2021年10月26日火曜日

ショパンコンクールが投げかける問い 「クラシック音楽」とは?

反田恭平さんと小林愛実さんの入賞で日本でも話題を集めたショパン・コンクール。なにしろ全部で87人も出場者がいるので、最初からずっと追っていた訳ではありませんが、第二ラウンドからは、早起きしたり夜更かししたりしながらネットで生配信をけっこう見ていました。演奏はどれも素晴らしく、審査結果も納得のいくものだったと思います。

このコンクールについて記事を書かないかと、日経新聞社の英語媒体であるNikkei Asiaに依頼を受けたので、このような文章を寄稿しました。日本ではどうしても日本人の話題ばかりに報道が集中しがちなので、今回の結果をより大きな文脈に位置づけて、「クラシック音楽とは何か?」を考えるような著述にしたつもりです。読んでいただけると幸いです。

2021年10月23日土曜日

『Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond 』刊行!

 私が企画編集してここ数年取り組んでいた、Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond が、無事にハワイ大学出版より発売となりました!

この本は、広義の「アメリカ研究」に従事する12人の日本出身の研究者たちが、どのような場や形で「アメリカ」と出会い、どのような経緯でその研究にキャリアを捧げることになったのか、自らにとって「アメリカ」とはなにか、といったことを語るパーソナルなエッセイを集めたものです。それぞれユニークで感動的な物語なのですが、それと同時に、そうしたきわめてパーソナルなものに思われる個人史が、帝国、植民・移民、戦争、占領、冷戦外交、貿易などによって色濃く刻印されていることも浮かび上がってきて、本全体でいろいろな角度から20・21世紀の日本とアメリカの出会いの力学や様相に光を当てるようになっています。

一口に「日本出身の研究者」と言っても、戦後占領下の沖縄で新聞配達少年として米軍基地を回った人、北海道のアメリカ人メノナイト宣教師のコミュニティで育った人、日本の家庭でありながら両親の教育方針で家では英語とスペイン語を話して育った人、戦争の歴史に巻き込まれて家族と離れ日本で人生を送ることになったアメリカ生まれの祖母からアメリカに移民して行った曽祖父母の話を聞いて育った人、父親が単身赴任で家を留守にしがちだったサラリーマン家庭で育った人、幼い頃に親の駐在でアメリカに渡り現地学校の教育を受けた人など、その背景や生い立ちは実にさまざまです。そしてまた、そうした人たちが出会った「アメリカ」も、時代、場所、状況などにおいて実に多様です。当たり前のことですが、「日本人アメリカ研究者」が共通の出発点からひとつの「アメリカ」に行った訳ではまったくないのです。そしてこの12人の現在も、どんな場所でどんな人たちに囲まれて暮らし、どんな学生を相手にどんな授業をし、何語でどんな著述をしてきたかなど、実にさまざまです。

私がこの本を企画するに至った背景には、もとはと言えばだいぶ前にこのブログでも書いた、松田武先生の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』への共感と疑問がありました。奨学金や学術交流、研究助成といった形の文化外交、その根底にある各国政府の思惑が、知のありかたに影響を及ぼすということには異論がないけれども、実際にそうした中で「アメリカ」に出会い、経験し、研究する人たちの道程を、もっと近い距離から見てみることも大事なのではないか。松田先生の本を読んでからずっとそう思っていたのですが、その問いに応えるひとつの手段としてのこの企画を、研究仲間とおしゃべりをしている時にふと思いついたのでした。

個人の物語と世界の力学がどのように交差して、その中で「知」がどのように作られるのか、「日本」にとっての「アメリカ」とは何を意味しているのか、そして研究者の役割とは何か。そうした大きなテーマが、きわめて具体的で個別的なストーリーを通じて語られています。アメリカ研究や日米関係史に携わる研究者にはもちろんですが、一般の読者にも興味を持って読んでいただける内容だと思います。是非どうぞ!



