2011年1月27日木曜日

大人の遊び場「国際子ども図書館」

今日は、国際子ども図書館というところに行ってきました。こういうものが存在するということを知ったのはつい先週。調べものをするために国会図書館のウェブサイトを見ていたときに見つけました(国際子ども図書館は、国会図書館の支部図書館ですが、場所は国会図書館とは違って上野公園内にあります)。「絵本の黄金時代 1920〜1930年代 子どもたちに託された伝言」という展示をやっているというので、それを観るために行ったのですが、まずは、図書館の建物にびっくり。およそ子ども図書館らしからぬ雰囲気とサイズの、レンガ造りの明治建築。なんでもこの建物は、シカゴのニューベリー図書館などをモデルに、1906年に創建された帝国図書館の建物を再生・利用したそうです。新建築は安藤忠夫も担当しているということで、なるほど、新しい部分の外観や通路の様子は、クライバーン・コンクールのときに行ったフォート・ワースの近代美術館とよく似ている。で、建物の次に驚いたのが、子ども図書館にしてはやけに黒いスーツを着たおじさんがたくさんいること。日本のおじさんもずいぶん文化的になってきたのかしらんと思いきや、なんと美智子皇后が見学ということで、私たちが会場に入るときにちょうどエレベーターに乗ってお帰りになる姿をちらりと目にしました(天皇陛下の姿は見えませんでしたが、「いったいなにごと?」という表情をしている私に、SPのおじさんが「陛下」という言葉をそっと口にしていたので、おふたりでいらしていたのかもしれません)。

で、その展示は、そのタイトルの通り、絵本の黄金時代といわれる1920年代から1930年代のアメリカとソ連の絵本の展示なのですが、なかなか面白いです。歴史・社会的な背景の解説にかんしては、ソ連の部分のほうがアメリカの部分よりも分析的で充実していると思いましたが、全体としては、まさに絵本を通して子どもたちに世界像を示すという熱のこもった多様な絵本が見られてよかったです。ただ、いくつか注文をつけるならば、(1)なぜソ連の部分で、順路が革命後のソ連からロシア時代に逆行するようになっているのかが不明、(2)作家や出版についてだけでなく、流通や消費、つまり、これらの絵本がどういった読者層や子どもたちにどのような場でどのような形で読まれていったのか、という説明もほしい、(3)絵本の中身が展示してあるところでは、文の訳や物語りのあらすじの要約がほしい、(4)せっかく子ども図書館での展示なのだから、もう少し子どもに親しみやすい展示の作りにしたらどうか、といったところ。もっとも、(4)にかんしては、明らかにこの展示は子どものためのものではないので、見当違いの批判かもしれません。この展示は、あと一週間で終わってしまうので、興味のあるかたはお早めにどうぞ。来月からある「日本の子どもの文学」という展示も面白そうなので、また行こうと思っています。

しかししかし、この図書館は展示を観るためだけに行くのはあまりにももったいない。3階の「メディアふれあいコーナー」では、コンピューター画面で観る「絵本ギャラリー」というものがあり、私はこのごく一部を観ただけですが(それでも画面の前にゆうに15分以上は釘づけ)、これが拍手をしたくなるくらい実によくできている!実在の絵本をもとに、さまざまな視覚・聴覚的な工夫が凝らされていて、子どもも大人もとても楽しめるし、それぞれの作品についての解説なんかもじっくり読めます。私はこの「絵本ギャラリー」を全部観るために通い続けたいくらい。そして、2階の資料室では、日本そして外国で刊行された児童書や関連資料があり、所蔵資料の大半は書庫にあるらしいのですが、開架の部分だけでも、驚くべき数と種類の本が手に取って見られます。よくもここまで集めたものだと思うくらいの世界の絵本(北朝鮮の絵本とか、アゼルバイジャンの絵本とか、パキスタンの絵本とか、字は読めなくても眺めるだけでもたいへん面白い)や、大正・昭和の日本の児童書、唱歌集(「赤い旗」というプロレタリア童謡集を私は床に座り込んで読んでしまいました)などなど。児童文学や翻訳文学にかんする研究書もそろっています。

というわけで、子ども図書館でありながら、知的な刺激に満ちた大人の遊び場みたいなところです。もちろん、実際に子どもを対象にしたさまざまな工夫もなされていて、1階の「子どものへや」や「世界を知るへや」では、実際に子どもがありとあらゆる本を手にとってゆっくり読める(貸し出しはなし)ようになっているし、おはなしや読み聞かせなどのイベントも開催されています。しかも無料(展示も入場無料です)!文化政策の研究をしている身としては、日本の税金がこういう結構なものに使われていることを知るのはたいへん嬉しく、「おー、日本も頑張っているなあ」という気持ちになります。こんなところで、展示やイベントの企画をする仕事ができたらどんなにか楽しいでしょう。

というわけで、せっかくある素晴らしい施設ですので、是非とも足を運んでみてください。

ウガンダで同性愛者活動家が殺される

アメリカの福音主義教会の影響を背景の一部として、ウガンダで反同性愛者の気運が高まっているニュースについては以前に投稿しましたが、同性愛者のリストを掲載した『ローリング・ストーン』というタブロイド紙の一面に「絞首刑にしろ」という文句とともに顔写真が載ったゲイの活動家、David Kato氏が、ハンマーで殴られ死亡した、とのニュースが出ました。Kato紙をはじめとするゲイの活動家たちは『ローリング・ストーン』紙に対して訴訟を起こし、ウガンダの高裁で勝訴していたものの、同性愛者が学校などで子供たちに手を伸ばしているといった噂は世間でひろまり、同性愛者に対する偏見が強まると同時に、議会では反同性愛者法案も審議されている最中のことで、ウガンダそして同性愛者への反感が強いアフリカ全体で、同性愛者たちに大きな恐怖を与える事件となることは間違いありません。もちろん、アメリカ福音主義教会が直接この事件を引き起こしたわけではないとはいえ、背後にその影響があるのも事実で、今後こうした教会や団体がこうした問題についてどのような立場をとっていくのか、注目していきたいところです。

