2008年12月31日水曜日

あけましておめでとうございます

あけましておめでとうございます。と言っても、ハワイではまだ2008年が5時間近く残っているのですが、日本ではすでに2009年になってからまる一日近くたちますし、アメリカ東海岸でもついさっき年が明けました。2008年は、とにかく金融市場の暴落、失業率の上昇、不動産価格の下落などの経済状況で、アメリカでは将来への不安感が隠せない年となりました。それと同時に、オバマ氏当選にいたるまでの実に長かった大統領選は、これだけ暗い世の中でさえ、というか、これだけ暗い世の中だからこそ、アメリカ国民が政治家に希望と期待をかける様子が本当によくわかるプロセスでした。経済においても国際情勢においても(イスラエルのガザ攻撃に抗議するデモが、先日アメリカの多くの都市で行われ、オバマ氏が休暇を過ごしているハワイでも、ダウンタウンの連邦ビル前でデモがありました。私は参加できなかったのですが、参加した友達の話によると、ホリデーシーズンにもかかわらず、数多くの老若男女が集まってパワフルなデモだったそうです)すぐには改善しないであろう大きな課題が山積している状態でのオバマ大統領就任になるので、なんとも気の毒です。でも、選挙中に国民の多くが示した、「自分もなにかしなくちゃ」という熱意と行動力を、実際のオバマ政権中にも誘発するようなリーダーシップを、オバマ氏が示してくれることを私は期待しています。

アメリカの大晦日と元旦というのは、日本の静かな風情はまるでなく、外に出てパーティをして大騒ぎするときです。夜中パーティをして、夜12時になるとワーッと騒いでシャンペンで乾杯をして近くの人とキスをするわけです。ニューヨークのタイムズ・スクエアの状景をはじめとして、テレビの画面には、それはそれは幸せそうに騒いだりキスしたりしている人たちの姿がたくさんうつります。こうして社会の表がパーティをしているあいだに、貧しい人や病気の人や不幸な人はどうしているんだろうと、自分が貧しくも病気でも不幸でもなくてもこのときばかりは妙にもの悲しい気分になります。

ハワイでは例年、海辺であがる大花火にくわえて、一般市民がそこらへんでものすごい勢いで花火だの爆竹だのをするので、騒音も煙もただごとではありません。ぜんそくの人などは、大晦日はどこかに避難するくらいです。数年前に、名目上は事前に許可を得た人以外は花火をしてはいけない決まりになったのですが、その効果はまるで見られず、今年も、まだ7時半だというのに、すでに外は大騒ぎです。私はこれから、ワイキキにあるハレクラニ・ホテルという高級ホテルでのパーティで、ホノルル・シンフォニーが演奏するので、シンフォニーの音楽家の友達について食事とシャンペンにあやかりに行ってきます。

2009年が、世界にとって、みなさん一人一人にとって、健康と幸せなものでありますように。

2008年12月30日火曜日

Currently Separated: 不動産と離婚

健康保険のために離婚できずに"currently separated"だという人たちがいる、ということについて『新潮45』1月号で書きましたが、最近の不動産下落と住宅ローン危機が、離婚にさらに深刻なインパクトを与えている、という記事が『ニューヨーク・タイムズ』に載っています。共同名義で所有している家の価格が大幅に下落してしまったために、通常であれば離婚に際してその家の取り合いになるところが、残りのローン額よりも価値が下がってしまったその家の処分に関して長く醜い争いが続くというケースが増えているそうです。利益は出なくてもとにかく売ってしまってローン返済は二人で分担する、と合意しても、この不動産市場では家が売れず、仕方がないので法律上は離婚せず、currently separatedの状態のまま、ひとつ屋根の下別々の階に住み続けたり、あるいは一人が家を出てアパートに住んだりして、経済状態が改善するのを待っている、という人たちも少なくないようです。

私の友達にもそういうカップルが一組います。その二人は、最後まで(今でも)友好的な関係だったので弁護士を介した醜い争いにはなりませんでしたが、共同で持っていた家が売れないので、とにかく彼女が家を出てアパートを借り、ローンは彼が一人で負担するようになったものの、それまで彼女が払っていたローンのぶんはどうする、という問題が残り、一年以上currently separated状態を続けていました。最近になって、彼はその家に残り、二人で合意した額を彼が彼女に払って、そのお金を頭金の一部にして彼女が新しい家を買う、ということにまとまりました。この二人の場合は今でも友好的な仲だからよかったものの、そうでなければ、彼が彼女に払う額で相当にもめていたことでしょう。他にも、これは不動産下落以前の話ですが、大学の職員住宅(普通にアパートを借りるよりは家賃がずっと安い)に住んでいた夫婦が離婚することになり、大学職員の夫が家を出て新しいガールフレンド(やがて妻)と新居を構え、前妻はもとの家に残ったものの、彼女はその大学の職員ではないため、離婚してしまったら職員住宅は出なくてはならず、子供と一緒に住む家を探すのにてんてこまい、というケースもありました。こうした話は、結婚している夫婦や、住宅を保有しているケースばかりでのことではありません。ニューヨークのマンハッタンなどでは、賃貸でもいいアパートを手に入れるのは大変なので、一緒に住んでいた恋人同士(もちろんゲイのカップルの場合もある)が別れることになっても、代わりの住処が見つからないとか、今のアパートをどちらも手放したくないとかの理由で、カップルとしては別れながらも一緒に住み続ける、というケースもそう珍しくありません。

