ところで、先日の東京大学の入学式での上野千鶴子氏による祝辞。あの舞台であの人があの内容を話したということは、とても意義深いことだと思います。一生懸命勉強して東大に入学して晴れ晴れとした気分でいる新入生の中には、あの話を聞いて冷水を浴びさせられたような気持ちになった人も多いでしょう。「祝ってくれよ」という一言のツイッターもありました。これは、多くの新入生の正直な気持ちだったのではないかと思います。
でもそこで、なぜ自分たちが東京大学に入学することが祝福に値するのか、誰が何を祝福しているのか、自分たちが祝福されるのであれば、祝福された自分たちはこれから何をなすべきなのか、といったことを、合格の興奮からそろそろ冷めた新入生たちに、冷静に考えることを促す、というのは大事なことだと思います。
そして、東大そして日本社会におけるジェンダーの問題、機会の不均等や構造的不平等の問題を、こうして正面から提示し、祝辞の最後の三段落のメッセージが伝えられたということは、とても重要なことだと思います。
この祝辞に対するさまざまな反応を見ると、上野氏のメッセージをきちんと捉えていないい、あるいは捉えようとしない姿勢、フェミニズムに対する理解の欠如や反感の根深さ、東大生の意識的・無意識的エンタイトルメントなどを目の当たりにし、暗澹たる気持ちになるのですが、評価する声もあちこちにあるようですし、とにもかくにもこの祝辞の意義は大きいと思います。
さて、もし自分が東大の入学式で祝辞を述べるとしたら、何を言うだろうか、と考えてみました。泣きたくなるほどの事務作業に追われているなか、今自分が少しの時間でもあればなすべきことは、研究であって、誰にも頼まれていない祝辞を試しに書いてみることではないのですが、書いてしまったので、以下公開します。
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みなさん、ご入学おめでとうございます。
みなさんが生まれるずっと前のことですが、私も東京大学の入学式に出席しました。ですから、みなさんが今抱いている、晴れ晴れとした気持ちや、明るい前途への期待、新しい世界に足を踏み入れる興奮や緊張は、私も経験しています。自分が送った大学生活についての反省と、その後に学んだことをもとに、みなさんへの激励として、いくつかの希望とアドバイスを述べさせていただきます。
まず第一に、携帯電話をしまって、私の挨拶が終わるまで顔を上げてこちらを見ながら聞いてください。
ツイッターその他のSNSが悪いと言うつもりはありません。即時性があり開かれた媒体だからこそ、ダイナミックでレレバントな言論公共領域が形成されるということは評価していますし、私自身そうしたツールを使ってもいます。式が終わってこの会場を出たら、ツイッターでもインスタでもFBでもなんでも、好きなだけ発信していただいて結構です。この祝辞は生中継されていますから、会場の外でさまざまなツイートをしている人はたくさんいるでしょうし、この文面は公開されますから、後から読み直していくらでもコメントしていただいて結構です。
でも、今みなさんは、式典という儀式に参加し、そこで私は、祝辞という形のスピーチをしています。そこには、生の人間が時間と空間を共有する具体的な相手に向かって語りかける、という営みがあります。音楽や演劇と同じように、スピーチは全体としてひとつのメッセージを発するものであり、それを私なりの方法でみなさんに伝えるために、みなさんの前に身体を出し、言葉を使っているのです。数分間で終わりますから、とにもかくにもその間は、それを受け止めるのにすべての神経を投入してください。それが礼儀というものですし、そのほうが、後で文句をつけるにしても、より立派な文句がつけられます。
そうやって、人の話をリスペクトをもって聞き(あるいは読み)、意図を正確に把握し、真剣に考えた上で、共感あるいは反論などのコメントを、明快に論理立てて述べる、という作業は、社会生活の基本であり、言葉という人間固有の財産を大切にする行為でもあります。それは、人との関係を築く上でも、理解力や発信力を培う上でも、重要なことです。聞く、話す、読む、書く、のすべてにおいて、そうした高度な言語能力を身につけてほしいと思います。
第二に、みなさんの周りに座っている同級生たちの顔ぶれを見回してください。また、この舞台に座っている先生がたの顔ぶれを見渡してみてください。
パッと見てわかるように、そして多くのみなさんが報道などですでに知っているように、みなさんの同級生は、八割以上が男性です。みなさんの過半数が、首都圏をはじめとする都市部の進学校から来ています。みなさんのほとんどが、日本の国籍をもっています。みなさんがこれから師事することになる教員にいたっては、九割が男性で、そのほとんどが、みなさんと同じ東京大学で学部生活を送り、同じ東京大学で学位をとった日本人の先生がたたちです。
