2009年10月27日火曜日

11/7(土)名倉誠人マリンバ・リサイタル

ここ二、三日で東京は急に寒くなり、ハワイの気候に身体が慣れている私は寒くてたまらず、また、アメリカ東海岸のとても寒いところに住んでいたときにも、家のなかはセントラルヒーティングでぽかぽかと暖かかったのに、日本の家は風がスコスコだしセントラルヒーティングはないし(それにいくらなんだって暖房を入れるにはまだ早いですし)で、毛布を身体に巻いてがたがた言っていましたが、今日は気持ちいい秋晴れでほっとしました。

今日は宣伝です。11/7(土)に、私の友達のマリンバ奏者、名倉誠人さんのリサイタルが、代々木の白寿ホールであります。名倉さんとは、私がニューヨークで過ごした一年間に仲良しになり、一緒に飲み食いを楽しむほか、音楽や芸術についての真剣な話を聞かせていただいたり、CDのレコーディングのお手伝いをさせていただいたりしました。私の著書Musicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicには、名倉さんのインタビューの抜粋を大きく入れさせていただいています。名倉さんに出会うまで、私はマリンバという楽器にはまるで馴染みがなかったのですが、初めて名倉さんの演奏を聴いたとき、マリンバという楽器を生んだ樹や森の感触が伝わってくるような温かい音色に、音楽っていうのは有機的なものなんだなあということを改めて知らされ、衝撃的な思いをしたのを覚えています。今回のリサイタルも、「森と木と音楽II」というタイトルがついていて、そうしたテーマが全体を貫いているようです。名倉さんの音楽は、とても繊細で優しい音であると同時に、芸術音楽というものは、呑気にだらっと座ってバックグラウンド・ミュージックのように流しているのでなく、聴くほうも集中して真面目に向き合うものであるということを促すものでもあります。(その点で、以前紹介した岡田暁生さんの『音楽の聴き方』で書かれていることに通じる部分が多いです。)普段から名倉さんが演奏するのは、現代の作曲家に委嘱した新作が多く、作曲家たちと名倉さんの気迫がぶつかり合いながら、新しい創造に関わっている、そのプロセスに、名倉さんの演奏を通じて触れることができるのも、実に幸運なことです。今回のリサイタルでも、作品のほとんどがなんと世界初演です。作曲家のうちふたり、長田原(「おさだもと」と読みます)さんとKenji Bunchさんも、Musicians from a Different Shoreでかなり大きく取り上げています。

世界初演の音楽に触れられる機会は、そうあるものではないですし、刺激的な新曲の素晴らしい演奏が聴けることは間違いないので、ご都合のつくかたは是非どうぞ。小学校中学年以上くらいでじっと静かに座っていられる年齢だったら、お子さんにも楽しめる音楽だと思います。演奏会前には作曲家を交えたトークもあります。ニューヨークなどでは、リサイタルの後に聴衆が演奏家(や現代曲のときは作曲家)とロビーで気軽に話をできるように設定されていることが多く、そのぶん音楽活動が身近に感じられるのですが、今回のトークもそうした主旨でしょうから、是非積極的に参加して、質問などしてみてください。いらした方は、会場で私を見つけて声をかけてくだされば、私が喜んで名倉さんや長田さん、Kenji Bunchさんにご紹介します。

チケットの情報などは
こちら、またはミリオンコンサート協会へどうぞ。今ならまだチケットが手に入るそうです。来られないかたは、名倉さんのCDを是非聴いてみてください。これも名倉さんのホームページから買えます。私がレコーディングをお手伝いしたのは、Triple Jumpです。素晴らしいですよ。

