2023年2月20日月曜日

『親愛なるレニー』プロモーション 来日ツアー

 前回の投稿からたいへん長い間があいてしまいました。

『親愛なるレニー』は、おかげさまで大きな反響をいただいています。讀賣朝日日経毎日新聞その他の媒体でそれぞれ大きく書評を掲載していただいたほか、毎日新聞ではインタビュー記事も載せていただきました。先日のNHK ETVの「クラシックTV」のバーンスタイン特集では、『親愛なるレニー』の主要登場人物のひとりである天野和子さんの物語も紹介されました。

そして、何人もの見も知らぬ読者のかたたちが、熱い感想をわざわざ寄せてくださってもいます。『親愛なるレニー』の読者が、まるで天野和子さんや橋本邦彦さんがバーンスタインに宛ててしたためた手紙のように、便箋に手書きで綴ったお手紙を、綺麗な切手を貼って私に感想を送ってくださるというのも、さらなる感動です。(このような形で感想を送っていただく場合は、版元のアルテスパブリッシング宛に郵送していただければ、担当編集者が私に転送してくださいます。)多くの読者のかたたちに感動していただけて、著者としてほんとうに嬉しいですし、この本を通じて、私自身に多くのあらたな出会いが生まれつつあります。バーンスタイン、天野さん、橋本さんの愛の力、そして言葉の力、音楽の力、本の力をあらためて実感しています。

そんなわけで発売からわずか4ヶ月にして本日は、第3冊の出荷がはじまりました。未読のかたはぜひ書店でお買い求めください。


この勢いに乗って、プロモーションのため3月に急遽一時帰国することになりました。ラジオ出演やメディア取材などで連日めいっぱいのスケジュールなので、企画スタッフ仲間では「吉原真里来日ツアー」と呼ばれています(笑)。東京でいくつかイベントがあります。

3月12日(日)19:00〜 本屋B&B(下北沢)吉原真里x林田直樹 「音楽家の言葉から世界を観る」 (リアル&オンライン配信)

『そこにはいつも、音楽と言葉があった』(音楽之友社)を上梓され、そして日経新聞で『親愛なるレニー』を書評してくださった音楽ジャーナリストの林田直樹さんと、お互いの本について、そして音楽と言葉、調査や執筆、聴くことと書くことなどについて語り合います。じつは私と林田さんはこのイベントが初対面。だからこそ新鮮で刺激的な会話になるのではと楽しみにしています。

3月15日(水)19:00〜 Have a Nice TOKYO! (丸の内) 吉原真里x松田亜有子 「ビジネスパーソンに贈るクラシック音楽講座 20世紀の巨匠レナード・バーンスタインから21世紀の私たちが学ぶこと」(リアルのみ)

クラシック音楽をはじめとする芸術文化の分野でさまざまな企画運営に携わってこられた、アーモンド株式会社の松田亜有子さんに聞き手をつとめていただいて、20世紀の巨匠バーンスタインの生涯と功績の意義や、現代社会におけるクラシック音楽の位置づけや役割などについて語ります。

3月16日(木)19:00〜 蔦屋書店(代官山)吉原真里x篠田真貴子 「ミクロの愛とマクロの世界を物語る」 (リアル&オンライン配信)

英語の原著刊行当初から『親愛なるレニー』についての感動を各方面で語ってくださっている、エール株式会社取締役の篠田真貴子さんに聞き手になっていただいて、本の執筆の経緯や、書くにあたって大切にしたことなどについて語ります。


各イベント、リアル参加は席が限られていますので、お早めにお申し込みください。12日と16日はオンライン配信(アーカイブ配信あり)もありますので、遠方のかたや当日の都合が悪いかたはそちらでご視聴いただけますが、せっかく日本に行くので、なるべく多くのかたと対面で交流するのを楽しみにしています。

2022年10月28日金曜日

『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』発売!

 拙著『親愛なるレニー レナード・バーンスタインと戦後日本の物語』が本日10月28日、ついに発売になりました!

