2023年12月10日日曜日

映画『マエストロ』劇場上映開始

 何年も前から話題になりながらも一向に公開にならなかった、ブラッドリー・クーパー監督・主演の映画『マエストロ』が、12月20日のNetflix配信に先駆けて限定的に劇場上映されています。私もホノルルで一昨日、昨日と連続で観てきました。

近々ゆっくり自宅で観られるのならわざわざお金を払って映画館に出かけなくても、と思うかたも多いでしょうが、この作品は音楽や撮影がとてもよいので、できればぜひ劇場の大きな画面で観るのがオススメです。

さてこの『マエストロ』、レナード・バーンスタインが主人公なのですが、彼の生涯と芸術を追ったいわゆる「伝記映画」ではないことは、あらかじめ警告(?)しておきたいと思います。バーンスタインのことをよく、あるいはまったく知らない人が、彼がどんな人物でどんなことを成し遂げたのかを知る、あるいは、バーンスタインのことをよく知っている音楽愛好家が、彼の音楽にどっぷり浸りながらその人間性についての理解をあらたに深める、といったことを期待してこの映画を観ると、その目的はあまり果たされないでしょう。そういう映画ではないのです。

バーンスタインの人生や仕事の全体像を捉えるという点では、はっきり言って穴だらけ。バーンスタインの気が遠くなるほど多彩な仕事の中でももっとも重要とされているもの----たとえば「ヤング・ピープルズ・コンサート」とか、何百枚ものレコーディングとか、イスラエルやソ連や日本をはじめとする海外ツアーとか、教育活動とか、核兵器廃絶運動などの社会活動とか----は、ほとんど、あるいはまったく出てこない。バーンスタインがどんな時代のどんな社会を生きて、どうやって20世紀を代表する巨匠になったのかとか、彼の音楽がなぜ世界中の人々を魅了したのかとか、彼の活動が社会においてどんな意義をもったのかとか、そういうことを理解させて考えさせてくれるような映画ではないのです。(そういうことを理解させて考えさせてくれるのは、『親愛なるレニー』ですので、未読のかたはぜひお読みください!池袋渋谷有楽町吉祥寺の映画館では『親愛なるレニー』を販売してくださっているそうです。…とあからさまな宣伝を入れておく。)

ではダメ映画なのかというと、まったくそうではありません。私はとてもいい映画だと思いました。そうでなければ、もうじきNetflixで観られるとわかっているものをわざわざ二日連続で観に出かけたりはしません。

ここであんまり詳しいことを書いてしまうと、これから観る人たちの楽しみを削いでしまうかと思うので、ディテールを論じたレビューはいずれ別のところで書くことにして、この映画について語るうえで私が一番大事だと思うのは、『マエストロ』というタイトルの意味。

ここでの「マエストロ」とは、バーンスタインという世界的指揮者のことを指すというよりは、

「『マエストロ』として生きるということ」

「『マエストロ』として世界に存在するということ」

そして

「『マエストロ』として生きる人物を愛するということ」

「『マエストロ』として生きる人物と人生を共にするということ」

という意味ではないかと私は思います。

この「マエストロという人生、存在」というテーマを、バーンスタイン自身、そして妻フェリーシャ(キャリー・マリガンの演技が素晴らしい)というふたりの人物を通して捉えるものとして観れば、この映画はとても深い示唆にあふれる作品と言えると思います。

そのことを念頭において、フレーミングやカメラワーク、照明などに注目しながら観ると、単に筋を追いながら観るよりもいろんな気づきがあるのではないかと思います。

あとひとつ書いておきたいのが、後半に出てくる、6分間にわたるマーラー交響曲第2番《復活》のシーン(この指揮のためにブラッドリー・クーパーは何年間にもわたってヤニック・ネゼ=セガンのもとで特訓したらしい)が話題になっているけれど、私はこのシーンと同じくらい、あるいはそれ以上に、前半に出てくる《ファンシー・フリー》のシーンが重要だと思っています。

などなど、書き出したらキリがないのですが、ネタバレにならないようにこれで我慢(実はこの投稿、もっと長い文章を書いていたのですが、そんなに書いちゃうのもどうかな〜と思ってバッサリ削除しました)。

でもなにしろ、この映画は『親愛なるレニー』といろんな意味で補完的な物語になっているので、本を読んでから映画を観てさらにまた本を読む、または、映画を観てから本を読んでさらにまた映画を観ると、理解と感動が深まると思います!(←とふたたび宣伝 w)



2023年8月27日日曜日

『不機嫌な英語たち』予約注文スタート!

