2012年2月14日火曜日

アメリカの「恋愛」にまつわる三冊

日本と違ってアメリカではバレンタインデーは基本的に男性が女性に花束やプレゼントを贈るのが習慣ですが、恋心を表現する日であることは同じ。バレンタインデーにちなんで、アメリカの「恋愛」にまつわる三冊の本をご紹介します。これは、しばらく前に日本のある雑誌に頼まれて選んだものですが、急な依頼を受けて締め切りに間に合わせるためせっせと書いて(与えられたあまりにも字数が少ないので、書くことよりも字数を削ることに何倍もの時間がかかった)送信したにもかかわらず、その後掲載されたのかどうなのかとんと連絡がなく、失礼千万(初めから執筆料はなしということで了解していましたが、せめて掲載誌とお礼のメッセージくらい送ってくれてもよし、掲載されなかったのならその説明くらいあってもよし!)。で、せっかく時間を費やしたのが自分のコンピューターにだけ残っているのももったいないので、ここで紹介しておきます。過去の投稿で言及したものもありますが、ご了承ください。

From Front Porch to Back Seat: Courtship in Twentieth-Century America
20世紀半ばに大きく変化をとげたアメリカの男女交際の社会史。 男女交際の舞台が家庭から映画やレストランなどお金を介する公の場に移動することで、男女の力関係や若者文化、性や結婚観にどのような変化をもたらしたかを分析する、鋭く楽しい研究。

2000年時点で、結婚相手を探す アメリカの男性とフィリピンや中国の女性を結ぶネットの仲介サービスは350以上。ネット文通から結婚に至る男女の恋愛・結婚観や、人種や性をめぐるグローバルな力関係を分析した、ネット上の斬新なフィールドワーク。

現代アメリカの大学生は、「デート」で恋愛を育み性的関係になるのではなく、 hooking upと呼ばれるカジュアルな性的交渉を繰り返すのが一般的といわれるが、果たしてその実情は。大学生とのインタビューに基づいたアメリカ若者性文化のルポ。



2012年2月11日土曜日

宗教の自由と避妊をめぐるオバマ大統領の「妥協」

先日のSusan G. KomenとPlanned Parenthoodの関係をめぐる騒動に続いて、女性と生殖についての今週の話題の中心は、金曜日にオバマ大統領が発表した健康保険についての新しい規則。オバマ政権の健康保険制度改革案では、すべての女性が無料で避妊にアクセスできることを条件づけていましたが、カトリック教会や右派の宗教団体からの強い反対を受け、保険改革案を支持する宗教左派を引き込むための舞台裏での複雑な交渉の結果生まれたのがこの妥協案。すべての女性が避妊にアクセスできることを保証するために、あらゆる雇用者が提供する健康保険は避妊をカバーしなくてはいけないが、避妊に反対する教会や宗教系の大学や財団などは、従業員の健康保険費のうち避妊にかかる費用を負担する必要がなく、その費用は代わりに保険会社が負担する、というもの。これによって、宗教系の組織に雇用されていながら自らはその宗教のメンバーではなかったり避妊反対という教義に賛同しなかったりする女性を含め、すべての女性は避妊にアクセスすることができ、しかも宗教団体の信教の自由も守られる、というわけで、一見めでたしめでたしのようにも見えますが、そう簡単に一件落着とはならない気配も。


いっぽうでは、このオバマ大統領の「妥協」は、宗教右派への過度な譲歩であるとの意見があります。すでに28の州は女性が避妊にアクセスできることを法で義務づけていて、カトリック教会を含む宗教団体もこれに従っている。教会が避妊は悪であるという考えを布教する自由は憲法によって守られており、保険制度を通じて避妊へのアクセスを提供することはこの信教の自由を侵すものではない。今回の妥協は、教会だけでなく、宗教系の病院や大学や財団など、その宗派のメンバー以外の人も数多く雇用している組織についても、過度な譲歩をして、オバマ政権の健康保険改革案の骨子を保守派がどんどんと削っていく予兆となっている、との意見。