これは、3年前に英語でオックスフォード大学出版から刊行された、Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro を私が自ら日本語の読者にむけて書き直したものです。

指揮者、作曲家、ピアニスト、教育者、メディア・パーソナリティ、社会活動家など、ジャンルを超えて類をみない活躍をした、20世紀アメリカを代表する巨匠、レナード・バーンスタイン。そのバーンスタインが何十年にもわたって深い親交をもった、知られざるふたりの日本人がいます。ふたりがバーンスタインとのあいだに育んだかけがえない愛情の物語を語りながら、それぞれの関係を可能にした歴史・政治・経済・社会的文脈とその変化をたどる本です。冷戦期アメリカの文化外交と日米関係、政治と芸術の複雑な関係、アメリカ芸術産業の変化と日本の音楽業界の発展、家族と性など、構造やイデオロギーが絡み合うなかで、遠く離れた場所からバーンスタインを芸術家として、またひとりの人間として愛し続けた「カズコ」と「クニ」。数々の手紙にしたためられた言葉から、ふたりの人間性と変化する愛情の形が感じられ、また、ふたりの目や耳や心をとおして、バーンスタインが「世界のマエストロ」となっていった過程が浮き彫りになります。

ワシントンの議会図書館でリサーチ中に思いがけずふたりの手紙を発見してから、この日本語版の刊行に至るまで、ほぼ10年。そのあいだに、想像もしなかった数々の出会いがありました。研究者として、物書きとして、そしてなにより人間として、とても多くのことを学ぶ道程でした。

日本語版では、日本の読者にわかりやすいように、原著の一部を削除したり、日本語の資料を使って加筆したり、話の順序を少し入れ替えたりしてあります。英語の原書でも、研究者だけでなく多くの一般読者に読んでもらえるような文章展開を心がけましたが、今回の日本語版では物語性にいっそう注力し、頭にも心にも響く本ができあがったと思っています。

装丁・デザインも、本のエッセンスをつかんだ、温かく素敵な仕上がりになりました。

ひとりでも多くのかたに読んでいただけたら嬉しいです。

原稿を読んで感動してくださったかたたちのご協力で、、刊行記念イベントがいくつか企画されています。

第一弾は、11月12日(土)、大阪の谷町六丁目の隆祥館書店でのリモート・リアルトークイベント(私はハワイからリモート登場です)。私は夏の帰国時に隆祥館書店を訪れ、思わずほっとするような佇まいのお店の品揃えとそこに現れる店長の二村和子さんの精神に心を打たれました。こ隆祥館書店でローンチイベントをさせていただけるのはほんとうに光栄です。(大阪圏外のかたでも、本を隆祥館書店でご注文いただけます。)

第二弾は、その翌日の11月13日(日)、以前もオンラインセミナーをさせていただいたコーラスカンパニーの主催で、「吉原真里が語る『私が書いた3冊の音楽の本』〜アメリカ研究から見たクラシック音楽とは?」というオンラインセミナー。タイトルの通り、『親愛なるレニー』の内容紹介だけでなく、私がこの本と同じくアルテスパブリッシングから刊行した『ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール 市民が育む芸術イヴェント』『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? 人種・ジェンダー・文化資本』もあわせて語ってしまおうという試みです。私の著書をすでにお読みになっているかたには、ぜひ質問やコメントをいただきたいですし、未読のかたには、私がどんな研究や執筆をしてきたのかを知っていただく絶好のチャンスです。たいへんお得な料金設定にもなっていますので、ふるってご参加ください。

第三弾は、12月11日(日)、朝日カルチャーセンター新宿教室主催で、『親愛なるレニー』の内容を紹介するオンライン講座を開催します。この頃までには本を読んでいただいているかたも多いかと思うので(と期待:))、参加者のみなさんからの感想や質問に応えながら語る講座にしたいと思っています。

愛に溢れるバーンスタインの生涯と功績、「カズコ」と「クニ」の人間性、そして20世紀のアメリカ・日本・世界。そうしたものを感じ取っていただければ幸いです。どうぞよろしくお願いいたします。




2022年6月16日木曜日

『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』本日発売!

