2010年9月28日火曜日

2010年度「天才」賞受賞者発表

毎年マッカーサー財団(John D. and Catherine T. MacArthur Foundation)という財団が「創造性と独創性に富んだ活動をし、これまでの業績からかんがみて将来も重要な貢献をする可能性があり、賞金を創造性のある活動に使う見込みがある」という基準で選ばれた約20名の人たちにMacArthur Fellowshipという賞を授与します。この賞は通称Genius Award、つまり「天才賞」として世間では知られていて、たいへんな権威と名誉があります。この賞を受賞するのは、科学者や歴史家に始まって作曲家や小説家など、ありとあらゆる分野にまたがっていて、受賞者には50万ドルの賞金がno strings attached(この表現は『性愛英語の基礎知識 』にも出てきますね:))、つまり使い方になんの制限もない形で与えます。芸術家や作家などは、この資金でしばらく生活の心配なく制作や執筆に専念できますし、文系の大学教授の場合は、大学の授業をしばらく休むまたは減らして研究に打ち込むことができます。多額の資金が必要な実験などをする科学者の場合は、50万ドルというお金は実際の研究資金としてはそれほど大した額ではないものの、それでもこの資金を使って研究アシスタントを雇ったり実験装置を買ったりして、さらなる研究を進めることができます。私の知り合いのなかでは、大学院時代に授業を受けた女性史の教授Mari Jo Buhleや、新進のアーティストとして注目されている立体芸術家Sarah Szeが過去に受賞しています。

今年の受賞者23名も、なかなか面白い顔ぶれ。なかでも私が個人的に興味があるのは、ジェファソンが関係をもっていたことが知られている奴隷の女性とその子孫の歴史を通じて、奴隷制や人種や性の複雑な歴史を解き明かした研究で知られている、歴史・法律の専門家、Annette Gordon-Reed。ブラウン大学のあるプロヴィデンス市で町の(多くは恵まれない環境で育っている)子どもたちのための音楽教育プログラムを運営しているSebastian Ruth。(Community MusicWorksというこのプログラムについては、Alex Rossが『ニューヨーカー』にとてもいい記事を書いていて、発売ほやほやの彼の新著『Listen to This』に収められています。)麻薬犯罪や政治腐敗にまみれたボルティモア市の複雑な現実を独特な手法で描いたテレビ番組『The Wire』(こちらではもう放映は終わってしまいましたが、これは無茶苦茶迫力があってとーっても興味深いですので、DVDで是非みてください)のプロデューサーで、作家・脚本家でもあるDavid Simon。受賞者はたいてい30代や40代の人が多いのですが、今回の最年長は、72歳で、活字フォントのデザイナーのMatthew Carter

こういった実にいろんな形の創造性や独創性、そして社会への貢献というものを評価し支援するのが、アメリカならではだなあと思います。

2010年9月27日月曜日

The Value of Hawai'i

昨日、私の親友が熱心に活動しているAmerican Friends Service Committee(クエーカー教会を母体とする社会奉仕団体)のハワイ支部のファンドレイジングの昼食会に行ったのですが、そこで、二年前に私のアメリカ女性史の授業をとった学生に会いました。かなり優秀な学生だったのですが、私が一年間日本に行っていたので、授業が終わってからは会うのが今回が初めて。私の姿を見つけると大きな笑顔でやってきて、「先生にぜひ報告しようと思っていたんですが、私は今Local 5でオーガナイザーとして仕事をしているんです。先生の授業でいろんな社会問題について考えるようになって、あの授業でpoliticizeされて、この仕事をするようになったんです」と言うので、びっくりすると同時に嬉しくて涙が出そうになりました。Local 5というのは、ホテルや飲食業などのサービス産業を中心とする労働組合(Hotel and Restaurant Employees International Union, HERE)のハワイ支部で、ILWU (International Longshore and Warehouse Union)という、もともと港湾業の労働者たちを組織してきた労働組合と並んで、ハワイでは二大組合として労働運動をリードしてきました。私の別の授業をとっていた、これまたとても優秀な学生がLocal 5でインターンをしていて、他の学生にも労働組合の役割や仕事を知ってもらうために授業が始まる前に五分間スピーチをさせてほしいというので、女性史の授業に来てもらったところ、昨日会った学生を含め何人かの学生がLocal 5の主催する学生向けのワークショップに参加し、彼女はすっかりやる気を燃やして、そのまま組合に就職してしまった、というわけです。彼女がいうpoliticizeというのは、直訳すれば「政治化する」となり、日本語にするといかにもどすぐろい政治にまみれる、といったふうに聞こえてしまいますが、こうした文脈では、要は、「社会のさまざまな力関係について政治的な問題意識をもつようになる」ということです。教育というのがこうして意味をもつことを実感できるのは、本当に嬉しいことです。