2011年1月26日水曜日

レオン・フライシャー

今日はサントリー小ホールでレオン・フライシャーを聴いてきました。(今私が住んでいるところからは、なんとサントリーホールまで歩いて行けます!)この演奏会について私が知ったのは年明けに日本に着いてからのことで、ましてや小ホールだし、まさかチケットは残っていないだろうとダメもとで問い合わせたところ、まだぽつぽつと残っているということに驚き。日本ではレオン・フライシャーはそれほど大物扱いされていないのでしょうか?

フライシャーは、ピアニストとしての絶頂期にあった30代のときにジストニアという病気で突然右手が使えなくなり、以後40年間にもわたって、左手のみを使うピアノ作品の開拓や、指揮・指導にあたり、クラシック音楽界ではとても重要な存在となってきました。数年前から再び両手の演奏をするようになり、右手復活後に『トゥー・ハンズ』というタイトルのCDも録音しています。すでに80歳を過ぎた大ベテランですが、このCDを聴いて私はぜひ生演奏を聴きたいと思いました。おまけに今日のプログラムには、ブラームス編曲によるバッハのシャコンヌが入っているということで、チケットが残っていたことに大感謝。私はブゾーニ版をせっせと練習中(もう何年間「練習中」が続いているかわかりませんが、音楽というのはそういうものだ、という説明にしておきましょう)ですが、左手だけのために編曲されたブラームス版はブゾーニの華麗な交響楽的な音楽とはまったく別の種類の迫力のある作品。これをじっくり聴くのも、ブゾーニ版を弾くのに役立つはず。

と、たいへん期待していたところ、前日に連絡があり、フライシャー氏の右手の調子が悪いので、曲目を一部変更するとのこと。半年ほど前に右手の手術をし、手術自体は成功したものの、その後の回復が期待していたより遅く、親指に重みや力をかけられないため、やむなく一部の曲を変更し、一部の曲は妻のキャサリン・フライシャーとの連弾となるとのこと。この変更のために参加をキャンセルしたい場合はチケットを払い戻しできますと、わざわざサントリーホールから電話がかかってくるあたり、さすが日本のサービスはすごい!客席にちらほら空席があったのは、もともと空いていたのか、プログラム変更によりキャンセルした人が出たのか、判断つきませんが、とにもかくにも、本日のプログラムは以下の通り(*印がついているものは連弾)。

バッハ/ペトリ編曲 羊たちは安らかに草をはみ
イェネー・タカーチ 左手のためのトッカータとフーガ
*ブラームス 愛の歌 作品52a
バッハ/ブラームス編曲 シャコンヌ
*シューベルト 幻想曲 ヘ短調 D940
*ドヴォルザーク スラブ舞曲集から 第6、10、8番

「羊たちは安らかに草をはみ」は、クライバーン・コンクールでヨルム・ソンが弾いたのを聴いて昇天するような気持ちにさせられた曲(詳細は拙著をご覧くださいね)で、『トゥー・ハンズ』のCDにも入っているのですが、これはもう、生で聴くほうが比較にならないほどよく、初めの数音を聴いた段階で涙が出そうでした。澄んで優しく穏やかな旋律と和声の曲なのですが、フライシャー氏の触るピアノから出る音は、なんといっても音色が素晴らしい。そう思って聴くからそう聴こえるのかどうかわかりませんが、人間としても芸術家としても苦悩の年月を経ていろいろなものを模索してきた大ベテランだからこそ生み出せる、シンプルにして果てしなく清らかで優しい音色で、この一曲を聴いただけでも、来てよかったと思わせてくれました。

フライシャー氏の両手のソロはこの一曲だけで、あとのソロはタカーチと、例のシャコンヌ。タカーチは私は初めて聴いた曲ですが、当初このコンサートで演奏されるはずだったバッハの「半音階的幻想曲とフーガ ニ短調BWV903」からインスピレーションを得て書かれた曲ということで、バッハ風の対位法と20世紀的な和声がなんともユニークで、そのダイナミックさを左手だけで表現してしまうところがすごい。シャコンヌももちろん素晴らしかったのですが、私はつい聴きながらブゾーニ版を頭のなかでなぞってしまい、演奏を聴くことにじゅうぶん集中できなかったのが悔しい。自分が練習している曲そのものを聴くなら、その演奏の全体の構成にも細部にももっと集中して聴けるのでしょうが、練習中の曲の違う編曲の演奏を聴くというのはなかなか曲者だということがわかりました。

連弾のほうは、ブラームスは、正直言って私には訳がわからなかったのですが、これは私が曲に馴染みがないからなのだろうか、それとも他に理由があるのだろうか。なんともふにゃふにゃとして説得力に欠ける音楽だと思ったのですが、そういう曲なんだろうか、それとも演奏のせいなんだろうか。シューベルトとドヴォルザークはよかったので、連弾がよくないというわけでも、急なプログラム変更で準備がじゅうぶんにできていないというわけでもなさそう。ほんとはとてもよい演奏だったのを、単に私が理解できなかったのかも。

アンコールで演奏された、スクリアビンの左手のためのプレリュード9の1は、アンコールでなくプログラム本体のなかで演奏してほしかったというくらい(アンコールで悪いことは別にないのですが)深みのある演奏でした。

ちなみに、今日はサントリー大ホールのほうでは新日本フィルの演奏があったようですが、ホール周辺の聴衆をざっと見回したところ、ピアノ・リサイタルのほうは女性が多く(それでも、前にアンジェラ・ヒューイットを聴きに行ったときと比べると男性が多かったような気もします)、オケのほうは男性が圧倒的に多いように見えましたが、それって日本のクラシック音楽の聴衆のパターンとしては一般的なことなのでしょうか?