そのいっぽうで、保守派からは、避妊へのアクセスを法で義務づけるというのは信教の自由に反するばかりでなく、リベラルな価値観を国民全体に押し付けるもので、そうした流れを食い止めるためにもオバマ大統領の健康保険改革案を根本的に議論から取り除かなければいけない、という意見。共和党大統領候補選で、生殖権についてとくに極端な立場をとるリック・サントラム氏がここ一週間で急上昇してきていることもあり、宗教と女性の生殖権をめぐる葛藤は、これからますます加熱しそうです。

2012年2月5日日曜日

2/6 KZOOラジオ番組 Thinking Out Loud出演

ホノルル時間で明日2/6(月)の午後6:30−7:30、AMラジオのKZOO放送のThinking Out Loudという番組にゲスト出演いたします。KZOO放送というのは主に日本語の番組を放送している局で、10年前にハワイ大学の教員がストをしたときに私は教員の立場から話をするように局によんでいただいたことがあります。今回出演するThinking Out Loudというのは、ハワイ大学がJapanese Cultural Center of Hawaiiと提携して製作している英語の番組で、毎回ホノルルの日系コミュニティに関連ある話題をとりあげ、ゲストを招いて話を聞くというトークショー形式の番組です。


司会のひとりをしているのが、私の友人のChristine Yano。彼女はハワイ大学の人類学部で現在学部長を務めているのですが、驚愕するくらい次々と研究書を出し、しかもその一冊一冊がむちゃくちゃ面白く、私は何度も授業で彼女の本を使っています。もともとは日本を専門とする文化人類学者で、なんと演歌の研究であるTears of Longing: Nostalgia and the Nation in Japanese Popular Songという本が第一作ですが、その後はハワイの日系コミュニティを扱った研究が続き、次作のCrowning the Nice Girl: Gender, Ethnicity, And Culture in Hawaii's Cherry Blossom Festivalは、ホノルルの日系いわゆる「美人コンテスト」をフィールドワークの題材とし、戦後のハワイの日系コミュニティを支配する価値観について痛快な分析をしています。そして、昨年出版されたのがCrowning the Nice Girl: Gender, Ethnicity, And Culture in Hawaii's Cherry Blossom Festival。これは、1955年に今はなきパン・アメリカン航空が東京路線開始に際し「コスモポリタン」なサービスを提供するために採用された日系2世(実際は2世ではない女性も採用された)のスチュワーデス(「添乗員」といわずあえて「スチュワーデス」というのにも意味がある)たちの研究。これがまたむちゃくちゃ面白く、今学期私が教えている大学院の授業(これについてはまた別のときに投稿しますが、アジア系アメリカ研究の授業で、とくに職業文化に焦点をあてています)でも課題としています。彼女の書くものは本当にどれも、ピカリと光る感性と鋭い知性に満ち、そして理論的なことを明解な美文で説明し、生身の複雑な人間模様を丁寧に描いていて、読んでいて幸せな気持ちになります。そして、彼女はひとりの人間としても、いつもポジティヴなエネルギーに満ちていて、いろいろなことに好奇心旺盛で、人柄は明るく、彼女と一緒にいるとこちらも元気になってくるような、素晴らしい人です。で、その彼女に「ゲストで来てくれない?」と頼まれたので、あまり得意ではない生放送に出演することになってしまいました。


明日の番組では、3/11の震災を日本で経験した者として、個人的な体験や気持ちを振り返ってほしい、とのこと。震災については感じること考えることが本当に多く、1年がたとうとする今となっても頭のなかで何をどう整理してよいものやらわからない、というのが実際のところですが、そういう正直なところを話すことにも意味があるかもしれないと思ってお話しに行ってきます。リスナーからの質問やコメントも受け付ける番組ですので、ホノルル在住のかた(でなくてももちろんOK)は番組放送中にお電話をどうぞ。放送前そして放送中にメールでも受け付けるようですので、日本やその他の地域にいらっしゃるかたでもどうぞ。番組は英語ですが、ゲストが私ですから、日本語での質問やコメントにも対応いたします。