最新の著書、『不機嫌な英語たち』の情報が解禁となり、予約注文がスタートしました!

東京の小さなマンションでピアノを弾き、本を読んで過ごしていた「ふつう」(?)の女の子の真里は、小学校五年生のとき、親の転勤でカリフォルニアに連れていかれ、まるでわからない英語の世界に放り込まれる。一日一日が永遠に感じられる学校生活をサーバイブするために、必死に英語を勉強する。長い夏休みを終えて中学校に上がる頃には、「英語ができないマリ」という過去を後にして、新しい人生を生きることができるようになる。その過程でマリが経験する出会いや発見の数々。

アメリカ生活に溶け込もうと必死に英語を身につけたにもかかわらず、父親に辞令が下りると一家はあっさりとまた日本に戻ることになる。真里が「帰国子女」として編入したのは、毎日朝夕に国旗掲揚があり、「団体訓練」では「集団責任」の名目で体育の男性教師が女子中学生の頭のスリッパで叩くような学校だった。その学校にある日、絵に描いたような金髪に青い目のオランダ人、レベッカがクラスにやってくる。当たり前のように先生は彼女を真里の隣に座らせた。親切心を動員して彼女に話かける真里の目には、なにかとてつもない不条理が身に降りかかっているとでもいうような悲壮な空気がレベッカを包んでいるように見えた。午後の美術の授業中、真里だけが気づいたレベッカと先生とのやり取りとは……。

日本で大学を卒業した真里は、こんどは自分の意思で再びアメリカに渡り、ニューイングランドの大学院で学び、やがてハワイに職を得る。英語ができるようになってからの真里が出会う「アメリカ」は、カリフォルニアでの経験とはまるで違うものだった。しかしMariは、「英語ができる」だけではなく、「日本人」であり「アジア人」であり「女性」でもあった。そして「大学教授」にもなった。Mariが身につけた、あるいは否応にも課せられた属性は、Mariが見る世界や経験する人間関係をさまざまに形づくっていく……

といったわけで、自分がこれまで生きてきた道を振り返り、そして今の自分が立っている場所を見つめながら、「日本の私」と「アメリカの私」、「日本語の自分」と「英語の自分」の重なりと溝を描いた、バイリンガル私小説…と呼ぶのが相応しいかどうかは、ぜひ読んで判断してみてください。

これまでのどの著作とも違った種類の本です。ひとりでも多くのかたに読んでいただけますように!



2023年8月26日土曜日

亀井俊介先生の訃報を読んで

 この夏はまる2ヶ月日本に滞在し、おかげさまで日本エッセイスト・クラブ賞と河合隼雄物語賞を受賞した『親愛なるレニー』関連やその他の講演、イベントなどで目の回るような忙しさでした。7月後半にやっとスケジュールが少し落ち着いたところで、亀井俊介先生に会いに行こうとメールをしたら、体調不良でその翌日から入院するので、全快したらまた会いましょうというお返事をいただき、心配していたのですが、そうしたら昨日、先生の訃報が届きました。いつかはこの日が来ると覚悟していたつもりでも、いざその日がやって来てみると、脳天を金槌で殴られたような衝撃で、呆然としてしまいます。

立派なひと、多くの人に愛されたひとが亡くなると、いろんな人たちがそのひととの思い出を語ります。そうすることで、悲しさや寂しさ、故人への親愛を人と分かち合いたいという衝動は、とても自然なことだと思います。でもSNSで見かけるもののなかには、「自分は故人とこんなに親しかったんだ」とか「自分はみんなよりよく故人のことを知っている」とかいった自慢話のような印象を受けるものがあるのもたしか。