とにかく、そんなこんなで、私はアメリカ研究者としては恥ずかしながら、まだオバマ大統領の一般教書演説を見ておらず、それに関しては本日はコメントできません。あしからず。

2011年1月19日水曜日

渡辺裕『歌う国民』

渡辺裕『歌う国民―唱歌、校歌、うたごえ』 (中公新書)はむちゃくちゃ面白い。以前に同じ著者の『日本文化―モダン・ラプソディ』をとても興味深く読みましたが、この新作も、読み出したらやめられない吸引力があります(ので、私は他にしなければいけない仕事がいろいろあるのに、昨晩から今日にかけて一気に読んでしまいました)。分析が鋭いと同時に思考が柔らかく人間的で、語りかけるような文体(ですます調で書かれているのには具体的な理由があるというのが「おわりに」で説明されていますが、理由はともあれ、読んでいると面白い授業を聴いているような気分になり、書かれていることがすーっと頭に入ってきます)から、読者に対する敬意と、伝えたいという意思が感じられます。具体名は出しませんが、私には読者をはなから馬鹿にしているとしか思えないような新書が賞をとったりしていますが、本書は真に受賞に値する本だと思います。渡辺裕氏はすでにサントリー学芸賞はとっている(し、現在は同賞の審査メンバーのひとりでもあるらしい)ので、大佛次郎賞とか小林秀雄賞とか吉田秀和賞とか、そのあたりを是非。だめなら、吉原真里賞を差し上げましょう。賞金なし、副賞は授賞者とのお食事。

この本は、明治期に数多く生み出された唱歌から戦後の「うたごえ運動」まで、日本全国で普及した「皆で歌う」という行為の政治的・社会的・文化的な意味を、歴史的に追ったものです。

まずもって、この「皆で歌う」ことの日本における一般性は、それだけでもなかなか面白いものです。この本を読むと、この「皆で歌う」という行為自体の背景に、西洋をモデルにした近代的国民形成という非常に強いインセンティヴが働いていたことがわかりますが、少なくとも現代のアメリカでは、日本ではよくある、(いや、この本を読むと、現在ではそういうことがなくなってきているらしいということがわかりますが、私の知っている一時代前の日本では)一般の人々がごく自然に声を合わせて唱歌や合唱曲を歌ったりするということは、まずありません。(教会の聖歌隊やコーラスに入っている人は別。)私のアメリカ人の音楽家の友達でも、私が日本人の友達と一緒にいるときにふと「は〜るの〜うら〜ら〜の〜」などと歌い出し、しかも事前に相談したわけでもないのに自然にハモり出したりすると、日本にそういう音楽文化があるということにかなり驚くようです。また、『ドット・コム・ラヴァーズ』の最後に出てくる「ジェフ」に私がバスケットボールのことを教わっていたときに、「アメリカのバスケットチームにはチームソングはあるのか」と聞いた(バスケを見始めてかなり初期の段階でこの質問を発した)ところ、「なんたる日本人的質問!」と笑われたのも覚えています。(日本人の感覚からすると、チームスポーツ観戦に歌がないなんて、違和感がありませんか?)最近ではアメリカでもカラオケがけっこう流行っていたりしますが、それはあくまでも一人一人が得意な歌を披露したり自己満足に浸ったりするためのもので、ときどき聴衆が合いの手を入れるようなことはあっても、「皆で歌う」文化とはずいぶん違うものです。まして、ポップなものでなく、学校で習うような曲(そもそもアメリカの学校には音楽の授業がないところが多いので、学校で曲を習うということも少ない)を大のおとなが大勢で声をそろえて歌う、というような状況は、めったなことではありません。あるのはイベントの際の国歌斉唱くらい(これが唯一の例外であるということがまた象徴的)。

で、この本は、いかにして日本人のあいだでこの「皆で歌う」という行為がここまで普及したのかということが説明されているのですが、その歴史には驚くこといっぱい。そもそも「唱歌」とか「童謡」とかいったものが、我々が一般に連想するような、無垢でちょっとセンチメンタルなものとはずいぶん違った起源や意図から生まれていたのでした。つまりそれらは、曲によって程度の差こそあれ、近代的国民の育成や皇国史観の植え付けのためのツールとして作られたもので、そうした唱歌斉唱を一般国民の音楽教育の中心に据えた明治政府にとって、音楽教育とは純粋芸術の追求といったものとはまったく別のものだったのでした。けれども、そうした、国家による上からの操作というのは、「歌う国民」の歴史のごくひとつのベクトルでしかありません。著者がこの本を通じて何度も強調しているように、いわゆる「国民音楽」の誕生と変遷にみられる「日本文化」とは、国家の他にもさまざまな人々や勢力が、それぞれのコンテクストで複層的に関与し、古い伝統や新しい考えをぶつけ合いながら作りかえていく、そしてときにはその本来の形を生み出した人たちの意図とは似ても似つかないものにしてしまう、ダイナミックなプロセスであるわけです。そうしたことが、卒業式の歌、校歌、県歌、労働者の歌といった事例の分析から、とても鮮明に示されていて、「へえ〜」と思うことしきり。とくに卒業式の章と校歌の章が面白かったですし、県歌の章を読んだときには、YouTubeで「大いなる秋田」をチェックしてしまいました。また、「うたごえ運動」を扱った最終章を読むと、なぜ私の母やそのきょうだい・親戚がやたらとコーラスをやるのか、歴史的に理解ができた気がしました。

