2013年11月9日土曜日

同性婚法案、ハワイ州議会上下両院を通過

ここ数週間ハワイで最大の話題になっていたのが、州議会の特別会期で審議されているSB1同性婚法案。結果からいうと、昨晩、下院で審議されていた法案が30対19で通過し、すでに法案を通過させた上院と修正案などの具体点をめぐる交渉が来週なされ、正式に同性婚が可能になる模様です。

数年前に、法的な結婚とは違うものの同様のさまざまな権利や保護を同性同士のカップルに付与するシヴィル・ユニオンがハワイで制度化されたことはこのブログでも報告しましたが、これはシヴィル・ユニオンではカバーされない領域を含む、異性者同士の結婚と同じ「結婚」を同性者にも可能にするものです。ここ数年間で、アメリカ全体における同性愛をめぐる世論は確実に変化し、同性婚を認める州も次々に出てきていますが、ハワイでも同様。州議会のリーダーたちが同性婚を支持するようになってきたこと、また、Neil Abercrombie州知事が支持を表明していることから、州議会の特別会期が開催され、上院で提出された法案は難なく通過、その後、先週から下院で審議がされていました。この際、委員会の公聴会で、一般市民が証言をする機会を与えられたことから、何千人という市民が計50時間以上(ひとりに与えられる時間は2分間)にわたって議員たちの前で証言をしました。私は意見文を書面で提出しただけで実際に証言はしませんでしたが、私の友人や学生のなかにも、何時間も自分の順番を待って発言した人たちが何人もいます。

特別会期開催が決まった頃から、法案自体は通過がほぼ確実といわれていたものの、一般市民の証言の実況中継をネットでしばらく見ていると、ふだんの生活のなかでは浮上しない分裂が浮き彫りになり、とても暗い気持ちになりました。法案を支持するさまざまな人々(自身が同性愛者であるという人ももちろんたくさんいますが、そうでない人もたくさん証言しました)が、権利の平等を主張するいっぽうで、反対派の人々(そのほとんどが一部の保守キリスト教団体に属する人々)は、同性愛は神の意思や自然の摂理に反するもので、同性愛者に結婚を許すことは家族という形態ひいては社会全体の崩壊につながる、と説く。数年前のシヴィル・ユニオンの議論のときと比べると、同性愛を小児愛症や屍姦症などと結びつけて憎悪に満ちた攻撃をするといった類の発言は減り、むしろ、「私は同性愛者の同胞にも愛情をもっています。でもだからといって同性愛者の人たちが結婚するべきかというと、それは間違っています。結婚というのは男性と女性のあいだでなされるものです」という種類の証言が続きました。また、州議事堂の前には連日法案反対派の人たちがたくさん集まって道ゆく車に向かってLet the People Decide、つまり、この問題は議会での投票ではなく住民の直接投票によって決定されるべき、というプラカードを掲げていました。

昨日は朝から夜遅くまで州議事堂のまわり法案に賛成する人々・反対する人々の両方が多数集まり、私も午後1時間ほど行ってきました。





支持派は、ゲイ・プライドの象徴である虹色のカラフルな旗を振り回し、人々は虹色のレイを首にかけ、ポップな音楽を大音量でかけて、道行く車に向かって大きく手を振り声をかけながら歌ったり踊ったりして、一大パーティのようでした。

反対派ももちろん数多く集まって、審議がおこなわれている議事堂のなかにむかって抗議の意を表明していましたが、この日はレインボーカラーの元気に押され気味だった模様。この後、法案が正式に成立し、ハワイが同性婚を認める第16の州となれば、さらなる抵抗があるでしょうが、同性愛をめぐる感性や世論が徐々に変化していることは確実。

キリスト教の教義を主張して法案に反対する人々に向けた、Kaniela Ing議員の発言がとても立派だったので、以下紹介しておきます。

2013年10月24日木曜日

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?—人種・ジェンダー・文化資本』本日発売!

拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』が本日発売になりました!

