2011年4月19日火曜日

鴻上尚史『アンダー・ザ・ロウズ』

昨日は、座・高円寺で鴻上尚史作・演出の『アンダー・ザ・ロウズ』を観てきました。(ちなみに、鴻上尚史さんは『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んでくださったらしく、とあるイベントでその話をしていたと、ある人が教えてくださいました。だからこの舞台を観に行ったというわけではありませんが。)予想を大きく上回るむちゃくちゃな面白さで、たいへん幸せな気持ちになって帰ってきました。いじめをテーマとするこの舞台を観て幸せな気持ちになるというのもおかしいかも知れません。でも、生の役者さんたちと観客が空間と時間を共有する舞台というもののパワーを存分に味わわせてくれ、いろんなことを考えさせられ、またおおいに笑わせてくれるという意味では、たいへんな幸せをもたらしてくれる作品だと思いました。

物語は、中学生のときにいじめを受けた青年榊(アメリカから帰ってきて、皆が一斉に同じことをすることを強いられるのに異を唱えたがためにいじめを受ける、という設定に、中学生のときにアメリカから帰ってきて、よりにもよってアメリカの公立学校の対極にあるような学校に編入しておおいに戸惑った私としては、ひとごととは思えませんでした:))と、その同級生一ノ瀬(ちなみに、私は中2でアメリカから帰ってきてその変てこりんな学校に編入したとき以来の大親友と一緒に私はこの演劇を観に行きました)のふたりが、倍ほど年齢を重ねた社会人となったときの状況が、パラレルワールドというSF的な設定のなかで展開されます。「実際の」世界では、一ノ瀬はいじめを受けている榊を助けることができず、その罪悪感を背負ったまま普通のサラリーマンになっている。物語の中心となる「もうひとつの」世界では、一ノ瀬は榊を助け、そのために自分がいじめの対象となり引きこもりとなった後、自分をいじめた3人を殴り実刑を受けるが、その後、自分をいじめた加害者に復讐をしようと決意する人々の後押しをする空震同盟という集団のリーダーとなって、榊とともにいわゆるアンダーグラウンドな活動を展開している。しかし、あるとき一ノ瀬が姿を消し、空震同盟は危機を迎える。そこに、「実際の」世界の一ノ瀬がやってくる。(一ノ瀬を演じる古河耕史さん、カッコいい!)という、ひとつの空間で線的な時間が展開される演劇という形態でホントにこの物語ができるのかいな、と思ってしまうような突拍子もない設定。おまけに、芥川記念賞を受賞したものの自分が納得のできる次作が書けずに悩む、世間的にはキャピキャピの若い女性作家や、いろいろやってはみたものの自分がなにをすべき人間なのかわからず悩む青森出身の青年、そうした悩める人たちを手玉にとって儲けようとするインチキ宗教の教祖などが、いじめというテーマやSF的設定とはあまりにも相容れないモードのドタバタコメディでのっけから迫ってくる。ので、初めのうちは、「とてもじゃないがついていけないかも」と思ってしまうのだけれど、あっという間に先方の思うつぼにしゅるしゅるすっぽんとはまってしまい、物語の世界に吸い込まれるのであります。