KZOO  AM 1210
Tel: 1 (808) 941-5966
E-mail: jcch@am1210kzoo.com

2012年2月4日土曜日

おひとりさまは社交的

今週のニューヨーク・タイムズの日曜版(こちらはまだ土曜日の朝ですが、オンラインだと日曜版は日曜以前に見られる)で目を引いたのが、現代アメリカの一人暮らしについての記事。経済が発展し都市化が進むと一人暮らしという生活形態を選ぶ人が増えるというのは世界共通の現象で、現在一人暮らしの割合がもっとも急速に増えているのが、中国、インド、そしてブラジル。アメリカでも、一人暮らしの多さは今が史上最高で、とくにマンハッタンやワシントンDCなどでは半数近くの世帯が一人暮らしとなっている。不況のなか、定職を手に入れられない若者が実家に戻って親と一緒に暮らしたり、離婚を決めた夫婦が経済的理由で別居を延期したり、といったこともなくはないけれども、全体的にみれば、不況によって一人暮らしが減ったということはほとんどなく、経済的な不便を我慢してでも独居生活の自立性を楽しむ人が多い。けれども、世界的に見ればアメリカの一人暮らしの割合は意外に低い。スエーデン、ノルウェーの北欧二国を筆頭に、ドイツ、オランダ、イギリス、フランスといったヨーロッパ諸国のほうがアメリカよりも一人暮らしの割合が高く、日本もそのすぐ後ろにつけている。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも書いたように、アメリカでは「家族」のもつ意味合いが強いので、この統計にはとくに驚きませんが、ここで取り上げられているのは、その一人暮らしの人たちの生活ぶり。


この記事によると、一人暮らしは孤独というイメージはまるで時代錯誤で、都市文化とコミュニケーション技術などにより、一人暮らしの生活は自由と刺激に満ちたきわめて魅力的なものになっている、とのこと。そして、さまざまな調査によると、家族持ちの人よりも一人暮らしの人のほうが、友達や近所の人たちとのつきあいや外出が多く、全般的に社交的である、とのこと。それはまあ、配偶者の都合に合わせたり子供の面倒をみたりする必要がない一人暮らしは、自由になる時間が多いのだから、それはまあ当たり前だろうとは思いますが、ここで面白いのが、インターネット・メディアの役割。インターネットや携帯電話が人々の社交生活にもつ役割についての2008年の調査によると、インターネットは人との触れ合いを減らすどころか増やす結果になっている、とのこと。部屋でひたすらコンピューター画面に向かって黙々とネットサーフィンをしているような人は、友達のいないオタク的な人かと思いきやそうではなく、ネットをたくさん使う人ほど、幅広く多様な社交ネットワークをもち、公園やカフェやレストランに頻繁に出かけ、さまざまな視点や価値観をもった人々とつきあいがある、とのこと。


フムフム、そう言われると、ネットに使う時間が多すぎると日頃感じている私の罪悪感も少し和らぐ気持ちがしますが、これと関連して、今日のニューヨーク・タイムズで大きく取り上げられているもうひとつのが、シェリル・サンドバーグについての記事。シェリル・サンドバーグは、マーク・ザッカーバーグの右腕としてフェースブックのCOOを務めている、まさに時の人。2011年のフォーブズ誌の「現在もっとも影響力のある世界の女性100人」のリストでも、第5位に選ばれています。ハーバード在学中にローレンス・サマーズ(『現代アメリカのキーワード』をご参考に:))に可愛がられ、世界銀行の経済研究員となった後、シリコン・ヴァレーに移りグーグルを経てフェースブックの経営首脳陣に入ったという人物です。フェースブックの株が公開されることで彼女の資産そして影響力が巨大に膨らむことが予想され、今週さらなる注目を浴びていますが、そんなこともさることながら、彼女は、ビジネスの世界、とくに男性中心で知られるIT産業でより多くの女性が活躍するよう、さまざまな場所で講演をしたり後輩を支援したりして、経済界の女性のロールモデルとしてとくに若い世代の憧れの的となっています。


