2009年11月3日火曜日

中国の本屋






文化の日にちなんで(?)、北京で見たもののうち文化的な話題を少し。

北京で行った場所のうちもっとも面白かったところのひとつが、大山子798芸術区。かつて工場(残っている設備や機械からして、重工業だったのだろうと思います)だった場所を改装して、ギャラリーやアート・スタジオ、レストランやカフェなどの集まる芸術空間にしたものです。とても大きなスペースで、私がいた数時間に見たのは全体のほんの十分の一くらいだったらしいですが、それでも大いに楽しめました。アメリカにも似たような意図の芸術スペースはありますが(マサチューセッツ現代美術館はその一例)1950年代の共産主義全盛時代に産業複合施設として活気のあったらしい空間の遺物が、今ではポストモダン芸術の舞台となり道具となっている、そのコンビネーションがなんとも興味深いです。クレーンや線路を前に結婚の記念写真を撮影するカップルが多いらしく、私が行ったときにも一組が撮影の最中でした。また、工場の内部には今でも「毛首席万歳」といった赤字のスローガンが残っており、それが今ではオシャレなアート空間となっているのも面白いです。

忙しく動き回っていたので、プライオリティの上位に入っていなかったショッピングはまるでしなかったのですが、最終日に食事をしに行った王府井という、東京の銀座のようなエリアにある、大きな本屋さんに入ってみました。言葉が読めないのだから、本屋さんに行っても仕方がないといえばその通りですが、本屋さんというものがどんな風なのかをちょっと覗いてみるだけでも私のような人間には面白いし、漢字文化のおかげで、どんな本が並んでいるのか少しはわかるのがありがたいです。紀伊國屋のような、何階もある大きな本屋の一階をちょろっと見ただけなのですが、本がどんな風に分類されているかとか、どんな本が売れているらしいかとかを見るだけでも、やはりとても興味深かったです。

たとえば、「マルクス・エンゲルス・レーニン・スターリンの思想」という特別コーナーがあり、書棚二つくらい充てられていました。なるほど。『資本論』の翻訳や、思想史や哲学や経済学の観点からの研究書らしき書物が並んでいました。そして、そのすぐ隣には、「成功学」というコーナーがあるのが面白かったです。そのふたつのコーナーが隣同士であることの論理を知りたいところです。また、「男性読物」と「女性読物」というコーナーが隣同士であり、本のデザインの色使いからして明らかに違っている(やはり女性読物はピンクが多く使われている)のです。そして、中身が読めないのであくまで漢字のタイトルやイラストから推測するだけですが、「お金持ちの男をつかまえて嫁になるための本」とか「完璧な女性になるための何か条」みたいな本がかなり沢山並んでいるのも面白かったです。また、地図を作る仕事をしている友達へのお土産として地図を買おうと、地図コーナーにも行ってみましたが、中国で売っている世界地図は、なるほど中国や太平洋が中心となっていて(ハワイ島からミッドウェイにいたるハワイ群島もかなりしっかりと載っている)、アメリカ合衆国などは右のほうになんだかずいぶん歪んだ形でぐちゃっと押しやられているのが面白いです。

「売れている本」らしきコーナーには、大前研一氏の本も並んでいました。日本でもかなり売れているらしいオバマ氏の演説集らしき本も並んでいました。中国の人々が、オバマ氏をどう見ているのか、友達に聞いてみるべきでした。

オバマ氏といえば、先週末のニューヨーク・タイムズ・マガジンに、オバマ夫妻の関係についての長文記事が載っています。以前から、この夫婦は、これまでのホワイトハウスのイメージを大きく塗り替えるとして話題になってきました。クリントン夫妻も、それまでの大統領夫妻とはずいぶん違う存在でしたが、オバマ夫妻はそれともまただいぶ違うイメージ。ミッシェル夫人のカッコ良さ、強さ、賢さに加えて、なにしろ夫妻が今でもお互いに恋をしているのが明らかだ、というのが新鮮なのだと思います。「新潮45」の連載で説明したように、to love someoneとto be in love with someoneというのは違うのであって、オバマ夫妻の場合は、長年の結婚生活を経た今でもなお、in love with each otherであるということが、お互いを見る視線やふたりでいるときのちょっとした仕草、ふたり一緒にインタビューされているときの会話などから伝わってくるのです。そうした恋愛感情を、弁護士としての仕事や社会運動、そして政治家としてのキャリアを築くなかで維持していくことはたやすいことではないのは当然で、とくに自分のキャリアをもったミシェル夫人が、オバマ氏が政治家となったことをどのように考え、それがふたりの関係にどんな影響を及ぼしたか、ということなど、いろいろ考えさせられるいい記事です。やはり、いい関係を続けていくためには、政治と同じくらい、あるいはそれ以上の努力とコミュニケーションが必要なのでしょう。