小澤征爾、ヨーヨー・マ、内田光子、チョン・キョンフア、五嶋みどり、ラン・ランをはじめとする数多くの「アジア人」が西洋音楽の分野で世界的な活躍をするようになったのはなぜか。音楽と人種・性・社会階層にはどのような関係があるのか。音楽的・文化的アイデンティティとはなにか。「アジア人」音楽家たちはクラシック音楽をどのように体験しているのか。そうした問いを、歴史史料および民族誌的フィールドワークを通じて分析したものです。

この本は、もとはMusicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicというタイトルで、英文で出版したものを、日本の一般読者に向けて、私自身が翻訳したものです。自分が書いた英語を、自分の母語である日本語に訳すのだから、そんなに難しいことはあるまいと思ってのぞんだのですが、この翻訳の作業は、想像をはるかに超えたチャレンジでした。学術的な英語を一般読者のための日本語に訳すという実際的な問題もたくさんありましたが、もっと本質的な次元で、そもそも自分が設定した問いや議論の枠組みが、いかにアメリカ的なものであるかを、翻訳しながら痛感しました。「アイデンティティ」という単語がやたらと飛び交い、人種やジェンダーといったカテゴリーが軸になっている分析は、日本の読者にはピンとこない部分もあるかもしれません。でも、そうした前提や議論の違いを日本の読者に感じ取っていただくことも、意味のあることだと思っています。なるべく読みやすくわかりやすい文章にするため、日本の読者に向けて説明や修正を加えたり、高度に特化した学術議論は削除したりしました。また、クラシック音楽そのものに興味のある読者以外にも考える素材を提供するような本作りを心がけました。少しでも多くの読者に読んでいただけたら幸いです。

私が心から敬愛する水村美苗さんが、帯にとても素敵な推薦文を書いてくださいました。感謝感激です。



もとの研究を始めた2003年頃から続いてきた多くの音楽家たちとの交流や、私自身のピアノとのかかわりも、いろいろな形でこの本の一部となっています。本書に登場する音楽家たちの一部は、私のウェブサイトリンクページで紹介していますので、興味をもったかたはぜひ彼ら・彼女たちの音楽をのぞいてみてください!

2013年10月22日火曜日

11/9(土)佐藤康子二十五絃箏コンサート

何度かこのブログでも紹介している、私の親友の佐藤康子さんの二十五絃箏コンサートが11月9日(土)にあります。年に一度コンサートも今回ですでに7回目。毎度、私が日本にいない時期なのでみずからコンサートを体験できないのが無念でたまりませんが、彼女を通じて、邦楽にまるで馴染みがなかった私も、二十五絃箏という楽器のスゴさを少し知るようになりました。正直言って、「お箏」というと、お嬢様のたしなみごと、という程度のイメージしか抱いていなかったのですが、彼女の音楽は、そういう先入観を粉みじんに(といった単語がふさわしいくらいの強烈さ)打ち破ってくれます。迫力、鮮やかさ、哀しさ、強さ、優しさ、深み、伸び、などなど、それはそれは多くの音の感覚を体験できます。88の鍵とペダルでも平板な音しか出せずにへこんでいる私としては、たった二十五本の絃でこれだけの多様な世界を生み出す楽器そして演奏者に舌を巻くばかり。まだチケットが若干残っているようですので、みなさまぜひどうぞ。

11月9日(土)18:00開演
自由学園明日館ホール
前売り券 2,500円 当日券 3,000円
お問い合わせメール  contact@satoyasuko-koto.com

私の言葉だけでは伝わらないかもしれないので、演奏の動画をひとつだけご紹介しておきます。

2013年10月20日日曜日

ウェブサイト全面リニューアル

25日の新刊発売(これについては発売日にまた宣伝いたします)に合わせて、ちょっと古ぼけた感じになってきていたワタクシのウェブサイトを、全面的にリニューアルいたしました。コンテンツはこれまでとそれほど変わらないのですが、デザインが変わるとずいぶんと印象が違うものです。全ページで使っている木の年輪の模様は、5月にピアノのリサイタルをしたときに、グラフィックデザイナーの友達が作ってくれたチラシに使われた模様にヒントを得たものです。ぱっと見ると花かと思うけれど花ではなく年輪、というのがミソ。歪んだりヒビが入ったりもするけれど、年を重ねるごとに大きくたくましく成長していることを刻む年輪。その模様に、知的でもありエネルギッシュでもある色合いを重ねました。


