠牲や義務感の背景にある、日本的な文化や精神。もちろん、そうした文化や精神は、従業員たちの動機の一部であることは間違いないでしょう。今の状況で原発で作業をしている人たちにはもちろん深い敬意と感謝の念を抱きますし、私は震災後の数ヶ月を日本で過ごしたので、福島に限らず、未曾有の事態において日本の人々が示した助け合いや我慢の精神を目の当たりにし、ほんとうに感動もしました。震災直後から、外国のメディアはそうした日本の人々のありかたを好意的に報じてきて、この記事もそのひとつとして捉えることができます。でも、そうした報道によくあるように、そうした人々のありかたを、神道だの儒教だのサムライ精神だので説明されると、「うーん。。。」という気持ちにならずにはいられません。文化の一部である以上、そうした要素がないとは言えないけれども、そうした歴史的具体性に欠けた精神論よりも、人々をこうした仕事に向かわせる社会経済状況や、原発の産業構造を、もうちょっと深く論じてもらいたかった。もちろん、政府や東電の構造の批判に焦点を当てた報道もたくさんあるのですが、そうした報道からは、生身の人間の姿が見えてこないことが多い。構造的な分析と人間的な描写の両方をバランスよく扱った報道がもっとほしいところです。

2011年12月16日金曜日

Christopher Hitchens逝去

以前にもこのブログでちらりと言及したことのあるジャーナリスト・評論家のChristopher Hitchens氏が昨日亡くなりました。昨年、回想録のHitch 22の宣伝ツアー中に食道がんと診断され、以後がんとの闘いについても、そして他のあらゆる時事問題についても、雑誌やテレビで精力的に論じ続け、最期まで目をみはるような勢いで生きた人物でした。享年62歳。


イギリスで生まれ、育った家庭は決して裕福ではなかったにもかかわらず、息子に教育を与えるという母親の強い意志によって私立校からオックスフォードのBalliol Collegeに進学し、ベトナム戦争反対運動などにかかわるようになって急速に左翼政治に傾倒。卒業後ジャーナリストとしてさまざまな新聞や雑誌に記事や評論を書きながら、イギリスの文壇のMartin AmisやJulian Barnes、Ian McEwanなどと親交を深め、パーティで派手に遊ぶことが好きなことでも知られるようになります。1981年にアメリカに渡りアメリカ国籍を取得し、The NationNew York Review of BooksVanity Fairそしてオンライン雑誌のSlateなどといったメディアで、ありとあらゆる話題をカバー。アメリカの対中米政策、トルコ=キプロス関係、北アイルランド紛争、ダルフール紛争などの現地取材による長文記事から、ユーモアに溢れた軽いエッセイ、そしてマザーテレサを痛烈に批判して物議をかもしたThe Missionary Positionや宗教を正面から捉え無神論を展開したGod Is Not Greatなどの著書多数。イスラム過激派批判の立場から、アメリカの対イラク戦争を支持したことでも話題を呼びました。


とにかく、それぞれの文章の鋭さと深さ、そして超人的としか言いようがない執筆スピードには、まったくもって圧倒されます。タバコや酒をこよなく愛し、昼間から酒を飲みながら仕事をすることでも有名でしたが、「自分にとって一番大事なのは書くことだ。書くことの足しになること—そして、議論や会話を盛り上げたり長引かせたり深めたりするのに足しになること—だったら(酒でもなんでも)自分にとっては意味のあること」と公言し、がんと診断された後もライフスタイルを変えなかったとのこと。Hitch 22には、自分の死について、「僕は死を受動的に受け入れるのではなくて、能動的に『やりたい』と思っている。死が自分にやってきたときに、その目を正面からじっと見て、その瞬間になにかをしていたいと思っている」と書いています。友人に囲まれた最期だったそうですが、この言葉、スティーヴ・ジョブズの妹モナ・シンプソンの追悼文に描かれたジョブズ氏の最期に通じるものがあります。合掌。

2011年12月11日日曜日

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

やっと今学期の授業が終わると思いきや、終わる前から緊張が解けすぎたのか、ここ一週間余は風邪でダウンしてしまいました。とにかく安静にしていろという医者の指示により、週末は家でじっとして、新潮社のかたに送っていただいた(ありがとうございました!)、村上春樹氏の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読むことに。三日間くらいかけてじっくり読もうと思っていたのですが、論じられている曲の録音を聴きながら(といっても、私は同じ録音など持っていないので、同じ曲というだけで指揮者も共演者も違うものばかりですが)読んでも、一日強で読み終えてしまいました。


