何年も前から話題になりながらも一向に公開にならなかった、ブラッドリー・クーパー監督・主演の映画『マエストロ』が、12月20日のNetflix配信に先駆けて限定的に劇場上映されています。私もホノルルで一昨日、昨日と連続で観てきました。
近々ゆっくり自宅で観られるのならわざわざお金を払って映画館に出かけなくても、と思うかたも多いでしょうが、この作品は音楽や撮影がとてもよいので、できればぜひ劇場の大きな画面で観るのがオススメです。
さてこの『マエストロ』、レナード・バーンスタインが主人公なのですが、彼の生涯と芸術を追ったいわゆる「伝記映画」ではないことは、あらかじめ警告(?)しておきたいと思います。バーンスタインのことをよく、あるいはまったく知らない人が、彼がどんな人物でどんなことを成し遂げたのかを知る、あるいは、バーンスタインのことをよく知っている音楽愛好家が、彼の音楽にどっぷり浸りながらその人間性についての理解をあらたに深める、といったことを期待してこの映画を観ると、その目的はあまり果たされないでしょう。そういう映画ではないのです。
バーンスタインの人生や仕事の全体像を捉えるという点では、はっきり言って穴だらけ。バーンスタインの気が遠くなるほど多彩な仕事の中でももっとも重要とされているもの----たとえば「ヤング・ピープルズ・コンサート」とか、何百枚ものレコーディングとか、イスラエルやソ連や日本をはじめとする海外ツアーとか、教育活動とか、核兵器廃絶運動などの社会活動とか----は、ほとんど、あるいはまったく出てこない。バーンスタインがどんな時代のどんな社会を生きて、どうやって20世紀を代表する巨匠になったのかとか、彼の音楽がなぜ世界中の人々を魅了したのかとか、彼の活動が社会においてどんな意義をもったのかとか、そういうことを理解させて考えさせてくれるような映画ではないのです。(そういうことを理解させて考えさせてくれるのは、『親愛なるレニー』ですので、未読のかたはぜひお読みください!池袋・渋谷・有楽町・吉祥寺の映画館では『親愛なるレニー』を販売してくださっているそうです。…とあからさまな宣伝を入れておく。)
ではダメ映画なのかというと、まったくそうではありません。私はとてもいい映画だと思いました。そうでなければ、もうじきNetflixで観られるとわかっているものをわざわざ二日連続で観に出かけたりはしません。
ここであんまり詳しいことを書いてしまうと、これから観る人たちの楽しみを削いでしまうかと思うので、ディテールを論じたレビューはいずれ別のところで書くことにして、この映画について語るうえで私が一番大事だと思うのは、『マエストロ』というタイトルの意味。
ここでの「マエストロ」とは、バーンスタインという世界的指揮者のことを指すというよりは、
「『マエストロ』として生きるということ」
「『マエストロ』として世界に存在するということ」
そして
「『マエストロ』として生きる人物を愛するということ」
「『マエストロ』として生きる人物と人生を共にするということ」
という意味ではないかと私は思います。
この「マエストロという人生、存在」というテーマを、バーンスタイン自身、そして妻フェリーシャ(キャリー・マリガンの演技が素晴らしい)というふたりの人物を通して捉えるものとして観れば、この映画はとても深い示唆にあふれる作品と言えると思います。
そのことを念頭において、フレーミングやカメラワーク、照明などに注目しながら観ると、単に筋を追いながら観るよりもいろんな気づきがあるのではないかと思います。
あとひとつ書いておきたいのが、後半に出てくる、6分間にわたるマーラー交響曲第2番《復活》のシーン(この指揮のためにブラッドリー・クーパーは何年間にもわたってヤニック・ネゼ=セガンのもとで特訓したらしい)が話題になっているけれど、私はこのシーンと同じくらい、あるいはそれ以上に、前半に出てくる《ファンシー・フリー》のシーンが重要だと思っています。
などなど、書き出したらキリがないのですが、ネタバレにならないようにこれで我慢(実はこの投稿、もっと長い文章を書いていたのですが、そんなに書いちゃうのもどうかな〜と思ってバッサリ削除しました)。
でもなにしろ、この映画は『親愛なるレニー』といろんな意味で補完的な物語になっているので、本を読んでから映画を観てさらにまた本を読む、または、映画を観てから本を読んでさらにまた映画を観ると、理解と感動が深まると思います!(←とふたたび宣伝 w)