経済上の理由で離婚ができないとか、離婚の交渉が長引くとかいったことは、もちろん日本でもいくらでもあるでしょうが、アメリカでは、離婚率の高さと、不動産下落と住宅ローンの崩壊で、事態がいっそう深刻です。

2008年12月27日土曜日

停電の過ごしかた

クリスマス・イヴは友達の家でディナーパーティ、クリスマス当日は友達と島の北側のビーチでピクニックをしに行きました。日本と違って、クリスマスというのはこちらでは家族でゆっくり過ごす休日なので、一部のスーパーなどを除けば店もすべて閉まり、街はひっそりと静かですが、問題はクリスマスにいたるまでのショッピング・シーズン。サンクスギヴィングからクリスマスにかけては、一年のあいだで最大の売り上げがある時期なので、このシーズンの客入りは経済全体にも大きな影響があります。今年は経済危機で、正確な数字は年が明けてから出るでしょうが、例年よりずっと売り上げが低いようです。

昨日の夜は、雷が原因でオアフ島全域、一晩中停電でした。夕食を作ろうとしているときに真っ暗になってしまったので、料理もできず、することもなく、仕方ないので道向かいのマンションに住んでいる友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」)のところに行って、彼のボーイフレンドと、遊びに来ていた友達、階上に住んでいるもう一人の友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「マイク」)と一緒に過ごしました。暗闇のなかろうそくを灯しているだけなので、スナックをかじりワインを飲みながらおしゃべりをする以外にすることもありません。「こういうときに日本の子供はしりとりをするんだよ」と教えてあげて、英語でしりとりというものができるかどうか、みんなで試してみました。単語が音節で成り立っている英語でしりとりをするのはかなり難しいということがわかりました。最後のアルファベットをとるだけでは簡単すぎて面白くないので、最後の音節をとる、という方式にしたのですが、綴りをそのままにするのでは無理がありすぎるので、音が大体合っていれば綴りは違ってもよし、ということにしました。(mister-termite-mighty-teacup, seagull-gullible-blisterなど。)ワインを飲みながらだったので、どんな例があったかもう忘れてしまいましたが、うまく行ってもせいぜい10単語つながればいいほうで、どうも難しすぎるので、しばらくするとこの遊びは放棄しました。

残りの時間は、スティーヴが持っていた、David Sedarisの本からエッセイを朗読(読む人が懐中電灯をもって)したりして過ごしました。David Sedarisとは、National Public Radio(現代アメリカのキーワード (中公新書)
231-235頁参照)などで自分の生い立ちや家族、自分がやってきた奇妙な仕事やアルバイト(クリスマス・シーズンのデパートでの小人の仕事など)などについての自虐的ユーモアいっぱいのエッセイを朗読し人気を博しているユーモア作家・コメディアンです。家族や人間関係をめぐる面白可笑しい話題が多くなるホリデー・シーズンには、彼のエッセイがとりわけ面白いです。彼のエッセイ集のうち一冊は日本語になっていますが、ユーモアというのはとくに翻訳しにくいものです。彼自身の朗読を聞くと一段とその面白味が伝わる(かもしれない)ので、よかったらこちらで聞いてみてください。

2008年12月22日月曜日

日本の高校で英語の授業を英語で行うことの愚かさ

13年度からの日本の高校学習指導要領改訂案で「英語の授業は英語で行うことを基本に」という方針が示された、というニュースを読みました。水村美苗さんが『日本語が亡びるとき』で英語教育と日本語教育について真剣な提言をしているすぐそばから、水村さんが頭を抱えて嘆く姿が目に見えるような馬鹿馬鹿しい案を文科省が提示してくるのですから、「あー、こりゃあダメだ」と思わずにはいられません。

一般の日本人が、目も当てられないほど英語ができないのは、確かに憂えるべき事態です。中学高校で嫌というほど英語の勉強をさせられ、立派な大学で二年間は英語の授業をとった人たちでも、英語の新聞を読んだりテレビのニュースを見たりしてすんなり理解することができるような人は非常に限られているし、それどころか、自分の仕事の内容を簡単に英語で説明ことはもちろん、街で英語で道を聞かれて普通に答えることだってままならない、というのが平均的な日本人の大卒の英語力でしょう。英語圏で生活していると、一般の日本人がいかに英語ができないかということが日常的に認識されて、本当にいたたまれない気持ちになります。私の父親はかつてメーカー系の商社に勤めていた関係で、私も子供の頃にアメリカに住んでいたことがあり、父の仕事関係のオジサン達と接することも多かったのですが、「よく日本のオジサン達は、こんな英語力で、日本経済をここまで成長させてきたものだ。これだけ英語ができなくてもこれだけ日本の製品を世界で売ることに成功しているということは、日本の技術力がよっぽど優れたものであるに違いない」と、子供ながらに思っていたものでした。今でも、大学で言葉を使って仕事する人たちでさえ(そして、英米文学などを専門にしている人でさえ)、日本人は恥ずかしいほど英語ができないのが実態です。

あれだけみんなが英語の勉強に躍起になっていながらこの状況なのですから、日本の英語教育のありかたが根本的に間違っているのは確かです。が、「言葉は使うもので、多用すれば生徒の意識も変わる」だの「まず先生が使うのが第一歩」だのという理屈で、英語で英語の授業を行うことをその解決策にもってくるということは、まったくもって見当違いです。