 昨日、無事入国を果たし、3年ぶりに東京の土を踏みました。今回の帰国のおもな目的は、本日正式発売になった『私たちが声を上げるとき アメリカを変えた10の問い』集英社新書)を手に取り、共著者仲間と編集者と共にプロモーションに励むことにあります。

この本は、現代アメリカにおいてさまざまな不条理や不正義に果敢に声を上げてきた「女性」(カギ括弧をつける意味は、本を読んでいただければわかります)たちの行為に注目し、そこに至るまで、そしてその後の過程や状況を考察しながら、私たち自身が生きる社会や人生について振り返るものです。大坂なおみやローザ・パークスなど、日本の読者にも馴染みの深い人物から、日本ではあまり知られていない事例まで、幅広く多様な10の「声」を紹介しています。5人の女性アメリカ研究者たちが、アメリカの歴史的・政治的・社会的文脈を解説することで、単なる偉人列伝でもなく感動物語でもない、多角的で複相的な分析になっています。それと同時に、日本語読者にアメリカの事例を他人事でなく当事者として捉えてもらいたいという強い思いが本を貫いています。

また、この本の発案・執筆・編集・刊行の過程そのものが、5人の共著者そして編集者のあいだの力強いシスターフッドの物語でもあります。怒りや悲しみや笑いをたくさん分かち合いながら、みんなで対等にアイデアを出し合い、オープンに話し合いを重ね、お互いの草稿にコメントし合い、全員で文章や構成を練ることを大切にして作った本です。この「私たち」の熱い思いを、ひとりでも多くの読者と分かち合いたいと思っています。

是非とも読んで、考え、語り、行動していただけたら嬉しいです!


2021年11月7日日曜日

Symphony magazine:アメリカのオーケストラと「アジア人」音楽家 

コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。

そんな中で、今年6月に開催されたアメリカオーケストラ連盟のオンラインカンファレンスで企画されたパネルに登壇したのですが、それを契機に依頼された記事が、同組織の機関誌であるSymphony誌に掲載されました。クラシック音楽界、特にオーケストラにおけるアジア人音楽家の位置付けや扱いについて、主にオーケストラ業界の読者を想定して書いた文章なので、前回の投稿で紹介したショパンコンクールについての記事とはだいぶトーンが違っています。ただ、ショパンコンクールの出場者や入賞者にアジア人が多いこと、アメリカのオーケストラにアジア人が多いことは、クラシック音楽におけるアジア人への差別がないことの証明には決してならないことが伝われば幸いです。今なら無料でオンラインでアクセスできますので、ぜひお読みください。

2021年10月26日火曜日

ショパンコンクールが投げかける問い 「クラシック音楽」とは?

反田恭平さんと小林愛実さんの入賞で日本でも話題を集めたショパン・コンクール。なにしろ全部で87人も出場者がいるので、最初からずっと追っていた訳ではありませんが、第二ラウンドからは、早起きしたり夜更かししたりしながらネットで生配信をけっこう見ていました。演奏はどれも素晴らしく、審査結果も納得のいくものだったと思います。

このコンクールについて記事を書かないかと、日経新聞社の英語媒体であるNikkei Asiaに依頼を受けたので、このような文章を寄稿しました。日本ではどうしても日本人の話題ばかりに報道が集中しがちなので、今回の結果をより大きな文脈に位置づけて、「クラシック音楽とは何か?」を考えるような著述にしたつもりです。読んでいただけると幸いです。

2021年10月23日土曜日

『Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond 』刊行!

 私が企画編集してここ数年取り組んでいた、Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond が、無事にハワイ大学出版より発売となりました!