いじめを受けた者が、その加害者に復讐をすることで自分を取り戻し生き直しを図る、というその設定が中心になっていながら、作品は決していじめという問題についてわかりやすい答を出してはいません。そもそも、「もうひとつの世界」のなかで、復讐をしたことによって実際に生き直しに成功している人物はいない(空震同盟のリーダーとなった一ノ瀬も、姿を消している)し、復讐を決意する登場人物たちに対し、観客はある程度までは共感するようになってはいるけれども、バットで相手を殴ったり、ネットで簡単に流れを変えてしまう世間の空気を操作しようとしたりという彼らの手段には、疑問を抱かないわけにはいかないようにもなっている。復讐という行為は、被害者を加害者にすることで、あらたな被害者を生むということも示している。また、空震同盟のメンバーたちは、加害者に復讐して生き直すということが自分のアイデンティティの核となってしまっていることによって、加害者だけでなく他の人間についての理解や想像力が働かなくなってしまうことも示唆している。そしてなんといっても、こうした問題を考え始めた途端に、変てこりんな登場人物たちが舞台に出てきては馬鹿馬鹿しいドタバタ劇を展開する、ということが繰り返されるので、こちらも落ち着いてじっくり考えていられない。でも、それこそがこの作品の意図するところなのだと思います。実際、あのドタバタがなくても、物語はじゅうぶん成立するし、いやむしろ、そのほうがずっとすっきりとしてまとまりのある、一貫性のあるメッセージをもった作品となるはず。でも、いじめがなぜ起こるのか、いじめを目撃した人間はなぜそれを止められないのか、いじめを受けた人間がトラウマから回復し自分や他人を愛しながら生きるためにはなにが必要なのか、といった問題に、2時間弱の舞台を観ながら簡単に答を出して満足して帰ってもらっては困る。「そうか、こういうことが言いたいのか」と思い始めた瞬間、訳のわからないスーパーヒーローたちに無理矢理頭も心も引っ張られ、「いかん、こんな馬鹿馬鹿しい笑いにまどわされている場合ではない」と思いながらまた「現実」の世界に戻ってくる。そして、劇場を去ってからずっと、舞台で観たことを反芻し続け、いろんなことを考え続ける。そういう作品です。

作品では、地下鉄サリン事件や阪神淡路大地震を機に、日本では異なるものへの排除意識が強まり、また、ネット社会によって世間の空気がいとも簡単に動いてしまうようになった、ということへの批判が出てきますが、これらの批判も、それが登場人物や物語の展開を通じてなされることによって、聴衆は、80%くらいは共感しながらも、残りの20%くらいは「ほんとにそうかな?」と思うようにもなっている(と私は思います)。私は、1990年代と2000年代の20年間をほぼまるごと日本の外で過ごしたので、サリン事件や阪神淡路大地震が日本の社会の空気にどれだけインパクトを与えたのかは、実感としてわかりません。また、こうしてブログを書いたり中毒者のようにフェースブックに浸ったりしながらも、私とネットとの関係は多くの日本の人たちとはだいぶ違うような気もするので、日本語ベースのネット社会においては私は異邦人のような気持ちがしています。なので、この作品で投げかけられている疑問について、私は自分の答をもっていません。でも、今の日本で、こういう演劇が上演され、人々がそれに触れていろんなことを考えたり議論したりすることは、とても大事なことだと思います。

今週末まであと数公演、まだチケットは残っているようなので、お時間のあるかたは是非どうぞ。絶対に観て損したとは思わないはず。

2011年4月18日月曜日

プロパブリカ、ピュリツァー賞受賞

2011年度のピュリツァー賞が発表になりました。フィクションや詩の部門もあるけれど、ピュリツァー賞が主に対象とするのはジャーナリズム。ジャーナリズムも、公共サービス、特ダネ報道、調査報道、解説報道、地域報道、全国報道、国際報道、批評、漫画、報道写真などいくつもの部門に分かれているのですが、今回の特徴としては、一握りのいわゆる「エリート」媒体が多くの賞をさらっていくのではなく、全米のいろいろな媒体やそのスタッフが受賞していること。たとえば、調査報道の賞を受賞したのは、フロリダのThe Sarasota Herald-Tribune、解説報道はウィスコンシンのThe Milwaukee Journal Sentinel、地域報道はイリノイのThe Chicago Sun-Times、特集記事はニュージャージーのThe Newark Star-Ledgerの記者たち。ニューヨーク・タイムズなどの大手を含め、どこも新聞がたいへんな経営難に陥っているなかで、各地でジャーナリストたちがこうして骨太の報道を続けるべく努力していること、そしてまた、ピュリツァー賞が彼らの仕事にきちんと目を向けていることに、希望を感じます。