ただし、ひとつ注文をつけるなら、歌というものを論じるにあたって、話が歌詞に集中しすぎている気がしました。「みんなが歌える」曲のジャンルの性質上、音楽的にそれほど斬新なものは存在しにくい、また、こうした曲の存在意義は「芸術」としての音楽にあったわけではない、というのは納得できるのですが、歌の話である以上、もうちょっと、旋律や和声の作りとか、編曲とか、歌詞以外の話がもうちょっとあってもいいように思いました。学生時代に皆で歌った曲のイントロの部分を聴いただけでセンチな気持ちになってしまったりするのは、そういった感情を喚起しやすい音楽性にもあるのでしょうから、その音楽性とはなにか、という解説がほしい。

とにかく、なにしろ面白いので、ぜひどうぞ。日本の話ではないですが、前に紹介した映画『Singing Revolution』と一緒に考えるとなおさら考えさせられるでしょう。

2011年1月17日月曜日

Facebookは日本で普及するか?

このブログで何回も言及している、ソーシャル・ネットワーキング・サイトのFacebookについての記事が、今朝の朝日新聞に載っています。(オンラインのソーシャル・ネットワーキング・サイトであるFacebookの記事が、紙の新聞に載っているのにオンライン版では見つからない、というところがなんとも。私の探し方が悪いのでしょうか?)私自身はたいへん楽しく使っているものの、私はFacebookのまわし者ではないので、日本でFacebookが流行っても流行らなくても別にいいのですが(ただし、「友達」はある程度の数いないと、Facebookは使っていても面白くない)、世界では5.8億人のユーザーがいて、友達同士のコミュニケーションだけでなく、政治・社会運動などでもおおいに活躍しているツールであるにもかかわらず、これだけハイテク文化が浸透している日本ではまだFacebookユーザーは200万人に満たないというのは、なかなか興味深い文化現象だと思っています。ミクシイやツイッターは流行っているのに、Facebookはいまひとつ、という背景には、やはり日本では実名を使ったネット上の通信に対する警戒心が強いからではないかと私は思います。ありきたりな説明ではあるものの、それ以外に理由が思いつかない。

ちなみに、私の現在のFacebook上の「友達」は200名ちょっといますが、そのうち日本人は50余名。その50余名のなかにも、現在アメリカその他の海外に在住中の人や、日本在住で外資系企業に勤めている人、いわゆる「帰国子女」で海外にたくさん友達がいる人など、基本的に英語ベースでFacebookを使っている人も多く、今改めて数えてみたところ、海外生活経験のない日本人のFacebook「友達」は4、5人しかいません(そもそも名前をアルファベット表記でなく漢字表記にしている人が2人しかいない)。映画「ソーシャル・ネットワーク」(私はまだ観ていません)が日本でも公開されていることだし、この先日本でもFacebook型のネットワーキングが普及していくのかどうか、興味のあるところです。ちなみに、一週間ほど前に、ニューヨーク・タイムズでも、日本でFacebookが流行らないことを扱った記事が載りました。あまりにもアメリカで流行っているだけに、日本人が乗って来ないのは奇異なことと映るのでしょう。

芸術支援を考える

今日は、潮博恵さんというかたにお会いしてきました。潮さんのウェブサイトで、私の『ヴァン・クライバーン 国際ピアノコンクール』をとても的を射た形で紹介してくださっているのを少し前に発見したのですが、その際に潮さんのウェブサイトを探索したところ、それだけで私はすっかり惚れ込んでしまい、「この人には是非会わなくてはいけない」と思って連絡をとらせていただいたのです。潮さんは、銀行勤務を経て、現在は行政書士のお仕事をしながら、日本のオーケストラなどの芸術活動の支援をなさっているかたです。近年はとくに、マイケル・ティルソン・トーマス率いるサンフランシスコ交響楽団(SFS)にたいへん入れ込み、芸術的に最高レベルの演奏をしながら、地域社会におけるオーケストラの役割やメディアを通した芸術活動を先進的な形で開拓しているにもかかわらず、日本の聴衆にはあまり知られていないSFSの活動を、ウェブサイトで多面的に紹介なさっています。私の著書を好意的に紹介してくださっているということは差し引いても、文化政策や芸術支援の日米比較を現在の研究テーマとしている私は、潮さんの活動にとても興味があるので、それだけでも是非お話をうかがいたいと思ったのですが、それに加えて、なんといっても潮さんのウェブサイトが素晴らしい。形式としても、見やすい、わかりやすい、妙に可愛らしくない(サイトの種類にもよりますが、概して私は可愛らしさを強調したようなウェブサイトを見るとイライラしてくるのです)。そして、コンテンツ面を特徴づけるのが、過不足ない情報量、ポイントを絞ったコメント、そして感性あふれる文章。私は自分のサイトを作るときに、かなり多くの人のサイトを見比べましたが、潮さんのサイトは私のなかではとても上位ですので、ぜひ見てみてください。