2009年11月2日月曜日

北京訪問






数日間、北京を訪問してきました。本当は日曜日に戻ってくるはずだったのですが、前の晩に北京では雪が降り始め、空港でチェックインして搭乗してから、飛行機の翼の除雪作業の順番を待つことなんと10時間、その挙句に、これから出発しても成田空港が閉まるまでに間に合わないということで、フライトがキャンセルになってしまいました。空港近くのホテルで一泊を過ごし、翌朝は4時半に起こされ、空港に行ってからはなんと3つの航空会社のチケットカウンターをたらい回しにされ、やっとのことで帰国、成田からは桜美林大学のスタッフのかたたちが主催してくださった私の歓迎会(といっても桜美林に来てから既に3ヶ月ですが)に直行しました。やれやれ。

私は中国本土に行ったのは今回が初めてだったのですが、北京はやはりとてつもなくいろいろな面をもった場所であるということが、数日間の滞在でも感じられました。着いた翌日は、北京外国語大学で講演をしました。私の元教え子が現在北京外国語大学で仕事をしていて、講演の前には彼女が教えている授業を見学に行きました。この日見学した授業は、Gender and Societyという授業で、50人くらいの3年生が選択しているクラスだったのですが、授業は先生の講義、学生の発言や発表を含めすべて英語で行われます。学生の英語はかなり高レベルだったので、「留学経験のある学生が多いのか」と聞いてみたら、「あのクラスには海外生活の経験がある学生はひとりもいない」とのことでした。彼女の授業に限らず、北京外大では、英語圏文化・社会に関する授業はすべて英語で行われるそうです。教授陣は、私の教え子のように長年アメリカで勉強して英語も母語と変わらないレベルで話す人ばかりではないので、教えるほうは大変だろうと思いますが、このように読むのも聞くのも話すのも英語で勉強するおかげで、学生の英語能力は平均的な日本の大学生と比べたら格段に高くなっています。私は、水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で論じているように、「叡智を求める人」が英語だけで言論活動を行うようになったらいろいろな弊害が生まれると思うし、日本の大学でのすべての授業を英語でやるべきだとは思いません。でも、大学教育を受けた人が、普通に英語の新聞や書物を読んだり英語のテレビやラジオから情報を得たりすることができるだけの英語力はつけるべきだとは強く思うし(これについてはまた別途投稿します)、とくに英語圏の社会や文化や歴史を専門にする学生は、北京外大の学生くらいの英語力を身につけてもらいたいと思います。私の講演自体は、
Musicians from a Different Shoreの内容を話したのですが、聴衆はたいへん興味をもって聞いてくれて、とくに大学院生が非常に的を得た興味深い質問をたくさんしてくれました。

ちなみに、北京外国語大学は、外国語・外国文化や国際関係、コミュニケーション論などを専門にしようとする学生のうちもっとも優秀な人たちが集まり、外交官なども多数生んでいる(というか、外交官を養成するための大学として設立された部分が大きいようです)エリート機関で、ありとあらゆる外国語が専門的に勉強できるとのことです。で、私は、「中国の少数民族の言語も勉強できるの?」と聞いてみたところ(北京に行く飛行機のなかで、加々美光行『中国の民族問題―危機の本質 』(岩波現代文庫)を読みながら行ったので興味があったのです。ちなみにこの本は論点が明快で歴史的なコンテクストがわかりやすくて、おススメです)、北京外国語大学は「外国語」を専門としているために中国内の言語は講座がない、とのこと。少数民族言語を専門にする、別の大学があって、そこには少数民族の学生もかなりたくさん在籍しているらしいです。それはそれでまた興味深いです。