また、この昼食会のプログラムの一部では、高校生ふたりによるスポークン・ワードのパフォーマンスがありました。スポークン・ワードというのは、自作の詩を朗読するパフォーマンス芸術で、一部の若者のあいだでかなり流行っており、とくに社会問題をとりあげた集会などではよくスポークン・ワードのアーティストが公演したりします。で、昨日公演したのは、フィリピン系労働者階級の集まる地域で地元では「よくない学校」の代表としてレッテルを貼られることの多い公立高校の生徒。この学校の生徒たちに、ヒップ・ホップやスポークン・ワードを通じて、自分という人間や自分たちのコミュニティを大事にする自信とプライド、社会で活躍できるための学力、将来への希望を与えるプログラムがあり、私の知り合いや元学生が教えているのですが、ここで公演したのはそのプログラムのスター生徒。マイクの前に立つその姿には、ティーンエージャーらしいひたむきさ(と、表情のあちこちに垣間みられる生意気さ:))、そしてティーンエージャーとは思えない存在感があり、詩そのものにも、そしてパフォーマンスにも、文字通りこちらの身体ごと揺さぶるようなパワーがあり、私は心の底から衝撃を受けました。詩が扱う内容は、自分の男らしさを示そうとして軍に志願する従弟へのメッセージだったり、自分の顔や身体が気に入らなくて化粧や整形で自分を変えようとするガールフレンドへの切ない思いだったり、「こんな世の中だけど、私たちはしっかりやっていくから、心配しないで大丈夫」という大人へのメッセージだったりと、いろいろなのですが、こうした種類の詩というのはともすれば説教のようになってしまって文学性も面白味もないものになりがちなのにもかかわらず、このふたりのパフォーマンスは、内容的にもその語りにも、目をみはるような真実があって、圧倒されました。予算削減のために金曜日に学校が休みになってしまうようなとんでもない州の公立学校でも、こんな才能のある若者が育っているのだったら、たしかに将来も大丈夫かもしれないと思ってしまうくらい感動しました。

若者のエネルギーに感動する機会は、一昨日もありました。アート、LGBT、ハワイアン運動など、さまざまな形でコミュニティで運動している若者の団体が集まって開催したイベントに行ったのですが、このイベントは、発売されたばかりの『The Value of Hawaii: Knowing the Past, Shaping the Future』という本の刊行を記念して開催されたもの。この本は、不況で公立学校教育や各種公共サービスなどが大きな打撃を受け、ハワイの住民の生活の質がどんどん悪くなっていくなか、ハワイはなぜこうなってしまったのか、このコミュニティをより豊かで希望のあるものに変えていくにはなにをしたらよいのかを考えるために編集されたエッセイ集。経済や観光、軍にはじまって、公立教育や刑務所、ホームレス、DV、資源など、さまざまな分野で第一線で活躍している専門家たちが、それぞれ約3000語という簡潔なエッセイで、問題の歴史的背景と今後への提言をしています。序文でも説明されている通り、著者の視点やスタイルは様々ですが、共通する問題意識としては、(1)ハワイが経済的・社会的・倫理的に健全な道を辿るためには、先住ハワイアンの主権とくに土地の権利にきちんと向き合わなければいけない、(2)各種の公的規制や公的事業の崩壊はハワイのコミュニティにとってとてつもない悪影響を及ぼしている、(3)状況改善のためには政府や公共機関と民間セクターがよい形でパートナーシップを組むことが必要、という三点。ハワイに住んでいる人以外にはピンと来ないことも多いだろうとは思いますが、観光ガイドには見られないハワイのありかたがひしひしと伝わってくると同時に、「なんとかしなくてはいけない」という人々の思いが雄弁に語られてもいて、私はこの本を読んでいると、深い絶望と大いなる希望の両方をもらう気がします。ハワイのことに少しでも興味がある人は、是非とも読んでみてください。車の修理工場が集まるエリアにあるカフェで行われた一昨日のイベントでは、民主党の州知事候補となったNeil Abercrombie氏や州議会議員、州教育委員会のメンバーなど、ハワイの「大物」を集めたパネル・ディスカッションがあり、聴衆は老若男女実に多彩な顔ぶれが大勢集まっていて、熱気のある雰囲気。こうしたイベントを若者が中心になって企画する、ということ自体にも、私は希望をおぼえます。

