『ドット・コム・ラヴァーズ』は2008年に刊行になった本で、本書で描いたオンライン・デーティングの経験はもう10年も前のことになるのですが、読者のかたがたの文章を読むことで、自分自身しばらく離れていた話題について改めて振り返る機会ができました。本の刊行当時、多くのかたから感想やコメントをいただき、とても興味深く読んだのですが、当時送っていただいた感想文やネットなどの媒体で発表された書評は選考の対象外とし(ただし、当時書いていただいた文章をあらためてコンクールのために送っていただいた場合は選考に入れさせていただきました)、今回のコンクールにあたって送っていただいた文章のみから選ばせていただきました。
最優秀賞 該当作なし
佳作 (同点2点)
坂本秀雄さん 坂本さんの文章は、本ブログの最後に添付いたします。
yukacanoさん yukacanoさんの文章は、こちらでご覧いただけます。
著者が書評・感想文コンクールを主催しておいて、せっかく送っていただいた文章のなかから最優秀賞該当作なし、とするのはきわめて傲慢だ、と言われればまったくその通りなのですが、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門の最優秀賞作品のレベルがあまりにも高かったので、それに匹敵する文章がこちらの部門ではなかった、という次第です。もちろん、2冊の本はまったく性質を異にする本ですので、寄せられる文章もその性格が違うのは当然で、『「アジア人」...』部門と同じような分析的な感想文を期待していたわけでは必ずしもありません。また、『ドット・コム・ラヴァーズ』は私の個人的な体験が素材となっているぶん、読者も、本全体の意図を把握することよりも、読者自身の経験や立場から独自のものを読み取り、パーソナルな感想を抱くことが多い、ということも、本の刊行以来わかってきました。そうやって読者のみなさんが、それぞれのものを感じ取ったり考えたりしてくださることは、それが著者の意図と合致していようがいまいが、とてもありがたいことです。
さて、『「アジア人」...』部門と違って、本部門の佳作2点となった文章を送ってくださったおふたりは、どちらも私は面識のないかたです。
坂本さんの感想文は、オンライン・デーティングに見られるアメリカの「交際」のありかたに焦点が当てられています。クッキングヒーターのたとえも面白いし、また、本書でちらりと言及しているベンヤミンの文化論をデーティングに応用するのも意外で新鮮な視点でした。
「交際慣れ」ということについて書いていらっしゃいますが、オンライン・デーティングに限らず、アメリカと日本では日常的な社交生活のありかたがずいぶん違います。もちろん、どんな分野でどんな人たちに囲まれてどんな暮らしを送っているかによって差はあるものの、一般的にアメリカでは、縁もゆかりもない見知らぬ人と会って会話をする、という状況の頻度が日本よりずっと高いのです。いわゆる「パーティ」では、何十人もの知らない人たち同士がワイワイと集まるなかで、初めて会う人と会話をする、そうした出会いを楽しむために行くようなものです。私は、長年のアメリカ生活でずいぶんと慣れてはきたものの、実はもともとそういう状況はとても苦手なのです。なにかのきっかけがあって話をするようになる相手とはたいてい興味深く話をする(人との会話の内容を友達に説明していると、「なんで初対面の相手とそんな込み入った会話をすることになったの?」と驚かれることがよくある)のですが、縁もゆかりもない相手に自分から積極的に話しかけていくようなタイプではないのです。そんな私でも、オンライン・デーティングをしばらく続けることで、新しい人物との出会いを楽しむ術、というものがある程度身に付いたことは確かだと思います。どんなに有望と思われる相手でも、会ってみたら「ケミストリー」が合わなかったとか、なにか決定的なことが欠けているとか、そんな可能性はいくらでもある。それが会って最初の10分くらいで明らかになることもある。それでも、せっかく「デート」にやってきたのだから、せめて一緒にいるその数時間は楽しく会話をしたいとお互いが思うのは当然。