2011年12月23日金曜日

Pico Iyerの描くフクシマ

先日Christopher Hitchensについての投稿で、彼が雑誌Vanity Fairのライターであったことに言及しましたが、スーパーのレジに並んでいるときにこの雑誌の今月号が棚にあって手に取ると、Pico Iyerが福島原発について書いた記事があったので買いました。


Pico Iyerは、イギリス生まれのインド系で、アメリカとイギリスを行ったり来たりしながら育ち、オックスフォードとハーヴァードで教育を受け、その後ジャーナリスト、エッセイスト、評論家として世界各地をまわり、長年日本に住んでいる、グローバル化時代を象徴するような人物。私は一昨年、桜美林大学でアメリカ人の日本についての紀行文を扱う留学生向けの授業を教えたときに、彼のThe Lady and the Monk: Four Seasons in Kyotoをリーディングのひとつにしました。この本を含め、私は彼の書くものには、なんともアンビヴァレントな思いがあります。イギリス、アメリカ、インドという文化をそれぞれ自らの一部として育ちながら、どの場所にも百パーセントは属していないという感覚をもち続け、北朝鮮からイースター島まで世界各地をまわって旺盛な好奇心と鋭い観察眼で文化や人々をとらえる、彼の姿勢には共感をおぼえますし、また、異文化間の融合や葛藤についての彼の描写は、型にはまった理論にしばられず、現実味があって、面白いものが多いと思います。そのいっぽうで、なんともオリエンタリスト的とかエキゾチック趣味としかいいようのない記述もここかしこにあって、読んでいてイライラすることも。この福島原発についての記事も、まさにその一例。


この記事は、血液学・腫瘍学を専門とするアメリカ人医師で、チェルノブイリ事故およびそれ以後のあらゆる原発事故においての現地で調査や治療にあたってきたRobert Gale氏についてまわりながら、福島第一原発で作業にあたる従業員たちの姿を描いたもの。Gale氏は、福島原発事故がもたらす放射能についての報道や政府の反応は危険を過大視しているものが多いという立場をとり、居酒屋などで原発の従業員たちの質問に答えたり相談に乗ったりしながら正確な情報を提供しようとしている人物。放射能の危険性については、専門家のあいだでも評価がわかれ、Gale氏の立場に反論するものも少なくなく、また、これまでの彼の研究や治療方法についての批判もある、ということをきちんと説明してGale氏の位置づけを明確にしている点では、よい記事だと思います。そしてまた、危険を承知の上であえて原発での作業に足を運ぶ男性たちの姿の描きかたも人間的で、James Nachtweyによる写真もなかなかよい。


でもそのいっぽうで、話の行き着くところは、自分の命や健康に不安を抱きながらも作業をする従業員たちの、自己犠牲や義務感の背景にある、日本的な文化や精神。もちろん、そうした文化や精神は、従業員たちの動機の一部であることは間違いないでしょう。今の状況で原発で作業をしている人たちにはもちろん深い敬意と感謝の念を抱きますし、私は震災後の数ヶ月を日本で過ごしたので、福島に限らず、未曾有の事態において日本の人々が示した助け合いや我慢の精神を目の当たりにし、ほんとうに感動もしました。震災直後から、外国のメディアはそうした日本の人々のありかたを好意的に報じてきて、この記事もそのひとつとして捉えることができます。でも、そうした報道によくあるように、そうした人々のありかたを、神道だの儒教だのサムライ精神だので説明されると、「うーん。。。」という気持ちにならずにはいられません。文化の一部である以上、そうした要素がないとは言えないけれども、そうした歴史的具体性に欠けた精神論よりも、人々をこうした仕事に向かわせる社会経済状況や、原発の産業構造を、もうちょっと深く論じてもらいたかった。もちろん、政府や東電の構造の批判に焦点を当てた報道もたくさんあるのですが、そうした報道からは、生身の人間の姿が見えてこないことが多い。構造的な分析と人間的な描写の両方をバランスよく扱った報道がもっとほしいところです。

