2013年9月29日日曜日

海を渡るキティちゃんの「ピンク・グローバリゼーション」

あるジェンダー研究の学術誌に書評を頼まれて読んだのが、ハワイ大学の同僚Christine R. Yanoによる、Pink Globalization: Hello Kitty's Trek Across the Pacific。その名のとおり、ハロー・キティの世界的な人気の意味を探る、文化人類学そしてカルチュラル・スタディーズの手法を使った研究。私は小学生の頃はキティちゃんを可愛いと思ったけれど、今ではむしろ不気味に感じるし、大のおとながキティちゃんグッズを持っているのを目撃すると、まったく大きなお世話ながら「アホかいな」という気持ちにすらなる。こういう子供向けのキャラクターが、銀行の通帳だの飛行機の機体だのについているのを見ると、腹立たしくすらなる、というのが正直なところ。で、いくら研究書とはいえ、わざわざハロー・キティ(「キティちゃん」とまるで知り合いかのような呼び方をしなければいけないことすら腹立たしい:))について勉強するために自分の貴重な時間を割こうとは思わないのですが、著者のChrisは、なにしろ私が心から尊敬する、知性と感性と文章力がピカイチの人物で、これまでの著書(彼女と私は同じ年にハワイ大学に就職したのですが、私が研究書を2冊出すあいだに彼女はすでに4冊出している)もすべて拍手したくなるほど素晴らしいので、書評を頼まれたのを機に読むことにした次第。

いや〜、さすがChris。この白くて丸くてピンクのリボンをつけたネコから、こんなに多くのことを考えさせられるとは思いませんでした。かといって、この本を読み終わった私が、じゃあこれからキティちゃんグッズを店で買うかといったら答は大きな「ノー」ですが、ハロー・キティのもつ意味をもっと多面的に考える機会になったことは確かです。このネコを通じて、ジェンダー規範や性、人種のステレオタイプ、消費主義と表現の自由、芸術の創造性と企業のマーケティング戦略、政府の文化政策と企業や消費者の論理など、実にさまざまな大きなテーマを考えさせられるのです。

著者がこの本で枠組として使っているのが、「ピンク・グローバリゼーション」という概念。「『カワイイ』とされている商品やイメージが、日本からアメリカなどの先進国へと国境を越えて広がること」と著者は説明します。この独特な形のグローバリゼーションは、いろいろな意味で「典型的」なグローバリゼーションの常識や流れを揺さぶるもの。まずは、ポスト・フェミニズムの時代において、「カワイイものはカッコいい」とするこの独自の美学は、いわゆる「ピンク」なもの—つまり、可愛らしく、女性らしく、性的で、情感に訴えるもの—を、女性の重要な一部として賛美する。そして、女性(また男性も)はその「カワイイもの」を武器として、さまざまな自己表現をしたり社会への問いかけをしたりする。("Pink is the new black"だそうな。)ほほう。そしてまた、白人西洋社会から世界の他の地域へと流れる「グローバリゼーション」と違って、キティちゃんの「ピンク」なグローバリゼーションは、日本を出発点として、アメリカやラテン・アメリカ、アジアの他の地域などへと広がっている。しかし、このピンク・グローバリゼーションが従来の世界力学を覆しているかというと、そういうわけではない。ミッキーマウスやバービー人形、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのおじさんなどのキャラクターが、そのキャラクターを超えてその背景にある「アメリカ」のライフスタイルや経済・文化を象徴するようになっている(そして世界が一面的に「ディズニー化」「マクドナルド化」するのを批判したりおそれたりする人たちがいる)のとは対照的に、キティちゃんがいくら世界で人気だからといって、それを日本による世界制覇の象徴とみて脅威を感じる人は少ない。キティちゃんのグローバリゼーションは、白人西洋中心の文化的ヘゲモニーを揺さぶるものではないのだ。なにしろ、キティちゃんの苗字は「ホワイト」で、キティちゃんとその家族はイギリスに住んでいて、キティちゃんはピアノとテニスが趣味で、ディア・ダニエルという名前のボーイフレンドがいるのだから。

著者は私が感心する名エスノグラファーで、インタビューで人から面白い話を聞き出すのが実に上手なのだが、この本でもそれが明らか。ハロー・キティのファンや収集家、キティちゃんをテーマにした作品を作っている各種メディアのアーティスト、サンリオの日本本社そしてアメリカの支社の代表者などとのインタビューをふんだんに盛り込みながら、ハロー・キティがもつ実に多様な意味を披露すると同時に、キティちゃんのピンク・グローバリゼーションを、より大きな歴史的・政治的・経済的な流れのなかに位置づけます。キティちゃんのファンは、少女たちだけではない。とくにアメリカでは、女性もいれば男性もいる。アジア系アメリカ人もいればヒスパニック系の人もいる。メディア・パーソナリティもいれば会社員もいる。パンク・ロッカーもいればポルノ女優もいる。ゲイの男性もいればレズビアンもいる。そして、みずからも異常と認めるほどキティちゃんグッズにお金や時間をかける人たちもいるいっぽうで、キティちゃん(が象徴するもの)を激しく批判する人たちもいる。キティちゃんの「可愛らしさ」を、幸せ、無垢、親密さなどの象徴とみる人たちがいるいっぽうで、幼稚さ、無力さ、人種や性のステレオタイプ、商品フェティシズム、少女や思春期の女性を消費者として狙い撃ちにする企業文化の象徴とみる人たちもいる。キティちゃん反対論者の多くは、キティちゃんには口がない、という点をとくに問題視する。口がないということは、声を発するすべを持たない、ということであり、アジア女性を無口で従順な存在とするステレオタイプを強調するものだ、という見方である。このように、キティちゃんが内包する「意味」は、実に多様で曖昧で相矛盾するものであり、著者はどの見方に軍配を上げるでもなく、それぞれを丁寧に読み解いていく。

著者の分析においてとくに重要なのが「遊び」と「ウィンク」という概念。ハロー・キティをこよなく愛する人も、痛烈に批判する人も、キティちゃんとのかかわりかたはきわめて意図的なもので、キティちゃんを通じて、消費主義、キッチュの美学、商品フェティシズムなどに対して、遊び心いっぱいに片目でウィンクしながら挑戦を投げかけている。こうした「ウィンク」のもつ先鋭性に、著者はピンク・グローバリゼーションの威力をみる。しかし、それと同時に、著者は、ピンク・グローバリゼーションの限界も見逃さない。消費者やアーティストたちが、キティちゃんを手に取り援用して独自の声を発し、さまざまな挑戦をしかけるいっぽうで、サンリオという企業は、そうした援用をさらに企業のマーケティング戦略に巧みに取り込んでいく。また、小泉首相が提唱した「クール・ジャパン」キャンペーンの一環で、キティちゃんをはじめとする「カワイイ」日本のキャラクターが「ソフト・パワー」外交の親善大使として使われるようになる。このような流れのなかで、創造性とキッチュ、芸術と商業、転覆と収斂、ピンクとブラック、そうした境界はきわめて曖昧なものである、ということを示して、「ピンク」や「ウィンク」のもつ可能性と限界の両方を露呈するのです。

ニューヨークのパーク・アヴェニューの企業オフィスの明かりがほんのりと光るだけの夜の暗闇を背景に、巨大な真っ白のキティちゃんの人形が空を浮いている画像の上に、ピンクの帯がタイトルを縁取っている表紙。「ピンク」と「ブラック」と「ホワイト」が象徴するものの相関関係を探る研究書の表紙としては、なんとも見事なデザインであります。