また、今回の注目ポイントは、紙の媒体に掲載されなかった報道に賞が与えられたこと。以前にこのブログで、プロパブリカのことを紹介しましたが、そのプロパブリカが、世界に大不況を巻き起こしたウオール・ストリートの構造を多角的に報道した一連の記事で、国内報道の賞を受賞しました。プロパブリカは、非営利組織という形態をとり、公共性の高いトピックを厳選し、フルタイムの記者が長期間にわたって調査報道をし、緻密に編集された記事をネット上で公開して新聞や雑誌などの媒体に無料で提供する、という画期的な組織。多くの印刷媒体がデジタル化への道を辿るなかで、情報や分析の信頼度だけでなく、論理展開や文章の精度など、本当の意味での「編集」能力によって、報道媒体はふるいにかけられるようになってくると思いますが、プロパブリカの仕事をみると、オンラインであれ紙であれ、真に優れた報道というものは、莫大な能力と労力が注がれたものであるということがわかります。

なお、アメリカ研究者として今回のピュリツァー賞についてさらに興味深いのは、南北戦争期の専門家として名高いコロンビア大学教授Eric Foner氏の、"The Fiery Trial: Abraham Lincoln and American Slavery"が歴史書部門で受賞したこと。(日本のアマゾンではペーパーバックが今秋発売になるようです。)私が日本滞在中はいつもPodcastで聴いているナショナル・パブリック・ラジオの番組Fresh Airで、著者のインタビューがあり、とても興味深かったので、私も読もうと思います。

2011年4月16日土曜日

ネコ好きにも映画好きにも、そしてネコも映画もとくに好きじゃないけど知的好奇心は旺盛な人にも 宮尾大輔『映画はネコである』

昨日届いて、封を開けてから楽しくて一気に読んでしまったのが、『映画はネコである はじめてのシネマ・スタディーズ 』。私の大学の後輩でずっと仲良くしている宮尾大輔くんによる、できたてほやほやの新著です。友達の著作だから言うわけではなく、ほんとにこの本は素晴らしい!

さまざまな形でネコが登場する映画8本を中心にして、シネマ・スタディーズとはどんな学問かを楽しく明快に解説してくれる本なのですが、まずはネコという着眼点が面白く、それだけでネコ好きな読者にはたまらない。(ちなみに私は、自分は特別にネコが好きだというわけでもないのですが、不思議とネコには好かれることが多い。人の家に行くと、「うちのネコは愛想が悪くて、人が来ても全然寄り付かない」と家主が言っているそばから、そのネコが私のところにやってきてはさっさと膝の上に乗って落ち着いていたりする。この本の著者の宮尾くんがブルックリンに住んでいたとき、数日間泊めてもらったことがあるのですが、これまた人見知り激しく人が来てもどこかに隠れて姿を現さないという今は亡きヂカも、私が泊まった初日の夜から、私の枕元で一緒に寝ていました。人間の男性も、同じようになついてくれたらいいのにと思うことしきり。)そんなこと今まで考えてみたこともなかったけれど、そう言われてみると、なんらかの形でネコが重要な役割を果たしている映画はけっこう多く、その役割を詳しく見てみると、ネコやそれぞれの映画のことだけでなく、映画というものの技術的・芸術的・心理的・歴史的・社会的な構造がいろいろとわかってくるのがなんとも面白い。