演奏会といえば、私は先週、紀尾井ホールであった、辻井伸行さんのリサイタルに行ってきました。辻井さんの演奏を聴くのは、クライバーン・コンクールでの彼の優勝に居合わせたとき以来初めてでした。こちらは、ベートーベンの「悲愴」と「熱情」に始まって後半はすべてショパンという、実にオーソドックスなプログラム。私としては、辻井さんのように、今なら演奏会をやればすぐに完売になる演奏家にこそ、現代曲を初めとしてあまり演奏されないような曲目を演奏して、聴衆を新しい音楽に触れさせてほしい、という気持ちが正直なところです。なにしろ辻井さんは、クライバーン・コンクールでは現代曲の演奏の部門でも賞をとっている(現代曲は、作曲家に委嘱された四作品の楽譜が、コンクールの数カ月前に参加者に送付され、参加者は急いで曲を選んで覚えなければいけないわけですから、楽譜が読めない辻井さんがこの部門で受賞したというのは、さらにすごいことです)のですから、その受賞曲やコンクールで演奏された他の委嘱作品を聴かせてくれたら、スタンダードなレパートリーに限られない辻井さんの音楽性の幅を日本の聴衆に知らせることができるし、作曲家にとってもいいし、現代においてクラシック音楽を演奏するということの意味を考えさせてくれるプログラムになるのではないかと思います。あるいは、同じベートーベンのソナタなら、クライバーンの準本選で彼が演奏した「ハンマークラヴィア」を聴かせてくれたらいいのではないかと思います。弾くのももちろん大変だし、聴くほうにもなかなか大変な、難解複雑な曲ですが、だからこそ辻井さんの演奏でそれを聴いてみたい、という聴衆は多いはずです。

もちろん、地方都市を含めたくさんの場所で連日本番を続けている状況で、また、クラシックにそれほど馴染みのない聴衆もいるであろう舞台で、あまり珍しいプログラムを組むのも難しいのだろうことは想像できます。演奏そのものも、技術的にはもちろんなにも文句をつけるような点はないものの、なんだかちょっと、慣れで演奏しているような印象を受けてしまったのが残念でした。クライバーンのときは、本当に一曲一曲に身体が揺さぶれるような思いがしたのですが、優勝以来モーレツなスケジュールで世界各地や日本全国をツアーして、同じような演目を演奏し続けているのですから、毎回の演奏に同じようなテンションや感動がなくても無理ないのかもしれません。ただ、クライバーン本人も、チャイコフスキー・コンクールで優勝してスーパースターとなった後、練習や休憩、ものを考える時間がとれなくなって、演奏家としてはかなり辛い時期を過ごしたことはよく知られていますので、辻井さんがそういうことにならないように、せっかく大きく花開いた可能性が頭打ちになるようなことがないようにと、願うばかりです。そうした意味で、辻井さんを見守る聴衆のほうも、「悲愴」「熱情」「月光」ばかりを彼に求めるのではなく、メッセージ性のある音楽作りを期待することが重要だと思います。(念のため付け足しておきますが、私はベートーベンの三大ソナタが嫌いなわけじゃありません。三大ソナタが頻繁に演奏されるのはやはりこれらが名曲だからで、曲そのものにはいろいろな感動があります。ただ、日本のリサイタルのチラシなどを見ていると、あまりにもこれらのソナタがたくさんのプログラムに入っているので、ちょっとげんなりした気持ちになるのです。わざわざお金を払って出かけて行ってこれを生で聴くべき理由をはっきりと知らせてくれるような演奏であれば、なにも文句はありません。)辻井さん、頑張れ!

2009年10月26日月曜日

「女性の地位」に真正面から取り組む

日本での生活が3ヶ月がたち、例年の数週間の滞在の際に見たり感じたりするのとはずいぶんと違う日本を知るようになりました。驚くこと、考えさせられることがたくさんあり、近くに「逆カルチャーショック・レポート」の続きを書こうと思っていますが、今日はそのなかの一点。女性の地位の低さです。一応ジェンダー研究を専門のひとつにしている人間として、今さらこんなことに驚いている場合ではないかもしれませんが、この驚愕の思いを忘れずにいることも大事だと思います。

なにしろ、ここ3ヶ月で私が出かけて行った場所や参加したしたさまざまなイベントや会合において、リーダー的な立場に女性が立っていることがほとんどまったくと言っていいほどないのです。私が行くようなイベントや会合というのは、大学関係、芸術文化関係、出版やビジネス関係、労働組合関係などですが、その業界や分野で活動している人全体のなかでは女性が比較的多いであろうエリアでさえ、女性が舵を取ってものごとを動かしているところにほとんど遭遇したことがありません。リーダーどころか、50人ほどの参加者がいるイベントに、私以外は1人たりとも女性がいなかったことも何度もあります。男子校を訪問したわけでもないのに、部屋いっぱいに人が集まっているところに入って、そこにいるのが全員男性だと、私にはものすごく異様な光景に映るのですが、日本で多くの分野で仕事をしている人たちにとってはそれがかなり普通のことなのでしょうか、その光景を特に異様だと思っているような様子も感じられないし、「おじさんばっかりだね」とか「女性が少ないね」とかいったコメントを参加者のほうから聞いたこともありません。