読み応えがないという意味ではありません。読み応えはおおいにあり、またじっくり読み返したいという箇所もたくさん。論じられている録音も手に入れて聴き比べてみたいとも思わせてくれます。なにしろ感心するのは、村上春樹氏のクラシック音楽の造詣の深さ。音楽が好きだということは知っていましたが、ここまでとは。このインタビューをするために小澤征爾氏のこれまでの録音を一通り聴き返したのは当然としても、小澤氏以外にもありとあらゆる指揮者とソリストの演奏の録音をコレクションに持ち、持っているだけでなくとことんと聴き込んでいる。楽譜がほとんど読めず(といっても、私の想像では、ほんとうに楽譜が読めないという意味ではなく、普通に楽譜は読めるけれども、交響曲のスコアなどを見ても音楽の構成を理解するようなスキルがない、ということだと思います)、自分で楽器を演奏もしないという村上氏が、ここまでのクラシック音楽の知識を持っているのには、ひたすら驚愕。いわゆるクラオタにありがちな、細かい豆知識を披露して嬉しがるという訳でもなく、自分は素人であるということをきちんと自覚し、聴いた演奏についての感想は、深く賢くありながら、新鮮なまでに素直。音楽と文学と、分野はまるで違いながらも、それぞれが世界を舞台に自分の求めるものを創造することに文字通り命をかけているふたりの会話だからこそ、そして村上氏がこれだけ音楽を深く愛している素人だからこそ、こういう本が出来上がったのだろうと納得。対話のなかで、村上氏の意外な質問に小澤氏が深く考え込む、という箇所がいくつかありますが、そういうところこそが興味深い。指揮者の仕事とはどういうものかとか、世界のオーケストラの特徴とか、指揮者とソリストの関係とか、ベートーベンやブラームスやマーラーの交響曲についての小澤氏の見解とか、こういう対話形式だからこそ出てくる話が満載。私にとっては、小澤氏が主宰するスイス国際音楽アカデミーでの若手音楽家たちの室内楽のトレーニングの部分が一番面白い。私は、音楽家のリハーサルやマスタークラスを見学するのが大好きで、ある意味では本番の演奏や完成された録音を聴くよりも、そのような創造の過程を見るほうが興味深いくらいですが、そうした意味では、合宿が始まったときには荒っぽい演奏をする音楽家たちが、ほんの一週間のあいだにみるみると成熟して人の心を打つ演奏をするに至るという過程を、村上氏が観察する最終章が一番面白かったです。クラシック音楽が好きな人にはもちろんですが、よきものを創造することを追求する、という視点から読めば、音楽の知識がない読者にも興味深い一冊だと思います。

2011年12月1日木曜日

同性愛者を親にもつ青年、州議会で証言

MoveOn.orgのメーリングリストやフェースブック上でたいへんな注目を集めているのが、アイオワ大学で工学を勉強している19歳の青年、Zach Wahls。州の最高裁の判決を受けて2009年に同性婚を合法化したアイオワ州で、今年2月に同性婚を再び違法化するための州憲法修正案が議会で議論されていたのですが、その最中に下院の公聴会で彼がした証言です。同性愛者が結婚しても子供を育てられないという人たちへの反論として、ふたりのレズビアンに育てられた彼が、自分の家族は他の家族ととくに変わることはない、喜怒哀楽をともにしたり家族の病気に直面したりときには喧嘩をしたりしながら、互いへの愛情で結ばれた家族なのだ、ということを堂々と語っているのですが、ほとんどメモも見ずに議員を前にとうとうと弁舌するその様子、とても19歳とは思えない。

彼の雄弁で感動的な証言の力もあって、結局この修正案は否決され、アイオワは現在でもアメリカで同性婚が合法化されている6州のひとつとなっています。2月の証言が、今になって突然再び注目を浴びているのは、YouTubeで公開されているビデオがメールやウェブサイトやSNSで次々に飛び火したからですが、ここ24時間以内にフェースブック上でこのビデオをシェアしたり「いいね!」ボタンを押したりコメントしたりした人は、なんと60万人以上というのだからすごい。もとのYouTubeビデオにも現時点で510万回以上も視聴されています。ほんの3分間の証言ですが、多くのことを考えさせられますので、是非見てみてください。

2011年11月30日水曜日

とにかく必読!アメリカにおける中東への「関心」の形成

こちらは今学期の授業もあと二週間となりました。以前にも書きましたが、今学期は私は、アメリカ研究の学説史を概観する大学院のゼミと、アメリカ女性史の学部の授業を教えています。昨日の大学院の授業でディスカッションしたのが、私が心の底から尊敬していて友人でもあるMelani McAlister『Epic Encounters: Culture, Media, And U.S. Interests In The Middle East Since 1945』。私は大学院の授業を教えるたび、つまりほぼ毎年、この本を課題の一冊としているのですが、その度に、あまりの素晴らしさに感動を覚えます。今回もあらためて感動したので、ここでも書かずにはいられません。