サンドバーグ自身もとても面白いのですが(昨年7月の「ニューヨーカー」に、彼女についてのとても興味深い長文記事がありますのでぜひどうぞ)、それはともかくとして、おひとりさまについての記事との関連で面白いのが、フェースブックをはじめとするSNSの利用者としての女性の位置づけ。サンドバーグについての記事によると、フェースブックで、近況アップデート、メッセージ、コメントなどといった機能の62パーセントは女性が使っている。平均するとフェースブックの利用者は女性のほうが男性よりも「友達」が多く、フェースブックに使う時間も多い。初期の頃は、女性のほうがフェースブックに写真をアップロードしたり「グループ」に参加したりウオールに投稿したりする割合が高かった、とのこと。女性のほうが男性よりも人とのつながりを重視する、というデータはいろいろな研究で出ていますが、フェースブックにもそういう傾向が表れるのかというのはなかなか興味深く、ニューメディアの利用者としてだけでなく、ニューメディアを開発したり運営したりする側にも、女性の役割が大きくなってくるのかもしれません。


しかし、このブログを書くためにあちこちネットサーフィンをして、私の本日のネット時間はかなり使ってしまったので、そろそろ別の活動に移ります。

2012年2月3日金曜日

Susan G. Komen騒動にみる政治と女性の身体

ここ数日間アメリカで議論を巻き起こしているのが、Susan G. Komen for the Cureという団体。これは、姉を乳がんで亡くしたNancy Goodman Brinkerという女性によって1982年に設立され、乳がんの予防、治療、研究、乳がん経験者の支援などを促進するためにファンドレイジングをしさまざまな機関に助成金を与えている財団。トレードマークのピンクのリボンが、この財団の活動そして乳がん対策全般を支援する企業の商品などにもつけられて、社会全体で広く認識されています。今週火曜日に、この財団が、長年継続されてきたPlanned Parenthoodへの資金提供を停止すると発表しました。


Planned Parenthoodというのは、マーガレット・サンガーの避妊活動、そして国際的な家族計画運動の流れのなかで設立された、生殖医療や性教育、女性の身体の保護や健康促進のためのプログラムを無料または低料金で提供している機関。アメリカ全国に820以上の診療クリニックをもち、避妊、中絶、妊娠検査、性病の診断と治療、乳がんや子宮頸がんの検査、更年期障害対策などを、とくに低所得者そして低年齢の女性に向けて提供しています。1970年にニクソン政権下で家族計画の支援法案が成立して以来、連邦政府の資金もPlanned Parenthoodの運営資金の一部となっており、現在では予算の約三分の一が政府関連、残りが民間や個人からの寄付で構成されています。しかし、Planned Parenthoodが中絶を行っていること、そして法律により連邦資金は中絶に使用されてはいけないことから、中絶に反対する団体や共和党保守の議員たちがPlanned Parenthoodへの公的資金提供を停止するよう提唱してきました。こうした流れのなかで、Planned Parenthoodが公的資金をどのように使っているかを調査する活動をフロリダのCliff Stearns共和党議員が昨年9月に開始し、「政府の調査下におかれている団体に資金提供をすることはできない」との理由でSusan G. Komen財団は前年度は約68万ドル提供されていたPlanned Parenthoodへの助成金を取り下げる、と火曜日に発表しました。(ちなみに、私が敬愛する歴史家のJill Leporeが、昨年11月の『ニューヨーカー』誌にPlanned Parenthoodの歴史とPlanned Parenthoodへの公的資金提供をめぐる議論についてのとてもよい記事を書いています。ぜひともご参考に。)


この発表に対して、pro-choiceつまり女性が妊娠・出産にかんして自らの選択をする権利を主張する活動家や団体はもちろんのこと、各方面から「政治的圧力に負けて女性の生命を危機にさらしている」と大きな抗議の声があがり、フェースブックを初めとするソーシャルメディアでも抗議運動が大きく展開。ニューヨークのブルームバーグ市長は、Susan G. Komenの助成金取り下げによって失われる資金の一部を補填するために25万ドルを提供すると発表しました。抗議運動の高まりを受けて本日金曜日、Susan G. Komen for the Cureは、「女性の生命を守るという我々の使命とコミットメントに影を落とすような決定をしたこと」について謝罪し、先の決定を取り下げて、Planned Parenthoodを含め乳がん検診を行う機関への助成金を以前通り継続する、との発表をしました。やれやれ。


