2011年7月15日金曜日

カリフォルニア州、公立学校でゲイの歴史が必修に

ジェリー・ブラウン知事の署名により、カリフォルニア州は、同性愛者の歴史が公立学校の必修カリキュラムに取り入れられる最初の州となりました。社会科のカリキュラムや教科書に、同性愛者たちがどのように社会に貢献してきたかという視点が入れられることが必須となり、各学区では来年1月からこの課程を実現しなければいけないこととなります。

この法案は、自らがゲイであることを公表した初のカリフォルニア州上院議員であるマーク・レノ氏によって提出されました。カリフォルニアでは、黒人や女性の歴史はすでに必修カリキュラムの一部となっていたにもかかわらず、現在まで、このブログでも以前に言及した活動家ハーヴェイ・ミルク氏などの同性愛者については、教科書でほとんど触れられていませんでした。2006年に今回と同様の法案が議会を通過したにもかかわらず、当時の共和党知事シュワルツネッガー氏が拒否権を行使して法案はボツになったという経緯がありましたが、今回は民主党の知事となり、また、ゲイの10代の若者の自殺が相次ぐといった状況のなかで、この法案を支持する動きが強くなっていました。同性愛者はコミュニティのきちんとした一員であって、立派な社会貢献をしてきている、ということを学校で学ぶことによって、偏見やいじめをなくし、人々の多様性を重んじる精神を育む、という意図の法案。もちろん、反対派は、特定の見方を子どもたちに強要するものであると抗議をしていますし、このような動きはゲイへの偏見をかえって強める可能性もあるとの見方もあり、実際に学校でどのように指導や議論がなされていくのかは今後注目すべきところです。が、同性愛のことに限らず、若いうちから、世の中にはいろいろな人たちがいるということ、そうした「いろいろな人たち」が自分のすぐ周りにもいるということを知り、また、自分たちの身体やセクシュアリティについて健全な思いをもつようになる教育がなされることは、どこの社会でもとても重要だと思います。

2011年7月10日日曜日

ミネソタ国際ピアノ-e-コンクール

昨日は、大学一・二年生のときのクラスの同窓会があって(「あって」というか、私が言い出しっぺとなって企画したのですが)、たいへん楽しい一晩を過ごしてきました。前回の私の日本滞在中に、卒業後初めてこの集まりがあったのですが、卒業後20年、つまり、大学時代が人生のちょうど中間地点となったこの時期に、共にフランス語や体育の授業を受けた(さぼった)人たちと顔を合わせるのは、なんともいえない感慨があり、参加者全員、形容しがたい高揚感を味わったので、またときどきやりましょうということになって、今回の開催に至りました。20代や30代の頃は、自分のことで精一杯だったり、周りの人のことが気になったり競争心があったりして、同級生との関係も意外に難しかったりしますが、40代ともなると、みなそれぞれが、頑張っているなかでも、失敗や挫折も味わったり、仕事や家庭生活で軌道修正や再出発をしたり、あるいは大きな病気をしたりと、山あり谷ありの経験をし、そのなかで自分らしい人生を生きるようになってきているので、他の人に対しても、素直に謙虚に優しく向き合うことができるんだと思います。昨日も、そういう集まりでした。

まったく関係のない話題ですが、つい一昨日まで、ミネソタ州のセント・ポールで、ミネソタ国際ピアノ-e-コンクール(Minnesota International Piano-e-Competition)というジュニア・コンクールが開催されていました。イベント名になぜ「e」という文字がついているかというと、このコンクールでは、ヤマハCFIIISというコンサートグランドピアノに内蔵されたDisklavierという電子技術によって、演奏されるピアノの音がそのまま直接インターネット上で流されると同時に録音されるからです。アコースティックの楽器と最新の技術の融合によって、コンクールの模様が最高の音質で世界に伝えられるわけです。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』で紹介したように、2009年のクライバーン・コンクールが一部始終ネット中継されたのは画期的なことでした。が、技術というものは、一度できてしまえば当たり前になってしまうようで、今回のチャイコフスキー・コンクールやアマチュア・クライバーンを含め、コンクールではネット中継が当然という時代になってきているようですが、楽器から直接音が伝わるというこの技術もすごい。