残りの2日間は、その元教え子(彼女は、両親が学者だったためにブルジョアとみなされ文革のときに新疆に送られ、ゆえに彼女は新疆で育った後に北京で大学に行ったという背景の持ち主です。新疆にいるのはせいぜい1、2年のことだろうと思っていたので家には段ボールの箱を積んで荷解きもすべてしないまま、結局10年もいることになったので、彼女は子供時代といえば段ボールのイメージが強いそうです)と、私の高校・大学の同級生で今北京で金融の仕事をしている友達に案内されて、北京観光をしました。北京は英語もほとんど通じないし、いろいろなことが実に混沌としているし、メジャーな観光スポットでも近くに地下鉄が通っていない場所が多いので、言葉ができない観光客にとっては相当エネルギーを要するところです。よって、言葉ができない観光客である私は、その二人に完全に依存しきっていたのですが、おかげで短期間とはいえ、実にいろいろな顔の北京を見ることができました。中国はすでに富裕層の絶対数は日本よりも多いそうですが、確かに巨大な新しいビルが次々と建っているし、ショッピング街の様子はアメリカや日本と同じような雰囲気だし、噂で聞いていたとおり大変なエネルギーが感じられました。経済活動という意味では資本主義国家となんら変わるところはなさそうで、政治体制が共産党独裁であるということ以外に、今の中国が社会主義国家であることは具体的にどういう意味をもっているのか、もっと知りたいと思いました。そして、全般的にそうしたエネルギーが感じられ、また中国の人口を考えると、中国全体にさまざまなインフラが整備されて社会の底辺層の生活レベルが数段上昇したら、そりゃあやはり中国が世界をリードするようになるだろうと実感されました。そのいっぽうで、紫禁城などに群をなして押し寄せる(「群をなして押し寄せる」という表現がこれほど的確な場面にはなかなか遭遇するものではありません)、中国の田舎からバスでやってきている観光客(観光バスの大型版で、みな赤や黄色やオレンジの帽子をかぶり、旗をもったガイドさんについてまわる)の波を見ると、北京のスーパー富裕層がいると同時に、中国には、いわゆる文明発達段階においてずいぶんと後の地点にいる人たちがものすごい数で存在するんだということが感じられます。こんなことを言うと、19世紀末から20世紀初頭にかけて白人優越主義者たちが唱えた文明論と似たようなロジックのようですが、本当にそんなことを感じてしまうくらい、田舎から来ている中国人(それも、北京に観光に来られるくらいの人たちはそれほど貧しい人たちではないはずですから、本当の貧困層はさらにそうでしょう)の姿や言動を観察していると、近代化・都市化・西洋化といった線的な流れの力を感じずにはいられませんでした。こんなふうに、経済・文化の発展段階が極端に違う人たちをこれだけの数抱えて、かつ、言語も宗教も生活様式もまるで違う50以上もの少数民族をも抱えて、「国家」として進んでいく中国は、これから先どういう道を辿っていくのだろうと、中国におおいに注目する必要を感じました。

他にも、感じること考えることはいろいろあった旅でしたが、きりがないので、今回はこれにて終了します。

2009年10月27日火曜日

11/7(土)名倉誠人マリンバ・リサイタル

ここ二、三日で東京は急に寒くなり、ハワイの気候に身体が慣れている私は寒くてたまらず、また、アメリカ東海岸のとても寒いところに住んでいたときにも、家のなかはセントラルヒーティングでぽかぽかと暖かかったのに、日本の家は風がスコスコだしセントラルヒーティングはないし(それにいくらなんだって暖房を入れるにはまだ早いですし)で、毛布を身体に巻いてがたがた言っていましたが、今日は気持ちいい秋晴れでほっとしました。

今日は宣伝です。11/7(土)に、私の友達のマリンバ奏者、名倉誠人さんのリサイタルが、代々木の白寿ホールであります。名倉さんとは、私がニューヨークで過ごした一年間に仲良しになり、一緒に飲み食いを楽しむほか、音楽や芸術についての真剣な話を聞かせていただいたり、CDのレコーディングのお手伝いをさせていただいたりしました。私の著書Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicには、名倉さんのインタビューの抜粋を大きく入れさせていただいています。名倉さんに出会うまで、私はマリンバという楽器にはまるで馴染みがなかったのですが、初めて名倉さんの演奏を聴いたとき、マリンバという楽器を生んだ樹や森の感触が伝わってくるような温かい音色に、音楽っていうのは有機的なものなんだなあということを改めて知らされ、衝撃的な思いをしたのを覚えています。今回のリサイタルも、「森と木と音楽II」というタイトルがついていて、そうしたテーマが全体を貫いているようです。名倉さんの音楽は、とても繊細で優しい音であると同時に、芸術音楽というものは、呑気にだらっと座ってバックグラウンド・ミュージックのように流しているのでなく、聴くほうも集中して真面目に向き合うものであるということを促すものでもあります。(その点で、以前紹介した岡田暁生さんの『音楽の聴き方』で書かれていることに通じる部分が多いです。)普段から名倉さんが演奏するのは、現代の作曲家に委嘱した新作が多く、作曲家たちと名倉さんの気迫がぶつかり合いながら、新しい創造に関わっている、そのプロセスに、名倉さんの演奏を通じて触れることができるのも、実に幸運なことです。今回のリサイタルでも、作品のほとんどがなんと世界初演です。作曲家のうちふたり、長田原(「おさだもと」と読みます)さんとKenji Bunchさんも、Musicians from a Different Shoreでかなり大きく取り上げています。