これにはいろいろな理由が考えられ、深い議論や分析をすべき問題ですが、この舞台はそのための場ではありません。ただ今は、これが相当に異様な状況である、ということを指摘するにとどめます。
みなさんは、私の話を聞きながらこの数分間はこの状況について考えても、そして、会場を出てすぐにツイッターその他でコメントを書いても、いったん大学生活が始まってしまえば、じきにそうした環境が当たり前になって、それが異様なこととも不思議なこととも思わなくなってしまう人が多いのではないでしょうか。
当たり前と思われていることが、本当に当たり前なのか、なぜそれが当たり前になったのか、当たり前でないとすれば他のどんな可能性があるのか。そうした批判的思考と探究心を、みなさんに持ち続けてほしいと思います。そうした批判や探求の対象とすべきものは、宇宙にも細胞にも聖典にも音楽にも法律にもありますが、大学という場所の中にも、そしてみなさんの意識や感情の中にもあります。そうやって自分や自分の生きる社会や文化を相対化することで、自分にとっても他の人々にとってもよりよい世界が思い描けるのです。
みなさんの中には、「受験という公平な制度のなか、自分は能力と努力で競争を勝ち抜いて、今この場にいる」と思っている人が多いだろうと思います。私も、入学式に出席した頃には、そう思っていました。
じっさい、みなさんが受験した入学試験を、できる限り実質的な知力を試す内容と形式にし、公正かつ公平な方式で実施するよう、この大学の先生がたが非常に多くの時間や知恵や体力を投入してきていたことを、私は知っています。試験問題を見ても、これを作った先生がたはさすがだなあと思う同時に、これに答えたみなさんはすごいなあと感心します。
みなさんが今日この式に出席しているということの背景には、多くの情報を処理し論理的に思考する基礎的な知力、多くの科目を地道に勉強する集中力と継続力、試験で成果を出す瞬発力といった、みなさんの能力と努力があります。精一杯の努力をし、それが成果を生む、ということを若い頃に経験したことは、みなさんのこれからの人生において大きな強みになるはずです。
それと同時に、みなさんが頑張って勉強して厳しい競争を勝ち抜くことができた背景には、みなさんひとりひとりの能力や努力のほかにも様々な要素があります。みなさんの育ってきた家庭や環境が、勉強に価値を置くものであった、ということ。大学とは何かを理解し、東大入学を目標にするような状況があった、ということ。受験勉強をサポートする学校や予備校に行くことができ、勉強をすることが物理的・経済的に可能であった、ということ。勉強を断念しなければいけないような病気や怪我をせず、大きな事件に巻き込まれたり被害にあったりすることなく、ここ数年間を過ごせた、ということ、などなど。
入学式に出席していた頃、私はそれらの状況を、自明のことと思っていました。世の中に生きる多くの人にとってそれがいかに特殊な状況であるかを理解するには、多くの時間と、日本内外でのさまざまな出会いや経験を要しました。
高度な知力をもったみなさんだからこそ、今自分がこの場にいる、という事実を相対化して、「公正な入学試験」とはなにか、そして「公平な社会制度」とはなにかを、これからの大学生活、そしてこれからの人生において、真剣に考えてほしいと思います。そうすることこそが、東京大学に通うみなさんの、それを可能にした状況に対しての、責務であると思うのです。
第三に、今度は、みなさんたちのなかに、どんな差異や境界があるか、考えてみてください。
先ほど、「東大には多様性が少ない」という意味のことを述べましたが、「多様性」というのは字義通りの「顔ぶれ」をパッと見てわかるところだけにあるわけではありません。
スーツ姿で並んで座っているみなさんを見渡すと、一見とても均質的な集団に見えます。でも、みなさんの中には、性的マイノリティもいるでしょう。受験のときに初めて東京に来た人もいるでしょう。いろいろな宗教の信者もいるでしょう。裕福とはいえない家庭環境で育った人もいるでしょう。家や学校で日本語以外の言葉を話して育った人もいるでしょう。病気を持っていたり、精神的トラウマを抱えていたりする人もいるでしょう。
一見、同じような、似たような人間に見えても、人にはいろいろな差異があります。そうした差異を、ないことにしたり、マジョリティの都合に合わせたり、排除の道具にしたりするのではなく、大学を、それぞれの人が居場所を見つけ安全に活き活きと暮らすことができる場にし、差異と多様性から生まれる無限の可能性を追求するような人間関係や共同体を、みなさんに築いていってほしいと思います。