活躍している女性がいないと言っているのではありません。自分の知人友人を含め、非常に優秀で大きなビジョンのある女性がいろいろな分野で活躍していることは知っていますし、いわゆる「エリート」女性以外にも、派遣社員やパートタイマーなどを含め、今の日本の社会経済を支えている女性労働の功績は巨大なのもわかっています。しかし、あまりにもそうした女性たちの存在が見えないし、声が聞こえない。単なる労働者数の点からいっても、これだけ女性がいるのですから、それに相応する割合で女性がさまざまな場で発言するようになって当然じゃないでしょうか。もちろん、数合わせのためにとにかく女性を配置すればいいとか、とにかくリーダーを女性にすればよいなどとは言っていません。それでも、あらゆる場に女性がいることが普通の社会にはなるべきで、そのためには要所要所に女性が配置されることはとても重要だと思います。アメリカでも、ビジネスや科学や軍事など、分野によってはまだまだ圧倒的男性優位な分野がたくさんありますが、それでも、女性(そしてマイノリティ)がまったくその分野にいないのはよくないことであるという建前が少なくとも存在し、人工的な策をとってでも女性を積極的に採用したり参加を促したりしています。50人以上の会合に行って女性がひとりもいなかったなどということは、私はアメリカでは体験したことがありません。

といったことを考えていると、今日のニューヨーク・タイムズに、現代アメリカの女性の地位について論じた論説が載りました。筆者は、長年ウオール・ストリート・ジャーナルの記者と編集者を務めたのち、大手出版社コンデ・ナスト社でビジネス誌を創設し初代編集長となったJoanne Lipmanという女性です。第二次フェミニズムといわれる1970年代のアメリカ女性運動の功績によって、確かに女性はさまざまな分野で活躍の道が開かれるようになり、筆者自身を含めさまざまな分野で女性がリーダー的な地位に立つようにもなった。しかし、よくよくデータを検討してみると、そしてメインストリーム・メディアでの表象をきちんと見てみると、現代アメリカにおける女性の地位は驚くほど低い、との主旨。女性の所得や管理職につく女性の割合など、数量化できるデータにおいて女性の地位が明らかに低いのみならず、テレビやラジオやインターネットにおける女性をめぐる言説においても、信じられないほど前時代的な発言が平気でなされている、とのこと。

キャリアを築いてきた女性として、そしてリーダーの地位にたっている立場から、こうした状況を変革していくために彼女が出しているアドバイスがなかなか興味深いです。ひとつは、女性はもっと自分に自信をもち、つねに「よい子」であろうとすることをやめ、自分の要求や希望をはっきりと表明することをためらわないこと。(編集長である彼女のもとに、男性社員はしょっちゅう昇給を求めてくるのに対し、昇給を求めてきた女性はひとりもいない、とのこと。お金に関する態度の男女差については、同じ主旨のことを他でも読んだり聞いたりしたことがあります。)もうひとつは、ユーモアのセンスを忘れないこと。ここでいう「ユーモアのセンス」とは、日本で言う「ユーモア」とはちょっと違って、面白可笑しい冗談を飛ばすとかそういうことばかりではありません。難しい状況にあっても、一歩も二歩も引いたところから自分のおかれた状況やものごとの全体像をゆったりと見回す心の余裕を忘れずに、自分のことも周りのことも面白がって笑える態度を大事にする、ということです。どんなに正当な論を吐いていても、つねにキリキリして怒ってばかりいる人とは、やはり周りの人はつき合いにくいものです。次に、女性であることを大事にすること。フェミニズムや女性の地位向上というのは、女性が男性と同じになることを求めるものではない。女性には女性特有の文化や行動パターンや生き方があるのであって、それを大事にすることが社会全体が豊かになることでもある。そして最後に、職業の機会拡大や所得増大といった目標に力を注ぐなかで、本来もっとも大事なはずのこと、つまり、「尊敬を得る」ということを忘れないようにする、ということ。どんなに政治家や管理職や大学総長に女性が増えても、社会文化全体が、女性の基本的な尊厳を無視するような女性イメージをたくさん生み出しているようでは、本当の意味で女性の「地位」が向上したとは言えない。

まったくもってその通りです。女性の地位が向上するということは、弁護士の女性も、寝たきりで介護されるおばあさんも、子育てに専念する主婦も、お掃除のおばさんも、女子高生も、派遣OLもみな、男性にも女性にも尊厳と愛情をもって扱われる、ということでしょう。

