最新の著書、『不機嫌な英語たち』の情報が解禁となり、予約注文がスタートしました!
東京の小さなマンションでピアノを弾き、本を読んで過ごしていた「ふつう」(?)の女の子の真里は、小学校五年生のとき、親の転勤でカリフォルニアに連れていかれ、まるでわからない英語の世界に放り込まれる。一日一日が永遠に感じられる学校生活をサーバイブするために、必死に英語を勉強する。長い夏休みを終えて中学校に上がる頃には、「英語ができないマリ」という過去を後にして、新しい人生を生きることができるようになる。その過程でマリが経験する出会いや発見の数々。
アメリカ生活に溶け込もうと必死に英語を身につけたにもかかわらず、父親に辞令が下りると一家はあっさりとまた日本に戻ることになる。真里が「帰国子女」として編入したのは、毎日朝夕に国旗掲揚があり、「団体訓練」では「集団責任」の名目で体育の男性教師が女子中学生の頭のスリッパで叩くような学校だった。その学校にある日、絵に描いたような金髪に青い目のオランダ人、レベッカがクラスにやってくる。当たり前のように先生は彼女を真里の隣に座らせた。親切心を動員して彼女に話かける真里の目には、なにかとてつもない不条理が身に降りかかっているとでもいうような悲壮な空気がレベッカを包んでいるように見えた。午後の美術の授業中、真里だけが気づいたレベッカと先生とのやり取りとは……。
日本で大学を卒業した真里は、こんどは自分の意思で再びアメリカに渡り、ニューイングランドの大学院で学び、やがてハワイに職を得る。英語ができるようになってからの真里が出会う「アメリカ」は、カリフォルニアでの経験とはまるで違うものだった。しかしMariは、「英語ができる」だけではなく、「日本人」であり「アジア人」であり「女性」でもあった。そして「大学教授」にもなった。Mariが身につけた、あるいは否応にも課せられた属性は、Mariが見る世界や経験する人間関係をさまざまに形づくっていく……
といったわけで、自分がこれまで生きてきた道を振り返り、そして今の自分が立っている場所を見つめながら、「日本の私」と「アメリカの私」、「日本語の自分」と「英語の自分」の重なりと溝を描いた、バイリンガル私小説…と呼ぶのが相応しいかどうかは、ぜひ読んで判断してみてください。
これまでのどの著作とも違った種類の本です。ひとりでも多くのかたに読んでいただけますように!