そして、このコンクールは、出場資格が17歳までというジュニア・コンクールなのですが、課されている演目の難易度も量もスゴいし、出場者の演奏も、信じられないくらいレベルが高い。さらに、出場者の顔ぶれを見ると、『Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Music』でクラシック音楽におけるアジア人の台頭を本まるごと一冊使って論じたこの私でも呆れてしまうくらい、アジア人・アジア系が多い。チャイコフスキー・コンクールでも韓国勢がいろいろな部門でたいへん優秀な成績を収めていましたが、このコンクールではなにしろ、本選まで残った5人は見事に全員がアジア人またはアジア系。誰にも文句を言わせない圧倒的な力で一位となった香港のAristo Sham君は、こういうのを天才というんだろうなあと思わせる音楽性と技術的腕前。日本の尾崎未空さんもファイナリストのひとりとなり、カナダのAnnie Zhouさんとともに四位を獲得。いやあ、すごいなあ。そして、こういうジュニア・コンクールで優秀な成績をおさめる人たちのすべてが音楽家になるわけではなく、それこそ医者や弁護士や学者やビジネスマンになる人もいるんだろうから、彼らのうちの何人かが、20年後にはアマチュア・クライバーンに出場するのかもしれないと思うと、思うようにならない指や足(今回アマチュア・クライバーンに出て、自分がペダルの使い方を基本から勉強しなければいけないということを認識しました)に業を煮やしながら練習している自分が馬鹿馬鹿しい気持ちにすらなってきます。まあそれはともかくとして、才能があり努力を惜しまない世界の10代の若者たちの演奏には、プロのコンクールとも、アマチュア・コンクールとも違う感動がありますので、アーカイブされた動画を是非見てみてください。

2011年7月6日水曜日

ヒューマン・ライツ・ウォッチ チャリティ・ディナー

昨晩は、ホテルオークラで開催された、ヒューマン・ライツ・ウォッチチャリティ・ディナーに出席してきました。私はチャリティ・ディナーに自分で参加できるようなお財布事情ではないのですが、ヒューマン・ライツ・ウォッチの東京事務所代表を務めていて今メディア各方面で大活躍中の土井香苗さんと知り合いであることと、私より何十倍もお財布事情のよい友人(彼が私を土井香苗さんに紹介してくれた)がテーブルをまるごとひとつスポンサーしていて私をゲストとして招待してくれたことから、友達を何人も率いてこのディナーに出席することができ、たいへん貴重な体験をすることとなりました。

アメリカでは、社会運動をするNPOやオーケストラやオペラ(そしてもちろんクライバーン財団など)といった芸術団体など、さまざまな組織が資金集めをするために、いわゆるファンドレイジングのためのガラ・ディナーを開催することはよくあります。赤絨毯の上を歩いて会場に入る、まるで宮廷の舞踏会かと思うような豪華なものから、教会の庭や学校のグラウンドにテントをはって手作りの料理を食べるというものまで、規模はさまざま。私も、テント規模のファンドレイジングでならば、サイレントオークションで売るものを寄付(サイン入りの自分の著書、ちゃんと定価以上で落札されました)したこともあるし、ものを買ったこともあります(ワインとか、アクセサリーとか)。が、日本でもこうした種類のイベントがあるということは、よく認識していませんでした。でも、聞いてみたら、やはり日本ではこういう形のファンドレイジングは珍しいだろう、とのこと。今回の震災にあたってはもちろんですが、日本でもいろいろな団体に寄付をする人はいるけれど、苦しんでいる人たちを助ける資金を集めるために、こうした大々的なイベントで、着飾った人々がおいしいお食事をいただきながらお話や音楽を聴く、という形式はあまり日本には馴染まないのだろう、と。それもそうかもしれません。