大学の外に出ればさらに、日本の社会は、同質性が高いといわれながらも、実に多様で複雑です。みなさんがこれまでに出会う機会のなかったような人たちが、日本のあちこちで一生懸命に生きています。これから先の日本がどのような社会であるべきかを真剣に考えるためには、物見遊山や覗き見趣味でなく、社会の一員として、謙虚にかつ積極的に、日本を知ってほしいです。
さらに、自分にとっての常識を相対化し、世界における日本の位置づけや、日本が世界においてしてきたこと、日本が世界においてするべきことを、冷静に考えるには、日本の外の世界を知ることも大事です。私が学生だった頃と比べて、留学プログラムや、海外出身の学生と一緒に授業を受けられる機会は、格段に充実しているにも関わらず、そうした制度を活用する学生はごく一部に限られています。世界的・歴史的な視点で見れば、自国で自分の母語で高等教育が受けられる、というのは、特権的なことですが、自分の意志で希望の国に行って勉強できる、というのは、さらに特権的なことです。与えられた特権をぜひ活用していただきたいと思います。
第四に、大学には多くのことを要求してください。
せっかく頑張って勉強して入学し、授業料と税金を使って、国立大学のなかでも群を抜いた予算をもつ東京大学に通うみなさんは、最高レベルの教育を受ける権利があります。系統だった知識を伝達し、思考分析の技術を伝授し、教授の情熱を感じさせてくれ、学問の醍醐味を味わわせてくれるような授業を、みなさんは受ける権利があるのです。そして、知的にも人間的にも成長させてくれるような指導を要求する権利があるのです。
真剣に授業に取り組んだ上で、面白くないと思ったら、なぜ面白くないのかを筋道立てて述べ、抗議してください。開講されている授業の選択肢やカリキュラム、進振り制度、教授の顔ぶれなどについて、なぜこうなっているのかを理解した上で、納得のいかないことがあったら、皆で議論して、教授たちとの話し合いを要求してください。
そして、本当に勉強したいことを専攻してください。やりたいことをやってこそ、人は努力もできるし、情熱や能力を活かすことができます。就職の際につぶしがきく、などという理由で専攻を選ぶのは、志が低すぎますし、自分に対して失礼です。
みなさんが大学に要求すべきことは、教育・研究にかかわることだけではありません。クラブやサークル、駒場祭などの課外活動も、大学生活の重要な一部です。そうした活動のありかたについて、主体的に考え議論し発信することで、大学を自分のものにすることができると同時に、社会人として仕事や生活をする重要な訓練ができます。
大学というのは、ひとつのユートピアだと私は信じています。少なくともそうあるべきだと思っています。さまざまな背景や経験を持った人たちが、真実や真理の追求という共通の目的のもとに、空間と時間を共有する。そんな稀有な場は、世の中に他にまずありません。大学とは、外の社会においては実現困難な理想を追求する実験場でありコミューンであってほしいと思っています。学問においても、大学という場所の営みにおいても、そんな理想郷をみなさんが主体的に作り営んでいってほしいのです。
最後に、晴れて入学を果たしたみなさんには、一日も早く、卒業していただきたいと思います。
さっさと必要な単位を取って卒業してほしい、ということではありません。本当に自分がしたいことを見つけてじっくりと勉強し、若いときだからこそできる経験を積むためならば、一年や二年卒業が遅くなることはむしろ好ましいことだと思っています。
私が言いたいのは、今日この式が終わって、応援してくれた家族や仲間とお祝いをしたら、カギカッコのついた「東大生」をなるべく早く脱ぎ捨ててほしい、ということです。
東京大学というのは、日本社会において特別な位置を占めています。今日のこの式にも、たくさんの報道関係者が来ています。私のこの祝辞も、今日中にも各種のメディアに掲載されることでしょう。書店には「東大生の勉強法」とか「東大生の部屋」とか「東大生の親」とかいったことを取り上げた本や雑誌の特集がつねに並んでいます。これからのみなさんは、大学はどこかと聞かれて「東大です」と答えれば、「へえ〜!」と感心されることが多いでしょう。「東大生」であることの恩恵を受けることも多いでしょうし、それについてまわるステレオタイプに辟易することもあるでしょう。
そこで、なにか大きな勘違いをしてしまったり、あるいは、「東大生」というラベルと対峙することにたくさんの時間を費やしたりすることは、せっかくみなさんが持ち合わせた、能力と環境という幸運の組み合わせを無駄にすることになります。多くの努力をすることを知っているみなさんが、もっとも成長できる時期に、その成長が停滞あるいは停止してしまいます。一日も早く、できることならば今日この日にでも、「東大生」であることを卒業して、一東大生として真剣な大学生活を送ってほしいと思います。
以上、騙されたと思って実行してみてください。そして、私の祝辞はこれで終わりですが、ツイッターは、会場を出てからにしてください。