私にとって亀井先生は、研究者としても教育者としても心から尊敬する相手であり、そしてほんとうに愛情深くしっかりと私のことを理解し応援してくださる、また、亀井先生がどこかで見ているからには人間として曲がったことはできないと思うような、いわゆるmoral compassのような存在でした。だからこそ、思い出語り合戦のようなことには加わりたくないし、なにしろ亀井先生がもうこの世にいないということを、まだちゃんと受け止められていない。少し時間がたって気持ちが落ち着いてから、亀井先生のことはなにか文章にしたいと思うけれど、今はまだ書けない、書きたくない……と言いつつ、なにかしら書かずにはいられないし、やっぱり私が知っている亀井先生を、みんなと共有したい。
というわけで、以下は、2008年に亀井先生が瑞宝中綬章を叙勲なさったときのお祝いパーティ(運良くちょうど私は日本に滞在中だったのです)で私がしたスピーチです。いま読み返してみると、まさしく「私はこんなに亀井先生と親しいんだ自慢」みたいな感もおおいにあり、恥ずかしいのですが、先生のありかたが少しでも伝われば嬉しいです。 亀井先生は、ひょろっとした身体で長い指にタバコをはさんで、ふふふっと笑いながらも、コワいほど冷静にいろんなことを観察し、見抜いているひとでした。仕事においても人生全般においても、亀井先生の教え子として恥ずかしくないような生きかたをしなければ、あの世から「バカだねえ、あなたは」とお叱りの言葉が飛んできそうです。 *****
ご紹介いただきました、亀井先生の遊び相手代表、吉原真里です。
今日のこの集まりのなかでは、おそらく私は亀井先生とのおつきあいが比較的短い部類に入るのではないかと思いますが、それでも、私が駒場の学部生として亀井先生に指導を受けたときからすでに20年間、私は先生といろいろな場所で遊んできました。亀井先生が始められた教養学科アメリカ科の伝統である文学合宿の思い出ももちろんですが、そのほかにも実にいろいろなところで、私は亀井先生とご一緒してきました。
誤解を招くような発言になりますが、私は先生の調布のご自宅と府中のご自宅それぞれに、泊めていただいたことがあり、浴衣を着て一緒に川辺で花火をしたこともあります。それに加えて 私は、思い出せるだけでも、ボストンで2回、プロヴィデンスで1回、ハワイで1回、ニューヨークで1回、先生と遊んでいます。 自分の親や親友でさえ、遊びを求めて私の行くところ行くところこれだけきちんと訪ねて来てくださる人はいません。そして私の毎年一度の帰国の際には必ず1回東京のどこかで、亀井先生とデートをしています。 数年前には、パリでデートをする計画もあったのですが、残念ながらそれは都合が合わずにキャンセルになってしまったので、今後のアジェンダにまだ残っています。
思い出深いシーンはたくさんあります。プロヴィデンスの私の家に先生が泊まりにいらしたとき、私が日本で買ってきた、割と高級なお酒を食後の一杯にと思って取り出してきたら、あれよという間に先生はまるごと一本飲み干してしまわれました。 先生がクルーズでハワイにいらしたとき、私は車で埠頭にお迎えに行ったのですが、他の船客が次々降りてきても、いっこうに先生の姿が見えない。どうしたのかなあと思いながらかなり長い時間待っていると、案の定、先生は、うら若き素敵な女性を伴って船から降りてこられ、船のジャズシンガーだというその女性のことも、私は車でホテルまで送っていく役割をさずかりました。また、先生がハワイにいらっしゃる少し前に、ホノルル市の条例が変わって、一部の例外を除いてレストランやバーではタバコが吸えなくなり、その「一部の例外」のレストランを探して車で町じゅうぐるぐるドライブした挙げ句、やはり先生は食事中タバコを吸えないはめになりました。ニューヨークでは、先生との待ち合わせ場所は、Museum of Sexでした。こうしたわけで、亀井先生の遊び相手をつとめるには、かなりの柔軟性を要求されます。
こうして一緒に亀井先生といろいろなところで遊んでいるうちに、いくつかのパターンが見えてきました。まず、先生は、日本でもアメリカでも、興味をもったらどこにでもひょこひょこと歩いて行きます。亀井先生の身体つきは、端から見たら決してそう頑丈そうには見えませんが、先生はびっくりするほど歩くのが速くて、ニューヨークやボストン、そして渋谷や新宿の雑踏のなかでも、こちらが一生懸命にならなければいけないほどの勢いで、面白いものに向かって進んで行きます。その「面白いもの」とは、 かなりいかがわしげなところが多く、亀井先生は自らの体験に根づいた洞察力と愛情をもって、そうした場所に嬉しそうに出かけて行きます。そして先生は、これまた感心するほどのオープンさで、人とお話をされ、友達を作ります。私が知っている日本人研究者の誰とくらべても、亀井先生は、アメリカじゅうのいろんな街にお友達、遊び相手がいらっしゃいます。そのお友達はたいてい女性です。
つまり、亀井先生の「アメリカ」は、けっして本のなかの世界や、理屈としての社会ではなく、実際の人間が、いろんなところでケッタイなことを一生懸命にやっている、肉感と息吹に満ちた、生身の文化なのです。もちろん、そんなことは、この会にお集りの皆様はとうにご存知のことですが、遊び相手代表としては、亀井先生がたくさんのご著書のなかで描いてきた人間臭いアメリカとは、広範囲にわたる遊びの実践に根づいたものであるということを、証言したいと思います。
亀井先生の遊び相手というとても重要な役割のほかに、サイドビジネスとして、私は亀井先生に教えを受けた研究者という役割も演じておりますので、教師としての亀井先生についても少しお話したいと思います。先生の講義は、ある意味ではとてもよくない授業でした。それは、それぞれの文学作品についての先生の説明が、歴史的文化的状況から登場人物の複雑な感情からなにから、あまりにも生き生きとしていて、先生自身の作品や作者への愛情が伝わってくるので、学生は、実際に自分が読んでいない作品についても、先生の説明や解釈を聞いただけで、まるで自分で原作を読んだような気分になりがちだからです。そのいっぽうで、先生の講義を聞いて、文学好きでもなんでもない学生の多くが、ぜひ自分で読んでみようと、難解な原作をひもとく例も、私はたくさん見てきました。また、先生は、授業の最中や、飲み会の場などで、一見まるで注意を払っていないように見えながら、実は恐ろしいほど的確な観察力で、ひとりひとりの学生を見て、また覚えています。そして、卒論発表会などの場では、ときどき端から見ているものが震え上がるくらい、厳しい質問や辛辣な批判も浴びせるいっぽうで、よいものについては、端から見ているものが拍手をしたくなるようなencouragingなコメントも惜しみません。そして、個人のアドヴァイザーとしての亀井先生は、伝統的な意味での学界での成功といったこととは別の、研究者や教師としての本質的な成長を第一に考えて、教え子の道を見守ってくださいます。仕事を選ぶ上で、他の先生がたの多くが首をかしげるような選択を私がしたときも、その意図をきちんと理解して、「よくやった!」とほめてくださったのは、亀井先生でした。
研究対象に深い愛情と真剣な遊び心をもってのぞみ、人間臭いアメリカの姿を読者に伝え、学生には多くのものを要求しかつたっぷりの愛情とサポートを注ぐ、そうした亀井先生のありかたを、研究者としても物書きとしても教育者としても継承していきたいと思います。亀井先生、本日はおめでとうございます。これからも、いろんなところで、たくさん一緒に遊びましょう。