ハワイに戻ってきてちょうどひと月がたちますが、アメリカそしてハワイの経済・社会状況は、日本にもまして暗いですし、社会階層の格差が人種や地域と濃厚に結びついて、これでもかという形で見せつけられるので、暗澹たる気持ちになることも多いのですが、そのいっぽうで、社会を変えていこうという人たちのエネルギー、そして組織力に実に関心させられることも多いです。良くも悪くも、絶望の度合いも希望の大きさも、こちらのほうがスケールが大きいような感じがしています。

2010年9月26日日曜日

大学院生から大学一年生へのアドバイス

現在ニューヨーク・タイムズで「もっともeメールされている記事」というのが、現役の大学院生から大学一年生へのアドバイスをいくつか集めたもの。アメリカでは新学年が始まって一ヶ月ほど経つところで、大学生活を始めたばかりの一年生も、興奮や緊張といった最初の感情がややおさまり、それと同時に大学に対して抱いていた憧れや恐怖といった感情も形を変え、授業のつまらなさや周囲の人間たちに失望したり、あるいは授業や同級生の話にまるでついて行けないことを認識したり、ここは自分がいるべき場所ではないと痛感したりする時期。初めて親元を離れて暮らすことでの自由や解放感を手に入れるいっぽうで、生活のリズムや精神のバランスを崩す学生も少なくありません。アルコールやドラッグ、そして若者特有の性文化のもたらす危険もあるので、アメリカで大学に旅立つ子どもを持つのは日本とはまた違った心配があるなあと、友達を見ていて思います。

『アメリカの大学院で成功する方法』でも説明しているように、アメリカの大学では、とくに一、二年生向けの授業では、教授による大人数の講義が週に二、三回あり、それに加えて大学院生のティーチング・アシスタントが週に一回、小人数グループでのディスカッションや実験の指導などをする、という形式が多く、その場合はティーチング・アシスタントがレポートの添削や試験の採点なども担当します。ティーチング・アシスタントは、学部生の勉強をもっとも実際的に手取り足取り面倒みる役割を担うと同時に、学部生に比較的年齢も近く、自ら学部生活を割と最近経験してきた立場なので(といっても、アメリカの大学では、教授よりもティーチング・アシスタントのほうが年上だったりする場合もそれほど珍しくはありませんが)、そうした視点からのアドバイスとなっていて、なかなか興味深いです。勉強に関することも、より幅広い意味での人生経験に関することも含まれていますが、アメリカならではのものもありますが、私が面白い(そしてその通りだ)と思うのが、「自分よりずっと貧しい、あるいはずっと裕福な環境で育った友達と交流すること」「自分と異なる宗教や人種の相手と『デート』すること」「大学の外に出て、その街のことを知る努力をすること」「教授でも学生でもない人たちと知り合うこと」「教授の研究のアシスタントをしてみること」「一日数時間は、コンピューターからも携帯からも離れて、じっくりものを読む時間を過ごすこと」といったようなもの。

私はバブルの時代に浮かれた大学生活を送ったので、大学時代については反省することが大いにあるのですが、そうした反省と、大学生を教える今の立場から、私が新入生にアドバイスをするとしたら...

*とにかく勉強すること
*人の輪に入っていることだけで安易に安心・満足しないこと
*ひとりでものを考える時間を大事にすること
*古典をしっかり読むこと
*自分のことを本気で指導してくれる教授を少なくとも二人見つけ、関係を築くこと(願わくばこの二人は分野や視点や世代や性別の違った人物であるとよい)
*就職などに直接役に立たない勉強をたくさんすること
*人と真剣に話をすること
*恥ずかしげもなく大きな夢をもつこと
*旅をすること


2010年9月18日土曜日

Kindle購入!!!

Kindleを買おうかiPadにしようか、しばらく悩んでいたまま決められずどちらも買わずにいたのですが、新しいKindleは値段もずいぶん下がり、レビューでも好評なので、次世代のiPadが出るまでこちらを試してみようと思って買いました。評判がよくてしばらく売り切れになっており、アマゾンで注文してから届くまでに2週間かかりましたが、箱を手にしてみてまず、その軽さにびっくり。この箱と同時に、アマゾンで注文していた紙の本が別の箱で届いたのですが、紙の本のほうがずっと重い。わくわくどきどきしながら箱を開けてみると、出てきたKindleは実に薄っぺらく、本当にこんなものに何千冊もの本が入るのかと、まったく電子情報というものの性質を理解していない人間の発想をしてしまう。また、スクリーンを保護するための透明シートが貼られているのですが、それをはがしても、画面に出ている画像や文字が、あまりにもマットな感じなので、私はてっきり、絵つきのシールがもう一枚貼られているのだろうと思って、しきりにはがそうとしてしまったのですが、実はそれはオフ状態での画面。そして、いよいよ電源を入れて画面に出てくる文字や画像も、それと同じでやたらとマットで、コンピューター画面に独特のチカチカした光がなく、ほんとうに紙面でものを読んでいるような感覚。

