先日は、友達に誘われて、六本木ヒルズで開催されたART for LIFEという被災者支援イベントに行ってきました。計画されていた「六本木アートナイト2011」というイベントが震災の影響でキャンセルになったため、予定されていたシンポジウム内容の一部を変更して、参加アーティストの作品を販売し義援金とするチャリティイベントとして開催されたもの。森美術館館長の南條史生氏、文化庁長官の近藤誠一氏(私は地震以前に文化庁の催しにいろいろ顔を出していたので長官の姿はよく目にしてきましたが、こういう場にもちゃんと登場していらっしゃるのでなかなか感心しました)、文部科学副大臣の鈴木寛氏、現代美術家の椿昇氏、日比野克彦氏など、多様な顔ぶれの方たちが壇上にのぼり、震災という危機状況におけるアートやアーティストの役割、災害とアート、ウェブやツイッターなどのテクノロジーについての意見や観察を語っていました。突然の大震災があってほんの二週間で開催されたイベントでもあり、「今の状況におけるアートやアーティストの役割」については皆が現在進行形で悩み模索しているところでもあるので、練られ絞られた論点について考え抜かれたことが議論されるというよりは、聴衆とともに悩み模索する、という感じではありましたが(ただし、会場が混雑していて何時間も立ちっぱなしだったので、あまりにも疲れて、私たちは途中で退出してしまったので、後半のディスカッションは聞いていません、あしからず)、そういう場を設けるということだけでもじゅうぶんに意義はあったと思います。
ただ、こうした状況でのアートの役割、というときに、ともすると、「人々の心を癒す」という点に話が収束されがちなのがちょっと気になります。もちろん、人々の心を癒したり、あるいは人々に元気や希望を与える音楽や絵画や演劇はたくさんあるし、極限状態にある人がそうしたものに文字通り命を救われることもあるのは否定しません。被災地の人たちがラジオから流れる音楽にとても慰められ勇気づけられている、という話もあちこちで目にします。それはもちろん素晴らしいことで、アートにはそうした役割を果たし続けてほしいと思いますが、それと同時に、芸術というのは、必ずしも人々を慰めたり癒したりすることが第一の目的ではないはずだし、万人の目や耳にやさしい、美しい作品が必ずしも一流の芸術ではないはず。芸術というのは、それぞれのアーティストが捉えた世界を、それぞれの形で突きつめ、表現し、その過程で、聴衆に対して疑問や宣言や語りを投げかけるものだろうと思います。それが、鎮魂や慰めである場合もあるし、怒りや挑戦である場合もあり、聴衆は慰められるどころか、困惑したり興奮したりすることもある。そうした表象活動は、今困っている人をすぐに助けられるものではないけれども、アーティストだからこそできることというのは、まさにそこにあるはず。なので、苦しくても辛くても、また自分がなんの役にも立たないような気持ちになっても、芸術家の人たちには芸術活動そのものに今こそ向き合ってほしいと思います。(と、エラそうに言いながら、自分はやりかけた執筆活動が精神的に辛すぎて中断したまま。)
ところで、被災者に配慮してお花見は自粛すべき、という指示(?)が一部からあるようですが、私はこの意見には賛成しません。桜を観ながら飲み騒ぐのは不謹慎、ということなのでしょうが、人が花を愛でる、とくに仲間と一緒に花のもとで時を過ごすという行為には、浮かれ騒ぐという以外にもたくさんの意味があるはず。とくに、日本で桜には歴史的にいろいろな意味が込められてきた(ちなみに、直接震災とは関係ないですが、軍国主義における桜のシンボリズムを分析した大貫恵美子『ねじ曲げられた桜―美意識と軍国主義』はたいへん興味深いです)のであって、戦後最大の危機に直面する日本の人々が、桜を観ながら語り合う(あるいは沈黙し合う)のは、とても深い意味のあることなんじゃないかと思いますし、それは、変なナショナリズムに流れる必要もない(もちろん、この震災のなかから、間違った形のナショナリズムが生まれてくるという可能性はあるでしょうが)。節電のため照明はなくすというのは理解できますが、人々が桜の下に集まることまでやめろというのは納得がいかない。人々が花見をしないことで被災地の人になにかプラスになることがあるわけでもなし、むしろ、自然は地震や津波ももたらすけれども美しい桜の花も咲かせるということ、長く辛い冬の後には必ず春がやってくるということを感じ、花を愛でることの幸せを人々と共有することは、今の日本の人々には大事なんじゃないかなあ...