2023年2月20日月曜日

『親愛なるレニー』プロモーション 来日ツアー

 前回の投稿からたいへん長い間があいてしまいました。

『親愛なるレニー』は、おかげさまで大きな反響をいただいています。讀賣朝日日経毎日新聞その他の媒体でそれぞれ大きく書評を掲載していただいたほか、毎日新聞ではインタビュー記事も載せていただきました。先日のNHK ETVの「クラシックTV」のバーンスタイン特集では、『親愛なるレニー』の主要登場人物のひとりである天野和子さんの物語も紹介されました。

そして、何人もの見も知らぬ読者のかたたちが、熱い感想をわざわざ寄せてくださってもいます。『親愛なるレニー』の読者が、まるで天野和子さんや橋本邦彦さんがバーンスタインに宛ててしたためた手紙のように、便箋に手書きで綴ったお手紙を、綺麗な切手を貼って私に感想を送ってくださるというのも、さらなる感動です。(このような形で感想を送っていただく場合は、版元のアルテスパブリッシング宛に郵送していただければ、担当編集者が私に転送してくださいます。)多くの読者のかたたちに感動していただけて、著者としてほんとうに嬉しいですし、この本を通じて、私自身に多くのあらたな出会いが生まれつつあります。バーンスタイン、天野さん、橋本さんの愛の力、そして言葉の力、音楽の力、本の力をあらためて実感しています。

そんなわけで発売からわずか4ヶ月にして本日は、第3冊の出荷がはじまりました。未読のかたはぜひ書店でお買い求めください。


この勢いに乗って、プロモーションのため3月に急遽一時帰国することになりました。ラジオ出演やメディア取材などで連日めいっぱいのスケジュールなので、企画スタッフ仲間では「吉原真里来日ツアー」と呼ばれています(笑)。東京でいくつかイベントがあります。