世界初演の音楽に触れられる機会は、そうあるものではないですし、刺激的な新曲の素晴らしい演奏が聴けることは間違いないので、ご都合のつくかたは是非どうぞ。小学校中学年以上くらいでじっと静かに座っていられる年齢だったら、お子さんにも楽しめる音楽だと思います。演奏会前には作曲家を交えたトークもあります。ニューヨークなどでは、リサイタルの後に聴衆が演奏家(や現代曲のときは作曲家)とロビーで気軽に話をできるように設定されていることが多く、そのぶん音楽活動が身近に感じられるのですが、今回のトークもそうした主旨でしょうから、是非積極的に参加して、質問などしてみてください。いらした方は、会場で私を見つけて声をかけてくだされば、私が喜んで名倉さんや長田さん、Kenji Bunchさんにご紹介します。

チケットの情報などは
こちら、またはミリオンコンサート協会へどうぞ。今ならまだチケットが手に入るそうです。来られないかたは、名倉さんのCDを是非聴いてみてください。これも名倉さんのホームページから買えます。私がレコーディングをお手伝いしたのは、Triple Jumpです。素晴らしいですよ。

演奏会といえば、私は先週、紀尾井ホールであった、辻井伸行さんのリサイタルに行ってきました。辻井さんの演奏を聴くのは、クライバーン・コンクールでの彼の優勝に居合わせたとき以来初めてでした。こちらは、ベートーベンの「悲愴」と「熱情」に始まって後半はすべてショパンという、実にオーソドックスなプログラム。私としては、辻井さんのように、今なら演奏会をやればすぐに完売になる演奏家にこそ、現代曲を初めとしてあまり演奏されないような曲目を演奏して、聴衆を新しい音楽に触れさせてほしい、という気持ちが正直なところです。なにしろ辻井さんは、クライバーン・コンクールでは現代曲の演奏の部門でも賞をとっている(現代曲は、作曲家に委嘱された四作品の楽譜が、コンクールの数カ月前に参加者に送付され、参加者は急いで曲を選んで覚えなければいけないわけですから、楽譜が読めない辻井さんがこの部門で受賞したというのは、さらにすごいことです)のですから、その受賞曲やコンクールで演奏された他の委嘱作品を聴かせてくれたら、スタンダードなレパートリーに限られない辻井さんの音楽性の幅を日本の聴衆に知らせることができるし、作曲家にとってもいいし、現代においてクラシック音楽を演奏するということの意味を考えさせてくれるプログラムになるのではないかと思います。あるいは、同じベートーベンのソナタなら、クライバーンの準本選で彼が演奏した「ハンマークラヴィア」を聴かせてくれたらいいのではないかと思います。弾くのももちろん大変だし、聴くほうにもなかなか大変な、難解複雑な曲ですが、だからこそ辻井さんの演奏でそれを聴いてみたい、という聴衆は多いはずです。

もちろん、地方都市を含めたくさんの場所で連日本番を続けている状況で、また、クラシックにそれほど馴染みのない聴衆もいるであろう舞台で、あまり珍しいプログラムを組むのも難しいのだろうことは想像できます。演奏そのものも、技術的にはもちろんなにも文句をつけるような点はないものの、なんだかちょっと、慣れで演奏しているような印象を受けてしまったのが残念でした。クライバーンのときは、本当に一曲一曲に身体が揺さぶれるような思いがしたのですが、優勝以来モーレツなスケジュールで世界各地や日本全国をツアーして、同じような演目を演奏し続けているのですから、毎回の演奏に同じようなテンションや感動がなくても無理ないのかもしれません。ただ、クライバーン本人も、チャイコフスキー・コンクールで優勝してスーパースターとなった後、練習や休憩、ものを考える時間がとれなくなって、演奏家としてはかなり辛い時期を過ごしたことはよく知られていますので、辻井さんがそういうことにならないように、せっかく大きく花開いた可能性が頭打ちになるようなことがないようにと、願うばかりです。そうした意味で、辻井さんを見守る聴衆のほうも、「悲愴」「熱情」「月光」ばかりを彼に求めるのではなく、メッセージ性のある音楽作りを期待することが重要だと思います。(念のため付け足しておきますが、私はベートーベンの三大ソナタが嫌いなわけじゃありません。三大ソナタが頻繁に演奏されるのはやはりこれらが名曲だからで、曲そのものにはいろいろな感動があります。ただ、日本のリサイタルのチラシなどを見ていると、あまりにもこれらのソナタがたくさんのプログラムに入っているので、ちょっとげんなりした気持ちになるのです。わざわざお金を払って出かけて行ってこれを生で聴くべき理由をはっきりと知らせてくれるような演奏であれば、なにも文句はありません。)辻井さん、頑張れ!