とりあえず何冊か本をダウンロードしてみようと、早速買ったのが、この3冊。ほんとうにボタンを押して一瞬にして本が手元に届くのがすごい。




どれも新聞や雑誌で書評を読んだり、ナショナル・パブリック・ラジオで聞いたりして興味があったものの、わざわざ日本にいるあいだに本を注文してまたハワイに送り返すほどすぐさま読もうとも思わなかったものです。ノンフィクション、小説、研究書と、種類の違う本をKindleで試してみるのもよいと思っての選択です。3冊めには写真も結構使われていますが、なかなかキレイに出てきます。この3冊のほか、雑誌のニューヨーカーのKindle上の定期購読も注文しました。

まだ手にして2日間しかたっていないので、新しいおもちゃをもらった子どものように、嬉しくていろいろいじっているところで、しばらく使ってみないことには冷静な評価はできませんが、今のところは大いに気に入っています。なにしろ軽いのがよく、持ち歩いたりベッドの中で読んだりするにはとても便利。他のアプリケーションをいろいろ使うならともかく、基本的に本を読むために使うのなら、iPadよりもこちらのほうがいいんじゃないかとちらりと思いますが、iPadを持ったことがないので、これはあくまでKindleを買って喜んでいる人間の意見。

本を読んで育ち、本を書く人間になった私としては、もちろん従来の紙の本にも強い愛着があるのですが、それと同時に、電子書籍のもつ可能性もすごいと思います。検索やメモとり機能も便利だし、送料や収納スペースなどを考えたら、これは大拍手もので、日本でも英語の本をけっこう読む人にとっては、とてもいいのではないでしょうか。

もうしばらく使ってみてから、また感想を報告します。

2010年9月16日木曜日

Food, Inc.

2年前に公開されて話題になっていたもののまだ観ていなかったFood, Inc.をDVDで観ました。前から友達にも薦められていたのですが、観るとなにも食べたくなくなるような気がして、なんとなく避けていたようなところがあったのですが、観てみると、やはりなにも食べたくなくなる...でも、それと同時に、恐ろしさと哀しさと怒りがこみ上げてきて、小さいことからでも行動を起こさなければいけない、という気持ちになります。

この映画は、現代アメリカの食品産業のありかたを取り上げたドキュメンタリー。ここ数年間に、Eric Schlosserの『ファストフードが世界を食いつくす』やMichael Pollanの『雑食動物のジレンマ』などの著書やそれをもとにした映画などで、アグリビジネス(ちなみに『現代アメリカのキーワード 』の「アグリビジネス」の項もどうぞ参考にしてください)の現状が衝撃的にレポートされてきましたが、この映画もたいへんショッキングです。前にこのブログでRuth Ozekiの小説『イヤー・オブ・ミート』について言及しましたが、私はこれを読んだとき、一瞬ベジタリアンになろうかと考えたものの、面倒くさがりの私はそのまま肉を食べ続けてきました。しかし、こういうものはやはり、映画という形でビジュアルを目の前にすると衝撃度が違います。

もともとジェファーソンの時代からヨーマンとよばれる自営農民を国民の理想としてきたアメリカでは、今でも農業というと中西部でオーバーオールを着たおじさんとおばさんが広大な農場でせっせと働いているといったイメージが強いものの、実際は、一般消費者が口にする食品のほとんどは、一握りの大企業によって「高度に」工業化された食糧生産によって、さまざまな形で加工されたもの。短期間に効率的に大量の食糧を生産するため、さまざまな技術を使って、急速に太らされた鶏が、自分の身体を足で支えられず、歩くこともできない、そもそも歩くような空間は与えられておらず、何万もの動物が窓もない飼育場にぎゅうぎゅうに詰め込まれそのまま屠殺場に送られる。牧草の代わりに廉価なトウモロコシが牛に与えられ病気を防ぐため抗生物質がどんどん投与される。