2021年10月4日月曜日

国際交流基金事業をめぐって

 つい数日前に、国際交流基金が主催するオンライン展覧会で予定されていた、在日精神病患者についての映像作品の発表が、基金の判断によって中止されたというニュースを読んだばかりでした。この記事によると、中止の理由としてあげられているのは、①暴力的な発言や歴史認識を巡って非生産的な議論を招きかねない場面が含まれるものだった、②全編を通して視聴すれば必ずしも懸念はあたらないのかもしれないが言葉は独り歩きしてしまう可能性がある、③主催者としては、作品に関してどこをどう修正すべきかといった指示はできないと考えている、④展覧会の開催日時も迫っており今後改めて協議を重ねる時間もない、という4点です。

①に関しては、議論が生産的か否かは誰がどう判断するのか?議論を「招きかねない」との曖昧な推測に基づいて作品の発表を中止することで、生産的な議論をもあらかじめ封じ込めてどうするのか?国際関係にかかわる難しい問題にもさまざまな視点を提供して議論を促進することこそが国際交流の根幹ではないのか?といった問いが次々と頭に浮かびます。

②に関しては、映像であれ文章であれ、その一部が文脈から切り離されて作者や主催者の意図せぬ方法で使われてしまう可能性はいつでもある。しかし、それを懸念して表現行為そのものをやめてしまったら言論や芸術は成り立たないし、そうした活動への後援も不可能になります。とくにアジア諸国を対象にする国際交流は出来なくなるでしょう。

③については当たり前のことで、わざわざ主張するようなことではないでしょう。

④は、主催者はどうしても必要ならば開催日程を変更できるはずで、これは口実にしか思えません。

ちょうど私は、まさに同じような状況に面していたのですが、この記事を読んで、どうやら私が経験したことが突発的な出来事ではなく、国際交流基金のさまざまな事業においてこうした事態が起こっているらしいことを知ることとなりました。日本社会が危険な方向に向かっているのを感じるので、以下長文になりますが、経緯を記しておきます。

数ヶ月前に、国際交流基金のスタッフから、相談を受けました。日本の若者にアメリカ社会や文化について興味を持ってもらうための企画として、一連の短い動画を制作し、ネットで配信することを考えており、数人のアメリカ研究者に相談をしているとのことでした。私と、私が昔から親しく一緒に仕事をしている矢口祐人さんは、そのお話を伺ったときに、正直言って、ビジョンが具体性や新鮮味に欠けていると感じ、また、アメリカのいろいろな側面を解説するような動画はすでに各種メディアにたくさんある中で、似たような企画を国際交流基金がやることの意義を感じられませんでした。そこで、わざわざ国際交流基金がアメリカ研究者を動員して企画するものであれば、学問的に知見に基づいた教育性の高い、かつ、通常の講義とは趣向の違う面白い内容にするのがよいのではと意見を述べました。私と矢口さんが次から次へとあれこれとアイデアを出すのに、担当スタッフのかたたちは最初は面食らっていたようですが、常に真摯に耳を傾け真剣に検討してくださり、結局、私と矢口さんがプロデューサーのような形で全体の企画を作り、スタッフのかたたちと一緒に進めることなりました。

そこでまとまっていた企画とは、「インターセクショナリティ」という概念を軸にして、全5本の動画それぞれで、日本のアメリカ研究者が「アメリカで出会った人」ひとりについて、私または矢口さんとの対話形式でお話していただき、その後でその話と「インターセクショナリティ」のつながりを私と矢口さんが数分間で解説する、というものでした。私たちが選りすぐったスピーカーの5人は、生い立ちや教育の背景も現在の在住地や専門も多様で、トピックとして選んでくださった人物とそのかたにまつわるお話も、活き活きとしてかついろいろな考察を促す、たいへん興味深いものでした。

スタッフのかたたちは、この企画に共感し、大いなる熱意をもって実現への準備を進めてくださっていました。そして、次の段階に進むのに必要な国際交流基金内での決済手続きを待っている時に、この企画について上層部から意見が出ており、一部修正を求められているとの連絡がありました。

その上層部からの要求のまず1点目は、「アメリカについて理解を促進するための5本の動画で、ひとりもアメリカ人が出演しないのはおかしい」というもので、1人か2人でも、スピーカーまたはコメンテーターとしてアメリカ人を入れられないか、というものでした。

アメリカのことを「アメリカ人」に語ってもらうこと自体は、きわめて単純ではありますが、理解できない発想ではありません。しかし、私たちが考えた企画は、日本で育った研究者たちが出会った鉤括弧付きの「アメリカ」や「アメリカ人」の話を通じて「インターセクショナリティ」を考えるというものであって、そこに国籍がアメリカだということだけで無理矢理「アメリカ人」をスピーカーやコメンテーターとして登場させれば、企画の整合性を損なうことになります。「アメリカ人」ってなんのこと?という基本的な問いもありますし、「アメリカ人」であればアメリカのことについて語れるのか、それならアメリカ研究者である私たちの立場はなんなのか、ということにもなります。という訳で、この提案は却下するとお伝えしました。