ネコ映画を通じて、フレーミング、ライティング、エディティングといった映画の基本的な技術を解説してくれるその文章は、わかりやすく親しみやすく、そこで語られている映画を観たことがない読者にもとても興味深く読める(全8章で取り上げられている映画のうち、私が観たことがあるのは、最初の『ティファニーで朝食を』と最後の『ミリキタニの猫』だけ)。楽しいながらも情報量が多くて、これを読むだけで映画についての理解度がずいぶん深まり、これから映画を観るときは、単に物語の筋の面白さだけでなく、技術的なことにも目がいくのは確実。(ちなみに私は、宮尾くんがこの本を執筆中、『ティファニーで朝食を』の章の草稿を読ませてもらったのですが、あまりにも面白かったので、20年ぶりに『ティファニーで朝食を』を再び観て、「180度ライン」のシーンは何度も巻き戻して確認してしまいました。)とりあげる映画のセレクションも素晴らしい。とくに映画通ではない読者でも観たことがあるであろうハリウッドの古典『ティファニーで朝食を』から始まって、ヨーロッパや日本、韓国の映画、そして2001年9月11日のテロ事件を見つめる日系人画家を扱ったドキュメンタリーまでと、時代や文化やジャンルも多様だし、それぞれの章で展開される、作家主義、ジャンル論、映画史などの解説も、素人にわかりやすく平易でありながら、かつ、しっかりとした専門的知識に根ざしていて読み応えがあります。

最終章でとりあげられている『ミリキタニの猫』は私はニューヨークに住んでいたときに劇場で観て、身体が揺さぶられるような体験をしたのを覚えています。この章では、この映画が捉える日系人画家ジミー・ミリキタニと、宮尾くん自身が研究対象として長年追ってきた映画スター早川雪洲と、早川そして戦時中強制収容所に送り込まれた日系アメリカ人の姿をとらえた写真家宮武東洋と、そしてアメリカで日本人として映画研究を続ける自分の姿を、文章上の「クロスカッティング」で重ね合わせながら、歴史を見つめるネコ、そしてネコを大事に飼っているのだか、ネコにいいように使われているのだかわからない人間たちのありかたを捉えている。まさに、視点と枠の設定(フレーミング)、光と焦点の当て方(ライティング)、語りの構築(エディティング)といった映画の技術を使った見事で感動的な文章です。

なんといっても、著者のネコへの愛情、そして映画への愛情が、とてもよく伝わってくる。この本で扱われている映画も、その他のたくさんの映画も観たくなるし、ネコを見かけたら思わずじーっと観察してしまいたくなります。是非どうぞ!

2011年4月14日木曜日

ラ・フォル・ジュルネ開催中止

今の時点ではまだウェブサイトには掲載されていませんが、ゴールデンウィークのラ・フォル・ジュルネが震災の影響で開催中止されることになったとの知らせが、ラ・フォル・ジュルネの「フレンズ」登録者へのメールで届きました。私は震災前にラ・フォル・ジュルネの運営事務局のかたたちにお会いし、独特のビジョンを持ってこのイベントを企画・運営されている様子にとても好感をもっていました。今回のラ・フォル・ジュルネは様々な角度から取材・見学させていただく予定でもあったので、キャンセルとなったことはとても残念です。でも、私はともかく、運営事務局のかたたちの気持ちを考えると本当に胸が痛みます。2005年に始まったときにはきわめて実験的な試みだったこのラ・フォル・ジュルネを、数年間のうちに東京のゴールデンウィークの風物詩のような認知度をもつ巨大なイベントに育て上げ、今回の企画にもすべてのエネルギーを注いできたかたたち。(ちなみに、「タイタンたち」という今回のテーマは、ひとりの作曲家に焦点を絞った前年までの企画よりもコンセプトがさらに興味深かったと思います。)震災後も、演奏家や各方面の関係者たちの理解と協力のもとに、予定通りの開催を決断した姿勢は、実に立派だと思っていました。でも、会場の一部に電源系統の不具合が見つかったこと、また、原発事故の国際原子力事象評価尺度がレベル7に引き上げられた結果、出演をキャンセルする海外アーティストが相次ぎ、実施が困難となってしまったそうです。