宗教、政治、生殖倫理、フェミニズムなどさまざまな力のなかで中絶をめぐる議論が続き、殺人事件まで引き起こすこともあるアメリカの空気は、日本の多くの人々にはわかりにくいだろうと思いますが、今回の騒動もそうした葛藤の一部。政治的にどんな立場をとる人であれ、乳がん検診に反対する人はいないだろうと思われるものの、Planned Parenthoodが中絶を行っている(ちなみにPlanned Parenthoodが提供しているもののうち中絶が占めるのは約3パーセント)ということで乳がんのための財団が機関全体への資金を打ち切ろうとすることをみると、女性の身体が依然として政治の舞台となっていることが明らかです。選挙戦がこれから加速するなかで、経済政策だけでなくこうした議論がどのように展開されていくかもおおいに注視すべきところです。

2012年2月2日木曜日

クラシック音楽を救うのはアジア人?

今朝、ニューヨーク・フィルハーモニーの音楽監督アラン・ギルバートについての文章を書いていたら、ちょうどその最中に友達から、「この記事見た?」とメールで送られてきたのがこの記事。「アジア人はクラシック音楽を救えるか?」というタイトルで、アラン・ギルバートがニューヨーク・フィルを指揮をしているところの写真が掲載されている。しかも、ギルバートの後ろには、ヴァイオリンやチェロを演奏する数多くのアジア人の姿も見える。記事によると、クラシック音楽の聴衆はどんどん年齢が上がり、そのうちにコンサートに足を運ぶ人たちがみな死に絶えてしまうのではないかとすら思えるなかで、二十歳前後という年齢層でも確実にクラシックのコンサートに通い続けているのがアジア系。クラシックの聴衆にこれだけアジア系が多いということと、クラシックを学ぶ生徒にアジア系が多いということは密接に結びついている...という話のなかで、私の著書Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicが引用されています。さわりの部分だけちょろっと読んで適当な引用のしかたをする記事も少なくないですが、この記事の著者はかなりきちんと読み込んでいるようで、歴史的な背景や現代アメリカのクラシック音楽界におけるアジア人の位置づけについても、私が書いたことをきちんと理解してくれています。(唯一、鈴木メソッドについての部分だけは、私が言おうとしていたこととはずいぶん違う記述になっていますが、この部分は私の本を引用しているわけではないのでまあよしとしましょう。)嬉しや嬉しやとフェースブックに記事を投稿している最中に、なんと記事の著者から、「記事を書くのに貴方の本がとても参考になりました。どうもありがとうございました」とのメールが届きました。なかなか興味深い記事なので、よかったら読んでみてください。


ちなみに、この記事で、ホノルル・シンフォニーが倒産したことが言及されていますが、つい数日前に、元ホノルル・シンフォニーが新しい組織のもと、ハワイ・シンフォニー・オーケストラという名前で復活し、来月から演奏を再開するということが発表されました。私は友達の多くがホノルル・シンフォニーのメンバーで、生活に困りながらもさまざまな音楽活動を続けている彼らを応援しているので、これは大きな朗報。3月4日の最初のコンサート(ちなみに指揮は大友直人氏)には、大勢で一緒に出かけて「Welcome Back, Symphony!」という垂れ幕でも持って行こうか、などと話しているところです。

2012年1月28日土曜日

『マイ・アーキテクト』ふたたび

ご無沙汰いたしました。新学期とともに突然大学の仕事が増え、たいへん面倒だけれどもたいへん重要なことなので手を抜く訳にもいかない、というタイプの仕事が一段落するところまで行ったところです。それにしても本当に、自分のことを棚に上げて言いますが、大学というのは民間企業では絶対にやっていけない種類の人間がたくさん集まっているところです。基本的な指示に従えない、あるいはルールを覚えていられない、というオジサンがやたらと多い。これをオジサンに特定するのは性差別・年齢差別ととられそうですが、実際にこういう人たちはたいていオジサンです。そして、自分のミスが生んだ面倒や、そもそも自分がするべきことを、他の人にさせておいて平然としているのもたいていオジサン。