でも、昨晩のディナーは、日本でも組織力のある団体はだんだんとこういう形の資金集めをするようになっていくのかもしれない、と思わせるような、素敵なイベントでした。ヒューマン・ライツ・ウォッチの活動をビデオなどで効果的に紹介し、エチオピア人権評議会の元事務局長として人権運動に携わってきたヨセフ・ムルゲタ弁護士を迎え賞を授与し、そして、ヒューマン・ライツ・ウォッチの資金を集めるためのオークションをする、という、たいへん充実したプログラム。プロのオークショニアによるライブオークションでは、それぞれのアイテムに何十万円という値段がどんどん競り上がっていってすべて落札されるし、中東や北アフリカでの調査ミッションのための募金や、日本での震災孤児たちの人権を守る活動のための募金は、それぞれ一口50万円、5万円という値段にもかかわらず、何十人もの人たちがためらわず手(正確には手ではなくオークションの番号のついた団扇型の札)を挙げる。そうかー、日本にもこういう場があって、こういう人たちがいるんだなあと、感心。日本も社会の格差化が進んでいるから、いるところにはお金持ちがたくさんいるのはわかっていたけれど、お金のある人が、自分の贅沢のためにだけお金を使うのではなく、こうした社会的な目的のためにも寛大にお金を出してくれるのだったら、それはもちろん立派なことで、おおいにやっていただきたい。そして、どんな高い志を掲げても、個人の善意だけでは世の中は動かない。社会を動かそうと思ったら、高い志と深い善意に加えて、専門的な知識と大きな財力(をもった人たちの人脈)と高度な組織力が必要。つまりは、「政治力」が必要。今の日本、本業の政治家たちにその政治力がまるっきりないのが明らかだけれども、こういうところで優秀かつビジョンのある人たち、しかも土井香苗さんのような若い人たち(すっかりオバサン根性になった私にとって、自分より若い人はみんな「若い人」:))が、これだけ立派な組織づくりをしていることには、心から脱帽します。私にはぽーんと寄付をするような財力はないけれど、なにか別の形で私なりの貢献ができたらと思っています。みなさまも、どうぞヒューマン・ライツ・ウォッチの活動を知り、支援してください。

2011年7月4日月曜日

浮気ありの幸せな結婚生活?

前にご案内したとおり、7月2日(土)に、アマチュア・クライバーン参加者5名によるコンサート、「ピアノ・マラソン in 東京」を開催しました。おかげさまで多くのかたに来ていただいて、楽しい会となりました。司会をしたワタクシが言うのもなんですが、ただ演奏があるだけでなく、このコンクールに出場を決めたきっかけや、いざフォート・ワースに行ってみて一番驚いたことなど、出演者に一言ずつ話してもらうというコーナーを設けて、パーソナル・タッチがあったのもよかったと思います。肝心のピアノも、皆コンクールを経て一皮むけた(?)感あり、5人それぞれのキャラクターがよく表れたいい演奏だったと思います。私自身の演奏は、小さなミスはたくさんあったものの、大惨事は免れ、一応自分が表現しようとしている精神にはおおむね忠実だったと思います。自分としてはまあ70点くらいの評価。本番を繰り返すにつれて、やはりいろいろなことを自分なりに学習するものです。来ていただいた皆様から、企業メセナ協会が立ち上げた、東日本大震災 芸術・文化による復興支援ファンドへの募金を集めたのですが、アマチュア5人の演奏で集めたにしては上出来といえる額が集まり、さっそく昨日「アマチュア・クライバーン参加者主催コンサート有志」の名で寄付を振り込んできました。ご協力いただいた皆様、どうもありがとうございました。

さて、まるで関係ないですが、先週末のニューヨーク・タイムズ・マガジンに掲載された記事がたいへん興味深い。タイトルはMarried, with Infidelities、つまり、「既婚、浮気つき」。結婚したら配偶者以外とは性的関係をもたないという一夫一婦制(ただしここでは同性関係についても論じられているので、一夫一夫、または一婦一婦の場合もあり)の原理が、幸せで末永い結婚生活を維持していくのに果たしてどれだけ現実的か、との問いかけをするもの。性や恋愛・結婚についてのアドバイス・コラムで著名なDan Savageの論を中心に、結婚した男女それぞれにとってのセックスの意味や、結婚生活における性生活の位置づけ、性的に満足するということはどういうことかなど、なかなか多面的にとりあげていて、いろいろ考えさせられます。結婚生活においては、性的快楽自体に至上の意味があるというわけではないが、性的満足は二人の関係のひとつの指標ではあるがゆえに、セックスは大事に考えるべき。そして、長期的に幸せな関係を続けていくためには、セックスにおいてお互いが「GGG = Good, Giving, Game」、すなわち、「上手で、相手に尽くして、いろいろなことにオープンである」、ということが大事。ふたりのうちのどちらかが、ある行為に興味があるのだったら、もうひとりは前向きにそれを楽しむ姿勢がなければいけない。相手の欲求にどうしても自分が応じられないというのであれば、そしてその欲求を満たすことがその相手の性的満足度に大きな意味をもっているのであれば、相手がそれを他の人間と満たすことを許容することが、結果的には結婚生活にプラスになる可能性もある、と。ただし、あらゆるフェティッシュをなんでもかんでも配偶者以外の相手と満たせばいいというわけではもちろんない。自分の欲求をどれだけ相手に正直に話すか、そして相手の欲求に対する自分の反応をどれだけ正直に伝えるか、ということは、お互いにとって相当にハードルの高い課題には違いない。また、配偶者以外の相手となんらかの関係をもったことが、結婚生活を円満にする場合もあるけれど、それが深い亀裂の始まりとなるケースも多々ある。一夫一婦制でない関係を上手く維持していくには、一夫一婦制を維持していくのと少なくとも同じくらいの努力が必要で、浮気を正当化するために安易に選ぶ道ではない、と。