地震・津波で命を落とされたかたたちはもちろん、被災地で家族や家や生活の糧を失ってしまったかたたちとは比べものにならないものの、自分がこれまで何年もかけて築いてきたものを、こうした不可抗力で失ってしまうという意味では、会社や工場を流されてしまったり農業を営めなくなってしまった人たちと同様、こうした企画に携わってきた人たちも被災者の一部。もちろん、ラ・フォル・ジュルネに限らず、このような形で、これまですべてを賭けて頑張ってきたことが震災によって水の泡になってしまったという人は、全国に数多くいるはず。だからこそ、震災が東北・福島に局地化された問題ではなく、まさに日本全体にとっての苦難として理解され、全国的な一帯感も生まれているのでしょうが、さまざまな分野の人々の精神的ダメージを考えると、言葉を失います。道路や鉄道が開通するのと同じように人々の精神的エネルギーが取り戻せるか。さまざまな意味での「復興」には、被災地に限らず多くの人々の心のケアがとても重要になってくると思います。

2011年4月10日日曜日

アメリカでもっとも人種隔離の激しい都市トップ10

私は今回千代田区の住民となってから日が浅すぎて投票権がありませんでしたが、石原慎太郎氏が都知事に再選されたことには、おおいに不満。でも、他に「ぜひこの人に!」という有力候補が存在したわけではないので、仕方ないと思うしかありません。震災によって日本の状況が大きく変わってしまったのだから、それを踏まえて選挙を延期し、各候補者にはエネルギー政策や経済復興のビジョンをもっと練って深い議論をした上での投票にしてほしかった。でも、今さら文句を言っても仕方ないので、今後市民が積極的に政治や行政に対して働きかけていくようになることを願うのみ。原発事故によって、日本の人々が、政府の発表やメディアの報道を以前よりも分析的にみるようになり、主体的にさまざまな情報の収集・評価・共有・発信をするようになってきていると思うので、それが政治参加や行政との関係においても発揮されるようになるとよいと思っています。

さて、当面は自分の生活に困らず国内の状況以外のことにも目を向けられる立場の人間が、外の世界についても目を向け続けるということも、日本の国力の一端となるはずだと思うので、あえて今の日本の状況とは関係のないアメリカの話題です。私が今日フェースブックを通じて目にしたのが、「アメリカでもっとも人種隔離の激しい都市トップ10」というリスト。南部のさまざまな形の人種隔離が非合法とされて半世紀がたち、中南米やアジア・中東からの移民が人口をさらに多様化させ、アフリカ系の血をひくオバマ氏が大統領となった現代においても、アメリカではいろいろな形で人種隔離が続いており、それはとくに居住において顕著。都市の中心部は黒人貧困層のゲットーとなり、また、ミドルクラスの黒人が郊外に移り住むようになると従来そこに住んでいた白人がさらに裕福な郊外へと逃避する、というパターンによって、多くの都市では、白人ばかりの区域と、住民の過半数が黒人やヒスパニックといった区域との分離が進んでいます。人々がどこに住むかという選択は、各地区の税収に直接結びつき、税収はその地区の公立学校の予算すなわち教育の質に結びつき(アメリカのたいていの地域では、教育委員会は郡単位で組織・運営されており、学区の予算もその地区の税収と直接結びついています)、また、治安にも結びつきます。治安や教育の質は、その区域にどんなビジネスが居を構えるか(あるいは敬遠するか)に結びつき、経済と生活の質の悪循環が続くこととなります。

というわけで、居住のパターンはきわめて大きな問題なわけですが、このトップ10リスト、なかなか興味深い。大都市ほど、全体の人口構成は人種的多様性が高いのですが、全体が多様だからといって、そのなかの人たちが相互に混じり合って暮らしているかというとそうではなく、むしろ大都市ほど隔離の傾向が強くなっている。ここに挙げられている都市のうち、製造業の衰退によって都市内部の地盤沈下が激しくなっているデトロイトやクリーヴランド、そして多様な人種構成でありながら各人種や民族がそれぞれの区域にかたまっているニューヨークやロスアンジェルスやシカゴなどは、トップ10に入るだろうとは想像しましたが、その順位はちょっと私の予想とは違っていました(私はロスアンジェルスはもっと上のほうにくるかと思っていました)。1位もちょっと意外。各グループの分布具合や詳しい説明は、スライドショーを見てみてください。