確かに、言葉というものは音楽と同じように、日常的にたくさん耳にしていれば、音にも慣れるし自然に身についてくるという面はあります。英語圏で生活している子供が「自然に」英語ができるようになるのは、一歩家を出れば学校でも街でもほとんどすべてが英語という環境にいるのですから、当たり前といえば当たり前です。でも、英語を耳から慣らして自然に身につけるという方法を学校教育で行うには、小学校なり中学校なりで初めて英語を学ぶときから、月曜から土曜まで毎日最低一、二時間、きちんとした英語に触れていることが必要です。私立学校ならそうしたことも不可能ではないかもしれませんが、文科省のカリキュラムに沿って限られたリソースで英語の授業をしている公立学校で、そんなことはまず実現不能でしょう。

第一、この案を生み出した人たちは、「英語で英語を教える」ということが、いったいどういうことを意味しているのか、まるでわかっていないのが明らかです。そんなことがきちんとできる高校の英語教師は、全国で百人にも満たないのではないでしょうか。五十人いるかどうかも疑問です。英語の文章を読んで正確に理解し、自分の言いたいことを正確に作文ができるようになるために最低限必要な、基本的な英語の文法や構文を、日本語を母語とする生徒にきちんと説明するということが、日本語でもどれだけ難しいことか、そして、それを英語で行うということがどれだけ非生産的なことか、文科省の役人(なり、この案を作るのに関わった「専門家」なり)はまるでわかっていないようです。それ以前に、外国語を学ぶということがどういうことか、そのごく基本的なことが、まるでわかっていないとしか思えません。

「生きた英語」ができるようになるのを目指すのは結構なことですが、そのために、「和訳と作文偏重」の英語教育を「英会話重視」に変更するなど、愚の骨頂です。最低限の単語の意味とその正しい用法を覚え、構文と文法を理解し、それを使って作文するという作業に時間をかけずに、会話などできるようになるわけはありません。文法や作文重視が悪いのではなくて、むしろ文法や作文をじゅうぶん重視していない、また、文法や作文を教えるときの教え方が間違っているのだ、と私は思っています。構文や文法や単語や句の用法をきちんと身につけるのに一番大事なのは、パズルのように英語の「問題を解く」のではなく、基本的な文例をひたすら丸暗記することだと思います。そうして文例を覚えれば、単語だけ入れ替えればそれに類似の文をすらすらと言えるようになるのです。

ハワイ大学で私が教えている日本人の大学院生のひとりに、実に感心するくらい英語がよくできる学生がいます。読解力をとっても授業での発言をとっても論文で書く文章をとっても、実にしっかりした英語なので、私はてっきり彼女が帰国子女なのだろうと思っていたのですが、話を聞いてみるとそうではなくて、大学院でハワイに来るまではずっと日本で育って、地方の公立学校の授業で英語を勉強した、「普通の日本人」なのです。「どうしてそんなに英語ができるようになったの?」と聞いてみたところ、中学のときに少しアメリカにホームステイをしたときに、あまりにも英語がわからないのにショックを受け、英語ができるようになろうと一念発起して、自分なりの方法を考案してひたすら勉強した、ということです。その方法を聞いてみると、なんときわめて古典的な「丸暗記法」。学校の教科書や自分で買ってきた参考書をひたすら丸暗記することで、構文や単語の使い方を身につけ、リスニングや発音に関しては、教科書についている付属テープを繰り返し聞きながら、自分も同じペースで言えるようにひたすら練習した、ということです。私はこの丸暗記が、語学習得の基本かつもっとも効果的な方法だと強く思います。ただし、なぜある文がそういう構造になっているのか、理屈を理解していなければ、丸暗記しても応用ができないので、その理屈は、生徒がじゅうぶん理解できるように、丁寧に日本語で説明するべきです。

ついでになりますが、日本人は英語の発音コンプレックスがあり、なにかというとRとLの発音に執着しますが、そんなことを心配するのも間違っています。もちろん発音は「正統的」な発音に近ければ近いほど、わかってもらえる確率は高まるので、その基本はきちんと覚えるべきですが、日本人は英語の発音というときに、舌を丸めたり伸ばしたりすることにばかりやたらこだわります。でも実際は、発音がちょっとくらい違っていたって、単語の使い方と文の構造が正しければ、文脈で相手は理解してくれます。発音に関していえば、RやLを初めとする子音の発音なんかよりも、ずっとずっと重要なのは、アクセントの位置と母音の発音です。アクセントの位置と母音の発音が間違っていたら(また、母音のないところに母音を入れて発音したら)、いくらRやLやTHがきれいに言えても、絶対に通じません。

それにしても、この「英語の授業を英語で」案は、あまりにも愚策で、情けなくなります。水村さんと一緒に文科省に抗議に乗り込んで行きたい気持ちです。

2008年12月20日土曜日

映画『ミルク』

期末試験・論文の採点はあと一息で終わります。学生さんには失礼ですが、飛び抜けて優秀な一握りの答案や論文を除いては、採点というのはかなり辛い作業です。こちらは一生懸命準備していろいろ工夫して授業をしたつもりなのに、答案を見てみると、重要なポイントが多くの学生にまるで伝わっていなかったことが判明したりして、がっくりしてしまいます。でも、同じクラスのなかにも、ものすごく見事な答を書く学生も何人かはいるので、一部の学生の出来の悪さは、百パーセント教師の責任でもないだろうと思いたいです。