そういった現実は、隠しカメラで撮影された映像を含め実際の光景を目にすると確かにものすごい衝撃を受けますが、私にとってそれよりさらに憤りを感じたのは、農業に従事する人間たちのありかた。事実上の雇用主である大企業からのプレッシャーで、「効率化」を求めて次々と新しい設備や機械を購入しなければならず、巨額の借金を抱え(アメリカの平均的な農家は、50万ドルの借金を抱え、年間の収入は1万8千ドルだという数字が出てきたような気がしますが、そんなことって本当にありうるんでしょうか???)、企業の指示に従わなければさっさと契約を破棄されてしまう。翌年のためにと種をとったり、少しでも産業に批判的な発言をすれば、大勢の弁護士を抱えた企業に特許法違反や名誉毀損で訴訟を起こされ、裁判の費用だけで倒産してしまう。また、動物にとっても不健全で非倫理的な環境のなかで、屠殺などの危険な作業に従事するのは、メキシコなどから非合法移民でやってきている労働者たちで、労働基準法などに守られないまま何年間、ときには何十年間も低い賃金で働いた彼らは、移民局の摘発にあい強制帰国となっても、雇用者はなんの手助けもしない。そしてまた、真面目にせっせと働いてもまともな給料ももらえず、ゆっくりと料理をする時間も余裕もない消費者たちは、安いファースト・フードなどの食事についつい手を伸ばしてしまい、結果、低所得者層や人種的マイノリティのなかで、肥満や糖尿病が蔓延する。

といった調子で、観ていて実に暗い気持ちになるのですが、それと同時に、こうした状況のなかでも、農業の本来あるべき姿に忠実に、動物にも地球にも労働者にも消費者にも健全な農業を営んでいる人の姿や、食の安全を求めて政府に働きかける活動家の姿も出てくるし、我々一般の消費者が日常的にできることも具体的に提案(当たり前といえば当たり前のことですが、なるべく地元で作られた、無農薬・有機栽培の食品を、ファーマーズ・マーケットなどで買うこと、スーパーで食品を買うときにはどこで作られたもので、それに何が入っているのかちゃんとチェックすることなど)されているのがよいです。

日本にいるかたも、DVDやiTuneで観られるので、ぜひどうぞ。

2010年9月13日月曜日

ハワイの選挙戦と「ローカル」力学

昨日は、シアトルから休暇と講演を兼ねてハワイに二週間来ている知人がオアフ島の北側のビーチハウスを借りて滞在中なので、彼に会いに行ってきました。ブランチをしながら二時間ほどしゃべってさっさと帰ってくるつもりが、海と空があまりにも美しく、静かで平和なので、結局まる一日をそこで過ごすことになりましたが、フィリピン史の専門家であるその知人との会話も、芝生の庭で海を見ながら食べたサンドイッチも、ゆったりと流れる時間も、なにもかもが完璧で、頭も心も身体も幸せな一日でした。

アメリカでは十一月の中間選挙にむけてキャンペーンが繰り広げられていますが、ハワイでは、各党の候補者を選ぶ予備選が今週土曜日に行われます。各候補が掲げる綱領の内容ももちろんですが、選挙キャンペーンの形式というのも、日本とアメリカでずいぶんと違い、それを観察するだけでもなかなか面白いです。たとえば、車社会のアメリカでは、日本の都会であるような街頭演説というものはまずなく、演説や候補者同士の討論は学校や街の講堂などの集会で行われるいっぽうで、交通量の多い道路沿いや交差点付近で、候補者および支援者が候補者の名前をかいたサインを持って車で通り過ぎる人たちに向かって手を振る、というのがよくあるキャンペーンのひとつです。

さて、ハワイで今回もっとも注目されている選挙のひとつが、州知事選です。伝統的に民主党の強いハワイ州で、その伝統を破ってここ二期は共和党のLinda Lingleが知事を務めてきましたが、彼女の後任の座を民主党が取り戻そうとしています。民主党の最有力候補は、合衆国下院議員を務めてきたNeil Abercrombie氏と、ホノルル市長を務めてきたMufi Hannemann氏。このふたりのあいだの選挙戦が、ハワイという場所ならではの力学を垣間みさせてくれて、なかなか興味深いです。