実際にお会いした潮さんは、ウェブサイトから想像したとおりの、魅力的で興味深いかたでした。SFSに興味を持って、「じゃあ今週末聴きに行こう」とだんなさまを誘っていきなりサンフランシスコまで飛んで行ったり、プラハでSFSを聴きに行った後でたまたま飛行機でティルソン・トーマスとSFSの事務局の人と乗り合わせたので、コンサートの感想を話しにいったのがきっかけでSFSの関係者と交遊ができたりという、驚くべき行動力と積極性に感服。私も行動力と積極性があると人にはよく言われるほうですが、潮さんは数ランク上です。潮さんが詳しく紹介しているSFS制作のKeeping Scoreというドキュメンタリー・プログラムは、私も数本観たことがありますが、これは本当によくできていて、私は夢中になって観てしまいます。アメリカの公共テレビで放送されるときには、ドキュメンタリー部分しか放送されないのが普通ですが、DVDだと演奏がまるごと観られるので、そちらがおすすめです。が、ドキュメンタリー部分はオンラインでも観られますので、ものは試しと思ってとにかく観てみてください。

というわけで、潮さんから、これからの私の研究におおいに役立ちそうな情報をいろいろ教えていただきました。クライバーン・コンクールについて学ぶ過程で、芸術と地域コミュニティの関係ということをたくさん考えるようになりましたが、社会が芸術を育むとはどういうことか、今後いろいろな視点から勉強していきたいと思っています。

2011年1月12日水曜日

アリゾナ銃撃事件追悼式典

6人の死亡者と14人の負傷者を出したアリゾナ州ツーソンでの銃撃事件は、政治との関連が明らかではないものの、近年移民法などをめぐって政治的に大きく分裂してきたアリゾナが舞台であったことから、アメリカじゅうに大きな波紋をよんでいます。現地で行われた追悼式典に出席したオバマ大統領の演説が素晴らしいです。とくに最後の10分が素晴らしい。犠牲者たちとその周囲の人々への哀悼の意を示しながらも、事件の原因を単純化せず、2001年9月11日に生まれた9歳の元気いっぱいな女の子を含む犠牲者たちがアメリカという国にたいして抱いていた期待に恥じないような社会にしていこうと、国民すべてに語りかけるその演説は、その言葉においても論理においても感情においても、感動せずにはいられません。ここで説かれるcivilityとは、「品性」とか「礼節」とかいったふうに訳せるでしょうが、この単語の形容詞形であるcivilが、「市民の」「公の」「国家の」「社会の」といった意味でもあることを、深く考えさせられる演説です。ああ、オバマ大統領のパワーはこういうところにあったのだ、と思い出されます。日本のテレビではまるごとは放送されないでしょうから、ぜひこちらで観てみてください。

2011年1月9日日曜日

余は如何にして吉原真里となりし乎




数日前に東京に到着しました。今回はなにしろ千代田区三番町の住民なので、前回の町田市小山田桜台とは同じ東京都内とはいえ別の国に来たような感覚です。到着の翌日は友達との飲み会で、会場までなんと私は徒歩で数分。小山田桜台のときは、夜遅くに電車とバス(バスがなくなる時間に帰るときはタクシー)を乗り継いで家に帰ることを考えただけでどっと疲れたものですが、今度は解散後15分でパジャマ姿になることができます。今日は天気がよかったので、皇居一周ジョギングをしてきましたが、これも家から乗り物に乗らずに行けてすばらしい。皇居周りのランナーについては噂は聞いていましたが、たしかに実に多くの人が走っているものですねえ。

さて、昨日、実家に行って物置を探検。探していたもの(ある人にもらった手紙)は出てこなかったのですが、それを探す過程で、思わず「うわっ」と声を出してしまうようなものにたくさん出会いました。幼稚園から小学低学年にかけて習ったバレエで使ったトーシューズとか、大学入試の模試の答案とか、大学の授業のノートやレポートとか、就職セミナー(新聞記者志望だったので、小論文の講座に通ったことがあった)で添削された作文とか。なかでもメインなものは、日記の山と、手紙の山。どちらもハワイの自宅にも山ほどあるのですが、実家にあるのはそれより前のもので、日記は幼稚園から大学まであります。自分で読んでいてあまりにも面白いので、山ごと現在の住居に持ってきました。

幼稚園のときのものは、かわいいやら、いじらしいやら、可笑しいやら。中学・高校のときのものは、読んでいてなかなか辛くなるものがあります。思春期の女子というのは、芽生える自我やうずまくホルモン、競争心や嫉妬心がないまぜになって、実にややこしいものですねえ。それでも、自分の将来や社会について、真剣に体当たりで考えていたらしい姿勢に、自分で感動。(笑)男の子にかんする記述もやたら多い(そして、失礼ながら、何度も記述があるにもかかわらず、今は「これって誰だっけ?」と名前すら覚えていない人もいる。同じく、「これって誰だっけ?」という男性からもらったラブレターも何通か出てきました)のですが、いかに数学が嫌いかという記述が何度となく繰り返されているのにも驚き。勉強していると、イヤでイヤでたまらず一人で大泣きして自分で発狂するんじゃないかと心配していたことまであったらしいです。そこまで嫌いだったとは...自分で一番驚きだったのは、大学のときの日記です。当時のボーイフレンドとの関係について、後から自分の頭のなかで形成されている記憶と、日記に切々と綴られた思いが、重なる部分とかなり違っている部分があって、驚きました。10代になってからの日記は、とても人に見せられたものではないのですが、以下一部抜粋。

幼稚園時代(注:カトリックの幼稚園だったので、「おいのり」とか「しゅわれをあいす」とかいう用語が登場するわけです)

「今日ようちえんで入えんしきだった。あたらしいおつぼみさんがとてもかわいかった。おいのりをしたりうたをうたったりしてとてもたのしいしきだった。かえっておいしゃさんごっことがっこうごっこをした。ピアノのおけいこをしてむずかしいとこがたくさんあった。リズムきょうしつにいってあたらしいうたをならってとてもおもしろかった。」