2009年10月26日月曜日

「女性の地位」に真正面から取り組む

日本での生活が3ヶ月がたち、例年の数週間の滞在の際に見たり感じたりするのとはずいぶんと違う日本を知るようになりました。驚くこと、考えさせられることがたくさんあり、近くに「逆カルチャーショック・レポート」の続きを書こうと思っていますが、今日はそのなかの一点。女性の地位の低さです。一応ジェンダー研究を専門のひとつにしている人間として、今さらこんなことに驚いている場合ではないかもしれませんが、この驚愕の思いを忘れずにいることも大事だと思います。

なにしろ、ここ3ヶ月で私が出かけて行った場所や参加したしたさまざまなイベントや会合において、リーダー的な立場に女性が立っていることがほとんどまったくと言っていいほどないのです。私が行くようなイベントや会合というのは、大学関係、芸術文化関係、出版やビジネス関係、労働組合関係などですが、その業界や分野で活動している人全体のなかでは女性が比較的多いであろうエリアでさえ、女性が舵を取ってものごとを動かしているところにほとんど遭遇したことがありません。リーダーどころか、50人ほどの参加者がいるイベントに、私以外は1人たりとも女性がいなかったことも何度もあります。男子校を訪問したわけでもないのに、部屋いっぱいに人が集まっているところに入って、そこにいるのが全員男性だと、私にはものすごく異様な光景に映るのですが、日本で多くの分野で仕事をしている人たちにとってはそれがかなり普通のことなのでしょうか、その光景を特に異様だと思っているような様子も感じられないし、「おじさんばっかりだね」とか「女性が少ないね」とかいったコメントを参加者のほうから聞いたこともありません。

活躍している女性がいないと言っているのではありません。自分の知人友人を含め、非常に優秀で大きなビジョンのある女性がいろいろな分野で活躍していることは知っていますし、いわゆる「エリート」女性以外にも、派遣社員やパートタイマーなどを含め、今の日本の社会経済を支えている女性労働の功績は巨大なのもわかっています。しかし、あまりにもそうした女性たちの存在が見えないし、声が聞こえない。単なる労働者数の点からいっても、これだけ女性がいるのですから、それに相応する割合で女性がさまざまな場で発言するようになって当然じゃないでしょうか。もちろん、数合わせのためにとにかく女性を配置すればいいとか、とにかくリーダーを女性にすればよいなどとは言っていません。それでも、あらゆる場に女性がいることが普通の社会にはなるべきで、そのためには要所要所に女性が配置されることはとても重要だと思います。アメリカでも、ビジネスや科学や軍事など、分野によってはまだまだ圧倒的男性優位な分野がたくさんありますが、それでも、女性(そしてマイノリティ)がまったくその分野にいないのはよくないことであるという建前が少なくとも存在し、人工的な策をとってでも女性を積極的に採用したり参加を促したりしています。50人以上の会合に行って女性がひとりもいなかったなどということは、私はアメリカでは体験したことがありません。

といったことを考えていると、今日のニューヨーク・タイムズに、現代アメリカの女性の地位について論じた論説が載りました。筆者は、長年ウオール・ストリート・ジャーナルの記者と編集者を務めたのち、大手出版社コンデ・ナスト社でビジネス誌を創設し初代編集長となったJoanne Lipmanという女性です。第二次フェミニズムといわれる1970年代のアメリカ女性運動の功績によって、確かに女性はさまざまな分野で活躍の道が開かれるようになり、筆者自身を含めさまざまな分野で女性がリーダー的な地位に立つようにもなった。しかし、よくよくデータを検討してみると、そしてメインストリーム・メディアでの表象をきちんと見てみると、現代アメリカにおける女性の地位は驚くほど低い、との主旨。女性の所得や管理職につく女性の割合など、数量化できるデータにおいて女性の地位が明らかに低いのみならず、テレビやラジオやインターネットにおける女性をめぐる言説においても、信じられないほど前時代的な発言が平気でなされている、とのこと。