Melani McAlisterは、私が大学院生活を送ったブラウン大学の同じアメリカ研究学部の二年先輩。彼女が博士論文のプロポーザルの草稿をゼミのワークショップに提出したときに、私は「こんなに面白い研究ができるんだったら、私もこの分野で頑張ろう」と思ったのをよく覚えています。当時から彼女は、ゼミのディスカッションであれ講演での質疑応答であれ、彼女が口を開いてなにか質問や発言をするたびに周りの人の理解が深まるような、ずば抜けた頭脳の持ち主でした。大学院に入ったばかりの私には、彼女はまさに女神のような存在で、自分などはどんなに頑張っても足下にも及ばない、と思っていました。どんなに頑張っても足下にも及ばないのは二十年が経過した今でもそのままですが、人生とは不思議なもので、私が博士論文を書き始める頃から、共通の指導教授を含め数人でオリエンタリズムについての勉強会をしていたこともあり、なぜか彼女は私のことを対等の「仲間」と思うようになったらしく、お互いの原稿を読んでコメントをしあったり、お茶をしながらおしゃべりするような関係になり、そのこと自体が私にはまるで信じられない思いでした。


この本は、1945年以降のアメリカにおいて中東への「関心」がどのように形成されてきたかを、「十戒」や「ベン・ハー」などの映画や爆発的人気となったツタンカーメン王展、そしてイスラエルやイランについてのメディア報道などといった「文化テキスト」の分析を通じて論じているものですが、あらゆる次元でぞくぞくするくらい素晴らしい。アメリカ研究においては彼女が扱っているような「文化」の分析はごく普通のことですが、この本においては「文化」と外交を含む「政治」の相関関係についての理論的枠組がきわめて緻密であり、それぞれの「テキスト」の分析においてその関係が見事に示されている(単に「文化は政治や歴史を反映する」あるいは「文化は政治を操作する」といったものではない)。そして、アメリカにおける中東の「関心」(ここでは「関心」と訳していますが、彼女が使っているのはinterestという単語。つまり、文化的・宗教的・知的な「関心」と、地政学的・経済的・軍事的「利益」の両方の意味がこめられているわけです)と一口に言っても、その「アメリカ」を構成しているのは実に多様で、たとえばキリスト教原理主義者や、イスラムに改宗したアフリカ系アメリカ人、イスラエル国家にさまざまな思い入れをもつユダヤ系アメリカ人、中東をフェミニズムの闘争の場ととらえる女性活動家など、さまざまな立場や背景の人間たちが、それぞれの形で中東を自らのアイデンティティ形成の舞台としてきた。アメリカの中東についての言説が、「自己」と「他者」をもとにしたものであることは変わりないものの、その「自己」が決して西洋キリスト教徒の白人男性を基盤にしたものではなく、意識的に多様な存在であり、中東とのかかわりかたも必ずしも「自己」と「他者」を二項対立的に捉えるものではない、という点で、エドワード・サイードが理論化した、二十世紀前半までのいわゆる「オリエンタリズム」とは決定的な違いがある、という分析も精確に展開されています。


もとの原著は、なんと2001年のテロ事件とほぼ同時に刊行になり、原稿完成から出版まで気が遠くなるような長い時間がかかるアメリカの学術出版ゆえ、もちろん2001年の事件のことは議論に含まれていなかったものの、本の中身で展開されている分析は、テロ事件そのものそしてその後のアメリカにおける報道のありかたや政府やさまざまな人々の反応に、どきっとするほど当てはまるものでした。Village Voiceの「2001年に出版されたもっとも重要な本」の一冊にも選ばれ、学界内外にたいへん大きなインパクトを与えた本ですが、2005年に刊行された第二版には、2001年のテロ事件とその後の展開を象徴する五枚の写真の分析を通して、メディアや文化と政治の関係がさらに鋭く論じられています。


何度読んでも、「こんなに素晴らしい研究があるものか」と感嘆する一冊。どのページを開いてどの一文を読んでも、たくさんのことが学べる一冊。私はこの本を読んでいるだけで、「研究者になってよかった」を通り越して「生きててよかった」とすら思ってしまう一冊。アメリカ研究の分野では、刊行から十年にしてすでに古典の一部となっていますが、研究者以外の読者にも、ぜひとも読んでもらいたいです。文章は精緻にして実にエレガントであり、著者の理知と人間性が本のいたるところににじみ出ています。ブラボー!