「女性は『よい子』であろうとすることをやめる」という点に関連して、とくに日本の女性は、「『可愛く』あろうとすることをやめる」のがいいんじゃないかと思います。別に、可愛いことが悪いわけじゃありません。可愛いことで、本人も周りも幸せになることはたくさんあるし、可愛いか醜いかだったら可愛いほうがいいに決まっています。しかし、この論説にもあるように、そもそも女性の特性が「可愛い」か「醜い」かの二分化で考えられることがそもそも間違っているのであって、日本の女性に求められがちな「可愛さ」を追求しようとするあまりに、もっと大事なものを失ってしまっている女性があまりにも多いように私の目には映ります。そして、やたらと「可愛い」ことを要求するような相手や文化に対しては、「糞喰らえ」と言ってしまえばよいと思います。「可愛い」ことよりも、もっと大事なことがたくさんあります。「強い」とか「人の気持ちがわかる」とか「勇気がある」とか「賢い」とか「知識がある」とか。そういったことを真剣に追求している人は、自然に可愛くもあるものではないでしょうか。可愛さというのは、ひとつには謙虚さの顕われであって、本当に強くて賢くて人の気持ちがわかる人は、謙虚なものです。

それと同時に、「ユーモアのセンスを忘れないこと」と関連して言えば、日本においては、「おじさんと上手につき合うこと」がとても大事。自分で言うのもなんですが、私はおじさんの扱いが上手です。かなり無茶苦茶なおじさんとでも、自分の尊厳を損なったり主張を曲げたり相手に媚びたりすることなく(これが大事)、結構楽しくわいわいやって、自分の言うことを聞いてもらうのが得意です。世の中をおじさんたちが動かしている以上、これは大事なスキルです。どこでどうやってこうしたスキルを身につけたのか、自分でもわからないのですが、まあとにかく、それこそ状況を面白がって笑える「ユーモアのセンス」を忘れずにいることはポイントです。

書いているうちになんだか訳のわからない文章になってきましたが、とにかく、日本でもアメリカでも「フェミニズム」などという単語はまるで流行らなくなってはいるものの、個々の女性自身も、さまざまな組織も、そして社会全体も、女性の地位ということに関して、もっと正面切って取り組むことが必要だと思います。とりあえず、福島大臣には頑張っていただきたいです。

2009年10月25日日曜日

「市民感覚を強調」した判決理由に疑問

今回の帰国は、政権交代と同時に、裁判員制度の開始とも時期が重なったので、興味深くニュースを見ています。法制度については日本のこともアメリカのこともまったくの専門外なので、わからないことだらけなのですが、裁判についてのニュースを見たり読んだりする範囲では、アメリカの陪審員裁判との違いに驚くことが多いです。

今朝の朝日新聞に掲載された、「判決理由の表現 様変わり」という記事によると、裁判員が加わった裁判の数が増えるにつれ、裁判官が書く判決理由の書き方が、「市民感覚が生かされたことを強調する」「議論の経過や悩んだ様子を紹介する」ような表現に変化してきている、とのこと。この記事で例に挙げられている判決そのものについては、とくに異論はないにしても、この「市民感覚の強調」という点については疑問を感じます。「日々の生活に照らすと」とか「われわれの健全な社会常識に照らして」とか「一般的に抱かれるイメージは」とかいった表現が盛り込まれているらしいですが、「日常の生活」とは誰のどんな生活のことなのか、「われわれの健全な社会常識」の「われわれ」とは誰で、「健全」とは誰がどう判断するのか、「社会常識」を構成するものはなにか、「一般的」とは具体的にはなんなのか、「イメージ」はどのように形成されているのか、といったことがじゅうぶんに検討されることなく、究極的には定義不可能なこうした表現が法的な文章に使われるということは、かなり危険なことなのではないかと思います。法制度への市民参加を促すための裁判員制度を試行することはいいと思いますが、その過程において「市民感覚」を形成するものについての慎重な検討がないままそれが人を裁く材料として使われると、たいへんおそろしい事態も生みかねないと思うのですが、そうした議論はないのでしょうか。記事にももうちょっと突っ込んだ分析がほしいところです。(しかもこうした記事がオンライン版に掲載されないのが、日本のインターネット・コンテンツの困ったところです。)

