2017年10月17日火曜日

日米のエリート大学比較 佐藤仁『教えてみた「米国トップ校」』

前回の投稿から再び長い時間が経ってしまいましたが、その大きな理由は、サバティカルのため8月末からロスアンジェルスでの生活を始めたからです。ロスアンジェルスといっても、住んでいるのはダウタウンから30マイルほど南下したところにある、世界最大の港であるロスアンジェルス港の目の前のサンペドロという町。戦前は日系移民の漁師がアワビを採っていたという歴史のある場所です。ホノルルとロスではありとあらゆることが大きく違って、考えること感じることが多く、時々違う環境で暮らしてみるというのはいいことだなあと、サバティカル制度のありがたみを再認識しています。

サバティカル制度が定着しているのが、研究大学と呼ばれるアメリカの大学の特徴のひとつですが、その関連で、昨晩から今朝にかけて一気に 読んだのが、佐藤仁『教えてみた「米国トップ校」』(角川新書)。この本、友達がフェースブックで勧めていたのですが、タイトルや帯の文句、目次に並んだ小見出しを見て、「うーむ、いろいろと文句をつけたくなりそうな本だなあ」と思っていた。いや、正直に言って、タイトルと帯だけで判断していたら、読まないことにしていただろう。なにしろ帯の文句は、「東大vs. アイビーリーグ 6勝4敗で東大の勝ち!?」。私自身の出版経験からいっても、 読者の目を引くために、帯の文句というのはあえてセンセーショナルに、小見出しというのも、丁寧な議論は差し置いてとにかく面白そうに、編集者や広報部がつけるものだ、というのは わかっているけれど、これはいくらなんだってえげつない。客員教授で授業をいくつか教えた経験と主観的な印象だけで乱暴な一般論を展開して、「やっぱり東大は世界に通用するんだ」などと言って日本の読者の愚かな愛国心を煽る本なんじゃないか、と勝手に想像していた。

でも、本の評価については(いや、本だけでなく映画や演劇や音楽その他人生全般についても)全面的に信頼している友達のオススメなので、タイトルや帯への生理的反応をあえて押し殺して、読んでみる(親切なことにその友達がわざわざ日本からロスに送ってくれたのです)ことにして本当によかった。Do not judge a book by its coverとはまさにこのこと。東大の東洋文化研究所教授である文化人類学者の著者(私と同い年で、同じ時期に駒場の教養学科に在籍していて、おそらく同じ授業を受講したこともあると思うのですが、直接の面識はありません)が、縁あってプリンストンで数年間客員教授として授業を教えた経験をもとに、日米それぞれでトップのエリート校とされている大学を比較したもの。東大を卒業してからアメリカの私立大学で博士号を取り、その後20年間州立大学であるハワイ大学で仕事をしている私としては、「『アメリカの大学』とかって乱暴に言われると困るんだよねえ」とか言いたくなりそうな見出しが目次に並んでいる。 しかし、読んでみると、いやはやそんな先入観をもって臨んだワタクシが悪うございました、と謝りたくなるくらい、著者の個人的な観察だけでなくいろいろなデータに基づいた、きちんとした議論がなされている。私自身が個人的な観察以外のなんの裏付けもなく抱いていた印象を覆すような情報もあり(例えば、東大生の親の平均収入は一般的には確かに高いが、年収750万円を下回る家庭からの出身者が2014年で3割を占めている、など)、勉強になった。入学審査の仕組み、カリキュラムや授業のありかた、学生の勉強への姿勢や時間数、教員の仕事のありかたなどについての、日米の大学比較は、とても丁寧になされていて、経験と観察から私がおおむね知っていたことでも、「そうそう」と頷きながら読んだ。

アメリカの大学のほうが圧倒的に優れている点(例えば、学生が一学期に受講する授業の数が少ないぶん、 要求される予習復習の量が多く、それぞれの授業の内容が質量ともに多いこと。「正解」を出すことだけではなく、提示された情報や議論に食いついて自分なりの議論を展開し、主体的に知を追求しようとする学生が多いこと。図書館司書やライティングセンターなど、 教育活動をサポートするリソースやシステムが充実していること。大学運営にまつわる事務作業の多くが、それを専門とするプロの職員に任されていること、など)については、「その通りでございます!」と拍手したくなる。

そのいっぽうで、プリンストンと比べて東大のほうが優れている点として挙げられていることについても、同感することが多かった。そのひとつが、学生と教員の距離。大学院生、とくに博士課程の学生については、コースワークと呼ばれる授業を超えて何年間にもわたってかなり綿密な個人指導をする(しない教員もかなりいるが)のでそうは思わないが、学部生と教員の関係については、私自身の経験で言えば、日本のほうが密、というか、パーソナルな感じがする。ゼミ合宿や飲み会といったセッティングの中で学生が教員と接する機会が多く(そもそもアメリカでは飲酒にかんする法的規制が強いので、大学教員が学部生と一緒にお酒を飲むということはほとんどない)、授業やオフィスアワーでの関係を超えて、ひとりの人間としての教員に触れることは、日本のほうが多いと思う。前の投稿で著書を紹介した亀井俊介先生は、私の学部時代の恩師で、卒業後25年以上が経過した今でも個人的に親しくしていただいているが、そういう関係はアメリカの教員と学部生のあいだではずっと少ない(教育を主眼においているリベラルアーツ・カレッジでは状況は違うと思う)。もっとも、著者の佐藤さんも私も、東大のなかでもカリキュラムが少人数授業中心となっている教養学科の出身だからとくにそう感じる、という要素はあるかもしれない。(東大でも、研究職に進んだ人は別として、 卒業後も長年にわたって学部時代の教授と個人的な関係をもっている法学部や経済学部の出身者はあまり知らない。)