私はまだ日本にいたときだったので直接は受け取っていないのですが、数週間前にHannemann陣営が住民に配ったチラシが、大きな話題をよび、各方面から強い批判を受けたために、Hannemann陣営はAbercrombie氏に謝罪をしチラシをネットから取り下げた、という経緯があるのですが、そのチラシはこういうものです。(なにしろ正式なサイトからは取り下げられているので、ここでリンクをつけているのは、ある人のブログに掲載されたものです。)チラシ一面を左右ふたつに分け、左側にHanneman氏、右側にAbercrombie氏の経歴などを対照させる形でリストしてあるのですが、ここでHannemann陣営が強調させようとしている二候補の違いというのが面白い。知事のポストなので、ワシントンで議員をしてきたAbercrombie氏と比べて、自分は地元コミュニティで大所帯のビジネス経営や管理に携わってきた実績を強調するのはともかくとして、ほうぼうから非難を浴びたのが、「パーソナル」そして「教育」の項目。「パーソナル」では、1954年ホノルル生まれのHanneman氏に対してAbercrombie氏は1938年ニューヨーク州バファロ市生まれであることに加えて、それぞれの結婚相手の名前が掲載されています。Hanneman氏が地元出身の(相対的に)若手であるのに対し、Abercrombie氏がアメリカ東海岸出身の70代であることを強調したことは明らかですが、さらに、妻の名前をリストすることによって、Hanneman氏が「ローカル」の非白人と結婚したのに対し、Abercrombie氏は白人女性を妻にもっている、ということを指摘した形になっています。また、教育の項目では、Hanneman氏がハワイの名門私立高校に通った後、ハーヴァードを優等で卒業し、また、フルブライト奨学生としてニュージーランドに留学したことが掲載してある隣に、Abercrombie氏はバファロ郊外の高校を卒業し、ニューヨークの大学を卒業し、ハワイ大学に通っていること(ちなみにAbercrombie氏は私が今仕事をしているアメリカ研究学部で学位を取っています)が示されています。ここに込められたmixed messagesがなんとも独特。『ドット・コム・ラヴァーズ』にも書いたように、ハワイでは「ローカル」というアイデンティティが非常に大きな意味をもっていて、その「ローカル」には人種や民族、階層といった意味合いがいろいろな形で絡んでいるので、とくに知事のポストを獲得するにはそうした「ローカル」との結びつきを強調することが重要になってくるのです。が、それにあたって、妻が白人であることはむしろマイナスに作用すると(少なくともHannemann陣営には)考えられているというのがハワイならではで興味深い。そのいっぽうで、Abercrombie氏の最終学歴がハワイ大学で「しか」ないのに対して、Hanneman氏はハーヴァードを卒業しているということを強調したいかのような、一種のエリーティズムも垣間みられる。住民の多くがハワイ大学の卒業生であり、ハワイ大学は運営が州予算に大きく左右される州立大学で、大学は州の経済や文化とも密接に結びついているなかで、ハワイ大学をバカにしているかのようにも受け取れるこの項目は、とくにほうぼうから批判を浴びました。他の項目でも、事実を曲解するような記述があり、Abercrombie陣営が抗議したのはもちろん、Hanneman氏の支持者からも「このチラシは趣味が悪く無神経でHanneman氏の広報にマイナスである」との声があがり、このチラシは取り下げられることになりました。たしかに趣味が悪く無神経で、おそらくHanneman氏のキャンペーンに悪影響を与えたと思われますが、ハワイという土地のありかたと「ローカル」アイデンティティの力学を垣間みるにはなかなか面白い素材ではあります。

2010年9月10日金曜日

ハワイで人身取引訴訟

私が戻ってきてからの2週間にハワイでもっとも大きな話題となっているのが、今秋に裁判が行われると決まった人身取引問題。人身取引を含む労働問題を専門とする私の知り合いが労働者側の弁護士のひとりとしてこれと関連したケースに取り組んできたので、私はなおのこと興味をもっています。

強制労働の共謀と労働者搾取の容疑で起訴が決まったのは、オアフ島のカポレイという地域で農場を経営するラオス人のSous兄弟。2004年にタイから多額の就職斡旋費を払わされた44人の労働者「輸入」し、虚偽の契約書に署名させ、契約書に定められた額よりも少ない賃金で働かせ、さらにさまざまな費用を賃金から差し引いて(その結果賃金がゼロまたはそれに近くなった労働者もいた)、経営者の指示に従わなければ強制的にタイに帰国させると脅迫した、とのことです。Sous兄弟は、連邦労働省に定められているゲストワーカー・プログラムに基づいてこれらの労働者を呼び寄せたのですが、このプログラムでは、雇用者が労働者の航空費を含む交通費を受け持つこと、また、国の最低賃金を上回る賃金を払うこと、そして、労働者に斡旋費を課すことを禁じることなどが定められています。しかしSous兄弟は、労働者の航空費を出さず、契約書に定められた賃金を支払わず、きわめて劣悪な住環境(貨物用コンテナに窓の穴を開けたものに住まわせられていた労働者もいる)のもとで労働者を強制的に働かせた、とのことです。

