長年闘病を続けていたハウナニ=ケイ・トラスクが、しとしとと静かな雨が降る今日2021年7月3日午前、息を引き取ったとの知らせがハワイ中に伝えられました。
ハワイではその名を知らない人はいないくらい影響力の大きい人物でしたが、日本では一部のハワイ通を除いては彼女のことはあまり知られていないのではないでしょうか。研究者仲間と一緒に執筆中で来年刊行予定の本の中で、彼女についての文章を書いているので、ここではごく簡単に紹介するだけにしておきます。
とにかく見ていただきたいのがこのビデオ。
これは、約20分間にわたる彼女のスピーチの最初のごく一部ですが、ここで繰り返されている "We are not American!"、そう、「我々はアメリカ人ではない!」というシンプルな一文は、ハワイとアメリカ合衆国の関係の歴史を理解する上できわめて重要なものです。
このスピーチは、1993年1月17日、ホノルルの中心部にあるイオラニ宮殿の敷地内で行われたもの。100年前の1893年1月17日にハワイ王朝が非合法に転覆されたことへの怒りを悲しみを表し、ハワイアンの主権を主張するため、4日間にわたって行われた抗議行進・集会のクライマックスでした。当時すでにハワイアン主権運動のシンボル的存在だった彼女は、斜め前に建つハワイ州議事堂をじっと見つめて「我々はアメリカ人ではない!」と繰り返し叫び続けたのです。
19世期末に独立国家としてのハワイは滅亡し、列島はアメリカの領土となりました。第二次世界大戦後、住民の多く、とくに政財界のリーダーたちが、アメリカ合衆国におけるハワイの政治的地位を強化するために立州化を求め、1959年にそれが実現してハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。ゆえに、現在ハワイはアメリカ合衆国の一部であり、先住ハワイアンもアメリカ国籍を持ちます。しかし、そうして「アメリカ国民」「ハワイ州の市民」となることをハワイのすべての人々が歓迎したわけでは決してありませんでした。
1778年にジェイムズ・クック率いるイギリス船が到着して以来、ハワイには世界各地から植民者や資本、文化が流入し、また疫病や環境の変化によって先住ハワイアンの人口は激減し、社会構造や生活様式が急激に変化していきました。歴代のハワイ政権は積極的に西洋近代の技術や政治制度を採用することで列強諸国と対峙しようとしたものの、土地の私有化によってハワイアンの人々は生活の基盤を奪われ、キリスト教化・西洋化によって宗教・言語・伝統文化の多くを失い、アメリカ人資本家たちにハワイ社会の実権を握られていったのです。
そして、政治力・経済力のさらなる拡大を図った少数のアメリカ人が、1893年に米海軍の支援をバックにクーデターを起こし、抗議宣言を発したリリウオカラニ女王をイオラニ宮殿に幽閉し、ハワイ王朝を転覆させ、翌年にはハワイ共和国が誕生しました。そして、クーデターへの米軍関与は不正であったと判断したクリーヴランド大統領の反対にもかかわらず、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。米海軍はハワイを太平洋地域最大の拠点とするため巨大な軍事施設を建設し、1941年に日本軍の真珠湾攻撃により第二次世界大戦の舞台となったハワイは戒厳令下に置かれました。戦後には、プランテーション農業の衰退とともに、ハワイの産業は観光と軍事に急速に移行し、環境破壊や経済格差、土地開発に伴う住民の強制移動などが進行しました。
1960年代にアメリカ本土で公民権運動、ブラック・パワー運動、先住民運動などが盛り上がりをみせる中、ハワイでも、植民地化や抑圧と差別の歴史を問い質し、先住ハワイアンの主権回復を訴える運動が起こりました。第二次世界大戦中に米軍に接収され、戦後も米海軍の爆撃演習地として使用され続けたカホオラヴェ島に、草の根運動家たちが乗り込み、身体を張って爆撃を停止させ、島を市民の手に取り戻したProtect Kahoʻolawe ʻOhana(PKO)運動や、先住ハワイアンへの正当な土地使用権の分配を訴えたり、資本の利益を優先した土地開発に反対したり、ハワイアンの教育や雇用の正当な機会を要求する運動が、急速に盛り上がっていったのです。キリスト教宣教師たちによって使用を禁じられていたために使用者が激減していたハワイ語や、フラやチャントを初めとするハワイの伝統文化、そして伝統様式の農業や漁業を復興する運動も、ハワイ各地で広がっていきました。