私は結婚していないので、これにかんして自分がどう感じるかは、理屈でしかわかりませんが、もっとも考えさせられるのは、セックスそのもののことよりも、「配偶者が自分の欲求をつねに100%満たしてくれると考えるのは非現実的」という前提。性的欲求だけでなく、知的欲求、感情的欲求、ライフスタイルについての欲求など、人はいろいろなものを求めるけれど、どんなに深く愛し合っている者同士でも、それらの欲求をすべていつもお互いが満たすということはちょっと無理。それでも、その人との人生を大事にしていこうと思うならば、自分の欲求を結婚生活の外で満たすことで、配偶者への不満をためないようにする、というのは、理にかなっている気もします。頭のなかではいろいろと相手に求める条件のリストがあっても、実際に好きになる相手はその条件のごくわずかしか満たしていない人物であったりするわけで、それなら、他の条件は別のところで満たせばよい、と。ただし、ことがセックスとなると、たんに肉体的欲求の満足というわけにはいかず、本人にとっても相手にとってもいろいろと複雑な感情が伴いがちなので、そうもプラクティカルに解決できないことが多いのでしょうが。

ともかく、なかなか面白いので、長文ですが頑張って読み通す価値ありです。

2011年6月29日水曜日

チャイコフスキー・コンクール最終日

立て続けの投稿になりますが、前のものとはあまりにも内容が違うので別にして投稿します。

先週から、モスクワとサンクトペテルブルグで、チャイコフスキー・コンクールが開催されています。『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の最後で言及したように、2009年までクライバーン財団長を務めていたリチャード・ロジンスキ氏を最高諮問および運営委員長として迎えた今回のチャイコフスキー・コンクール。ソ連崩壊後の予算削減や審査の不透明さなどで評判を落としていたチャイコフスキー・コンクールが名誉挽回をはかってのぞんでいるのですが、今回も一週間のあいだにいろいろなスキャンダルがあります。たとえば、ピアノ部門の予選で落ちたピアニストのひとりが、準本選の演奏者のひとりが演奏を終えるや否やステージに上がってショパンを弾き始めたとか、チェロ部門の本選のコンチェルトを指揮してきた人物が、リハーサル中にアルメニア人のチェリストについて民族差別的な発言をし、コンクール本部が「このような言動は許されるものではない」と公式発表をして降板に至ったとか。そしてまた、このコンクールでも演奏のすべてがネットで生中継されているので、夜中まで起きて演奏を観ながら、世界のいろんなところに散らばっているアマチュア・クライバーンの仲間たちとフェースブック上でコメントをしあったりなんかして、「あーあ、とうとう私もピアノオタクの仲間入りをしてしまったか...」と苦笑。しかし、こんなふうに、テキサスやモスクワで開催されているコンクールを、自宅にいながらにして無料で生で見られてしまうのだから、すごいものです。

私はピアノ部門しかフォローしていませんが、本選に残っている5人のうちのひとりは、2009年のクライバーン・コンクールで2位になった韓国のヨルム・ソン。彼女のモーツアルトのピアノ協奏曲第21番の演奏は、何度でも観たいというほど素晴らしく(ラフマニノフの第3番は、普通演奏されるのと比べると、妙なほどアーティキュレーションがきいていて、かなり変わった演奏でした)、それまでのソロの演奏とも合わせると、彼女が優勝候補のひとりであることは間違いなし。今からあと10分ほどで、彼女のチャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番を含む最後の演奏が行われ、受賞者の発表となります。会場の雰囲気からなにから、クライバーン・コンクールとはずいぶん違って、そんな意味でも面白いので、興味のあるかたはごらんください。

オンライン・デーティングふたたび

そもそもこのブログは、2008年に発売となった拙著『ドット・コム・ラヴァーズ』にからめて、アメリカの恋愛・結婚・性にまつわる話題、そして現代アメリカ事情などを紹介するものとして始めたのですが、それ以来、投稿のトピックはずいぶんと広がり、私自身の興味という以外になんの脈絡もなくなってきました。と思っていたところ、現在発売中の『ニューヨーカー』誌に、『ドット・コム・ラヴァーズ』の初心に立ち返る(?)ような記事が。