3月12日(日)19:00〜 本屋B&B(下北沢)吉原真里x林田直樹 「音楽家の言葉から世界を観る」 (リアル&オンライン配信)

『そこにはいつも、音楽と言葉があった』(音楽之友社)を上梓され、そして日経新聞で『親愛なるレニー』を書評してくださった音楽ジャーナリストの林田直樹さんと、お互いの本について、そして音楽と言葉、調査や執筆、聴くことと書くことなどについて語り合います。じつは私と林田さんはこのイベントが初対面。だからこそ新鮮で刺激的な会話になるのではと楽しみにしています。

3月15日(水)19:00〜 Have a Nice TOKYO! (丸の内) 吉原真里x松田亜有子 「ビジネスパーソンに贈るクラシック音楽講座 20世紀の巨匠レナード・バーンスタインから21世紀の私たちが学ぶこと」(リアルのみ)

クラシック音楽をはじめとする芸術文化の分野でさまざまな企画運営に携わってこられた、アーモンド株式会社の松田亜有子さんに聞き手をつとめていただいて、20世紀の巨匠バーンスタインの生涯と功績の意義や、現代社会におけるクラシック音楽の位置づけや役割などについて語ります。

3月16日(木)19:00〜 蔦屋書店(代官山)吉原真里x篠田真貴子 「ミクロの愛とマクロの世界を物語る」 (リアル&オンライン配信)

英語の原著刊行当初から『親愛なるレニー』についての感動を各方面で語ってくださっている、エール株式会社取締役の篠田真貴子さんに聞き手になっていただいて、本の執筆の経緯や、書くにあたって大切にしたことなどについて語ります。


各イベント、リアル参加は席が限られていますので、お早めにお申し込みください。12日と16日はオンライン配信(アーカイブ配信あり)もありますので、遠方のかたや当日の都合が悪いかたはそちらでご視聴いただけますが、せっかく日本に行くので、なるべく多くのかたと対面で交流するのを楽しみにしています。

2022年10月28日金曜日

『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』発売!

 拙著『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』が本日10月28日、ついに発売になりました!

これは、3年前に英語でオックスフォード大学出版から刊行された、Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro を私が自ら日本語の読者にむけて書き直したものです。

指揮者、作曲家、ピアニスト、教育者、メディア・パーソナリティ、社会活動家など、ジャンルを超えて類をみない活躍をした、20世紀アメリカを代表する巨匠、レナード・バーンスタイン。そのバーンスタインが何十年にもわたって深い親交をもった、知られざるふたりの日本人がいます。ふたりがバーンスタインとのあいだに育んだかけがえない愛情の物語を語りながら、それぞれの関係を可能にした歴史・政治・経済・社会的文脈とその変化をたどる本です。冷戦期アメリカの文化外交と日米関係、政治と芸術の複雑な関係、アメリカ芸術産業の変化と日本の音楽業界の発展、家族と性など、構造やイデオロギーが絡み合うなかで、遠く離れた場所からバーンスタインを芸術家として、またひとりの人間として愛し続けた「カズコ」と「クニ」。数々の手紙にしたためられた言葉から、ふたりの人間性と変化する愛情の形が感じられ、また、ふたりの目や耳や心をとおして、バーンスタインが「世界のマエストロ」となっていった過程が浮き彫りになります。

ワシントンの議会図書館でリサーチ中に思いがけずふたりの手紙を発見してから、この日本語版の刊行に至るまで、ほぼ10年。そのあいだに、想像もしなかった数々の出会いがありました。研究者として、物書きとして、そしてなにより人間として、とても多くのことを学ぶ道程でした。

日本語版では、日本の読者にわかりやすいように、原著の一部を削除したり、日本語の資料を使って加筆したり、話の順序を少し入れ替えたりしてあります。英語の原書でも、研究者だけでなく多くの一般読者に読んでもらえるような文章展開を心がけましたが、今回の日本語版では物語性にいっそう注力し、頭にも心にも響く本ができあがったと思っています。