1.ミルウオーキー(ウイスコンシン州)
2.ニューヨーク(ニューヨーク州)
3.シカゴ(イリノイ州)
4.デトロイト(ミシガン州)
5.クリーヴランド(オハイオ州)
6.バッファロ(ニューヨーク州)
7.セントルイス(ミズーリ州)
8.シンシナッティ(オハイオ州)
9.フィラデルフィア(ペンシルヴァニア州)
10.ロスアンジェルス(カリフォルニア州)

2011年4月7日木曜日

アマチュア・クライバーン・コンクール出場者発表

来月のアマチュア・クライバーン・コンクールの出場者リストが公表されました。自分が見つけるよりも、またコンクール事務所から知らされるよりもいち早く、「出場者リストが発表になったよ」とメールをくれたのが、ジェリーさん。そう、2009年に私がクライバーン・コンクールを見学をしたときに隣の席に座って仲良くなったおじさんです(詳細は『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』p.217-111をご覧ください)。そしてまた、2009年に辻井伸行さんのホスト・ファミリーを務めたデイヴィッドソン夫妻からは、「是非ともうちに泊まりなさい、マリが来る前にピアノを調律しておくから、昼夜いつでも練習できるし、食べ物の好き嫌いや、なにか必要なものがあったら、なんでも言いなさい。マリのラッキーカラーはなにかも大事なポイント!」などという熱心なメールが届きました。辻井さんをホストした経験から、自分の家に泊まるピアニストはコンクールで優勝するという前提が彼らの頭にできてしまったのではないかと大いに心配(苦笑)。

さてさて、この出場者リスト、私は見ているだけで緊張してくるのであまり見ないようにしようと思っていますが、まず、前回までのアマチュア・コンクールと比べると、日本人の参加者が多いのが印象的。77人の参加者のうち10人ほどは日本人(といっても、このリストで挙げられているのは、「出生および仕事の拠点となっている国」となっていて、ひとり一国しか挙げられていないので、生まれた国と現在の居住国が違う人の場合は、そのうちひとつしか挙がっていません。私は「日本」となっています)。辻井さんのクライバーン優勝によって、日本でのクライバーン・コンクールの知名度があがり、アマチュア・コンクールにも人が集まったのかもしれません。全体では、出場者の国籍は18カ国、現在の居住国は11カ国。年齢は35歳(出場資格は35歳以上)から79歳。職業は、弁護士、医師、薬剤師、建築家、主婦、検事、宝飾業、物理学者、銀行員、音楽教師、などなど。こうしたさまざまな顔ぶれの人たちと会って、みんなの演奏を聴くだけでじゅうぶん楽しそうです。でも、私は自分の出番が予選最終日の最後近くになってしまったので、それまでずっと緊張して待っていなくてはならず、他の人たちの演奏をゆっくり楽しむ余裕はないような気がします。

では、練習に戻ります!

平常心への私の道のり

震災から明日で4週間。初めの10日間ほどは、私は被災したわけでもないのに、さまざまな感情や考えが錯綜して、鬱のような状態になっていましたが、徐々に平常心を取り戻し、いろいろな活動も再開しました。もちろん、他の誰もがそうであるように、この事態を経験することで、自分の人生や日本の社会、自分がなすべきことなどについて、これまでとはまったく違った形で考えるようになり、この経験はなにかしら自分に大きなインパクトを与えていると思いますが、そうしたことは、急いで答を出そうとせず、あえて時間をかけて考えることが大事なのではないかと思っています。この数週間、自分がどういう順番で普通の生活に戻ってきたかというと...