この本は、広義の「アメリカ研究」に従事する12人の日本出身の研究者たちが、どのような場や形で「アメリカ」と出会い、どのような経緯でその研究にキャリアを捧げることになったのか、自らにとって「アメリカ」とはなにか、といったことを語るパーソナルなエッセイを集めたものです。それぞれユニークで感動的な物語なのですが、それと同時に、そうしたきわめてパーソナルなものに思われる個人史が、帝国、植民・移民、戦争、占領、冷戦外交、貿易などによって色濃く刻印されていることも浮かび上がってきて、本全体でいろいろな角度から20・21世紀の日本とアメリカの出会いの力学や様相に光を当てるようになっています。

一口に「日本出身の研究者」と言っても、戦後占領下の沖縄で新聞配達少年として米軍基地を回った人、北海道のアメリカ人メノナイト宣教師のコミュニティで育った人、日本の家庭でありながら両親の教育方針で家では英語とスペイン語を話して育った人、戦争の歴史に巻き込まれて家族と離れ日本で人生を送ることになったアメリカ生まれの祖母からアメリカに移民して行った曽祖父母の話を聞いて育った人、父親が単身赴任で家を留守にしがちだったサラリーマン家庭で育った人、幼い頃に親の駐在でアメリカに渡り現地学校の教育を受けた人など、その背景や生い立ちは実にさまざまです。そしてまた、そうした人たちが出会った「アメリカ」も、時代、場所、状況などにおいて実に多様です。当たり前のことですが、「日本人アメリカ研究者」が共通の出発点からひとつの「アメリカ」に行った訳ではまったくないのです。そしてこの12人の現在も、どんな場所でどんな人たちに囲まれて暮らし、どんな学生を相手にどんな授業をし、何語でどんな著述をしてきたかなど、実にさまざまです。

私がこの本を企画するに至った背景には、もとはと言えばだいぶ前にこのブログでも書いた、松田武先生の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』への共感と疑問がありました。奨学金や学術交流、研究助成といった形の文化外交、その根底にある各国政府の思惑が、知のありかたに影響を及ぼすということには異論がないけれども、実際にそうした中で「アメリカ」に出会い、経験し、研究する人たちの道程を、もっと近い距離から見てみることも大事なのではないか。松田先生の本を読んでからずっとそう思っていたのですが、その問いに応えるひとつの手段としてのこの企画を、研究仲間とおしゃべりをしている時にふと思いついたのでした。

個人の物語と世界の力学がどのように交差して、その中で「知」がどのように作られるのか、「日本」にとっての「アメリカ」とは何を意味しているのか、そして研究者の役割とは何か。そうした大きなテーマが、きわめて具体的で個別的なストーリーを通じて語られています。アメリカ研究や日米関係史に携わる研究者にはもちろんですが、一般の読者にも興味を持って読んでいただける内容だと思います。是非どうぞ!



2021年10月4日月曜日

国際交流基金事業をめぐって

 つい数日前に、国際交流基金が主催するオンライン展覧会で予定されていた、在日精神病患者についての映像作品の発表が、基金の判断によって中止されたというニュースを読んだばかりでした。この記事によると、中止の理由としてあげられているのは、①暴力的な発言や歴史認識を巡って非生産的な議論を招きかねない場面が含まれるものだった、②全編を通して視聴すれば必ずしも懸念はあたらないのかもしれないが言葉は独り歩きしてしまう可能性がある、③主催者としては、作品に関してどこをどう修正すべきかといった指示はできないと考えている、④展覧会の開催日時も迫っており今後改めて協議を重ねる時間もない、という4点です。

①に関しては、議論が生産的か否かは誰がどう判断するのか?議論を「招きかねない」との曖昧な推測に基づいて作品の発表を中止することで、生産的な議論をもあらかじめ封じ込めてどうするのか?国際関係にかかわる難しい問題にもさまざまな視点を提供して議論を促進することこそが国際交流の根幹ではないのか?といった問いが次々と頭に浮かびます。