装丁・デザインも、本のエッセンスをつかんだ、温かく素敵な仕上がりになりました。

ひとりでも多くのかたに読んでいただけたら嬉しいです。

原稿を読んで感動してくださったかたたちのご協力で、、刊行記念イベントがいくつか企画されています。

第一弾は、11月12日(土)、大阪の谷町六丁目の隆祥館書店でのリモート・リアルトークイベント(私はハワイからリモート登場です)。私は夏の帰国時に隆祥館書店を訪れ、思わずほっとするような佇まいのお店の品揃えとそこに現れる店長の二村和子さんの精神に心を打たれました。こ隆祥館書店でローンチイベントをさせていただけるのはほんとうに光栄です。(大阪圏外のかたでも、本を隆祥館書店でご注文いただけます。)

第二弾は、その翌日の11月13日(日)、以前もオンラインセミナーをさせていただいたコーラスカンパニーの主催で、「吉原真里が語る『私が書いた3冊の音楽の本』〜アメリカ研究から見たクラシック音楽とは?」というオンラインセミナー。タイトルの通り、『親愛なるレニー』の内容紹介だけでなく、私がこの本と同じくアルテスパブリッシングから刊行した『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール 市民が育む芸術イヴェント』『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? 人種・ジェンダー・文化資本』もあわせて語ってしまおうという試みです。私の著書をすでにお読みになっているかたには、ぜひ質問やコメントをいただきたいですし、未読のかたには、私がどんな研究や執筆をしてきたのかを知っていただく絶好のチャンスです。たいへんお得な料金設定にもなっていますので、ふるってご参加ください。

第三弾は、12月11日(日)、朝日カルチャーセンター新宿教室主催で、『親愛なるレニー』の内容を紹介するオンライン講座を開催します。この頃までには本を読んでいただいているかたも多いかと思うので(と期待:))、参加者のみなさんからの感想や質問に応えながら語る講座にしたいと思っています。

愛に溢れるバーンスタインの生涯と功績、「カズコ」と「クニ」の人間性、そして20世紀のアメリカ・日本・世界。そうしたものを感じ取っていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。




2022年6月16日木曜日

『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』本日発売!

 昨日、無事入国を果たし、3年ぶりに東京の土を踏みました。今回の帰国のおもな目的は、本日正式発売になった『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』集英社新書)を手に取り、共著者仲間と編集者と共にプロモーションに励むことにあります。

この本は、現代アメリカにおいてさまざまな不条理や不正義に果敢に声を上げてきた「女性」(カギ括弧をつける意味は、本を読んでいただければわかります)たちの行為に注目し、そこに至るまで、そしてその後の過程や状況を考察しながら、私たち自身が生きる社会や人生について振り返るものです。大坂なおみやローザ・パークスなど、日本の読者にも馴染みの深い人物から、日本ではあまり知られていない事例まで、幅広く多様な10の「声」を紹介しています。5人の女性アメリカ研究者たちが、アメリカの歴史的・政治的・社会的文脈を解説することで、単なる偉人列伝でもなく感動物語でもない、多角的で複相的な分析になっています。それと同時に、日本語読者にアメリカの事例を他人事でなく当事者として捉えてもらいたいという強い思いが本を貫いています。

また、この本の発案・執筆・編集・刊行の過程そのものが、5人の共著者そして編集者のあいだの力強いシスターフッドの物語でもあります。怒りや悲しみや笑いをたくさん分かち合いながら、みんなで対等にアイデアを出し合い、オープンに話し合いを重ね、お互いの草稿にコメントし合い、全員で文章や構成を練ることを大切にして作った本です。この「私たち」の熱い思いを、ひとりでも多くの読者と分かち合いたいと思っています。

是非とも読んで、考え、語り、行動していただけたら嬉しいです!


2021年11月7日日曜日

Symphony magazine:アメリカのオーケストラと「アジア人」音楽家 

コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。

そんな中で、今年6月に開催されたアメリカオーケストラ連盟のオンラインカンファレンスで企画されたパネルに登壇したのですが、それを契機に依頼された記事が、同組織の機関誌であるSymphony誌に掲載されました。クラシック音楽界、特にオーケストラにおけるアジア人音楽家の位置付けや扱いについて、主にオーケストラ業界の読者を想定して書いた文章なので、前回の投稿で紹介したショパンコンクールについての記事とはだいぶトーンが違っています。ただ、ショパンコンクールの出場者や入賞者にアジア人が多いこと、アメリカのオーケストラにアジア人が多いことは、クラシック音楽におけるアジア人への差別がないことの証明には決してならないことが伝われば幸いです。今なら無料でオンラインでアクセスできますので、ぜひお読みください。