そして、オンラインのプロフィールやメールである程度の必要条件をクリアした相手であれば、こちらが興味をもって会話にのぞめば、いろいろと面白い話が聞けるのもほぼ確実。ほんの数時間のあいだでも、自分とはまったく違う人物の、仕事や趣味や生い立ちや人間関係や人となりに触れ、今まで知らなかった世界を少しでも垣間みるのが、面白くないわけはない。その「デート」がその先なにも展開しなかったとしても、数時間そうやって新しい人物と楽しく会話ができるのであれば、じゅうぶんじゃないか。オンライン・デーティングにはそういう姿勢で臨むのが正しい、と思うようになりました。
私は現在はオンライン・デーティングとはまったく関係ない方法で出会った相手と交際中なので、もう何年間もいわゆる「デート」はしていません。(本書でも「デート」という単語のややこしさを説明しましたが、言うまでもなくここでいう「デート」とは、恋人との交際という意味ではなく、恋愛相手になる可能性のある相手と、その可能性を探索する過程の付き合い、という意味で、日本にはこれに相当する概念がありません。)していなくてまったく結構なのですが、正直なところ、ときどきふと、「デート」をしている状況が懐かしくなることがあります。今の交際相手との関係にはまったくなんの不満もなく幸せに暮らしていて、別の人との可能性を考えるということはゼロ。それとは関係なく、「デート」をしているときの独特なエネルギーがちょっと懐かしいのです。なにかの可能性への期待をもって新しい相手と出会い、その人のことを少しずつ知っていく、その過程で、自分のなかでも新しいものが開けていったりする、そうした状況では、一種のハイともいえる、緊張と興奮と不安の混じった精神状態になります。もちろんそれはどっと疲れをもたらすこともあるけれど、他では得られないエネルギーの源になることもある。そうしたエネルギーを楽しむことが「デート」の鍵だと思います。
yukacanoさんは、オンライン・デーティングを超えて、「選択することの大切さ」を読み取ってくださっています。このような視点からの感想文は、本の刊行当時かなりたくさんいただきました。そして、こうした感想を寄せてくださるかたの大多数は、女性の読者であるというのが興味深かったです。たしかに、オンライン・デーティングでは無数とも思えるほどたくさんの男女が潜在的な「デート」の相手としてネット上に存在しているので、そのなかから自分にとって有望な相手のプールに絞り込んでいくためには、自分が交際相手に求めるもの、自分が恋愛に求めるもの、ひいては自分が人生に求めるものを、自分のプロフィールにおいても自分の選択プロセスにおいても明確にしなくてはいけません。私の知り合いのなかには、オンライン・デーティングで何人もの相手と「デート」してみたけど、ろくな経験をしたことがない、という人もいますが(たいていそういうことを言うのは男性)、話を聞いてみると、それはその人が「デート」に行く相手をじゅうぶんに選んでいない場合が多い。自分のプロフィールを丁寧に書いて、相手のプロフィールを丁寧に読んで、お互いに求めているものがある程度は合致しているかどうかを確認してから「デート」にのぞめば、上にも書いたように、たとえ「ケミストリー」は感じなくても、数時間が退屈でたまらない、といった思いはまずすることはないのです。「自分が求めるものをあれこれと挙げていると、他人あるいは自分の内なる声に『何様だと思っているんだ』とか『そんなにないものねだりばかりしているから相手が見つからないんだ』などと言われて、あまり自分の希望を言わないようにしていたのですが、『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで、そうか、自分が求めるものがあってもいいんだ、自分が選択してもいいんだ、と背中を押される気分でした」というコメントを送ってくださったかたもいたのですが、私にとってはそういうコメント自体がとても驚きで新鮮でした。