(1)演劇や映画、コンサートなどに足を運ぶようになった
(2)ピアノの練習を再開した
(3)友達と外出するようになったり、新しい友達を作るようになった
(4)読みかけの小説を読み終えた
(5)自分の大学院生の指導を再開した
(6)研究のためのアポを新しくとるようになった
(7)ジョギングを再開した
(8)新しい靴とハンドバッグを買った

こうしたプロセスは、人それぞれでしょうが、無意識に辿った自分の道のりをこうして振り返ってみると、自分のココロの滋養にとってなにが大事かというプライオリティが明らかになって、なんだか興味深いです。

ちなみに、地震発生時ジョギングをしていたこともあって、なんだか同じルートを走りに行くのは縁起が悪いような気持ちがしていて、運動不足になりながらも走るのをためらっていたのですが、家でじっとしているのも身体に悪いし、せっかく春の気候になってきたからと、意を結して地震3週間後の、しかも地震とほぼ同じ時間に、走りに出かけました。あちこちに咲く桜を見ただけでなんだか目頭が熱くなる思いでしたが、さらに驚いたのが、大勢のランナーたちが、「東北がんばろう、日本がんばろう」とか「前進あるのみ」とか「共に手を取りあって」などというメッセージを手書きで記したシャツを着て走っていること。これにはなかなか感動しました。アメリカでは、普段からなにかといろんなメッセージを発信しながら街(や田舎)をいく人たちが多く、支持する政治家の名前や、宗教的なメッセージ、環境保護やら飲酒運転撲滅やらパレスチナ支援やら同性愛者の権利やらをうたう、実に多様なステッカーを人々が車に貼っていて、それらを見るだけで、そのメッセージに自分が賛成するか否かは別にして、私はなんだか楽しい気持ちになるのですが、日本で一般の人が日常生活においてそうしたメッセージを不特定多数に対して発信しながら街をゆくということはめったにない。そうしたなかで、「ごく普通」のランナーたちが、こうしたメッセージを胸や背にして黙々と内堀通りを走っていく姿には、なんだか心打たれるものがあります。もちろん、そうしたメッセージが単なるかけ声に終わらず、具体的で持続的な行動に結びついていかなくては困るのですが、今の時点では、こうした小さな形で見知らぬ人々同士が気持ちを共有するのは、いいことだと思います。

今日は、東京文化会館の小ホールで開催された、工藤すみれさんのチェロリサイタルに行ってきました。これは、東京・春・音楽祭の一部だったのですが、海外の演奏家も数多く出演する予定だったこのシリーズ、やむをえずキャンセルになったイベントもあったなかで、今日のリサイタルは平日の11時開演でありながら満席。2006年からニューヨーク・フィルのメンバーとして活動している工藤すみれさんの演奏を聴くのは私は今日が初めてでしたが、潤いと深みのある演奏もさることながら、プログラミングが野心的でとても感心しました。被災者のかたたちへの思いをこめて、カザルスでおなじみの「鳥の歌」で幕を開けたリサイタルは、バッハの無伴奏チェロ組曲第1番という非常に正統的な演目で始まり、そこから、そのバッハ組曲にインスピレーションを得たという、ジョセフ・パレイラ(1975年生まれの作曲家・ティンパニストで、現在ロスアンジェルス・フィルの首席ティンパニスト)の組曲第1番。続いて、ジョージ・クラムの無伴奏チェロ・ソナタ。どちらも、古典に学びながら現代的な音楽表現を追求したもので、チェロという楽器のさまざまな側面が見れて(聴けて)たいへん面白かった。そして、リサイタル前半の最後は、マリオ・ダヴィドフスキー(1934年アルゼンチン生まれ)の「シンクロニズム」第3番。これは、ホールの各方向から発せられる電子音との共演で、チェロと電子音の音質のコンビネーションがなんとも興味深い。このように、前半ではたいへん刺激的で画期的な作品をならべたあと、後半では、ドヴォルジャークの「ロンドト短調」と「森の静けさ」とバーバーのチェロ・ソナタ ハ短調と、純粋に美しい曲ぞろい。プログラミングに、気持ちのいい野心を感じる演奏会でした。

それにしても、上野はたいへんな混雑でした。平日の昼間にあんなに人が集まっているなんて、普段でもびっくりですが、花見自粛の通達(?)にも負けず、桜を愛でにやってくるオジサンオバサン達の姿を見て、つられて元気になるやら、人混みにげんなりするやらでした。