採点の合間に、『MILK』という映画を観てきました。アメリカでは数週間前に公開になった映画で、ハーヴィー・ミルク(Harvey Milk, 1930-1978)という、アメリカで初めて主要な公職に選挙で選ばれたゲイの政治家についての物語です。ショーン・ペンが演じるミルク氏は、ゲイのメッカとして知られるようになったサンフランシスコのカストロ地区でカメラ屋を営みながら、コミュニティ・オーガナイザー、活動家として、サンフランシスコのゲイ・コミュニティを動員していき、何度もの落選にもめげず、ついに1977年にサンフランシスコの市議会員に当選しました。翌年には同じく市議会員のダン・ホワイトに暗殺されてしまうのですが、比較的短い政治生命のなかで、同性愛者の権利を守る法律を通過させたほか、労働組合や高齢者たちとも絆をむすび、実質的にも象徴的にも非常に大きな功績を残しました。彼が暗殺された日の夜には、3万人の住民たちが自然に集まり、灯したろうそくを手にサンフランシスコの通りを行進して追悼の意を表しました。ミルク氏が活動家・政治家として誕生、そして成長していく様子を、ショーン・ペンが実に素晴らしい演技で表していますが、それと同時に、1970年代アメリカの政治史・社会史としてもとても興味深い映画です。同性愛者たちの存在が次第に社会全体に知られるようになっていき、アメリカの一部の都市では同性愛者の権利保護のための法律なども通過するなかで、それに対する反動、そしてキリスト教右派の台頭が、同性愛者の権利を奪う動きも作っていきました。そうした流れのなかで、ゲイの文化やネットワークが、重要な社会運動へと集結されていった様子が、よくわかります。ゲイの男性たちのあいだの恋愛模様や性関係、また、ゲイとして生きることの苦悩も、率直に描かれています。このブログでも何度も言及してきた、先月の選挙のカリフォルニア州のProposition 8のことや、オバマ氏の政治家としての起源がシカゴのコミュニティ・オーガナイザーとしての仕事にあったことなどを考えると、とくにいろいろなことを教えられる映画です。日本では来年ゴールデンウィークに公開になるようなので、その頃まだ覚えていたら、是非観てみてください。

2008年12月16日火曜日

アメリカ女性史 期末試験問題

今週は、ハワイ大学は期末試験週間です。今朝は、私が教えている「アメリカ女性史」の授業の期末試験がありました。アメリカ文化研究概説の大学院の授業の課題論文は、今日の夕方が締切です。ちなみに、女性史の期末試験の問題は、こんな感じです。1950年代くらいまでは中間試験でカバーしたので、今回の試験では20世紀後半が中心の問題になっています。

第一部 以下より五つの項目を選び、それぞれについて、それが何であるか説明し、歴史的背景とアメリカ女性史における意義を論じなさい。
Women's Christian Temperance Union
Frances Perkins
Reynolds v. the United States
Feminine Mystique

Equal Rights Amendment
Defense of Marriage Act

第二部 以下の両方に答えなさい。
1 フィリピンにおけるアメリカの植民地主義が、フィリピン人看護婦のアメリカへの移民のパターンをどのように形作ったか説明しなさい。

2 第二次フェミニズムの主な功績を三つ説明しなさい。

第三部 以下より一つ選んで答えなさい。
1 南北戦争後の自由黒人局、1930年代のニューディール、そして1990年代の社会福祉政策のあいだに共通していた、支配的なジェンダー観や家族観とはなんであったか説明しなさい。

2 女性参政権運動と第二次フェミニズム運動を、その起源、主なリーダー層、運動組織の方法、運動内での葛藤などの観点から比較しなさい。

3 中絶合法化にいたるまでの運動を説明しなさい。運動の契機となった歴史的背景、運動の中心となった人々、また運動の組織化の方法などを具体的に説明すること。


学生の出来はどんなものか、これから採点にとりかかります。

2008年12月13日土曜日

DatingからHooking Upへ

今日のニューヨーク・タイムズに、「デーティングの終焉(The Demise of Dating)」という論説(?)が載っています。『ドット・コム・ラヴァーズ』や『新潮45』11月号でdateという単語のややこしさを、『新潮45』12月号190頁ではhook upという表現の用法を説明しましたが、まさにそれらの表現の実例です。『新潮45』の連載は、なんて実用的なんでしょう!:)

調査によると、今のアメリカの若者(ここで引用されている調査の対象となっている「若者」は高校3年生)の多くは、もうdateなんかはせず、むしろなんのコミットメントもないカジュアルなセックスをするhook upを楽しむことが主流だとか。一昔前までの男女は、何回か「デート」を重ねてから(この用法での「デート」とは日本語と同じ名詞の「デート」)性的関係に進むかどうか決めていたのに対し、今の若者は、まず何回かhook upをしてから、その相手と「デート」に行きたいかどうか決めるんだそうです。これらの若者は、カジュアルにセックスをするからといって、誰それ構わずやたらとセックスをしまくっているかというと、そういうことではなく、むしろ彼らがセックスをする頻度は少し前の同年代の若者より低く、また、セックスをする相手はたいてい学校の友達などだとのことです。一対一の「デート」(この用法では、名詞の「デート」と動詞の「デート」の両方の意味が含まれています)にしばられるよりも、大勢の友達仲間で交際を楽しむことを今の若者は重視する。そしてそのほうが、「デート」にありつけない人が周りに馬鹿にされたりのけ者にされたりすることが少ない。とのことです。とはいっても、このhook up文化がいいことばかりかというとそんなことはもちろんなく、セックスを重ねるにつれて、女性のほうはより長期的な交際を求めるようになるのに対して、男性はよりフリーな状態を続けたいと思う傾向があり、女性のほうがhook upに飽きてしまうというケースは多いそうです。また、hook upにはアルコールが絡んでいる場合が多いので、性的暴力などの事件も少なくない、とのことです。