キャリアを築いてきた女性として、そしてリーダーの地位にたっている立場から、こうした状況を変革していくために彼女が出しているアドバイスがなかなか興味深いです。ひとつは、女性はもっと自分に自信をもち、つねに「よい子」であろうとすることをやめ、自分の要求や希望をはっきりと表明することをためらわないこと。(編集長である彼女のもとに、男性社員はしょっちゅう昇給を求めてくるのに対し、昇給を求めてきた女性はひとりもいない、とのこと。お金に関する態度の男女差については、同じ主旨のことを他でも読んだり聞いたりしたことがあります。)もうひとつは、ユーモアのセンスを忘れないこと。ここでいう「ユーモアのセンス」とは、日本で言う「ユーモア」とはちょっと違って、面白可笑しい冗談を飛ばすとかそういうことばかりではありません。難しい状況にあっても、一歩も二歩も引いたところから自分のおかれた状況やものごとの全体像をゆったりと見回す心の余裕を忘れずに、自分のことも周りのことも面白がって笑える態度を大事にする、ということです。どんなに正当な論を吐いていても、つねにキリキリして怒ってばかりいる人とは、やはり周りの人はつき合いにくいものです。次に、女性であることを大事にすること。フェミニズムや女性の地位向上というのは、女性が男性と同じになることを求めるものではない。女性には女性特有の文化や行動パターンや生き方があるのであって、それを大事にすることが社会全体が豊かになることでもある。そして最後に、職業の機会拡大や所得増大といった目標に力を注ぐなかで、本来もっとも大事なはずのこと、つまり、「尊敬を得る」ということを忘れないようにする、ということ。どんなに政治家や管理職や大学総長に女性が増えても、社会文化全体が、女性の基本的な尊厳を無視するような女性イメージをたくさん生み出しているようでは、本当の意味で女性の「地位」が向上したとは言えない。

まったくもってその通りです。女性の地位が向上するということは、弁護士の女性も、寝たきりで介護されるおばあさんも、子育てに専念する主婦も、お掃除のおばさんも、女子高生も、派遣OLもみな、男性にも女性にも尊厳と愛情をもって扱われる、ということでしょう。

「女性は『よい子』であろうとすることをやめる」という点に関連して、とくに日本の女性は、「『可愛く』あろうとすることをやめる」のがいいんじゃないかと思います。別に、可愛いことが悪いわけじゃありません。可愛いことで、本人も周りも幸せになることはたくさんあるし、可愛いか醜いかだったら可愛いほうがいいに決まっています。しかし、この論説にもあるように、そもそも女性の特性が「可愛い」か「醜い」かの二分化で考えられることがそもそも間違っているのであって、日本の女性に求められがちな「可愛さ」を追求しようとするあまりに、もっと大事なものを失ってしまっている女性があまりにも多いように私の目には映ります。そして、やたらと「可愛い」ことを要求するような相手や文化に対しては、「糞喰らえ」と言ってしまえばよいと思います。「可愛い」ことよりも、もっと大事なことがたくさんあります。「強い」とか「人の気持ちがわかる」とか「勇気がある」とか「賢い」とか「知識がある」とか。そういったことを真剣に追求している人は、自然に可愛くもあるものではないでしょうか。可愛さというのは、ひとつには謙虚さの顕われであって、本当に強くて賢くて人の気持ちがわかる人は、謙虚なものです。

それと同時に、「ユーモアのセンスを忘れないこと」と関連して言えば、日本においては、「おじさんと上手につき合うこと」がとても大事。自分で言うのもなんですが、私はおじさんの扱いが上手です。かなり無茶苦茶なおじさんとでも、自分の尊厳を損なったり主張を曲げたり相手に媚びたりすることなく(これが大事)、結構楽しくわいわいやって、自分の言うことを聞いてもらうのが得意です。世の中をおじさんたちが動かしている以上、これは大事なスキルです。どこでどうやってこうしたスキルを身につけたのか、自分でもわからないのですが、まあとにかく、それこそ状況を面白がって笑える「ユーモアのセンス」を忘れずにいることはポイントです。

書いているうちになんだか訳のわからない文章になってきましたが、とにかく、日本でもアメリカでも「フェミニズム」などという単語はまるで流行らなくなってはいるものの、個々の女性自身も、さまざまな組織も、そして社会全体も、女性の地位ということに関して、もっと正面切って取り組むことが必要だと思います。とりあえず、福島大臣には頑張っていただきたいです。

