2021年6月16日水曜日

99%のための音楽史宣言『バイエルの刊行台帳』

 

かつては週に数回も書いていたことのあるこのブログ、2020年にはなんと1回しか投稿がなく、それもオンラインセミナーの宣伝で、これではブログと呼べないトホホな状態になってしまいましたが、気を取り直して新たな投稿をしようという気持ちにさせてくれたのが、この本、小野亮祐・安田寛『バイエルの刊行台帳 世界的ベストセラーピアノ教則本が語る音楽史のリアル』。 

安田さんの『バイエルの謎』を読んだときに私は大いにコーフンして、2012年5月にこちらのブログでも紹介しました。それから10年近くが経ち、私はリアルでお会いしたこともない安田さんと、お互いのオンラインセミナーを視聴したり一緒にzoom読書会をしたりする仲になっていて、人生というのは生きてみるものです(笑)。で、この本は『バイエルの謎』の続編として、安田さんの研究仲間の小野さんと共著で書かれたもの。「面白くて、ためになる」本というのがこの手の読みものの魅力ですが、その点においてこの本は満点! 

グーテンベルクの活版印刷で知られるマインツにある老舗楽譜出版社、ショット社の廊下に、ある作曲家の肖像が飾られている。あの「バイエル」である。日本でピアノをやった人は誰でもその名を知っているとは言え、ドイツに限らず音楽史において今ではまったく無名となったバイエルの肖像が、ベートーヴェンやワーグナーの楽譜を出版したこの会社でわざわざ飾られているのはなぜか? という問いからこの物語は始まる。 

その問いを解明するのに大きな鍵となるのが、ショット社の刊行台帳。一口に「バイエル教則本」といっても、実にいろいろな版が次から次へと出版されている。刊行台帳と睨めっこしながら、いつ何がどのくらいの部数刊行されたのかという基本的な情報を、著者は丹念に追っていく。そして、バイエルの教則本が、当時の楽譜市場においてどういう位置付けにあったのか、他にはどんな教則本が出回っていて、それらと比べて「バイエル」の内容は何がどう魅力的だったのか、といったことを、出版史や文化史の文脈から辿っていく。(注・とくに付録が大事。)そしてまた、それほどたくさんの教則本を書くに至ったバイエルのキャリアの道程と意味を探るために、彼が青春時代を過ごし、音楽家としての夢と挫折を味わったライプツィヒの街の音楽文化を描く。 

その辺りまでもたいへん興味深いのですが、いよいよ謎が深まり、核心に迫っていくのが第4章。ミステリー映画であれば、不穏な音楽がバックに流れ、主人公が暗い廊下をそうっと進んで、奥にある一枚の扉を開けようとするところ。(とは言っても、私はミステリー映画をあまり観ないのでこれは無知な想像で、まったく的外れかもしれません、あしからず。)この本でそれは、暗い廊下の奥にある扉ではなく、ミュンヘン国立図書館の仰々しい大階段を上がって音楽部門に到着し、それまでに閲覧希望の資料についてあれこれやり取りを重ねていた担当司書のザビーネさんが取り出してきて見せてくれる、ある手書きの楽譜。(ここでワーグナーの和音のようなドラマチックな効果音。)ネタバレにならないよう、その具体的な内容はここでは明かしませんが、読みながら私は思わず「おおお〜!」と声を上げました。 

そしてそこからさらに謎解きは続く。56歳で亡くなったバイエルが遺した楽譜をショット社に売った妻とその子供たちはどうなったのか?「V.」とは何者?ショット社はあくどい悪徳商法で「バイエル」の名を使い回していたのか?そして、資料にある印刷譜に押されているとあるゴム印の意味は???などなどのハテナが、安田さんならではの、読者をグイグイ引き込む謎解きスタイルの筆致で綴られていて、まあとにかく面白く、謎が解けたときにはこちらも思わず大きく溜息をつく。 