これまでのウェブサイトと同様、このサイトをデザイン・制作してくれたのは、私の中学高校時代からの親友。私はこだわりのあることに関してはとにかくしつこく細かくうるさいので(他のことにかんしてはきわめて大雑把なのですが)、親友でなかったらさぞかし嫌がられただろうと思うくらい、連日ああでもないこうでもないと注文のメールを送り続け、別の国に住んでいるとは思えない密な連絡が何週間も続きました。彼女が気持ちよく辛抱強くそうした注文に耳を傾け、こちらの意図することを大小すべて汲み取り実現してくれたおかげで、私自身が隅々まで「これぞ私だ!」いや、少なくとも、「これぞ私が目指す私だ!」と思うようなサイトが出来上がりました。私自身が見ていて「よし、頑張るぞ〜!」という気持ちになるサイトです。どうぞごらんください。



2013年10月19日土曜日

報道スキャンダルから新聞ジャーナリズムの倫理を問う『A Fragile Trust』

昨日も引き続きハワイ国際映画祭(毎年とてもいい作品がたくさん集まる映画祭なのですが、時期的に忙しくて行けないことが多いので、1、2本でも観られると得した気分になります)に出かけ、A Fragile Trustという映画を観てきました。先日のDOCUMENTEDとならんで、こちらもドキュメンタリー。元ニューヨーク・タイムズの記者Jayson Blairが、多くの報道において盗用や捏造を重ねていたということが2003年に発覚し、 Blair本人の辞職にとどまらず、ニューヨーク・タイムズの信頼性を大きく揺るがすことになり、上層部の編集・経営責任者の辞任にも至るという、ジャーナリズム史に残る大スキャンダルがありましたが、その事件を追った作品。スキャンダルを通じて、組織としてのニューヨーク・タイムズ社の体質、2001年のテロ事件後の報道のありかた、紙媒体からデジタル媒体への移行が進むなかでの新聞の役割、ジャーナリズムにおける人種関係(Blairはアフリカ系アメリカ人)、精神疾患やアルコール・薬物依存の取り扱いなど、さまざまな視点から、Blairを悪質な行為に導いた要因を探っています。私は、事件のほとぼりが冷めてからはとくに注目していなかったので、ニューヨーク・タイムズというプレッシャーの高い職場でのストレス、とくに2001年テロ事件以後の、ジャーナリストにとって精神的にも身体的にも非常に大きな負担を課した環境のなかで、もともと躁鬱病の要素をもっていたBlairがどんどんと精神を病み、アルコールやコカインにはまって崩壊していった、ということは知りませんでした。また、このような形の盗用や捏造が生まれる背景には、現代の報道活動の形態、そしてとくにデジタル化がもたらす情報の変化によって、ジャーナリズムのありかたが大きく変わってきている、という文脈があることもよく伝わってきました。

映画のタイトルはA Fragile Trust、つまり、「もろい信頼」。ジャーナリストが記事を書くためには、取材相手の信頼をとりつけなければならず、しかし、取材にあてられるごく限られた時間のなかでは、そうやってできる信頼はごくもろいものでしかない、という意味が込められています。が、映画上映後の質疑応答の時間の監督の話を聞いて、この「もろい信頼」とは、取材相手がジャーナリストに向ける信頼のことだけではないのだ、ということがわかりました。この映画では、Blair本人とも何回もインタビューを重ね、彼自身による事件の説明も重要な一部となっています。が、彼の話を聞いても、聴衆は、彼に対して一種の同情は生まれても、共感を抱くことはほとんどなく、最後まで彼は、「信頼できる語り手」にはならない。自らジャーナリストである監督のSamantha Grantは、取材相手をじゅうぶんに信頼できない、という状況のなかでドキュメンタリー映画を作ることの困難について語っていましたが、そう考えると、この「もろい信頼」とは、ジャーナリストが被取材者に託す信頼のことでもあるわけです。もちろん、Blairはきわめて極端な例ではありますが、どんな報道においても、ジャーナリスト(研究者もそうです)は取材相手がつねに100パーセントの「真実」を語るわけではない、という前提のもとで、データの収集・分析や記事の執筆をしなければいけない。そうした意味で、ジャーナリズムという行為の複雑さを垣間みさせてくれる映画でもありました。