Sous兄弟はラオスから移民してきて以来、ハワイの農業に多大な貢献をしてきた「アメリカン・ドリーム」の象徴として、地元の人々の信頼や尊敬を集めてきていただけに、このニュースの衝撃は大きいものとなっています。

これと関連して、先週には、ロスアンジェルスを拠点とする人材派遣会社Global Horizons Manpowerが起訴されることが決まりましたが、これはアメリカ史上最大の人身取引訴訟となるそうです。この会社は、アメリカでよい労働条件のもとで仕事ができると約束してタイから400人の労働者を呼び寄せたのち、労働者のパスポートを取り上げ、雇用契約に違反し、指示に従わない労働者は強制送還すると脅迫した、というもので、Sous兄弟の事件と類似したケースです。

人身取引というと、中国などからだまされて連れてこられた若い女性がニューヨークなどで監禁状態のなかで売春婦として働かされる、というものを連想しがちですが、青空のハワイでこのような事件が起きているという現実には、はっとさせられるものがあります。

2010年9月7日火曜日

A Happy Marriage

ホノルルに戻ってからまだ1週間強しか経っていないにもかかわらず、すでに日本での生活はとても遠く離れたことのように思え、自分の日本での生活とハワイでの生活があまりにもかけ離れている、ということに改めて気づかされて、とても不思議な気持ちになっています。自分をとりまく自然環境、街や建物の様子、交通事情から、時間の流れ、周りにいる人の種類、自分の人間関係、会話の内容にいたるまで、なにもかもがまるっきり違う。そして、ついこのあいだまで私の生活を濃厚に構成していたありとあらゆることについて理解してくれうる人というのが、自分の周りには少ない。私の友達は知的好奇心旺盛で賢い人たちなので、話せば想像力を働かせて興味をもって聞いてはくれるのですが、やっぱり自分の日本の生活はここの文脈ではまるっきり関係ないことなんだなあと感じることのほうが多いです。もちろん、誰でも、自分の育った環境や家族を含む人間関係と、仕事や交友関係などで築き上げてきた現在の生活のあいだでは、異文化間移動のような感覚をもつことが多いのでしょうが、そうした異文化性は、実際に国や言葉や文化が違うところ同士だと一段と強く感じられるものなのだと、今さらながら感じています。

さて、せっかくのサバティカルなので、研究関係の本や論文に加えて、普段はあまり読む時間のない小説を読もうと、Rafael YglesiasのA Happy Marriageを読みました。ナショナル・パブリック・ラジオのFresh AirでTerry Grossが著者をインタビューしているのを聞いて興味を持って買ったのですが、読み終わってもう一度インタビューを聞いてみると、さらに感動がありました。この作品は、著者と2004年にがんで亡くなった妻の30年間にわたる結婚生活についての自伝的小説で、著者曰く、滑稽なこと、恥ずかしいこと、みっともないことなど、小説に描かれていることはすべて事実にもとづいたもの。20代のふたりが最初に出会ってあっという間に恋に落ちる、その若者ならではの情熱と欲望とそれをめぐる滑稽さ、そして50代で死を前にした妻と最期のときを過ごしながら、愛情や結婚や家族や死について模索する著者の思いが、実に率直に書かれていて、アッパーミドルクラスのニューヨーカーの生活感覚は想像できなくても、素直な共感をもって読みました。恋に落ちるときの興奮と混乱(若い主人公の頭のなかの描写はとても微笑ましい)や結婚生活についての苦悩、中年期に入って妻への愛情を新たな形で再確認・再発見する過程、そして生や死について、この文化ではこういうふうに言葉で表現するのだったと思い出しました。題名が示すとおり、結婚をおおいなる現実味をもって描きながら、強い希望を感じさせてくれる作品です。

2010年9月1日水曜日

クライバーン財団、新会長が就任

ホノルルでの生活に戻るにあたって、身の回りのものを揃える(といっても、私物は置いてあったのでそれほどないのですが)ための買い物をしていると、これまた日本との違いを再認識します。スーパーがなにしろでかく、売っているものもいちいち分量が多い。私は日本にいたとき、「独り暮らしには絶対に日本のほうが便利だ」と強く感じたものですが、それは、スーパーで売っている食料品の単位が小さく、独り暮らしにちょうどいいからです。1回か2回の食事でちゃんと使い切る分量になっている。そのぶん買い物にしょっちゅう行かなければいけないし、家族のいる人は1回の食事のために肉や魚のパッケージをいくつも買わなければいけないでしょうし、逆の不便もあるものの、食料がムダにならなくてよい。こちらでは、肉はすぐ使わないぶんは冷凍しておくにしても、野菜などは、使い切る試しがなくて、いつももったいないなあと思いながら残りを捨ててしまうのです。