オンライン・デーティングについてのけっこうな長文記事なのですが、さすが『ニューヨーカー』だけあって、内容・文章ともにたいへん充実していてウイットに富んでいる。1960年代に、今でいう「オンライン・デーティング」の原型となるものが誕生した歴史から掘り起こしているのがなかなか面白いし、記事の著者本人は人生において2度だけしたことがある「デート」のふたり目の相手と幸せな結婚生活を営んでいるゆえ、自らはオンライン・デーティングをしたことはないのだが、この記事執筆にあたり、オンライン・デーティング経験者の女性に数多くインタビューし、そのインタビュー自体が一種の「デート」のような雰囲気もあったというのがなんとも興味深い。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも、インターネットを介した人の出会いがなんだか怪しげなものと思われている日本と違って、アメリカではオンライン・デーティングがきわめてメインストリーム化していて、年齢や社会階層・職業を問わず、「ごく普通」のものとなっていることを書きましたが、この記事によると、オンライン・デーティングは、現代アメリカにおいて、男女のもっとも一般的な出会いの方法の第3位(第1位は「職場・学校で」、第2位は「友人・家族を通じて」)、6組に1組はオンライン・デーティングで知り合ったというほど、出会いの方法として一般化しています。それだけ一般化しているならば、サイトに登録している人たちの利用法もそれに呼応して洗練されてきているかというと必ずしもそうではなく、一般化・大衆化しているからこそ、どんな人物が登録しているかわからない、という側面もあり、デートに出かけた相手が犯罪歴のある人物だった、などという事例もきちんと取り上げています。

私にとって面白いのは、オンライン・デーティングにみられる人間模様をめぐる洞察やコメント。なかなか鋭くて気がきいている文が記事のあちこちに見られます。たとえば(訳すのが面倒なのでそのまま載せますが、とくに難しい英語ではないので、このブログを読んでいる人ならばだいたい理解できると思います)...

The dating profile, like the Facebook or Myspace profile, is a vehicle for projecting a curated and stylized version of oneself into the world. In a way, the online persona, with its lists of favorite bands and books, its roster of essential values and tourist destinations, represents a cheaper and more direct way of signalling one's worth and taste than the kinds of affect that people have relied on for centuries--headgear, jewelry, perfume, tattoos. Demonstrating the ability, and the inclination, to write well is a rough equivalent to showing up in a black Mercedes. And yet a sentiment I heard again and again, from women who instinctively prized nothing so much as a well-written profile, was that, as rare as it may be, "good writing is only a sign of good writing." Graceful prose does not a gentleman make.

この最後の二文、私のような人間には耳が痛い。私は、知性に満ちてきちんとした文章を書ける人、こちらが書いていることをちゃんと理解して反応していることを示す中身のあるメールを書ける人、ということをとにかく重視してしまうのですが、つき合うようになってからメールでずっとやりとりするわけじゃなし、文章至上主義には大いなる限界がある、ということに私も気づいてきました。

It is an axiom of Internet dating that everyone allegedly has a sense of humor, even if evidence of it is infrequently on display. You don't have to prove that you love to curl up with the Sunday Times or take walks on the beach (a very crowded beach, to judge by daters' profiles), but, if you say you are funny, then you should probably show it. Demonstrating funniness can be fraught. Irony isn't for everyone. But everyone isn't for everyone, either.

この「ユーモアのセンス」というのが、アメリカではとくに重視されがちなだけに、その感性が合っていることはかなり重要なポイント。この最後の一文は簡潔にして雄弁。この文、入試の日本語訳の問題として出題したら、面白いだろうなあ。(笑)

Gregory Huber and Neil Malhortra, political scientists at Yale and Stanford, respectively, are sifting through OK Cupid data to determine how political opinions factor in to choosing social partners. Rudder, for his part, has determined that Republicans have more in common with Republicans than Democrats have in common with Democrats, which led him to conclude, "The Democrats are doomed."

え〜、そんな〜!ショック!