2009年10月25日日曜日

「市民感覚を強調」した判決理由に疑問

今回の帰国は、政権交代と同時に、裁判員制度の開始とも時期が重なったので、興味深くニュースを見ています。法制度については日本のこともアメリカのこともまったくの専門外なので、わからないことだらけなのですが、裁判についてのニュースを見たり読んだりする範囲では、アメリカの陪審員裁判との違いに驚くことが多いです。

今朝の朝日新聞に掲載された、「判決理由の表現 様変わり」という記事によると、裁判員が加わった裁判の数が増えるにつれ、裁判官が書く判決理由の書き方が、「市民感覚が生かされたことを強調する」「議論の経過や悩んだ様子を紹介する」ような表現に変化してきている、とのこと。この記事で例に挙げられている判決そのものについては、とくに異論はないにしても、この「市民感覚の強調」という点については疑問を感じます。「日々の生活に照らすと」とか「われわれの健全な社会常識に照らして」とか「一般的に抱かれるイメージは」とかいった表現が盛り込まれているらしいですが、「日常の生活」とは誰のどんな生活のことなのか、「われわれの健全な社会常識」の「われわれ」とは誰で、「健全」とは誰がどう判断するのか、「社会常識」を構成するものはなにか、「一般的」とは具体的にはなんなのか、「イメージ」はどのように形成されているのか、といったことがじゅうぶんに検討されることなく、究極的には定義不可能なこうした表現が法的な文章に使われるということは、かなり危険なことなのではないかと思います。法制度への市民参加を促すための裁判員制度を試行することはいいと思いますが、その過程において「市民感覚」を形成するものについての慎重な検討がないままそれが人を裁く材料として使われると、たいへんおそろしい事態も生みかねないと思うのですが、そうした議論はないのでしょうか。記事にももうちょっと突っ込んだ分析がほしいところです。(しかもこうした記事がオンライン版に掲載されないのが、日本のインターネット・コンテンツの困ったところです。)

2009年10月22日木曜日

州予算削減で学校閉鎖

ハワイ州では、州の大幅な予算削減に合わせて、さまざまなサービスを停止し、今後しばらくは月に二回金曜日に州の機関のオフィスごと閉めてしまう、という強硬手段に出ています。職員をこのように「一時解雇」することによって人件費を削減するほか、光熱費なども節約できるというわけで、似たような手段をとっている自治体はアメリカじゅうで他にもたくさんあるものの、公立学校を閉めてしまう、それも、学期中に授業を削減してしまうというのは、全国でも初めてのことです。英国のガーディアン紙にも取り上げられてしまうという不名誉な事態となっています。全国の統一学力テストの結果でハワイの生徒の平均学力は既にかなり下のほうに位置している現実のなかで、さらに17日間も授業を減らすなどということは、まったくもって信じられない状況です。ただでも、日本など世界の他の先進国と比べるとアメリカの公立学校は授業日数がかなり少ない(多くのアメリカの学校での授業日数は年間180日)のに、さらにこの事態。教育への投資を削減することは、短期的な収支の調整にはなっても、長期的な経済成長や社会基盤の発展にはマイナスになることは、誰が考えてもわかること。また、多くの家庭では、親が仕事に出ている平日に学校が休みになり、その日の子供の面倒は誰がみるのだ、という現実的な問題も抱えています。ハワイ時間の金曜朝には、この決定に抗議する生徒や親たち、地元の人々の抗議デモが、各地の学校そして州議事堂で行われ、私の大学の同僚がリーダーとなってその計画に携わっています。ちなみに州議事堂でのデモでは、ジャック・ジョンソンも演奏するらしいです。

2009年10月17日土曜日

アメリカの声を聞く

日本に来て早速手に入れ、愛用していたiPhoneが、金曜の朝、充電中に突然まったく反応しなくなり、あらゆるボタン(といっても押せるボタンは二つしかないのですが)をいじってみても電源すら入らなくなって、大パニック。慌てて渋谷のマックストアに行ったのですが、テクニカルサポートにはその日はすでに150人(!)もの人が列をなして待っているということで、予約がとれるのは月曜朝。iPhoneなしで週末を過ごしています。電話の機能もさることながら、カレンダーもアドレス帳も全部iPhoneに入っているし(これはまあ、パソコンに同じデータが入っているのでパソコンもクラッシュしないかぎりは大丈夫)、なんといっても、バスや電車の中で(なにしろ都心から遠いところに住んでいるので、移動時間が長いのです)iPodで音楽やアメリカのラジオ番組を聴くのが私にとっては生活の重要な一部なので、これがないのはとても辛く、途方に暮れてしまいます。