それとはまったく無関係ですが、ハワイの現代史においてもっとも重要な人物の一人であるといえる女性、Ah Quon McElrathが亡くなりました。享年92歳。1915年にハワイで中国移民の両親のもとに生まれた彼女は、13歳のときからパイナップル缶詰工場で働き始め、ハワイ大学で社会学と人類学を専攻しました。1930年代に、ハワイのInternational Longshore and Warehouse Union (ILWU)すなわち港湾労働組合の組織化に中心的な役割を果たし、1950年代からは組合のソーシャルワーカーとして、労働者たちに健康保険や年金などについての説明をしたり、日々の生活の手伝いをしたりという仕事をするようになりました。1950年代からのハワイでは、ILWUなどの労働組合が非常に重要な役割を果たしましたが、その運動の鍵となった人物のひとりです。1981年にILWUからは退職したものの、彼女は生涯を通して労働運動をはじめとする各種の社会運動にたいへんなエネルギーをもって参加し、ハワイの労働者や活動家たちのインスピレーションとなってきました。同時に彼女は、音楽や芸術もこよなく愛し、ホノルル・シンフォニーのコンサートには欠かさず通い、シンフォニーの労使争議や財政難にあたっては、音楽家たちのパワフルな味方として支援活動をしました。亡くなる数日前に、親しい友達が家を訪ねていったときには、芸術団体やさまざまなチャリティー団体への募金を入れた28の封筒を彼女に渡して、投函してくれるように頼んだそうです。私も、Ah Quonとは数年前に、労働組合関係の対談のようなもので会ったことがあります。年齢が半分以下の私よりずっとエネルギーがあり、見事な分析力と明晰な言葉で話をすると同時に、どんな人にも温かい優しさをもって接する人でした。彼女についての今日のホノルル・アドヴァタイザーの記事は、こちらをどうぞ。

2008年12月12日金曜日

水村美苗 + 梅田望夫

アメリカは、今週はイリノイ州知事の汚職発覚事件で大騒ぎでした。

ただ今発売中の『新潮』(私の連載の載っている『新潮45』ではなくて文芸誌の『新潮』のほうです)に、水村美苗さんとミューズ・アソシエイツの梅田望夫さんの対談が載っています。水村さんの『日本語が亡びるとき』発売当初から、梅田さんはブログでこの本をとても賞賛していて、そのことがアマゾンでしばらく1位という素晴らしい売れ行きの一因でもあったそうです。

私は水村さんと同様に(と言ったら水村さんに失礼かも知れませんが、ご本人もそう言っているのでよしとしましょう)まったくのテク音痴で、コンピューターの知識も使い方も周りの人たちと比べたら数年ぶんくらい遅れています。メールとサーチエンジンとスカイプなど、自分の仕事と人間関係に必要だったり役立ったりするアプリケーションの使い方は覚えるけれど、それがいったいどういう理屈と構造で動いているのかなどということは、まったくわからないし、正直なところあまりわかりたいとも思っていません。授業でパワーポイントを使うようになったのもなんと今年になってからだし、こうやってブログを書いてちゃんと人に読まれているらしいということも、自分としてはものすごい快挙のように思っているくらいで、ITの世界がどうなっているかということは、ドがつく素人の消費者としての視点しかもっていません。それでも、(実は水村さんのつながりで)梅田さんや小飼弾さんなどのお仕事についても知ることになり、また、自分がオンライン・デーティングについての本を書いたり自分でブログをやるようになったりして、媒体としてのインターネットということについても少し考えるようになりました。ごく最近、梅田さんの『ウェブ進化論 』も読みました。というわけで、私にはこの対談はとくに興味深く、なるほどなるほど、と思って読みました。先日投稿した、私の『日本語が亡びるとき』の読みが間違っていなかったということも確認できて安心しました。