ちなみに、日本では、インターネットを介した出会いというのは若者のするものというイメージがあるかもしれませんが、アメリカでは、オンライン・デーティングの利用者でもっとも急速に拡大しているのは、50歳以上の男女だということです。そうした中高年の「デート」事情も実例を詳しく取り上げながら考察していて、たいへん面白いです。『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださっている方には、楽しめると思うので、是非読んでみてください。


2011年6月26日日曜日

7/2(土)ピアノ・マラソン in 東京

本日は宣伝です。今回、日本からアマチュア・クライバーン・コンクールに参加した人たち5人(日本人参加者はさらに数名いたのですが、アメリカやヨーロッパ在住の人もいるので、今日本で集まれる人たち5人)が集まって、今週土曜日にジョイント・コンサートをします。コンクールに向けてせっかくみんなせっせと練習したことだし、フォート・ワースでの一週間があまりにも楽しかったので、その興奮と感動を他の人とも共有しよう、という主旨で開催することになりました(私が言い出しっぺで、実際の手配はすべて人にやってもらっている:))。この5人のなかでは確実に私が一番下手くそなのですが、もうコンクールは終わっているわけだし、誰が上手いとかいうよりも、とにかくそれぞれの人の演奏に表れる人間性や音楽に込める思いを感じ取っていただければと思います。もちろん入場無料ですが、募金を集めて芸術文化活動を通じて震災復興の支援をしている団体に寄付する予定です。

日時 7/2(土)開場15:00 開演15:15
場所 日仏文化協会 汐留ホール(ゆりかもめ汐留駅そば)
演奏者 大澤玲子・大村和元・小林創・大和誉典・吉原真里


プログラムに載せる文章をワタクシが担当したので、宣伝を兼ねて、以下その文章を添付いたします。


*****

私たちは、523日から29日まで、アメリカのテキサス州フォート・ワース市で開催された、第6回アマチュア・クライバーン・コンクール(正式名称はThe Sixth International Piano Competition for Outstanding Amateurs、略称IPCOA)に参加しました。

録音によるオーディションを通過して世界からフォート・ワースに集まった出場者は70人。 出場者の「本業」は、医師や弁護士、建築家、レーシングカーデザイナー、投資家、主婦、大学教授、プログラマーなど多種多様。また、音大のピアノ科で大学院まで卒業している人や、各地でコンクール出場やオーケストラとの共演を重ねCDまで出しているような人から、独学でピアノを学びふだんは人前で演奏する機会がまるでない人まで、ピアノとのかかわりかたも実にさまざま。 こうした人々が一週間のあいだ、ふだんはアマチュアにはまるで縁のないような大きなホールで、ハンブルグ・スタインウェイDという素晴らしい楽器で、立派な審査員たちの前で、何ヶ月も何年も懸命に練習を重ねてきた音楽を演奏するのです。

今日のピアノ・マラソンで演奏する5人は、誰も準本選に残らなかったので、コンクール本番の舞台に立ったのは予選のほんの12分間のことでしたが、その12分のあいだに私たちは、実に多くのことを経験し、学び、感じ取りました。また、他の出場者たちの演奏を共に聴くことで、さまざまな感動や興奮や発見を共有しました。出場者たちはみな、指がよく動くということを超えて、それぞれの生きざまや人柄を感じさせる、実に人間的な演奏を披露し、プロの演奏とはまた違った感動を与えてくれました。そしてまた、本番を前にする恐怖や緊張、音を通じて自分をさらけだす覚悟、実力を出し切れなかった落胆や思いがけない発見をした興奮、身体を揺さぶられるような演奏を聴いたときの衝撃、などを同じ空間で共有し、演奏の合間にバーや居酒屋(フォートワースにも居酒屋がありました)やレストランでわいわいと戯れながら、誰にはばかることなくオタッキーなピアノ談義に花咲かせた仲間たちとのあいだに生まれた友情と絆は、なにものにも代えられない人生の宝物となりました。

このコンクールを機に、私たちはみなそれぞれ、自分にとっての音楽の意味、自分の人生や生活におけるピアノの位置づけなどを、深く考え直すと同時に、ピアノの素晴らしさを新たな次元で発見することとなりました。このコンクールは私たちにとって、ピアノの演奏そのものについても、そして、大げさな表現に聞こえるかもしれませんが、人生についても、根本に立ち返って考えなければいけないと思わせてくれるような、強烈で濃厚な体験だったのです。本日のピアノ・マラソンでは、私たちがコンクールにむけてせっせと練習した演目を披露すると同時に、フォート・ワースで私たちが手に入れた刺激や発見を皆様と分かち合う、という目的で企画しました。演奏の腕前ということだけでなく、そのような私たちの感動や興奮を感じ取っていただければ嬉しいです。