私は、2003年から2004年、つまりこの一連の騒ぎの最中にニューヨークに住んでいたのですが、なんと、ニューヨークの地下鉄で目の前にBlairが座っていたことがあります。ちょうど盗用・捏造が発覚してニューヨーク・タイムズを辞職し、大スキャンダルとなって、テレビなどで連日顔が出ていたときだったので、彼だとすぐわかったのですが、彼はそのとき地下鉄に座って、自分の(事件が発覚してまもなく、彼は自分の立場からこのスキャンダルについて語る本を出版しました)をじーっと読みふけっていました。もちろん、自分が書いたものが物理的な本として出来上がってから、それを新たな目で読み直してみる、ということは著者としてはいくらでもあることですが、彼をめぐるスキャンダルの性質上、「自分の本をそんなに珍しげに読みふけるということは、もしかするとその本も本当は自分で書いたんじゃないのでは?」という疑問が頭に浮かんだのを覚えています。

2013年10月18日金曜日

「非合法移民」の意味を追求する映画、DOCUMENTED

昨晩、現在開催中のハワイ国際映画祭の目玉のひとつとして上映された、DOCUMENTEDという映画を観て、その後この映画の主演・制作をつとめるJosé Antonio Vargasを囲んでのレセプションに参加してきました。たいへん考えさせられることの多い、インパクトの強い映画でした。

この映画は、Vargasみずからの生い立ちや家族の物語を通して、アメリカの移民制度、とくに「非合法移民」の扱いの問題点を追求するとともに、「アメリカ人」とはなにかを問うドキュメンタリー。Vargasは、アメリカに移住した祖父母に呼び寄せられて、非合法な米国入国を斡旋する業者のはからいで、12歳のときに単身フィリピンから渡米。子供ゆえ、自分の渡米の意味や法的な立場を理解するよしもなく、祖父母のもとで暮らしながらカリフォルニアでの生活に順応し、学校では成績優秀であらゆる課外活動で活躍する人気者となっていった。16歳のときに、自分が「非合法移民」であることを知った彼は、彼を応援する周囲の大人たちの支援のもとで、自分の夢を追求しながらアメリカ社会の一員として暮らしていく道を探るようになる。好奇心旺盛でさまざまな相手に「厄介な質問」をするのが好きだった彼は、大学ではジャーナリズムを専攻し、卒業後、ワシントン・ポストなどの一流メディアで報道にあたり、ピュリツアー賞も受賞するエリート記者のひとりとして活躍するようになったものの、それぞれの仕事の雇用の際、国籍・米国滞在資格については「アメリカ市民」と記入しながら、いつ事実が発覚して国外退去処分になるかとハラハラしながら10年以上暮らしていた。

さまざまな州での非合法移民の扱いや、連邦政府の移民法をめぐる議論が高まるなか、彼は2011年に自分が「非合法移民」であることを公開することを決意。高校の授業の最中に自分がゲイであることを告白した彼にとっては、2度目の「カミング・アウト」であったが、今度は、全国ネットのテレビ番組ですでに著名なジャーナリストとなった彼が「非合法移民」であるという事実を公開したことで、非常に大きな反響を呼ぶこととなった。自分の物語を通じて、移民法改正の議論に携わる政治家はもちろん、日常生活のさまざまな側面で非合法移民とかかわる一般の「アメリカ人」たちに、移民法のありかたについて考えてもらうきっかけを作ろうと、Vargasは、その後、自分の生い立ちについての長文記事をニューヨーク・タイムズで発表したり、各種メディアに出演したり、保守派の有力な地域で講演をおこなったりしながら、その様子をみずからドキュメンタリー映画として追っていく。その過程で、現在約1100万人と想定されるアメリカの「非合法移民」たちがその立場におかれるようになった経緯や生活ぶり、現行のアメリカ移民法の複雑さ、アメリカのさまざまな地域における人種をめぐる議論などが、多面的に映し出されます。そして、Vargasがフィリピンを離れてから20年間顔を合わせていない母親(本来は、息子を追って渡米する計画だったのが、移民ビザはもちろん、帰国資金が証明できないため観光ビザすら入手できず、フィリピンに残ったまま20年間が経過。渡米後数年間はVargasは母親と頻繁に文通をしていたものの、自分のアメリカでの立場に向き合うにつれ、そのような形で自分をアメリカに送り出した母親に対して冷たい気持ちを抱くようになった彼は、その後連絡を絶ち、ジャーナリストとして名を成してから母親がフェースブックで友達申請をしてきても拒否していた)とスカイプで対面するシーンには、とりわけ多くのことを考えさせられます。