「ようちえんにいった。おたんじょう会だった。かえりにようこちゃんとしゅとうのちゅうしゃをみせにいった。かえってひるねをした。ピアノのおけいこをした。今日はだいぶいい子だったとままがゆってくれてちょっぴりうれしかった。ままはいつもおこるけどほめてくれるときもときどきあるのか。(きのうとおとといとしこおばちゃんがとまりにきてうれしかったけどけさ会社があるのでけさかえった)」

「ようちえんにいった。ようちえんでヤクルトのびんで木をつくった。ホールで「しゅわれをあいす」と「一年生になったら」のうたをならってかんたんだったのでけろっとおぼえちゃった。ピアノのおけいこをした。」

「今日は卒えん式の日です。むねにばらをつけていった。せんせいたちがないてもうたはしっかりうたいましょうというやくそくなので、おかあさんたちはないたけれど子供たちはうたはしっかりうたった。まりはせいきんしょうをもらった。ピアノのおけいこにいった。テクニック(52)ラジリテー(0)バロック(0)がおわった。かえってピアノのおけいこをした。」

「昨日東京にかえるときに、くにちゃんとじゅんこちゃんと昌子おばちゃんがいっしょにきたので今日かまくらにいった。はちまんぐへいったり大仏をみにいったりして、しゃしんもたくさんとった。かえりに東京タワーにいった。ゆうがたはとてもさむかった。かえってすぐくにちゃんたちはほかのおばちゃんのところにいってうちはさみしくなった。」

自分で言うのもなんですが、幼稚園児にしてはなかなかな論理力と表現力ではないですか!(笑)この頃の日記にはほぼ毎日ピアノの練習のことが書かれていて、いかにピアノ中心の生活を送っていたかがわかります。

小学一年生

「今日は学校で「つくしこい」という字をかいた。まりは5重丸だったのでとてもうれしかった。5重丸を上からみると6重丸にみえた。いえにかえってピアノのおけいこにいくのでおさらいをした。ピアノのおけいこにいって3つの小曲の1ばんと2ばんがとてもじょうずだとほめられたけど、3ばんはこんど半分のところが30かいになったのでとてもたいへんだとおもった。」

「今日は学校で「しろいくも」という字をかいた。さんすうのじかんは本の5と6をした。まだみんなだしてあるけど、まりは100てんだといいと、いつもおもっている。かえって一年のかがくがきていたので、そわそわしていたので、バレエをおやすみした。ばんごはんのとき、カレーのおにくがかたかったので、うごいていたはが、ぬけてしまった。ピアノのおけいこをした。ちょっとぐずぐずゆった。」

「今日は、しゅうぎょうしきです。私は、一年の代ひょうで、しきのときつうしんぼをもらいにいきました。それから、私は学きゅういいんになりました。しば田さんはほけつで、男はまつのくんですぎ本くんがほけつです。つうしんぼは5がいっぱいあったので、「みせてはいけません」といわれたけれどついみせてしまいました。それでかえるとき山本さんにきいてみたら、山本さんは、5が1つもなかったそうです。私はうれしくて、はしってかえりました。ママにほめられました。」

なんたるイヤな優等生。(笑)

中学二年生

「真里は将来どんな生活するんだろう。いろんな人の生き方見て、あんなのもいい、こんなのもいいと思うけど、でも人の真似っていうか、人と同じ生き方したくないナ。自分は世界中に一人しかいないんだ!そう思える仕事がしたい。」

中学三年生(注:私がアメリカから帰ってきて中二で転入した学校は、中高一貫の私立校なのですが、いろんな意味で実に変わった学校で、同じ高校に上がるのをやめて別の学校を受験しようかと考えていた時期があった(らしい)のですが、結局そのまま上にあがりました。学校に迷惑がかからないように補足説明しておきますが、その学校は、私が卒業してからずいぶんと校風や体質が変わったそうですし、また、私はいろんな文句はありながらも、中学・高校ではずいぶんいい思いをさせていただいたと思っています。今の私にとっての一番の親友は、中学・高校時代の友達です。)

「うちの学校、やっぱおかしいよ。(中略)遊んでて東大は入る人とかわずかでもいるらしいけど、そういう人はやっぱ生まれつき頭のいい人でしょ。真里そうじゃないし。今は真里、女子でトップくらいだから、ヌルマ湯につかってるって感じで、ダメだし。(中略)うちの学校、校長の力が絶大すぎてふつうの先生の意見なんかなんの意味も持たない。せっかくいい先生沢山いるのに、学校そのものがちっとも変わらないんだもん。もったいない。それから、人数が多すぎて個性が尊重されない。一人一人が生きているってことを忘れてるみたい。それからネー、なにかっていうと大学大学っていうのも気に食わん。そりゃ進学校に入った自分が悪いのかも知れないけど、中学選ぶ時点で大学のことなんか考えてる訳ないじゃん。中学えらぶのはほとんど親だよ。それをなんとなく入れられて、だんだん学校の方針に感化されていって、とにかく大学に行くってことになる。どこでも今じゃ「当然」なのかもしれないけど、当然じゃない生き方へのあこがれってないのかナ。」

高校一年生(名前は伏せておきますが、Xとは当時のボーイフレンドです。YとZは女の友達)