2点目は、「国際交流基金は税金で運営されている国の機関である以上、政治性がある内容の発信は認められない。作成した動画について、そうした観点において問題点があった場合には、国際交流基金の判断で編集を行うという条件に同意できるか」というものでした。

これは1点目よりずっと大きく深刻な問題です。もちろん、特定の政党や政治家を推奨したり批判したりするような内容を扱うつもりは初めからありませんでしたが、そもそも私たちの携わっている学問は、社会におけるさまざまな力学とそこにある権力構造を問うもので、「インターセクショナリティ」とはその様相を理解するための概念です。そして、私たちの考えた企画は、具体的な人たちが、アメリカの具体的な場所や状況で出会った具体的な人物との交差を語ることで、社会や文化にあるさまざまな軸を考察するものです。そこにはもちろん「政治性」があり、それを考えるのがこの企画の本質であって、政治性を取り去っては、単なる「面白い話」にしかなりません。かくかくしかじかの内容は動画に含めることはできない、といったような具体的な提案や指示があるのであれば検討可能かもしれませんが、動画内容についての具体的な打ち合わせもしないうちから、ただ十把一絡げに「政治性のあるものは駄目」と言われるのは、発言に制約を課されるのと同じです。また、編集やカットを要求された場合には、スピーカーや私たちがそれに対して意見が述べられるのかどうか、意見が合わなかった場合にはどうなるのかと尋ねてみましたが、満足のいく答はいただけませんでした。

私たちは、国際交流基金が税金で運営されている公的機関であるからこそ、そして文化や学術を通じての国際交流を使命とする団体であるからこそ、検閲に当たるようなこのような行為は絶対にするべきではない、してはいけないと考えます。こうした問い合わせが私たちに対してなされること自体が、とても恐ろしい状況だと感じます。国際交流基金が普段の事業でかかわっている研究者や芸術家は、社会の中でもとくに、言論や思想や表現における自律性と独立性を自らの仕事の根幹に置いている人たちである筈です。そうした人たちの活動を支援し、難しい話題についてもさまざまな視点からの議論を促進することこそが国際交流だと思っています。ゆえに、ここで提示された要求については絶対に応じられないと、はっきりとお伝えしました。

担当のスタッフのかたたち及び事務局長のかたは、私たちの考えをよく理解してくださりましたし、もともと私たちと同じ意見ではあったのですが、上層部からの指示でこのようなことを私たちに伝えなければならなくなって、非常に心苦しく思っているとのことでした。ここ数年間、このような状況が組織内で強まってきているそうです。また、国際交流基金の中でも、上層部も含め他のかたたちはみなさんこの企画には賛同してくださっていて、上のような要求をしているのは一人だけとのことでした。それでも組織の性質上、その一人が了解しなければことは進められません。私たちの考えを聞いた上で、事務局長のかたが再度その一人を説得しようと協議をしてくださいましたが、結局は了解を得られなかったとの報告をいただきました。

このような経緯で、国際交流基金でのこの企画はなくなりました。

ここまで数ヶ月にわたってスタッフのかたたちが熱心に進めて下さっていた企画なので、そのみなさんがさぞかし落胆なさっているだろうと思うと心が痛みます。また、国際交流という使命に真剣な思いを抱いて基金に勤めていらっしゃるかたたちが、このような状況で仕事をしなければいけないことを、とても気の毒に思います。

それと同時に、私のように、ある程度安定した職業的地位にあり、学術や言論に携わる人間、そして日本の外にいるがために一定の距離に守られた人間こそが、こうした状況で言うべきことを言わなければいけないという思いをさらに強くしました。いったい誰が誰・何に忖度してこのような社会状況を作っているのだろうか、その構造をきちんと捉えて問い糺していかなければ、日本社会はとんでもないことになるのではないかと思っています。 国際交流基金の事業としてはボツになりましたが、企画自体はとても面白く意義深いと自画自賛中なので、別の形でぜひ実現したいと思っています。実現したらまたこちらでもお知らせいたします。