「非合法移民」としてアメリカに居住する人々は、世界各地から来ているものの、とくにフィリピンは、米国植民地の歴史、マルコス政権期の政治経済体制、現在の経済状況などさまざまな要因で、とくにアメリカへの合法・非合法の移民を非常に多く送り出してきており、夫婦や親子が10年以上も離ればなれで暮らすことも珍しくありません。とくにアメリカや香港などでの家事労働者として働く女性たちは、自分の子供をフィリピンに置いたまま何年間も他人の子供の世話をすることで、フィリピンの家族を養うというケースが非常に多くなっています。こうした家族形態を生むグローバルな経済不均衡のなかで、人々がどのような経緯で、どのような思いで国境を越え、アメリカでどのような暮らしを送り、「アメリカ人」からどのような扱いや視線を受けているのか、「非合法」な人たちが「合法」な立場を手に入れることがなぜできないかが、生身の形で伝わってくる映画です。

上映後のレセプションでは、Vargasおよび司会者の意向で、参加者全員「移民」をめぐる話をtシェアし、さまざまな物語が交わされました。サモアやメキシコから非合法移民として入国して10数年がたつという人たちや、合法的な移民でありながらもアメリカ国籍に帰化する手続きに15年かかっているという原始物理学者を母親にもつという人の話を聞きながら、ハワイという、移民とその子孫が人口の大多数を占めている場所でも、現在移民法によってさまざまな形の差別が存在し、それと同時に合法的にこの土地で暮らしている人たちがそうした非合法な人たちの労働に依存している、という状況を、改めて実感しました。

「移民」とくに「非合法移民」というカテゴリーそのものが身近でない多くの日本の人たちに是非みてもらいたい作品です。

2013年9月29日日曜日

海を渡るキティちゃんの「ピンク・グローバリゼーション」

あるジェンダー研究の学術誌に書評を頼まれて読んだのが、ハワイ大学の同僚Christine R. Yanoによる、Pink Globalization: Hello Kitty's Trek Across the Pacific。その名のとおり、ハロー・キティの世界的な人気の意味を探る、文化人類学そしてカルチュラル・スタディーズの手法を使った研究。私は小学生の頃はキティちゃんを可愛いと思ったけれど、今ではむしろ不気味に感じるし、大のおとながキティちゃんグッズを持っているのを目撃すると、まったく大きなお世話ながら「アホかいな」という気持ちにすらなる。こういう子供向けのキャラクターが、銀行の通帳だの飛行機の機体だのについているのを見ると、腹立たしくすらなる、というのが正直なところ。で、いくら研究書とはいえ、わざわざハロー・キティ(「キティちゃん」とまるで知り合いかのような呼び方をしなければいけないことすら腹立たしい:))について勉強するために自分の貴重な時間を割こうとは思わないのですが、著者のChrisは、なにしろ私が心から尊敬する、知性と感性と文章力がピカイチの人物で、これまでの著書(彼女と私は同じ年にハワイ大学に就職したのですが、私が研究書を2冊出すあいだに彼女はすでに4冊出している)もすべて拍手したくなるほど素晴らしいので、書評を頼まれたのを機に読むことにした次第。

いや〜、さすがChris。この白くて丸くてピンクのリボンをつけたネコから、こんなに多くのことを考えさせられるとは思いませんでした。かといって、この本を読み終わった私が、じゃあこれからキティちゃんグッズを店で買うかといったら答は大きな「ノー」ですが、ハロー・キティのもつ意味をもっと多面的に考える機会になったことは確かです。このネコを通じて、ジェンダー規範や性、人種のステレオタイプ、消費主義と表現の自由、芸術の創造性と企業のマーケティング戦略、政府の文化政策と企業や消費者の論理など、実にさまざまな大きなテーマを考えさせられるのです。