私自身は、仕事をまず選択してから恋愛相手を選択しているという意識はまるでない(やりたい仕事をさせてもらえている、そして仕事をしなければ生活ができない状況のなかで、今の仕事を続けるのは当たり前すぎて、自分にとっては「選択」というカテゴリーにも入らない)のですが、仕事・恋愛ということに限らず、自分が好きなことを選び取って追求することが、幸せの基本だと思います。自分が好きなことを選んで追求できる、という状況がいかに恵まれたことかも、オンライン・デーティングの日々から10年が経った今、実感しています。
コンクールに応募してくださった読者のみなさま、どうもありがとうございました。佳作のおふたりとは、都合が合えば、来月に一時帰国する際に「デート」をご一緒させていただきます。その「デート」の感想文も書いていただこうかしらん(笑)。
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坂本秀雄さんの書評・感想文
数日前に久しぶりにこちらのサイトを開いて感想文募集を知りました。急いで読み返しましたが、吉原さんの屈託のなさは爽快ですね。フィールドワークや潜入ルポルタージュといった言い訳なしに恋愛事情を披露してくださって、ことさら気負いっているふうもない。世の中には妬みまじりにへんなことを言う人間がいるでしょうに、そんなものには頓着しない潔さに、あらためて脱帽です。
以前読んだときは、終盤の失恋体験から立ち直るために書いたのかな、といった邪推をした覚えがありますが、今回はすこし異なった感想をもちました。次のサバティカルではしばらく日本に滞在してmatch.com Japanの体験記を書いてもらえたら「読みたい!」そこまでしなくても『ドット・コム・ラヴァーズ』の感想文の寄稿者全員と、そこまでは無理なら何人かとデートしてブログに書いていただけませんか。けっして私をそのなかに加えいただきたいとか、のぞき趣味とかではありません。オンライン・デーティングの日米比較から見えてくるものがある気がします。
本書に触れる前はオンライン・デーティングを必要としているのは、出会いに困っている人、もっといえば人間関係の構築が得意ではない人という漠然とした印象をもっていましたが『ドット・コム・ラヴァーズ』を読んで、すっかり考えが変わりました。吉原さんをふくめて、むしろ交際慣れしている人が多いのに驚きました。オンライン・デーティングをしているうちにそうなったのか、もともとなのか、どちらかといえば後者のような気がします。「それってアメリカ人だから?」 そういう疑問をもったわけです。「だったら自分で試してみたら」とおっしゃられるかもしれませんが、既婚者なので残念ながら登録できませんでした。
この「交際慣れ」しているという印象は、穏便な別れ方に由来するものです。あなたといるのは楽しいけれど、これ以上深入りするつもりはない、という趣旨の決まり文句が存在していて、メッセージを受け取った相手は納得できなくても相手の意図を尊重して、身を引いてくれます。そこで思い浮かべたのは「IHクッキングヒーター」です。熱効率(火力)はガスコンロに劣らないのに火事になる危険性は低い、つまりけっして修羅場にならない、というところからの類推です。鍋のなかの恋愛感情を沸騰させる力はあります。失恋の辛さが素早く収まるわけでもありません。しかし別れ際にすったもんだして互いに傷つけあうことにはならない。ストーカー男ですら執拗であっても境界線を越えることはなく、最後は撤退します。
吉原さんやそのお相手だからこそかもしれませんが「リセットボタン」が押されたら「ゲームオーバー」を受け入れられる分別は見事です。もしかするとオンライン・デーティングの参加者には「ダメなら次の相手に期待しよう」というゲーム感覚のようなものが潜在意識に組み込まれてしまっているではないか、そんな感じをうけました。
くり返すうちに、デーティングファイルが積みあがる。それはコピーとまでは言えなくても、人の感覚になにか影響をおよぼすに違いありません。読み手にその作用を予感させるという意味において本書は、変成しながらもくり返される複製としての恋愛=デーティングがアウラの消滅によってより多くの人のものとなったKunstであることを、高らかに告げている書物です。などとつぶやいて、オリエンタルパサージュにでも出かけましょう。