水村さんの著書での核である日本近代文学論とは話が違いますが、この対談にも出てくる、インターネットを舞台とする言論活動のコンテンツの日米での差は、私もずいぶん前から感じていることです。インターネットのテクノロジーにかけては、日本はアメリカに決して負けていない、いやむしろアメリカより進んでいるくらいなのでしょうが、私のような一般消費者が目にするウェブサイトの内容にかけては、日本はアメリカよりだいぶ遅れていると日頃から感じています。たとえば、新聞ひとつにとってもそうです。今や、アメリカの主要な新聞(ホノルル・アドヴァタイザーのような地域紙でも)はどこでも、紙の新聞に載っている記事はまるごとすべて、それどころか、紙の新聞では見られない映像やブログ、関連記事へのリンクなども含めて、無料でネットで見られるようになっています。こんなことをしたらさぞかし紙の新聞を買う人がいなくなるだろうと思いますが、それでも敢えてこのように情報を世界に公開することのほうが長期的に新聞社にとっても世の中にとってもよいと、経営者がIT革命の初期に判断して、オンラインでの広告収入などに財源をうまく移行したのでしょう。(とはいえ、最近もシカゴの大手新聞が倒産を発表したばかりですから、どこもその移行に成功しているわけではないのでしょう。)紙の活字文化に愛着がある私のような人間は、オンライン版と紙の新聞の両方を使っていますが、完全にオンライン版に移行している人はとても多いし、私がおばあさんになる頃にはもう紙の新聞は存在しないかも知れません。それでも、新聞社は、(長期の調査にもとづいた、日本の新聞にはまず見られない長文の記事を含め)質の高いジャーナリズムを提供し続け、オンライン環境を巧みに利用すれば、新たな形の報道・言論活動に進化できると信じているのでしょう。ニューヨーク・タイムズしかり、ウォール・ストリート・ジャーナルしかり(ウォール・ストリート・ジャーナルは、メディア帝王のルーパート・マードックの支配下に入って以来、テレビを初めとする他のメディアとの連携もよりしやすくなったので、よりいっそう画像などが充実しています。)。これらの新聞を見たことがない人は、だまされたと思って、ちょっと見てみてください。それにくらべて、日本の新聞のオンライン版などは、せいぜい数段落、ともするとほんの数行の記事しか出てこないし、オンラインでは見られないものもたくさんあります。(私は書評が一番読みたいのに、オンラインでは読めない!)もちろん、宣伝のために各種の企業が作っているサイトは、デザイン面でも内容面でも素晴らしいものがたくさんありますが、それは当たり前のことで、公共性・公開性をより真剣に考えるべきなのは報道機関などのメディアでしょう。アメリカでも、出版社などはやはり、情報や活字のデジタル化の加速にかなりの危機感を抱いていますが、それでも、インターネットを自分たちの産業にうまく利用しようという積極的な意欲と工夫は、日本の出版社などよりずっと進んでいると思います。大学のウェブサイトをとっても、日本の大学のサイトは、概して情報量がとても少ないです。(日本の大学に勤める教授のメールアドレスを探すのがどんなに面倒なことか!)この対談で、水村さんと梅田さんは、この状況を、「パブリックな精神」の違いとして話していますが、せっかくテクノロジーがこれだけ発達しているのだから、それを有意義に活用していくようなコンテンツの刷新も目指したらいいんじゃないかと思います。

2008年12月7日日曜日

真珠湾攻撃の記憶

ハワイ時間の今日のちょうど67年前、日本がオアフ島の真珠湾を攻撃しました。1941年12月7日の攻撃によって一般市民49人を含めて2400人のアメリカ人が死亡し、さらに1000人以上が負傷しました。現在の一般の日本人の意識のなかではこの日は特筆すべき日として記憶されていないでしょうが、アメリカの歴史の記憶においては、今でもRemember Pearl Harbor!という文句はかなり生々しいもので、20世紀の歴史のなかで刻印されるべき瞬間のひとつとして残っています。(ちなみに、11月4日のオバマ氏の勝利演説でも、「我々の港に爆弾が落とされたとき」という一節がありました。)今朝も真珠湾の戦艦アリゾナ記念館では、退役軍人などを集めて67周年記念式典が行われました。真珠湾攻撃を実際に体験した退役軍人が次々と亡くなっていき、海軍と国立公園局の主催で毎年行われるこの記念式典に参加できる人も少なくなってきています。時の流れとともに、真珠湾攻撃に関する情報や解釈も変化してゆき、平和な島を「だまし討ち」した日本へのあからさまな敵対感情もおおむね姿を消しています。また、アリゾナ記念館のビジターセンターにある、真珠湾攻撃に関する展示も、現在全面的な改装が進行中で、当時の日本の政治社会状況や一般市民の暮らし、また、真珠湾がアメリカ海軍の支配下におかれる以前の先住ハワイ民にとっての真珠湾の意味や、日系アメリカ人の第二次大戦経験などにも焦点を当てた展示に作り変えられるようです。それにしても、真珠湾攻撃が、歴史的にそして現在のアメリカでどのように記憶されてきているかということを、日本人が知っておくのは大切なことだと思います。今日のハワイの新聞を参考までにどうぞ。なお、矢口祐人『ハワイの歴史と文化』(中公新書)第二章、および矢口祐人・森茂岳雄・中山京子『ハワイ・真珠湾の記憶——もうひとつのハワイガイド』(明石書店)も参考になります。

2008年12月3日水曜日

『日本語が亡びるとき』

水村美苗さんの新著『日本語が亡びるとき——英語の世紀の中で』(筑摩書房)を二回読みました。私が自分の著書で脈絡もなく水村さんに言及するので、かねてから私が水村さんの小説すべてに深い思い入れがあることをすでにご存知のかたもいるでしょうが、『日本語が亡びるとき』は、小説ではなくて評論です。水村風に書くと、「嗚呼、私はこの本に出会うため今日まで生きてきたのだ」と両手を天に揚げて感謝したいくらい、共感を覚える本です。一回目はそれこそ寝食忘れて一気に読み、二回目は付箋をつけながら読んだのですが、これじゃあ目印の意味がないぞ、というくらい沢山付箋がついてしまいました。