アメリカの大学の問題点についても、深く共感。例えば、アメリカの大学における給与や報酬体系の理不尽さについては憤慨することが多く、私自身新聞記事で言及したことがある。 なにしろアメリカの大学ではまず、学部や分野によって給与のレベルがまるっきり違う。そして、いわゆる教員の「スター性」で採用時の契約内容がかなり違うし、教員のほうは、他の大学からのオファーをもらうことで昇給の交渉をしたり、研究その他の成果をそのまま給与に反映させようとして画策したりする。つまり、えげつなく徹底した資本主義的市場原理で大学教員の待遇が動いている。そんなのおかしいじゃないか。論文や学術書の執筆というのは、給料が上がるからするものではなくて、研究に情熱を抱いているからするものであって、その成果が形になって学界や世間で評価されればそれでじゅうぶんではないか。権威ある賞を受賞した人に何らかの金銭的な報酬を大学が出すのはある程度は自然なことだとも思うけれど、給与を上げることに画策する時間や労力があったら、肝心の研究に当てたい。そんな姿勢でいると、実際に給与はいつまでたっても低いままで、何年も、下手をすると何十年も後に入ってきた若手の教員のほうが自分より高い給与をもらっていたりする。 そんな状態は、学問の場としておかしいじゃないか。そしてまた、ふだんハワイ大学という、財源貧弱(といっても、回っているところにはどうやら結構回っているらしい、ということもわかってきた)な州立大学でふだん仕事をしていて、裕福な私立大学である南カリフォルニア大学でこの一年間を過ごしている私は、同じ「大学」という名前で呼ぶのもちゃんちゃらおかしいと思うくらいの大学間格差を目の前に突きつけられて、こんな状態は一国の高等教育制度として持続可能であるはずがない、とも強く感じている。というわけで、急速なネオリベラル化によってプリンストンのような極端に潤沢な名門私立大学さえじわじわと浸透しつつある大学の「会社化」を扱った第3章には、「そうそう、そうなんです!」と言いたくなる箇所がたくさんあった。

そして、私がやはり一番嬉しかったのが、本書は、日米の大学のありかたの比較(それ自体も面白いけれども、それだけでは「ふーん、なるほどねえ」で終わってしまう可能性もある)ということだけでなく、第4章では、水村美苗さんの『日本語が亡びるとき』の議論をふまえて、言語と学問の関係をしっかりと考察し、研究や教育の本質を考え、大学の「グローバル化」とはなにかという問題提起をしていること。単にアメリカの名門校のやりかたを真似したり、世界ランキングを上げるための表面的な制度改革をしたりするだけでは、日本の大学教育をめぐる根源的な問題は解決しない。日本の大学でだからこそできる学問のありかたを真剣に考えた上で、日本にも世界にも発信し貢献していけるような力をつけるための「心の開国」を促進する場に なるためには、日本の大学は何をしなければいけないか。その問いに、この本は真正面から取り組み、本質的でかつ具体的な提言をしている。著者の手を握りしめて、頭を上下に振りながら、「おっしゃる通りです!さあ、一緒に頑張りましょう!」と言いたくなる。

欲を言えば、もっと突っ込んで書いてほしかった、と思う点もある。とくに、アメリカの大学の入学審査における学生の「多様性」、とくに人種の問題は非常に複雑だ。「多様性」の追求が入学審査において具体的にどういう形をとるのか、そしてそうした入学審査のありかたがどういう議論を巻き起こしているのか、といったことを、歴史的、社会的、法的背景を含めてもう少し説明してほしかった。また、東大の学生そして教員の男女比率の問題についても、もっと議論してほしかった。そもそもなぜ大学が「多様性」を追求する必要があるのか、そもそも「公平」な入学審査とはなにか、そもそも大学のミッションとはなにか、といった議論に直結する問題だからだ。

また、 東大とプリンストンが日米それぞれの高等教育界においてどういう位置づけにあるか、そしてさらに、大学教育そのものがそれぞれの社会においてどういう位置づけにあるか、という文脈をもう少し説明してほしかった。真面目に勉強する「優秀な羊」が多いプリンストンの学生と比べて、東大生のほうが奇妙奇天烈な変わり者が多い、という観察は、一概には否定しない。ただ、なぜ一般的にアメリカの大学生のほうが日本の学生よりも授業の勉強や好成績を収めることに熱心なのかについては、卒業後の進路において大学での勉強がどのように評価されるか、を論じなくては不十分だと思う。(この点に関して、日本の就職活動のありかたについては、強く物申したいことがあるので、別の機会に書こうと思います。)


と、あれもこれもと言い出せばきりがないけれど、この本、なんと言っても、著者の知性や感性に加えて、学問や教育に対する真摯な情熱、 日本の大学そして社会がよいものであってほしいという素直な願望、謙虚で誠実な人格が伝わってきて、ぜひいつか、お食事をしながら日米の大学についてじっくり語り合いたい、という気持ちにさせられる。読むことを勧めてもらって本当によかった、という気持ちを世の中に還元するために、ここで強くオススメしておきます。