といった調子でおおいに楽しめるのですが、私が一番ドキドキワクワクゾクゾクするのは、この謎解きから話を深め広げて、これまで一般的に「音楽史」と呼ばれてきたものに大きな挑戦を投げかける第5章。ここでは、音楽史からすっかり名が消えてしまったバイエルを、同じくショット社のお抱えで、こちらはまぎれもなく西洋音楽史に大きく名を残すワーグナーと並べて論じることで、19世紀ヨーロッパで音楽がどのように演奏され聴かれ学ばれていたのかを、鮮明に描いてみせてくれる。「マイスタージンガー」の楽譜の刊行の実態----マイスタージンガーのどの部分のどんな形態の楽譜を、誰が買ってどう使っていたのか----を知ると、ワーグナーという存在、オペラという芸術形態、そして音楽を「する」という行為や活動についての理解が、大きく転回するのです。「作品番号によってではなく、プレート番号によって書かれる音楽史のリアル」と著者が表現しているように、偉大な作曲家として名を残した人たちの列伝とその作品分析ではなく、そうした「偉人」を取り囲み、いや彼らを支える形で、無数の楽曲を作曲したり編曲したりしていた音楽家たちの営みに光を当てることで、これまでとはまったく違った「音楽史」が浮かび上がってくる。これはまさに、「99%のための音楽史宣言」なのであります。 

私もDearest Lennyのための調査で、バーンスタインのレコードの売り上げ明細と睨めっこしたり、バーンスタインの仕事を管理したアンバーソン社と楽譜出版社の間でやりとりされた書簡を読んだりして、驚いたことも、いやでも考えてみれば驚くことではないのかもと思ったりすることも沢山あったのですが(そのあたりはとくに第3章で書いてあります)、そういう商業市場としての音楽のリアルな状況は、バイエルの時代にすでにあったのでした。そして、さまざまな経緯を経て、ごくごく一部の作曲家が音楽史のキャノンを形成していく陰で、今では誰もその名を知らない数え切れないほどの人たちが、音楽を生み出し続け、その人たちの書いた教則本をブルジョアのお嬢さんたちがせっせとさらい、その人たちが編曲した楽曲を母娘や姉妹で連弾し、その人たちがピアノ伴奏用に編曲したオペラ曲のヴォーカルスコアを見ながら家庭のサロンコンサートで歌ったりしていた。そうしたお嬢さんたちが殿方に見染められ、やがて結婚し家庭を持ち、またそれらの教則本や連弾符やヴォーカルスコアを使って子供たちと音楽を楽しんでいた。それが19世紀ヨーロッパの音楽活動だった。「その人たち」の人生は幸せだったのか、そうでなかったのか。そんな問いは大きなお世話である。「その人たち」はまさに「音楽」をしていたのである。ドキドキしたり哀しくなったり胸が熱くなったりしながら、そんなことに思いを馳せ、知的にも情感的にもドラマチックな体験をさせてくれる一冊です。 

さて、小野さんのあとがきにちょっと書かれているけれど、私としては、小野さんと安田さんの共著のプロセスがもっと知りたかった。本文中ずっと、「僕」という一人称単数が主語になって謎解きがされていく。『ブッデンブローク家の人々』を上着のポケットに入れてフランクフルトに降り立った「僕」は、小野さんなのか、安田さんなのか、それともやはり二人の魂の複合体なのか? 資料探して三千里(?)マインツやミュンヘンに飛んで行ったのは小野さんなのか(ショット社の前で小野さんが立っている写真が後半に掲載されている)、それとも安田さんと二人で一緒に行ったのか?親子ほど歳の離れた(実際に安田さんは小野さんのお父様と同い年だそうです)、キャラもだいぶ違う(私は小野さんとは面識がないのですが、オンラインセミナーでお二人のお話を視聴した印象だと、安田さんとはだいぶキャラが違う印象)この二人が一緒に旅したのだとしたら、なんだか愉快な珍道中だったのではないかと想像でき、その様子についても知りたい。小野さんが一人で出かけて行って、発見したことを安田さんにその都度報告していたのだとしたら、そのやり取りの様子も知りたい。そしてこの本を二人で一緒にこういう文章にするまでに、どんな密な作業がなされたのかも知りたい。そうした話はいつかどこかで聞けるかな… 

とにもかくにも、是非ご一読を!