「私さ、誰ともつきあっていないときは私の考え、私の行動はすべて「私」だったんだけど、最近みんな私のことを私でなくて「X」としてみるんだよね。私がなにをするにしても、Xに関連づけて見られてさ。私はXになってしまっているの。Yも「真里、最近考え方変わったね。Xの影響かな」とか言うしサ...そりゃ、つき合ってりゃ明るくなるけどさ、そう簡単に影響されて考え方まで変わっちゃうもん?「変わった」とか言われると、私のこと知り尽くしてるみたいな言い方しないでって言いたくなるよ。とにかく、そういう色メガネで見られるのはイヤだ。Xの話しててひやかされるのはいいんだけど、真面目な話まですべてXとくっつけないで。って言うか、私は私であるんだから...」

「私は将来何をするんだろう。そればっかり最近考えてるよ。大学行って何を勉強して何になるんでしょうか。Zみたいに目標が決まってるというのは大変羨ましい。そりゃ前途は長いだろうけどさ、道はあるんだから、それを進むべく努力をすればいいでしょ。私は一体全体なにをするつもりなのかしら。私は将来外国に行ける仕事がいいな。それもスチュワーデスとか添乗員とか人に仕えるんじゃなくて、もっと自分が豊かになるような取材とかしたい。みんなは外交官になれと言うけれど、まあなれるなれないは別として、そうだね、すごくいいけど、疲れそう。私は何を求めているんだろう。今、なんのために勉強しているの?」

高校三年生(注:学校が進学校で授業をしっかりやっていれば入試対策になるようになっていたので、私は予備校にはほとんどまったく行かなかったのですが、直前の冬休みだけ講習に通ったようです(よく覚えていない)。河合とは河合塾のこと。結局、うすっぺらな知識のまま大学に入ってしまいました)

「河合はなかなか刺激的です。私はやっぱりもう一年勉強したほうがいいんじゃないだろうか。浪人した方が身のためじゃないだろうかという気になったりする。だって、世界史にしろ現国にしろ、私なんかその場限りの答案作ること目的にしてやってる感じだけど、どの科目もものすごく奥が深いし、私には全然ものごとがわかっていない。もし運よく大学受かったとしても、そんなうすっぺらの知識じゃ大学行ってもイミがないんじゃないだろうか。浪人したりとか高校三年間ホンモノを見つめて勉強してきた人たちとは器が違うんじゃないだろうか。そういう気になってくる。やっぱり受験勉強じゃなくて、受験勉強で得た知識をもとに自分の頭で何かを考えたり感じたりできなきゃイミがないと思うし。私は人に解説してもらったこととかはへーえなるほどと感心するけど、自分で考えること、まだできない。こんなじゃ受かんないだろうし、受かったとしてもホントじゃない。そう思う。」

「そんなに新人類新人類と非難めいた眼をして異様なものを見るように言わなくてもいいと思いませんか?新人類は努力が嫌いだ、新人類は感性でものごとを判断する、新人類は個人主義だ、新人類は無責任だ、etc.etc.etc. そうでしょうか。我々は社会がいろいろひずみを負ってる中で、人間の生き方とかものの価値観とか友情とか恋愛とか社会問題とかに、ぶつかっては悩み、悩んでは努力してはいないでしょうか。たしかに国家意識はうすい。けど大人の人たちだって、なにも日本のことを考えて社会のことを考えて毎日働いて飲んでる訳じゃないでしょう。世代間のギャップ、そんなに大きいでしょうか。いつの時代にだって大人は若者をその野方図さと自由と無責任がゆえに非難しながらも、若さに対するかすかなあこがれをもっていたのではないでしょうか。何でもかんでも新人類。流行やファッションが変わるのはあたりまえです。」

大学時代のものは、人にお見せするようなものではないので、省略しますが、こうして見ると、自分がどうやって今の人間になったかということが、わかるようなわからないようなで、深く考えこんでしまいます。それにしても、手紙もそうですが、幼稚園の頃から毎晩鉛筆やペンを握って自分のやったことや考えたこと感じたことをせっせと書き綴っていたというその事実こそが、今の自分ともっとも直結しているようでありながら、そのことは私はすっかり忘れていました。

ちなみに、日記の他にも、1981年から1986年にかけて読んだ本の記録というのもあって、これもなかなか面白いやら恥ずかしいやら。それ以降は、読む本が多すぎていちいち書き留めることもなくなってしまったのですが、ずっと記録をとっていたら、なかなか面白かったのではないかとも思います。

2011年1月2日日曜日

自分をよくしてくれる結婚がよい結婚 & Young@Heart

あけましておめでとうございます。ハワイは日本より19時間遅れて2011年に入りました。大晦日の夜は眺めのいい丘の上のテラスのある家に住んでいる友達のところで花火を見、元旦は友達(『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ジェイソン」のボーイフレンドで、彼は「ローカル」の日系人です)が毎年作ってくれるお雑煮を食べながらのパーティをし、その後でたまったカロリーを少しでも消費するためジョギングに行きました。お正月に青空のもとをジョギングできる気候は実にありがたいものです。

さて、昨日から今日にかけて、ニューヨーク・タイムズの「もっともeメールされている記事」の一位になっているのがこの記事。以前にも何度も投稿しているように、ニューヨーク・タイムズには、この手の、恋愛や結婚についての記事がかなり頻繁に掲載されるのですが、今回のタイトルは、The Happy Marriage Is the "Me" Marriage、訳せば「幸せな結婚とは『私のための』結婚」といったところでしょうか。単に長続きする結婚というのではなく、お互いに満たされた幸せな結婚、いうなれば「精神的に持続可能な結婚」というのは、要は、ふたりのそれぞれが、相手から得るものが多く、その結婚によって自分の世界が広がり自分がよりよい人間になっていると感じられる結婚である、というのが主旨。結婚生活をうまく続けていくには、自分の要求は抑えて家庭のニーズや相手の都合を優先させるのが重要、と考える人が多いけれども、ここで紹介されている研究によると、実際に満たされた結婚生活を長期間続ける人というのは、相手やその相手との関係によって、自分が新しいことに出会ったり、視野が広がったり、自分の目標達成に近づいたり、自分がよりよい人間になったりしていると感じられる人、だということ。要は、相手が自分のことをきちんと理解して自分をさらに高めてくれ、さらには、自分も相手にとってそういう存在であると感じられる関係が、「持続可能な関係」だということです。自分の結婚がどのくらい「持続可能」であるかを自己評価するためのクイズまでついています。