私は普段ハワイにいるときは、車を運転するとき以外にはまずラジオを聴きません。聴くラジオのうち98%くらいは、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)(『現代アメリカのキーワード』参照)です。それも、ハワイは小さい島で、私は職場までも車で10分とかからないところに住んでいるし、用を足すにも30分以上車に乗ることはまずないので、聴くにしてもごく断片的にしか聴けないのですが、NPRの番組は質の高いものが多くて、話に引き込まれ、最後まで聞きたいので、目的地に着いてもしばらく車を停めて聞くこともあります。私はイヤホンをつける習慣がなく、日本に来るまではiPodすら持っていなかったのですが、こちらに来てからiPhoneでNPRを聴くようになって、普通にラジオを聴くのとはまた別の味わいがあるなあと感じるようになりました。車のなかで聴くとき以上に、話し手の抑揚やアクセント、リズムなどがものすごく生々しく伝わってくるし、なんだか会話の現場に自分が居合わせているような親密さがあるのです。こうして聴いてみると、同じ英語でも、アメリカの人々の声や発音には、年齢や地域、人種や民族(顔が見えず、話し手の人種や民族に直接言及がなくても、声でかなりの程度推測できるところがなかなか興味深い)、職業や社会階層などによって、実に多様なパターンがあるんだなあと改めて実感もします。(ちなみに、アメリカ人のあいだでは、政治思想的傾向によって、「イラク」という単語の発音のパターンがかなりはっきり分かれるという統計があるらしいです。)話の内容以前に、アメリカという国を構成する雑多な人々の声を聞くだけで、なんだか懐かしくなり、小田急線や神奈中バスの中で、ひとり別世界にいるような気持ちになります。

で、NPRのなにを聴くかと言うと、私の一番のお気に入りは、Terry Grossという名ホストが司会・インタビューをするFresh Air。これは政治・外交から映画・音楽にいたるまで、あらゆるトピックをカバーし、話題の人をインタビューする、割と正統的な一般報道番組ですが、Terry Grossの知性とユーモア、そして周到な準備で、聞いているだけでさまざまな問題への理解が深まります。ちなみに私は、「僕の理想の女性はTerry Grossだ」とmatch.comのプロフィールに書いている男性からメールをもらってデートに出かけたことがあります。(笑)

それから、Ira Glassという人物が企画・脚本・インタビューを手がける、This American Life。これは、毎回なにかひとつのテーマに沿って、それに関わる経験をした人をインタビューし、物語性のある構成に仕上げる、言うなれば人間ドラマ。ひとりの人の話だけでまる一時間使われることもあるのですが、話し手(これはたいてい「普通の」人間)の飾らない声や話しぶりと、編集の見事さで、実に引き込まれます。

そして、楽しい気持ちになりたいときに聴くのがCar Talk。これは、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ケンブリッジに住む兄弟がホストを務める、自動車の修理についての電話相談番組なのですが、そう聞いただけではとても想像できないほど面白いのです。バッテリーがあがってもジャンプスタートの仕方すらわからないほどの車音痴の私が好き好んで聴くくらい面白いのです。実際に兄弟が車についてテクニカルな話をしているときには、私にはなんのことだかさっぱりわからないのですが、一時間の番組のうちのかなりの部分は、兄弟間の、そして電話をかけてきた人との、軽妙でおかしなやりとりに費やされます。そのやりとりの多くは、自動車とはなんの関係もない、夫婦関係とか恋愛とか食べ物とかの話題。電話をかけてくる人も、実にいいタイミングとウィットで彼らとやりとりをするので、かかってくる人のうちどの人を番組に出すかというのをよほど慎重に選んでいるのかと思います。ちなみに私は最近のmatch.comの自分のプロフィールには、「私の役割モデルはCar TalkのホストのTom and Rayです。専門的かつ実用的な知識を持っていて、人の役に立つ、でも自分たちのことをエラいなどとは微塵も思っていなくて、とにかく楽しんで仕事をしている、そしてみんなを楽しい気分にさせる、彼らのような人間に私もなりたいと思っています」と書いています。

これらのPodcastは、すべて無料でiTuneからダウンロードできます。英語の勉強にもとてもいいです(名前は出しませんが、「PodcastでNPRを聴くようになって、英語のヒアリング力がずいぶん向上した」と言っている著名な人物もいます)ので、ちょっと聴いてみてください。ただし、「アメリカの多様な声を聞く」という意味では、リベラル寄りのNPRを聴くなら同時に保守系のラジオやテレビ番組も聴いたほうがいいのかもしれません。FOX Newsも無料でいろんな番組をPodcastしているようですが、私は混んだ電車のなかでさらにイライラしたくないので聴かないようにしています。