また、金物屋(?)に電球を買いに行くと、包みもせずに剥き出しのままの電球をそのまま渡されるので笑ってしまいます。電球といっても、小さい丸電球ではなく、天井につける大きなU字型の電球で、包むといっても難しいし、どうせすぐ外に停めてある車に乗せるのだから、たしかに包装などしてくれなくてもいいのですが、車まで持って行くときに、ふたつのU字型電球をぶつからないように両腕に下げて歩いているのもちょっと滑稽な姿だし、日本だったらU字型だろうが何字型だろうが、丁寧に包んでくれるだろうなと思うと、なんだか可笑しかったです。

大学では、留守中に届いていた学術雑誌の山を前に目次に目を通したり、必要な本を探しに図書館を歩き回ったりしていると、「よーし、勉強するぞー!」というやる気が湧いてきます。正直言って、ハワイ大学は、アメリカの他の大学と比べてとくに知的な空気が充満しているというわけでもないのですが、それでも、アメリカの大学には「勉強しよう」と思わせる独特な雰囲気があると私は思います。また、私が帰ってきたのを喜んでくれる同僚や友達もたくさんいるし、とくに今私のいる学部の同僚は9割がたが、ビジョンとやる気を共有した仲間たちなので、財政やスタッフの不十分という構造的な問題を除いては(これがたいへん大きな問題なのですが)、仕事環境としてはとても恵まれていると実感します。

さて、話題は変わって、クライバーン財団です。クライバーン・コンクールを現在のような国際的に権威のある芸術イベントに、かつ多くの市民に支えられ地域コミュニティに根ざしたイベントに育てあげた、リチャード・ロジンスキ氏が、2009年のコンクールを最後に辞任し、今度はクライバーン・コンクール誕生のきっかけとなったモスクワのチャイコフスキー・コンクールの運営に携わるというニュースが出たことは『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール』の最後で書きました。ロジンスキ氏の他にも、重要なポジションについていたスタッフの何人かが、それぞれ別の理由でクライバーン財団を次々に辞め、財団は大きな転換期を迎えています。とにもかくにも、コンクールの運営責任者かつ財団のさまざまな活動を総括する財団長が決まらないことには、次回のコンクールを含め長期的な運営計画が立てられない。そして、ロジンスキ氏の実績が示したように、財団長次第でコンクールも財団全体も大きく成長できる(いっぽうで、まったくダメになってしまう可能性もある)。というわけで、財団理事たちは、ふさわしい人材を世界から公募し慎重な選出を行っていたのですが、このたび新財団長が決まりました。就任が決まったのは、David Chambless Wortersという人物。

Worters氏は(私と同じ)42歳。ボストン郊外で育ち、母親はジュリアードでヴァン・クライバーン氏の師でもあったロジーナ・レヴィン氏に師事したピアニスト。デイヴィッド氏本人も子どもの頃からピアノを学び、ニューイングランド音楽院の予科に通って高校卒業時には賞をとったものの、大学では音楽の道には進まず、ハーヴァードで経済学を専攻。ハーヴァード在学中に、全米最古の男声合唱団であるハーヴァード・グリークラブに在籍し運営に携わったのが、アート・マネージメントにかかわるきっかけとなる。その後、Boston Musica Vivaという室内楽団、そして24歳のときに北西インディアナ・シンフォニー・オーケストラの運営に当たり、シラキュース・シンフォニー・オーケストラを5年間運営した後、1999年からノースカロライナ・シンフォニーの会長を務めてきた、という人物です。この経歴をみても、アート・マネージメントに携わる人々は、仕事のあるところを転々としてキャリアを築いていく(日本と違って、アメリカで「転々とする」というのは国内でも時差のあるような距離を移動するわけですから、かなりのおおごとです)のだということがわかります。ロジンスキ氏ももともとはテキサスとは関係のない人であるにもかかわらず、フォート・ワースというコミュニティの特性を深く理解し、自ら地域の生活にコミットして強いネットワークを築き、クライバーン・コンクールを世界的かつ地域的なイベントに育て上げていったわけです。新会長の指揮下で、クライバーン・コンクールが、そしてクライバーン財団全体が、どういう方向に進んでいくのか、見るのが楽しみです。自分と同い年の人が運営しているかと思うと、さらなる親近感をもって注目しそうです。