当たり前のようでいて、なかなか考えさせられます。日本に出発に向けて家を片づけている最中に、友達にもらった手紙が詰まった箱が何箱も出てきたのですが、そんなことをしている場合ではないと思いつつもつい開けて手紙を読んでしまう。今では通信はメールばかりになってしまいましたが、便せんに手書きの手紙をせっせと書いて郵便で送っていた時代もあったのだ(そして、私の大学院時代は、勉強が苦しくもあり孤独でもあり娯楽が乏しかったこともあって、実にたくさん手紙を書いていました)ということだけでも感慨深いのですが、いろいろな友達の手紙の内容がこれまた濃厚で新鮮。なにも考えずちゃらちゃらしたバブル期に成人してしまったことに悔いも多いのですが、これらの手紙を読むと、私たちは私たちなりに(というか、私自身はともかく、少なくとも私に手紙をくれた友達は)一生懸命ひたむきに仕事や勉強や恋愛に取り組んでいたんだなあということがわかって、なんだか妙に感心。そして、大学院時代のボーイフレンドにもらった手紙を入れた特別の箱というのがあり、私は引っ越しや掃除をするたびにその箱を開けては手紙を読み返し、おいおいと涙してしまうのですが、今回もそれをやってしまいました(引っ越し前にそんなことをしている場合ではまったくないのですが...)。苦しい時期を共に過ごして、苦労も喜びも共有し、また、若いときらしく、自分の良いところも悪いところもさらけ出し合ったつき合いだったからこそ、絆が強くもあり、深く傷つけ合うこともあった関係だったのだということを、20年近くたってあらためて認識します。あの頃の自分の恋愛は、お互いの良いところを引き出して高め合う関係でもあったけれど、それと同時に、お互いの一番醜い部分を引き出してしまう関係でもあったと思います。その後自分が経験した恋愛のなかには、なぜだかわからないけれど自分の嫌な部分ばかり出てしまうような関係もあったので(年齢と経験を重ねるにつれ、さすがにそういう関係には早めに終止符を打つことを学びました)、それと比べればいい関係だったと思いますが、お互いを高め合う関係を継続的に培っていくのには、やはり大きな努力が必要。そういう努力が続けられるふたりが、満足度の高い実りある関係を維持できるのでしょう。

さて、関係ないですが、私が2011年に最初に観た映画(といっても、映画自体は2007年のものでDVDで観たのですが)は、Young@Heart。これは日本でもDVDが手に入るので、是非とも観ていただきたい。マサチューセッツのノースハンプトンという大学街周辺で活動を続ける高齢者コーラスを追ったドキュメンタリーなのですが、高齢者コーラスだからといって、教会の聖歌隊(に同時に入っているメンバーもいますが)や、日本の典型的なママさんコーラスのようなものを想像してはいけません。平均年齢80歳のこのグループが歌うのは、なんと、ジミー・ヘンドリックスや、ボブ・ディラン、ジェイムス・ブラウン、ソニック・ユースなどのロック・ミュージックばかり。音楽監督を務めるのは、いかにもノースハンプトンに住んでいそうな現代のヒッピー風のお兄さん(年齢的にはおじさんですが)で、歌詞を覚えられなかったりリズムをつかめないおじいさんおばあさんには容赦なく厳しい言葉をビシバシと投げかける。身体的に無理なことはもちろんさせないと同時に、舞台上でのパフォーマンスに恥じないレベルの曲作りを要求し続ける。おじいさんおばあさんたちも、訳の分からない大音量の曲に最初は戸惑いながらも、練習を続けているうちに曲の本質を見事にとらえて、身体ごとグルーヴィーな歌声をあげる。なにしろ80代のメンバーが多いグループなので、長年仲間に愛されてきたメンバーが活動の途中で入院したり亡くなったりすることももちろんあるのですが、そうした仲間に哀悼の気持ちを捧げながらリハーサルや演奏を続ける彼らの声や表情には、深みはあるけれども感傷はなく、コンサートもけっしてセンチなお涙ちょうだい的なものではない。なにしろパンク・ロックをおじいさんおばあさんがやるのですから、目が点になるやら思わず大笑いしてしまうやらなのですが、それと同時に、このおじいさんおばあさんたちの声を通してあらためて歌詞を聞いてみると、これまで抱いていた曲のイメージとはまるで違った意味合いに気づかされて、はっとする。音楽的に、こうしたロックの曲のほうが意外にも老人が歌うには向いていることが多い、ということにも気づきますが、それ意外にも、人生の表も裏も経験してきたであろう高齢者たちが、社会や人生や恋人や友に向かって、きれいごとでないまっすぐなメッセージを投げかけるには、「普通の」高齢者が慣れ親しんでいるような音楽よりも敢えてロックだという、音楽監督の選択に、思わず脱帽。地元の音楽ホールでのコンサートの他にも、刑務所での慰問コンサートやヨーロッパ・ツアーにまで出かけてしまうおじいさんおばあさんのエネルギーに、笑いと涙と勇気をもらえますので、是非観てみてください。