インターネット上でも『日本語が亡びるとき』についてはさかんに議論がされているようで、こうした知的に重厚な本が多くの読者に読まれ議論されるということに、一種の安心感と希望を覚えるものの、ざっと見た印象では、どうも水村さんのメッセージをきちんと把握しないままごく表面的なところで会話がされているようなのが残念です。(だいたい、この本に限らず、誰かのブログで書評された本について、その本を読みもしないで書評に反応してズレたコメントを書き込む人がたくさんいるようですが、まずは自分で本を読んで自分でしっかり考えてからコメントしてほしい!と強く思います。)やや挑発的な響きのタイトルであること、そして後半がインターネット時代の英語や日本における英語教育といった話題になっていることから、飛ばして読むと、さも、英語が世界の流通語としてますます覇権を強めるなか、日本語という言語の使用そのものが衰退していく、というのが論旨のように思えるのかも知れませんが、水村さんのメッセージはそんな表層的なことではありません。もちろん、国際政治経済の流れと言語の衰勢は結びついているので(そもそも英語が世界の普遍語となったのも、歴史と政治と経済によるものですから)、日本の少子化も考えれば今後数百年のあいだに日本語を使う総人口は次第に減っていくことはじゅうぶん考えられますが、『日本語が亡びるとき』はそういうことを問題にしているのではありません。

水村さんが問うているのは、一般的な意味での「言語」としての日本語の将来ではありません。水村さんが問うているのは、「書き言葉」「読まれるべき言葉」としての日本語によって書かれる、我々が生きている日本の「現実」を描く、「日本文学」の将来です。

水村さん曰く、

英語が抽象的・普遍的なことを表現伝達するための言語として世界じゅうで流通し、より多くの「叡智を求める人」が英語で「現実」を表象するようになる過程で、日本語をはじめとする多くの「国語」は、その「普遍語」に対して二次的な位置にならざるを得ない。「英語」と「日本語」のあいだの力関係に象徴される「西洋近代」と「日本」の関係、その関係から生まれる様々な精神的文化的曲折は、明治時代から、夏目漱石を初めとする多くの日本の文豪が対峙してきた問題であり、その「西洋の衝撃」こそが、日本近代文学を生んだ。それらの作家たちは、西洋近代に直面し、いっぽうでは、感動的なまでに貪欲な知識欲をもって急速に世界を吸収し、翻訳していった。また、世界の「言語」を身につけることで、自らも世界の一員にならんとした。そのいっぽうで、そうした衝撃や曲折を含む自らの「現実」、日本の「現実」を描くため、彼らは、日本語という言葉、そして日本文学の伝統や小説という芸術形式に真剣に立ち向かった。漢文に始まって、ひらがな文、漢字カタカナ交じり文を経由し、言文一致体や文語体という、複雑多様な(日本語を知らない人が聞いたら「複雑怪奇」と形容するだろう)幾層もの伝統が折り重なって織り成された日本語を「書き言葉」として昇華させ、彼らは「日本近代文学」を生んだのだ、

と。

そもそも文学というものは、「普遍なこと」と「固有なこと」のあいだの衝突や緊張関係にこそ、その醍醐味があるのでしょう。国境や文化や時代を超えた「普遍的」なものこそが世界中の人々の心を打つ、などと陳腐なことはよく言われるけれども、「読まれる言葉」「書き言葉」としての「国語」を使って書かれた本当にすぐれた文学とは、きわめて固有な現実を描いたものです。それは、ある時代のある国のある地域のある階層に固有な現実かもしれないし、ある状況におかれた個人に固有な現実かもしれない。いずれにせよ、その現実を、その固有性にもっともふさわしい言語と形式で書き表すのが文学、と言えるでしょう。それと同時に、その固有性を共有する者たちのあいだでしか意味をもたなければ、文学として成功しているとは言いがたく、現実の固有性を失うことなくいかに普遍の言葉に翻訳するか、それが作家の課題です。普遍の概念を固有の現地語に翻訳することももちろん大変だけれど、固有の現実を普遍語に翻訳することはそれ以上に困難だとも言えます。普遍語が自由に使えるのであれば、固有の現実などに煩わされることなく、はじめから普遍語で世界的・抽象的な聴衆を相手に書いたほうが、よっぽど楽でもあるし、世界とのつながりをもてる。「叡智を求める人」が、そうした著述に惹かれていくのは自然なことでしょう。しかしそうしたときに、「日本文学」はどうなるか。日本語という固有の言語、日本文学という固有の伝統、先達が生み出してきた近代日本小説という素晴らしい芸術には目もくれず、自分の内面の自己表現としてだけ小説を書く人ばかりが「日本文学」を担うようになったら、「日本語」はどうなるのか。それが水村さんの叫びなのだと思います。

この本を読んだ上で、ふたたび水村さんのこれまでの著作のそれぞれ『續明暗』『私小説 from left to right』『本格小説』を読み直したり考え直したりしてみると、またずっと違ったレベルでその醍醐味が味わえます。