2011年12月16日金曜日

Christopher Hitchens逝去

以前にもこのブログでちらりと言及したことのあるジャーナリスト・評論家のChristopher Hitchens氏が昨日亡くなりました。昨年、回想録のHitch 22の宣伝ツアー中に食道がんと診断され、以後がんとの闘いについても、そして他のあらゆる時事問題についても、雑誌やテレビで精力的に論じ続け、最期まで目をみはるような勢いで生きた人物でした。享年62歳。


イギリスで生まれ、育った家庭は決して裕福ではなかったにもかかわらず、息子に教育を与えるという母親の強い意志によって私立校からオックスフォードのBalliol Collegeに進学し、ベトナム戦争反対運動などにかかわるようになって急速に左翼政治に傾倒。卒業後ジャーナリストとしてさまざまな新聞や雑誌に記事や評論を書きながら、イギリスの文壇のMartin AmisやJulian Barnes、Ian McEwanなどと親交を深め、パーティで派手に遊ぶことが好きなことでも知られるようになります。1981年にアメリカに渡りアメリカ国籍を取得し、The NationNew York Review of BooksVanity Fairそしてオンライン雑誌のSlateなどといったメディアで、ありとあらゆる話題をカバー。アメリカの対中米政策、トルコ=キプロス関係、北アイルランド紛争、ダルフール紛争などの現地取材による長文記事から、ユーモアに溢れた軽いエッセイ、そしてマザーテレサを痛烈に批判して物議をかもしたThe Missionary Positionや宗教を正面から捉え無神論を展開したGod Is Not Greatなどの著書多数。イスラム過激派批判の立場から、アメリカの対イラク戦争を支持したことでも話題を呼びました。


とにかく、それぞれの文章の鋭さと深さ、そして超人的としか言いようがない執筆スピードには、まったくもって圧倒されます。タバコや酒をこよなく愛し、昼間から酒を飲みながら仕事をすることでも有名でしたが、「自分にとって一番大事なのは書くことだ。書くことの足しになること—そして、議論や会話を盛り上げたり長引かせたり深めたりするのに足しになること—だったら(酒でもなんでも)自分にとっては意味のあること」と公言し、がんと診断された後もライフスタイルを変えなかったとのこと。Hitch 22には、自分の死について、「僕は死を受動的に受け入れるのではなくて、能動的に『やりたい』と思っている。死が自分にやってきたときに、その目を正面からじっと見て、その瞬間になにかをしていたいと思っている」と書いています。友人に囲まれた最期だったそうですが、この言葉、スティーヴ・ジョブズの妹モナ・シンプソンの追悼文に描かれたジョブズ氏の最期に通じるものがあります。合掌。

2011年12月11日日曜日

『小澤征爾さんと、音楽について話をする』

やっと今学期の授業が終わると思いきや、終わる前から緊張が解けすぎたのか、ここ一週間余は風邪でダウンしてしまいました。とにかく安静にしていろという医者の指示により、週末は家でじっとして、新潮社のかたに送っていただいた(ありがとうございました!)、村上春樹氏の『小澤征爾さんと、音楽について話をする』を読むことに。三日間くらいかけてじっくり読もうと思っていたのですが、論じられている曲の録音を聴きながら(といっても、私は同じ録音など持っていないので、同じ曲というだけで指揮者も共演者も違うものばかりですが)読んでも、一日強で読み終えてしまいました。