2009年10月22日木曜日

州予算削減で学校閉鎖

ハワイ州では、州の大幅な予算削減に合わせて、さまざまなサービスを停止し、今後しばらくは月に二回金曜日に州の機関のオフィスごと閉めてしまう、という強硬手段に出ています。職員をこのように「一時解雇」することによって人件費を削減するほか、光熱費なども節約できるというわけで、似たような手段をとっている自治体はアメリカじゅうで他にもたくさんあるものの、公立学校を閉めてしまう、それも、学期中に授業を削減してしまうというのは、全国でも初めてのことです。英国のガーディアン紙にも取り上げられてしまうという不名誉な事態となっています。全国の統一学力テストの結果でハワイの生徒の平均学力は既にかなり下のほうに位置している現実のなかで、さらに17日間も授業を減らすなどということは、まったくもって信じられない状況です。ただでも、日本など世界の他の先進国と比べるとアメリカの公立学校は授業日数がかなり少ない(多くのアメリカの学校での授業日数は年間180日)のに、さらにこの事態。教育への投資を削減することは、短期的な収支の調整にはなっても、長期的な経済成長や社会基盤の発展にはマイナスになることは、誰が考えてもわかること。また、多くの家庭では、親が仕事に出ている平日に学校が休みになり、その日の子供の面倒は誰がみるのだ、という現実的な問題も抱えています。ハワイ時間の金曜朝には、この決定に抗議する生徒や親たち、地元の人々の抗議デモが、各地の学校そして州議事堂で行われ、私の大学の同僚がリーダーとなってその計画に携わっています。ちなみに州議事堂でのデモでは、ジャック・ジョンソンも演奏するらしいです。

2009年10月17日土曜日

アメリカの声を聞く

日本に来て早速手に入れ、愛用していたiPhoneが、金曜の朝、充電中に突然まったく反応しなくなり、あらゆるボタン(といっても押せるボタンは二つしかないのですが)をいじってみても電源すら入らなくなって、大パニック。慌てて渋谷のマックストアに行ったのですが、テクニカルサポートにはその日はすでに150人(!)もの人が列をなして待っているということで、予約がとれるのは月曜朝。iPhoneなしで週末を過ごしています。電話の機能もさることながら、カレンダーもアドレス帳も全部iPhoneに入っているし(これはまあ、パソコンに同じデータが入っているのでパソコンもクラッシュしないかぎりは大丈夫)、なんといっても、バスや電車の中で(なにしろ都心から遠いところに住んでいるので、移動時間が長いのです)iPodで音楽やアメリカのラジオ番組を聴くのが私にとっては生活の重要な一部なので、これがないのはとても辛く、途方に暮れてしまいます。

私は普段ハワイにいるときは、車を運転するとき以外にはまずラジオを聴きません。聴くラジオのうち98%くらいは、ナショナル・パブリック・ラジオ(NPR)(『現代アメリカのキーワード』参照)です。それも、ハワイは小さい島で、私は職場までも車で10分とかからないところに住んでいるし、用を足すにも30分以上車に乗ることはまずないので、聴くにしてもごく断片的にしか聴けないのですが、NPRの番組は質の高いものが多くて、話に引き込まれ、最後まで聞きたいので、目的地に着いてもしばらく車を停めて聞くこともあります。私はイヤホンをつける習慣がなく、日本に来るまではiPodすら持っていなかったのですが、こちらに来てからiPhoneでNPRを聴くようになって、普通にラジオを聴くのとはまた別の味わいがあるなあと感じるようになりました。車のなかで聴くとき以上に、話し手の抑揚やアクセント、リズムなどがものすごく生々しく伝わってくるし、なんだか会話の現場に自分が居合わせているような親密さがあるのです。こうして聴いてみると、同じ英語でも、アメリカの人々の声や発音には、年齢や地域、人種や民族(顔が見えず、話し手の人種や民族に直接言及がなくても、声でかなりの程度推測できるところがなかなか興味深い)、職業や社会階層などによって、実に多様なパターンがあるんだなあと改めて実感もします。(ちなみに、アメリカ人のあいだでは、政治思想的傾向によって、「イラク」という単語の発音のパターンがかなりはっきり分かれるという統計があるらしいです。)話の内容以前に、アメリカという国を構成する雑多な人々の声を聞くだけで、なんだか懐かしくなり、小田急線や神奈中バスの中で、ひとり別世界にいるような気持ちになります。