そうした中で、ハウナニ=ケイと妹のミリラニ・トラスクはハワイ主権運動のリーダーとなり、1987年に発足したハワイアン主権運動団体Ka Lāhui Hawaiʻiの創設メンバーとなったのです。ハワイ内外のさまざまなグループと連携しながら1993年の抗議行進・集会を数年間かけて準備したのもこの団体。
“We are not Americans!” という、聴衆が一瞬はっと息を呑んだ衝撃的な宣言の後で、彼女は「主権(sovereignty)とは何か」を、溢れ出る怒りを燃えるような視線に込め人差し指を立てた腕を振りながら、力強くこう論じました。----主権とは、気持ちの問題でもアロハの精神の問題でもハワイアンとしての誇りの問題でもない。そんなものは我々はすでに持っている。主権とは、自らの政府を持ち、自らの国家を持つことである。自らの政府を持つことでのみ、自らの権力を行使し、自らの土地を管理することができる。主権とは一にも二にも政治である。アメリカ合衆国は民主主義の国などではない。人種差別によって先住民の滅亡をもたらす世界最大の帝国である。ハワイ州はそのアメリカ合衆国の一機関である。行儀よく話し合いをしている場合ではない。憤り闘わなければいけない。私は憤っていることに誇りを持っている。ハワイアンであることに誇りを持っている。私は、そして私たちは、アメリカ人ではない。アメリカは私たちの敵である。闘うのだ。
ハワイで直接行動や政府機関を相手取っての活動を続けるうちに、トラスクはどんどんと雄弁になり、そのメッセージは先鋭化されていきました。ハワイ大学のキャンパス、そして新聞やテレビなどの公的メディアでの歯に衣着せぬ発言や議論を通じて、若い学生たちを初めとする多くのハワイアンやその運動を支持する人たちの尊敬を集め、一種のロールモデルとなっていきました。彼女へのバックラッシュもきわめて大きいものでしたが、それでも彼女は、ハワイ植民地化の歴史への無理解と根強い制度的差別に対し、つねに前面に歩み出て闘い続けていったのです。1970年代にはほとんどのハワイアンの人々が「主権(sovereignty)」という単語を口にすることさえ躊躇ったのに対し、1990年代には世代を超えて多くの人々が運動に参加し、ハワイ社会の支配層も無視できない勢力となりました。“We are not American.”演説のあった1993年には、ハワイ王朝の転覆そしてアメリカ合衆国への併合はハワイアンの意志に反して非合法に行われたことを認める「謝罪決議」がアメリカ連邦議会で可決され、クリントン大統領によって署名されました。大学でハワイの歴史や政治や言語を学ぶ学生も増え、いまだ不十分とはいえ、さまざまな分野でハワイアンの教員も採用されるようになっています。マウナケア山の30メートル望遠鏡(TMT)建設に抗議する活動家たちの多くは、トラスクの教えを受けた人々。彼女が身体を張って示したハワイアン主権の理論と実践は、ハワイ各地で若い世代に脈々と受け継がれているのです。
ハワイの独立と主権を奪ったアメリカ合衆国の独立を祝うような日にはもう付き合っていられない、私はアメリカ人じゃないんだから、とでも言わんばかりに、7月4日のアメリカ独立記念日の前日にこの世を去っていったトラスク。いかにも彼女らしい旅立ちだと思います。
彼女の著書の中でももっともよく知られるFrom a Native Daughter: Colonialism & Sovereignty in Hawaiʻi は、『大地にしがみつけ----ハワイ先住民女性の訴え』というタイトルで邦訳も出ています。現在、ハワイではコロナ禍がだいぶ落ち着いて、観光客もかなり戻ってきています。日本からも再びたくさんの人が訪れるようになるでしょう。ハワイに旅する日本の人たちにも、トラスクのことを知って、ハワイの歴史や社会について理解していただきたいです。