読み応えがないという意味ではありません。読み応えはおおいにあり、またじっくり読み返したいという箇所もたくさん。論じられている録音も手に入れて聴き比べてみたいとも思わせてくれます。なにしろ感心するのは、村上春樹氏のクラシック音楽の造詣の深さ。音楽が好きだということは知っていましたが、ここまでとは。このインタビューをするために小澤征爾氏のこれまでの録音を一通り聴き返したのは当然としても、小澤氏以外にもありとあらゆる指揮者とソリストの演奏の録音をコレクションに持ち、持っているだけでなくとことんと聴き込んでいる。楽譜がほとんど読めず(といっても、私の想像では、ほんとうに楽譜が読めないという意味ではなく、普通に楽譜は読めるけれども、交響曲のスコアなどを見ても音楽の構成を理解するようなスキルがない、ということだと思います)、自分で楽器を演奏もしないという村上氏が、ここまでのクラシック音楽の知識を持っているのには、ひたすら驚愕。いわゆるクラオタにありがちな、細かい豆知識を披露して嬉しがるという訳でもなく、自分は素人であるということをきちんと自覚し、聴いた演奏についての感想は、深く賢くありながら、新鮮なまでに素直。音楽と文学と、分野はまるで違いながらも、それぞれが世界を舞台に自分の求めるものを創造することに文字通り命をかけているふたりの会話だからこそ、そして村上氏がこれだけ音楽を深く愛している素人だからこそ、こういう本が出来上がったのだろうと納得。対話のなかで、村上氏の意外な質問に小澤氏が深く考え込む、という箇所がいくつかありますが、そういうところこそが興味深い。指揮者の仕事とはどういうものかとか、世界のオーケストラの特徴とか、指揮者とソリストの関係とか、ベートーベンやブラームスやマーラーの交響曲についての小澤氏の見解とか、こういう対話形式だからこそ出てくる話が満載。私にとっては、小澤氏が主宰するスイス国際音楽アカデミーでの若手音楽家たちの室内楽のトレーニングの部分が一番面白い。私は、音楽家のリハーサルやマスタークラスを見学するのが大好きで、ある意味では本番の演奏や完成された録音を聴くよりも、そのような創造の過程を見るほうが興味深いくらいですが、そうした意味では、合宿が始まったときには荒っぽい演奏をする音楽家たちが、ほんの一週間のあいだにみるみると成熟して人の心を打つ演奏をするに至るという過程を、村上氏が観察する最終章が一番面白かったです。クラシック音楽が好きな人にはもちろんですが、よきものを創造することを追求する、という視点から読めば、音楽の知識がない読者にも興味深い一冊だと思います。

2011年12月1日木曜日

同性愛者を親にもつ青年、州議会で証言

MoveOn.orgのメーリングリストやフェースブック上でたいへんな注目を集めているのが、アイオワ大学で工学を勉強している19歳の青年、Zach Wahls。州の最高裁の判決を受けて2009年に同性婚を合法化したアイオワ州で、今年2月に同性婚を再び違法化するための州憲法修正案が議会で議論されていたのですが、その最中に下院の公聴会で彼がした証言です。同性愛者が結婚しても子供を育てられないという人たちへの反論として、ふたりのレズビアンに育てられた彼が、自分の家族は他の家族ととくに変わることはない、喜怒哀楽をともにしたり家族の病気に直面したりときには喧嘩をしたりしながら、互いへの愛情で結ばれた家族なのだ、ということを堂々と語っているのですが、ほとんどメモも見ずに議員を前にとうとうと弁舌するその様子、とても19歳とは思えない。

彼の雄弁で感動的な証言の力もあって、結局この修正案は否決され、アイオワは現在でもアメリカで同性婚が合法化されている6州のひとつとなっています。2月の証言が、今になって突然再び注目を浴びているのは、YouTubeで公開されているビデオがメールやウェブサイトやSNSで次々に飛び火したからですが、ここ24時間以内にフェースブック上でこのビデオをシェアしたり「いいね!」ボタンを押したりコメントしたりした人は、なんと60万人以上というのだからすごい。もとのYouTubeビデオにも現時点で510万回以上も視聴されています。ほんの3分間の証言ですが、多くのことを考えさせられますので、是非見てみてください。