で、NPRのなにを聴くかと言うと、私の一番のお気に入りは、Terry Grossという名ホストが司会・インタビューをするFresh Air。これは政治・外交から映画・音楽にいたるまで、あらゆるトピックをカバーし、話題の人をインタビューする、割と正統的な一般報道番組ですが、Terry Grossの知性とユーモア、そして周到な準備で、聞いているだけでさまざまな問題への理解が深まります。ちなみに私は、「僕の理想の女性はTerry Grossだ」とmatch.comのプロフィールに書いている男性からメールをもらってデートに出かけたことがあります。(笑)

それから、Ira Glassという人物が企画・脚本・インタビューを手がける、This American Life。これは、毎回なにかひとつのテーマに沿って、それに関わる経験をした人をインタビューし、物語性のある構成に仕上げる、言うなれば人間ドラマ。ひとりの人の話だけでまる一時間使われることもあるのですが、話し手(これはたいてい「普通の」人間)の飾らない声や話しぶりと、編集の見事さで、実に引き込まれます。

そして、楽しい気持ちになりたいときに聴くのがCar Talk。これは、ハーバード大学のあるマサチューセッツ州ケンブリッジに住む兄弟がホストを務める、自動車の修理についての電話相談番組なのですが、そう聞いただけではとても想像できないほど面白いのです。バッテリーがあがってもジャンプスタートの仕方すらわからないほどの車音痴の私が好き好んで聴くくらい面白いのです。実際に兄弟が車についてテクニカルな話をしているときには、私にはなんのことだかさっぱりわからないのですが、一時間の番組のうちのかなりの部分は、兄弟間の、そして電話をかけてきた人との、軽妙でおかしなやりとりに費やされます。そのやりとりの多くは、自動車とはなんの関係もない、夫婦関係とか恋愛とか食べ物とかの話題。電話をかけてくる人も、実にいいタイミングとウィットで彼らとやりとりをするので、かかってくる人のうちどの人を番組に出すかというのをよほど慎重に選んでいるのかと思います。ちなみに私は最近のmatch.comの自分のプロフィールには、「私の役割モデルはCar TalkのホストのTom and Rayです。専門的かつ実用的な知識を持っていて、人の役に立つ、でも自分たちのことをエラいなどとは微塵も思っていなくて、とにかく楽しんで仕事をしている、そしてみんなを楽しい気分にさせる、彼らのような人間に私もなりたいと思っています」と書いています。

これらのPodcastは、すべて無料でiTuneからダウンロードできます。英語の勉強にもとてもいいです(名前は出しませんが、「PodcastでNPRを聴くようになって、英語のヒアリング力がずいぶん向上した」と言っている著名な人物もいます)ので、ちょっと聴いてみてください。ただし、「アメリカの多様な声を聞く」という意味では、リベラル寄りのNPRを聴くなら同時に保守系のラジオやテレビ番組も聴いたほうがいいのかもしれません。FOX Newsも無料でいろんな番組をPodcastしているようですが、私は混んだ電車のなかでさらにイライラしたくないので聴かないようにしています。

2009年10月15日木曜日

「正しい退出」

東京はすっかり秋らしい気候になりました。常夏のハワイから来ている私は、秋物の服がなくて困ってしまいますが(これから冬になるとますます困ります)、街頭で焼き芋を売っている光景を見ると、日本の秋を体験できることの幸せを感じます。