みなさん、是非とも自分でゆっくり読んで自分でじっくり考えていただきたいですが、以下、とくに私が「嗚呼」と叫びたくなる箇所を数点だけ抜粋します。

 当時(吉原注・漱石の時代)の日本の知識人が大学の外へと飛び出したのには、先にも触れたように、さらにもう一つ別の動機があった。それは、大きな翻訳機関でしかない大学に身をおいていては、自分が生きている日本の<現実>を真に理解する言葉をもてないということにほかならない。また、自分が生きている日本の<現実>に形を与えてほしい読者の欲望に応えることができないということにほかならない。実際、学問=洋学の場では、日本とは何か、日本にとっての西洋とは何か、アジアなどというものが果たして存在するのか、そもそも近代とは何かなど、日本人が日本人としてもっとも切実に考えねばならないことを考える言葉がない。「西洋の衝撃」そのものについて考える言葉がない。日本人が日本人としてもっとも考えねばならないことを考えるためには、大学を飛び出し、在野の学者になったり、批評家になったり、さらには、小説家になったりする構造的な必然性があったのである。
 自分の<現実>——それは、過去を引きずったままの日本の<現実>である。
 いうまでもないが、そのような<現実>はたんにモノとしてそこに物理的に存在しているわけではない。人間にとっての<現実>は常に言葉を介してしか見えてこないものだからである。西洋語を学んだ当時の日本人にとって、当時の日本の<現実>は、西洋語からの翻訳ではどうにも捉えられない何かとして意識され、そうすることによって、初めて見えてきたものであった。(218)

 それにしても、まさに漱石が言う「曲折」を強いられた結果、何とおもしろい文学が生まれたことか。
 日本が近代以前から成熟した文学的な伝統をもっていたおかげ——まさに、漢文も含めた長い文学の伝統、しかも、市場を通じて人々のあいだに広く行き渡っていた文学の伝統をもっていたおかげである。日本の文学は、「西洋の衝撃」によって、<現実>の見方、そして、言葉そのもののとらえかたに「曲折」を強いられた。世界観、言語観のパラダイム・シフトを強いられた。だが、日本の文学はその「曲折」という悲劇をバネに、今までの日本の<書き言葉>に意識的に向かい合い、一千年以上まえまで遡って、宝さがしのようにそこにある言葉を一つ一つ拾い出しては、日本語という言葉がもつあらゆる可能性をさぐっていった。そして、新しい文学として生まれ変わりながらも、古層が幾重にも重なり響き合う実に豊かな文学として花ひらいていったのである。(225−226)

 この先、アリストテレスでさえ英語で流通するようになるとき、もし英語で書くことができれば、いったいどの学者がわざわざ<自分たちの言葉>で書こうとするであろうか。
 いや、もし英語で書くことができれば、学者のみならず、いったい誰がわざわざ<自分たちの言葉>で書こうとするであろうか。
 <学問の言葉>が英語という<普遍語>に一極化されつつある事実は、すでに多くの人が指摘していることである。だが、その事実が、英語以外の<国語>に与えうる影響にかんしてはまだ誰も真剣に考えていない。<学問の言葉>が<普遍語>になるとは、優れた学者であればあるほど、自分の<国語>で<テキスト>たりうるものを書こうとはしなくなるのを意味するが、そのような動きは、<学問>の世界にとどまりうるものではないのである。<学問>の世界とそうではない世界との境界線など、はっきりと引けるものではないからである。英語という<普遍語>の出現は、ジャーナリストであろうと、ブロガーであろうと、ものを書こうという人が、<叡智を求める人>であればあるほど、<国語>で<テキスト>を書かなくなっているのを究極的には意味する。
 そして、いうまでもなく、<テキスト>の最たるものは文学である。(252−253)


アメリカの大学に身を置き、英語で学問をしている身として、そしてまた、英語と日本語の両方で執筆活動をしている身として、そして、「普遍のこと」と「固有のこと」ということについて常に考えざるをえない身として、本当に考えさせられます。

2008年12月1日月曜日

オンライン・デーティング・コーチ

夕暮れ時にジョギングに行くために車を運転していたら(ジョギングに行くのに車で行く、というのもなんですが、うちの周りはあまりジョギングに適さないので、車でアラモアナ公園という海辺の公園まで行って、その公園のなかを30分くらい走り、また車で戻ってくるのです)、ナショナル・パブリック・ラジオ『現代アメリカのキーワード』231-235頁参照)でオンライン・デーティングについてのコーナーが始まったので、聞き終わるまで駐車場でしばらく座ったままになってしまいました。(ナショナル・パブリック・ラジオを聞いていると、よくそういうことがあります。)それによると(ナショナル・パブリック・ラジオの番組は、内容も文章もとても良質なので、英語のヒアリングの勉強によいと思います。サイトに行ってListen Nowをクリックすれば聞けますので、よかったら聞いてみてください)、オンライン・デーティングのコーチというものを職業にしている人がいるらしいです。異性の関心をひくためにはプロフィールにどんなことを書くのがよいか、プロフィールを読んでいる人にはどんな決まり文句が陳腐に思えるか、どんな写真はどんなタイプの人の関心をひくか、といったことまで、オンライン・デーティングの指導をするんだそうです。聞いてみると、アドバイスの内容は、私が『ドット・コム・ラヴァーズ』や『新潮45』で書いていることととくに変わらないので、私もサイドビジネスとして、このコーチをやったら、株価が下がって減ってしまった403b(公務員用の401k)のぶんくらいは取り戻せるだろうと、強く思いました。それにしても、オンライン・デーティングは普及とともにますますマーケットの特化が進んでいるらしく、ベジタリアンのためのデーティング・サイトとか、億万長者のためのサイトとか、農業に従事する人のためのサイトとかがあるらしいです。ふーむ。

今月18日発売の『新潮45』では、「恋愛単語で知るアメリカ オンライン編」として、オンライン・デーティングで頻出する単語や表現について解説しますので、どうぞお楽しみに。