という疲れた一週間のお口直しに、昨晩は友達と食事に行ったのですが、そのときに話題に上ったのが、私がこよなく愛する映画『マイ・アーキテクト』。一緒に食事をした友達は、もともとバングラデッシュ出身で、ペンシルヴァニア大学で学んだ建築学の研究者なのですが、建築にもバングラデッシュにもペンシルヴァニア大学にもつながりのある『マイ・アーキテクト』についての彼の意見を知りたくて、「私はあの映画がとっても好きなんだけど、建築家としてはどう思う?」と聞いてみたところ、なんと彼は監督(そして脚本と主演)のナサニエル・カーンと友達で、この映画の製作にもかかわり、映画最後のクレジットに彼の名前も出てくるとのこと!私にとってはこれはとてつもない興奮。この映画について私が思うところを話してみると、彼はすべてに同意してくれました。そのうちナサニエル・カーンに紹介してもらえるかも!あまりに嬉しかったので、食事から帰って家でふたたびDVD(最初は映画館で観たのですが、あまりにもよかったのでDVDを買い、今回観たのは五回目くらい)を観てしまいました。たしかに友達の名前も最後に発見。


とにかく好きな映画なので、もしかしたらこのブログでも以前に紹介したことがあったかもしれませんが、せっかくなので再び紹介しておきます。この映画の監督・脚本・主演をしているナサニエル・カーンという人物は、世界的に著名な建築家ルイス・カーンの息子。ただし、ルイス・カーンは三人の女性と子供を作り同時進行的に三つの家庭をもっており、彼はいわゆる「私生児」として、父親(彼が生まれたのは父親が六十一歳のとき)とはときどきの週末にしか時間を過ごしたことがなかった。自分が十一歳のときに死んだ父親が、どんな人物であったのか、父親の人生のなかで自分や母親はどんな位置づけであったのかを少しでも知ろうと、父親と一緒に仕事をした建築家や、ほかのふたつの「家族」、そして父親の設計した建物を訪ねてまわる。その過程で、エストニアからのユダヤ系移民として育ったルイス・カーンの生い立ち、建築家としてのビジョンや葛藤、仕事への姿勢などがモザイクのように少しずつ見えてくる。そして、ふたりの「姉」、その「姉」の母親のひとり、そして自分の母親との会話を通して、建築家としてではなく一人の男性そして人間としてのルイス・カーンも理解しようとする。


なにより素晴らしいのが、こうした複雑な立場と視点からルイス・カーンの人間像を組み立てていながら、けっして彼を全面的に賞賛したり非難したりすることなく、縮まるようで縮まらない父親との距離を見事に表現していること。出演する数多くの建築家の言葉や表情から、建築家としてのルイス・カーンの偉大さと限界の両方を伝えていること。カーンの建築が自分の人生や仕事や生活の一部になっている人たちの姿を通じて、「建築とはなにか」を深く考えさせてくれること。建築家や芸術家、またそれらの分野に限らず大きな仕事をする人について、仕事人としての偉大さと、私生活を含むひとりの人間としての生き方の関係を、どのように理解すべきか、安易な結論を出さずにじっくり考えさせてくれること。ルイス・カーンが正妻のもとを去ることはないと承知の上で、客観的にみればきわめて屈辱的な状況のなかで、シングルマザーとして子供を育てたふたりの女性の、カーンに対する畏敬と愛情のありかたを、価値判断なく描いていること。水上でオーケストラが演奏するクレイジー・ボート、三人の「きょうだい」の会話、自分の母親との会話、そしてなんといっても、バングラデッシュの議事堂を訪ねる最後のシーンで、「この建物を通じて、カーンは私たちに民主主義をもたらしてくれた」「家庭人や父親としては欠陥のある人だったかもしれないし、自分にもっとも近い人にはふさわしい形の愛情を十分に注げなかった人だったかもしれないけど、カーンはバングラデッシュの国民に限りない愛情を与えてくれた」と語る建築家の言葉と表情。あらゆる次元で静かな感動を与えてくれる映画です。私はフォートワースでカーン設計のキンベル美術館に行くことができてとてもラッキーでしたが、いつかはぜひバングラデッシュに行って議事堂を見てみたいと思っています。


とにかく、この映画、ぜひどうぞ。