ハワイ大学で私が指導している大学院生が、ベトナム戦争で戦ったアメリカの退役軍人が個人的な「和解」や「癒し」を求めてベトナムを訪れる(その人たちの多くは、個人的な訪問にとどまらず、行方不明の兵士たちの捜査や、ベトナムとの民間外交などの活動にも積極的に参加する)ツアーについて、そうした訪問が退役軍人たちにとってどういった心理的な意味をもち、また退役軍人たちは現代アメリカにおいてどういった政治的・社会的立場にあって、彼らの声は外交や軍事をめぐる議論のなかでどのような位置を占めるのか、といったテーマの博士論文を書こうと、研究計画の草稿を作っているところなのですが、その指導をしている矢先に、イラク戦争で負傷したアメリカ兵士たちがイラクを訪問するというプロジェクトについての記事がニューヨーク・タイムズに載りました。軍人を支援する小さな財団が、軍の賛同を得て始めたそのプロジェクトは、その名もOperation Proper Exit、すなわち「正しい退出作戦」。すごい名前です。第二次大戦やベトナム戦争で戦った元兵士たちが、自らの戦争体験に区切りをつけるために、かつて自分が戦った戦場や駐留していた場所を訪れるというのは以前からあったことですが、現在も戦争が進行中の場所に元兵士が行くというのはこれが初めての試みとのことです。六月にも一組そうした元兵士たちがイラクを訪問したものの、それが彼らにどのような精神的影響を与えるかが不明だったため、その訪問についての情報は公開されず、今週一週間イラクを訪れた八人の元兵士たちが、このプロジェクトの第二団だということです。手足を失ったり失明したりといった重傷を負った兵士たちは、自分たちの負った傷は無駄ではなかったということを確認するため、あるいは精神的に区切りをつけるために、イラク訪問を希望するということです。自分が負傷したり戦友が死んでいったりした現場を訪れて、大きく動揺するいっぽうで、爆撃の音などがせず静かになった土地で人々が平和に生活している様子を見て、自分の犠牲が無駄ではなかったことを確認し、抱えていた心理的負担が軽くなる、ということです。

なんとも複雑で重い話です。上述した大学院生には、「ベトナムを訪れるアメリカの元兵士たちにとっての『和解』や『癒し』とは正確にはなにを意味しているのか、現在のアメリカ=ベトナム関係において元軍人たちの『交流』とはどういう意義をもっているのか、ということを丁寧に分析すべし」と言っているのですが、現在も戦争が続いているイラクにおいてのこうした訪問のもつ意味は、兵士たち個人にとっても、アメリカ社会にとっても、終結した戦争の体験を振り返ることよりもさらに複雑でしょう。いろいろなことを考えさせられます。

2009年10月8日木曜日

ハワイ大学 Teach-in



台風で授業を休講としたため、一日家でインターネットやテレビに向かっていたのですが、ちょうどいい(?)ことに日本時間の今日、私の普段の勤務先であるハワイ大学で、州知事が要求している大幅な大学予算削減に抗議するteach-inが行われました。約500人の教職員や学生たちが集まった、その模様をFacebookに投稿された数十件のポストやネット上の報道で見ることができました。

teach-inとは、大学などで、ある問題についてさまざまな立場の人の演説、発言、呼びかけ(そして音楽の演奏や詩の朗読など)に場を提供し、議論や行動を呼びかけるための公開集会で、とくにさまざまな学生運動が盛んだった60−70年代には各地の大学で頻繁にこうしたイベントが行われました。現在、州立大学であるハワイ大学は、不況の影響でこれからの数年間、年間7千億ドルを超える予算削減が必要と見込まれており、この削減額を満たすために州知事は、給与カットと健康保険料の自己負担分増加を合わせると実質14%にもなる収入削減を教員に要求するだけでなく、(終身雇用権をもつ教員を含め)一部の教員やスタッフの解雇、さらには学科やプログラム、学生のための各種サービスの一部をまるごと削減するといった可能性も示しています。既に古くボロボロで設備もふじゅうぶんな建物の教室には学生がぎゅうぎゅう詰め込まれ、教員はなんとかひとりひとりの学生に目が届くきちんとした授業をしようと懸命に頑張っているのですが、なにしろ授業の配布物をコピーするための予算も削られ、個人の研究室には電話もないような学科も少なくないなかで、これ以上の予算削減にあっては、研究教育機関としての機能はとてもじゅうぶんに果たせません。これからのハワイを担う人々に必要な知識やトレーニングを与える教育という社会基盤を切り崩すばかりか、研究開発を通じて経済活動の原動力としても重要な役割を果たしている大学の財布にここまで深くメスを入れては、中・長期的には経済的にも逆効果のはずです。といった状況のなか、数多くの教員や学生たちが見事な組織力を発揮してこの集会を計画し、そのなかでも私の所属するアメリカ研究学部の教員や大学院生たちの多くが中心的な立場に立って、仲間を動員し、雄弁に発言していたようなのが、とても頼もしく思います。カリフォルニア州立大学システムでも、大規模なストライキなどが行われ、全米の州立大学は似たような状況に置かれたところが多いのですが、今のアメリカの大学での「運動」の雰囲気を感じ取るために、ちょっとこれらのリンクを見てみてください。

http://ilind.net/gallery_2009/teachin100709

http://www.kitv.com/money/21232270/detail.html

http://kgmb9.com/main/content/view/21794/