2009年3月26日木曜日

ニューヨークより

今週は大学が春休みなので、ニューヨークに来ています。友達と会って、チャイナタウンの小龍包を食べに行ったり、『セックス・アンド・ザ・シティ』の映画にも出てきたお洒落なレストランに行ったり、ブルックリンにお昼を食べにいったり、SOHOで買い物したり、20年ぶりに会う高校時代の同級生においしい食事をご馳走してもらったりして、とても楽しく過ごしています。少しは仕事もしないといけないので、明日はニューヨーク公立図書館の一部であるNew York Public Library for the Performing Artsという実に素晴らしい図書館にリサーチに行く予定ですが、基本的には遊び中心の一週間です。

それにしてもニューヨークというのは私にとっては本当に天国のような街で、実際に住んでいたのは一年強にもかかわらず、来るたびにとてもホッとする気持ちになります。二十年間育った東京についてそう思うのは当然としても、なぜ自分がここまでニューヨークに愛着を感じるのか、自分でも不思議なくらいですが、たぶんその大きな理由は、ニューヨークにはあまりにもいろんな種類の人たちがいるので、自分がどういうタイプの人間であろうと、周りと合わなくて居心地の悪い思いをすることがない、ということだと思います。人間の種類というのは、もちろん人種や民族もそうですが、それに加えて、社会階層、職業タイプ、お洒落度、興味の対象、生活スタイルなどにおいて、世の中には実に幅広い種類があるものなんだということを、地下鉄やバスに乗っている人たちを見回しただけでもしみじみ感じます。そういうまったく違うタイプの人間たちが、ごく普通に隣り合わせになって空間と時間を共有している、その様子は、圧倒されて目が回りそうでもあると同時に、ある種の開放感も与えてくれます。

『ドット・コム・ラヴァーズ』にも書きましたが、これはやはり、ニューヨークという街で、地下鉄やバスという公共交通機関の果たす役割が大きいと思います。アメリカのほとんどの街には地下鉄は存在しないし、バスは低所得者層の人々しか乗らないことが多いのに対して、ニューヨークでは皆が普通に地下鉄やバスを使い、自分の仕事や社交生活においては一緒にならない種類の人たちとも空間を共にする、というのは、かなり意味のあることだと思います。そうした意味でニューヨークの地下鉄は素晴らしいと思いますが、それと同時に、ニューヨークの地下鉄に乗るたびに、日本の電車の仕組み(?)との違いに呆れもします。時刻表というものがなく、次の電車がいったいいつくるのかさっぱりわからない。通勤時間だというのに、待てど暮らせど全然電車がやってこないこともしょっちゅう。それも、ニューヨーカーのようにものうるさい人たちが、さほど文句も言わずにじっと立って待っている。また、なんの説明もないまま(あるいは説明があっても、「サタデー・ナイト・ライヴ」の古典的なネタにもなったように、車内のアナウンスが騒音でまるで聞き取れないので意味をなさない)、各駅停車であるはずの電車が突然快速になって自分が降りるべき駅を飛ばしてずっと先まで行ってしまったりする。なんだか訳もわからず普段と違うホームに停車したりもする。よくもまあこれだけの大都市の地下鉄が、こんなに不可解な仕組みのまま成り立っているなあと感心するくらいですが、世界的な視点で考えたら、一分と遅れない日本の電車のほうが異常なのかもしれません。

ニューヨークにいるととても遠く感じられるハワイでは、例のシヴィル・ユニオン法案が、今期はどうやら法案化せずに終わるようです。州上院の委員会で三対三の票でわれたまま、その後の処理について議論されていましたが、委員会をバイパスして上院全体の投票にかけるという案が、昨日の上院全体会議で否決になりました。これは、シヴィル・ユニオン法案そのものへの支持や反対を表す票ではなく、手続きについての票なのですが(上院議員の過半数はシヴィル・ユニオン支持を表明しています)、当然ながら、これまでこの法案にむけて懸命に活動してきた人々には、大きな落胆です。しかし、映画『ミルク』からもわかるように、こうした活動は、だめでもあきらめず、忍耐強く連帯の輪をひろげ支持者層を拡大しながら、しつこく何度も何度も活動していくことによって実現していくので、今回の運動で学んだことを参考にして、また来期への活動に向けて準備開始です。