②に関しては、映像であれ文章であれ、その一部が文脈から切り離されて作者や主催者の意図せぬ方法で使われてしまう可能性はいつでもある。しかし、それを懸念して表現行為そのものをやめてしまったら言論や芸術は成り立たないし、そうした活動への後援も不可能になります。とくにアジア諸国を対象にする国際交流は出来なくなるでしょう。

③については当たり前のことで、わざわざ主張するようなことではないでしょう。

④は、主催者はどうしても必要ならば開催日程を変更できるはずで、これは口実にしか思えません。

ちょうど私は、まさに同じような状況に面していたのですが、この記事を読んで、どうやら私が経験したことが突発的な出来事ではなく、国際交流基金のさまざまな事業においてこうした事態が起こっているらしいことを知ることとなりました。日本社会が危険な方向に向かっているのを感じるので、以下長文になりますが、経緯を記しておきます。

数ヶ月前に、国際交流基金のスタッフから、相談を受けました。日本の若者にアメリカ社会や文化について興味を持ってもらうための企画として、一連の短い動画を制作し、ネットで配信することを考えており、数人のアメリカ研究者に相談をしているとのことでした。私と、私が昔から親しく一緒に仕事をしている矢口祐人さんは、そのお話を伺ったときに、正直言って、ビジョンが具体性や新鮮味に欠けていると感じ、また、アメリカのいろいろな側面を解説するような動画はすでに各種メディアにたくさんある中で、似たような企画を国際交流基金がやることの意義を感じられませんでした。そこで、わざわざ国際交流基金がアメリカ研究者を動員して企画するものであれば、学問的に知見に基づいた教育性の高い、かつ、通常の講義とは趣向の違う面白い内容にするのがよいのではと意見を述べました。私と矢口さんが次から次へとあれこれとアイデアを出すのに、担当スタッフのかたたちは最初は面食らっていたようですが、常に真摯に耳を傾け真剣に検討してくださり、結局、私と矢口さんがプロデューサーのような形で全体の企画を作り、スタッフのかたたちと一緒に進めることなりました。

そこでまとまっていた企画とは、「インターセクショナリティ」という概念を軸にして、全5本の動画それぞれで、日本のアメリカ研究者が「アメリカで出会った人」ひとりについて、私または矢口さんとの対話形式でお話していただき、その後でその話と「インターセクショナリティ」のつながりを私と矢口さんが数分間で解説する、というものでした。私たちが選りすぐったスピーカーの5人は、生い立ちや教育の背景も現在の在住地や専門も多様で、トピックとして選んでくださった人物とそのかたにまつわるお話も、活き活きとしてかついろいろな考察を促す、たいへん興味深いものでした。

スタッフのかたたちは、この企画に共感し、大いなる熱意をもって実現への準備を進めてくださっていました。そして、次の段階に進むのに必要な国際交流基金内での決済手続きを待っている時に、この企画について上層部から意見が出ており、一部修正を求められているとの連絡がありました。

その上層部からの要求のまず1点目は、「アメリカについて理解を促進するための5本の動画で、ひとりもアメリカ人が出演しないのはおかしい」というもので、1人か2人でも、スピーカーまたはコメンテーターとしてアメリカ人を入れられないか、というものでした。

アメリカのことを「アメリカ人」に語ってもらうこと自体は、きわめて単純ではありますが、理解できない発想ではありません。しかし、私たちが考えた企画は、日本で育った研究者たちが出会った鉤括弧付きの「アメリカ」や「アメリカ人」の話を通じて「インターセクショナリティ」を考えるというものであって、そこに国籍がアメリカだということだけで無理矢理「アメリカ人」をスピーカーやコメンテーターとして登場させれば、企画の整合性を損なうことになります。「アメリカ人」ってなんのこと?という基本的な問いもありますし、「アメリカ人」であればアメリカのことについて語れるのか、それならアメリカ研究者である私たちの立場はなんなのか、ということにもなります。という訳で、この提案は却下するとお伝えしました。

