2008年8月22日金曜日

Sex and the City

今日8月23日、日本で『セックス・アンド・ザ・シティ』の映画版が公開になります。アメリカでは5月に公開されたので、私はもうだいぶ前に観ました。

ご存知のかたも多いかと思いますが、『セックス・アンド・ザ・シティ』は、1998年から6シーズンにわたってアメリカのケーブルチャンネルHBOで放映されてテレビ番組で、今回の映画はその主人公たちの数年後の姿を描いた映画版です。(テレビ番組のほうは、日本でもDVDで入手可能です。)マンハッタンの4人の女性(映画の物語の時点では、ひとりはブルックリン、ひとりはロスに住んでいる)が主人公の、恋愛遍歴が中心の物語です。テレビ番組を通じて主人公たちの性格やこれまでの遍歴を観客が知っていることが、ある程度の前提となって映画ができているので、元の番組のほうを一度も見たことがない人にとっては、映画はそれほど面白くないかも知れません。私は、テレビ番組が流行っていたときは、ときどき見たことはあっても特にファンではなかったのですが、再放送がほぼ毎日テレビでやっているので、シリーズ自体が終わってから見るようになりました。あまりにも現実離れした設定で、しかも究極的な恋愛至上主義の物語で、馬鹿馬鹿しいといえばその通りなのですが、けっこうはまりやすく、私はふとしたときに、妙に感情移入して、一人で見ながらおいおいと泣いてしまうこともあります。ちょうど、私がホノルルでマンションを買おうとして、自分の財政状況では自分の気に入るようなところはとても手が届かないことを認識してしょげていたときに、ふとテレビをつけると、主人公のキャリーがボーイフレンドと別れて、かつ、住んでいたアパートを出るか買うかしなければいけない状況になり、私に負けず経済力のない彼女が落胆しているところに、離婚したばかりでかつお金持ちの女友達のシャーロットが、「これを売って頭金にして」と要らなくなった婚約指輪を彼女にプレゼントする、というエピソードをやっていて、私は訳もわからず10分以上もぼろぼろ泣いてしまった、ということもありました。

映画のほうは、「30分の連続テレビ番組だったからこそ成功した素材を、むりやり2時間以上の映画にしている」と酷評した批評が多かったので、それほど期待していなかったのですが、仲良しのゲイの友達(「ジェイソン」と、しばらく前にブログで言及した「アンディ」)に誘われて、公開まもなく観に行きました。そして映画が始まって30分とたたないうちから私は大粒の涙を流し始め、なんと2時間15分の映画のうち実に2時間近く、ずーっと泣きっぱなしで、終わったときには目も鼻も真っ赤、身体も心もぐったり疲れ果てしまいました。「いくらなんだってそこまで感情移入するとは思っていなかった」とジェイソンとアンディに驚かれました。(「泣いたあとには甘いもの」と、帰りにアイスクリーム屋に行きました。)そしてさらに私は、その1週間後に、今度は女友達と、再び同じ映画を観に行ってしまいました。私が泣いた量は1回目の四分の三くらいでしたが、私の友達は一滴も涙を流さず、「エンターテイメントとしては楽しめるけど、私にはまるで感情移入できない」とクールに言っていました。確かに、くだらないといえばくだらない映画なので、2回もお金を払ってあんなものを観に行った私は、友達のあいだでかなり呆れられています。

泣いたといっても、恋愛コメディですから、全体が悲しいということはなくて、むしろ面白可笑しいのですが、私がそこまでこの映画に感情移入した理由のひとつには、私が主人公のキャリーと同い年で、ちょうど映画が公開になった数日前に40の誕生日を迎えたところだった、ということがあるかも知れません。『セックス・アンド・ザ・シティ』は、きゃぴきゃぴちゃらちゃらした4人の女性の恋愛物語だと言ってしまえばその通りですが、この映画が、そのへんにいくらでもころがっている恋愛ものとひと味違うのは、40代、つまりは「中年」を迎える女性たちの人生を、夢物語ながらにまっすぐに捉えている、ということです。もちろん、「まっすぐ」といっても、ニューヨークやロスアンジェルスで最高級のマンションに住み、靴や洋服を中毒者のように買いものし、それぞれキャリアがあるはずなのにいつ仕事しているのかまるでわからない4人の主人公たちの生活は、実際にはまるっきり現実味がなく、そういった意味ではこの物語はまったくのファンタジーでしかありません。それでも私は、この映画は、40代(主人公のひとりのサマンサは、物語の途中で50の誕生日を迎えます)のアメリカ女性のある種類の「現実」を、とてもよく描いていると思います。私が見るに、その「現実」とは3つあります。

ひとつは、「痛み」。人に裏切られたり、思いが叶わなかったりといった痛みは、もちろん20代や30代だっていくらでもありますが、この映画で描かれているのは、「本当に自分が愛して大事にしている相手でも、傷つけてしまうこともある」「本当にいい人でも、バカな間違いをすることもある」「どんなに後悔、反省、改心しても、とりかえしのつかないことがある」といったようなことです。酸いも甘いも経験して、いろんなことを乗り越えてきて、こうしたことはすでに理解して回避できるはずの大人たちであるがこそ、こうした「現実」の重みが大きいのです。

ふたつは、「前進」。そうした大きな痛みは、なにをどうしたってなくなるものではない。自分のおかした過ちは、どう償いをしても、自分のなかでも相手のなかでもきれいに消え去るわけではない。傷つけ合った二人は、いくら関係を修復したとしても、その傷を負う以前の関係と同じというわけではない。失ったものは、二度と戻ってこない。それでも、人は、長かったり短かったりする時間を経て、やがて、「しかたがない、よっこらしょ」っと起き上がって、また先に進んでいく。そこには、勇気だとか自信だとか決意だとかいった立派なものは別になく、あるのはただ、「しかたがないから重い腰をあげて前に進む」という現実だけです。ハッピーエンドでありながら、一面バラ色の結末ではなくて、苦いものも酸っぱいものもとりこんだ上で笑顔で進んでいく、というのが大人の物語らしいところです。

そして最後に、これはテレビ番組の『セックス・アンド・ザ・シティ』について以前から言われていたことですが、女友達の絆です。30代で独身でみながマンハッタンに住み、朝食からマルティーニまで四六時中集まって時間を共にしていた頃とは、4人の女性主人公たちの生活はだいぶ変わっています。それでも、大小の痛みそして喜びを4人で分かち合いながら、それぞれ別の方向ではありながらも手を取りながら前進していく、その女性同士の関係は、物語の表面では最大の価値がおかれている恋愛関係よりも、ずっと重みのあるものです。Boyfriends come and go, but girlfriends are forever.(ボーイフレンドは現れたり去ったりするけれど、女友達は永遠だ)という表現がありますが、私自身、ここ数年間、そのことを深ーく実感するようになりました。選択する生き方はみなそれぞれ違うし、だからこそ「女性として」経験することの内容もまるで違うけれど、人生の中盤で出会ういろんな喜びや悲しみを、一緒に歓声をあげたり涙を流したりしながら分かち合ってくれる女友達の存在は、本当にかけがえのないものです。

と、書いてしまえばいかにも陳腐な結論ですが、まあとにかく、よかったら観てみてください。『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくるニューヨークとはまるで違う世界ですが、出会いと別れと前進という意味では、ちょっと通じる部分もあるかもしれません。(ちなみに、『ドット・コム・ラヴァーズ』のことを、「在米日本人版『セックス・アンド・ザ・シティ』だ」と形容する人がけっこういます。)お楽しみください。