2点目は、「国際交流基金は税金で運営されている国の機関である以上、政治性がある内容の発信は認められない。作成した動画について、そうした観点において問題点があった場合には、国際交流基金の判断で編集を行うという条件に同意できるか」というものでした。

これは1点目よりずっと大きく深刻な問題です。もちろん、特定の政党や政治家を推奨したり批判したりするような内容を扱うつもりは初めからありませんでしたが、そもそも私たちの携わっている学問は、社会におけるさまざまな力学とそこにある権力構造を問うもので、「インターセクショナリティ」とはその様相を理解するための概念です。そして、私たちの考えた企画は、具体的な人たちが、アメリカの具体的な場所や状況で出会った具体的な人物との交差を語ることで、社会や文化にあるさまざまな軸を考察するものです。そこにはもちろん「政治性」があり、それを考えるのがこの企画の本質であって、政治性を取り去っては、単なる「面白い話」にしかなりません。かくかくしかじかの内容は動画に含めることはできない、といったような具体的な提案や指示があるのであれば検討可能かもしれませんが、動画内容についての具体的な打ち合わせもしないうちから、ただ十把一絡げに「政治性のあるものは駄目」と言われるのは、発言に制約を課されるのと同じです。また、編集やカットを要求された場合には、スピーカーや私たちがそれに対して意見が述べられるのかどうか、意見が合わなかった場合にはどうなるのかと尋ねてみましたが、満足のいく答はいただけませんでした。

私たちは、国際交流基金が税金で運営されている公的機関であるからこそ、そして文化や学術を通じての国際交流を使命とする団体であるからこそ、検閲に当たるようなこのような行為は絶対にするべきではない、してはいけないと考えます。こうした問い合わせが私たちに対してなされること自体が、とても恐ろしい状況だと感じます。国際交流基金が普段の事業でかかわっている研究者や芸術家は、社会の中でもとくに、言論や思想や表現における自律性と独立性を自らの仕事の根幹に置いている人たちである筈です。そうした人たちの活動を支援し、難しい話題についてもさまざまな視点からの議論を促進することこそが国際交流だと思っています。ゆえに、ここで提示された要求については絶対に応じられないと、はっきりとお伝えしました。

担当のスタッフのかたたち及び事務局長のかたは、私たちの考えをよく理解してくださりましたし、もともと私たちと同じ意見ではあったのですが、上層部からの指示でこのようなことを私たちに伝えなければならなくなって、非常に心苦しく思っているとのことでした。ここ数年間、このような状況が組織内で強まってきているそうです。また、国際交流基金の中でも、上層部も含め他のかたたちはみなさんこの企画には賛同してくださっていて、上のような要求をしているのは一人だけとのことでした。それでも組織の性質上、その一人が了解しなければことは進められません。私たちの考えを聞いた上で、事務局長のかたが再度その一人を説得しようと協議をしてくださいましたが、結局は了解を得られなかったとの報告をいただきました。

このような経緯で、国際交流基金でのこの企画はなくなりました。

ここまで数ヶ月にわたってスタッフのかたたちが熱心に進めて下さっていた企画なので、そのみなさんがさぞかし落胆なさっているだろうと思うと心が痛みます。また、国際交流という使命に真剣な思いを抱いて基金に勤めていらっしゃるかたたちが、このような状況で仕事をしなければいけないことを、とても気の毒に思います。

それと同時に、私のように、ある程度安定した職業的地位にあり、学術や言論に携わる人間、そして日本の外にいるがために一定の距離に守られた人間こそが、こうした状況で言うべきことを言わなければいけないという思いをさらに強くしました。いったい誰が誰・何に忖度してこのような社会状況を作っているのだろうか、その構造をきちんと捉えて問い糺していかなければ、日本社会はとんでもないことになるのではないかと思っています。 国際交流基金の事業としてはボツになりましたが、企画自体はとても面白く意義深いと自画自賛中なので、別の形でぜひ実現したいと思っています。実現したらまたこちらでもお知らせいたします。