著者がこの本で枠組として使っているのが、「ピンク・グローバリゼーション」という概念。「『カワイイ』とされている商品やイメージが、日本からアメリカなどの先進国へと国境を越えて広がること」と著者は説明します。この独特な形のグローバリゼーションは、いろいろな意味で「典型的」なグローバリゼーションの常識や流れを揺さぶるもの。まずは、ポスト・フェミニズムの時代において、「カワイイものはカッコいい」とするこの独自の美学は、いわゆる「ピンク」なもの—つまり、可愛らしく、女性らしく、性的で、情感に訴えるもの—を、女性の重要な一部として賛美する。そして、女性(また男性も)はその「カワイイもの」を武器として、さまざまな自己表現をしたり社会への問いかけをしたりする。("Pink is the new black"だそうな。)ほほう。そしてまた、白人西洋社会から世界の他の地域へと流れる「グローバリゼーション」と違って、キティちゃんの「ピンク」なグローバリゼーションは、日本を出発点として、アメリカやラテン・アメリカ、アジアの他の地域などへと広がっている。しかし、このピンク・グローバリゼーションが従来の世界力学を覆しているかというと、そういうわけではない。ミッキーマウスやバービー人形、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのおじさんなどのキャラクターが、そのキャラクターを超えてその背景にある「アメリカ」のライフスタイルや経済・文化を象徴するようになっている(そして世界が一面的に「ディズニー化」「マクドナルド化」するのを批判したりおそれたりする人たちがいる)のとは対照的に、キティちゃんがいくら世界で人気だからといって、それを日本による世界制覇の象徴とみて脅威を感じる人は少ない。キティちゃんのグローバリゼーションは、白人西洋中心の文化的ヘゲモニーを揺さぶるものではないのだ。なにしろ、キティちゃんの苗字は「ホワイト」で、キティちゃんとその家族はイギリスに住んでいて、キティちゃんはピアノとテニスが趣味で、ディア・ダニエルという名前のボーイフレンドがいるのだから。

著者は私が感心する名エスノグラファーで、インタビューで人から面白い話を聞き出すのが実に上手なのだが、この本でもそれが明らか。ハロー・キティのファンや収集家、キティちゃんをテーマにした作品を作っている各種メディアのアーティスト、サンリオの日本本社そしてアメリカの支社の代表者などとのインタビューをふんだんに盛り込みながら、ハロー・キティがもつ実に多様な意味を披露すると同時に、キティちゃんのピンク・グローバリゼーションを、より大きな歴史的・政治的・経済的な流れのなかに位置づけます。キティちゃんのファンは、少女たちだけではない。とくにアメリカでは、女性もいれば男性もいる。アジア系アメリカ人もいればヒスパニック系の人もいる。メディア・パーソナリティもいれば会社員もいる。パンク・ロッカーもいればポルノ女優もいる。ゲイの男性もいればレズビアンもいる。そして、みずからも異常と認めるほどキティちゃんグッズにお金や時間をかける人たちもいるいっぽうで、キティちゃん(が象徴するもの)を激しく批判する人たちもいる。キティちゃんの「可愛らしさ」を、幸せ、無垢、親密さなどの象徴とみる人たちがいるいっぽうで、幼稚さ、無力さ、人種や性のステレオタイプ、商品フェティシズム、少女や思春期の女性を消費者として狙い撃ちにする企業文化の象徴とみる人たちもいる。キティちゃん反対論者の多くは、キティちゃんには口がない、という点をとくに問題視する。口がないということは、声を発するすべを持たない、ということであり、アジア女性を無口で従順な存在とするステレオタイプを強調するものだ、という見方である。このように、キティちゃんが内包する「意味」は、実に多様で曖昧で相矛盾するものであり、著者はどの見方に軍配を上げるでもなく、それぞれを丁寧に読み解いていく。

著者の分析においてとくに重要なのが「遊び」と「ウィンク」という概念。ハロー・キティをこよなく愛する人も、痛烈に批判する人も、キティちゃんとのかかわりかたはきわめて意図的なもので、キティちゃんを通じて、消費主義、キッチュの美学、商品フェティシズムなどに対して、遊び心いっぱいに片目でウィンクしながら挑戦を投げかけている。こうした「ウィンク」のもつ先鋭性に、著者はピンク・グローバリゼーションの威力をみる。しかし、それと同時に、著者は、ピンク・グローバリゼーションの限界も見逃さない。消費者やアーティストたちが、キティちゃんを手に取り援用して独自の声を発し、さまざまな挑戦をしかけるいっぽうで、サンリオという企業は、そうした援用をさらに企業のマーケティング戦略に巧みに取り込んでいく。また、小泉首相が提唱した「クール・ジャパン」キャンペーンの一環で、キティちゃんをはじめとする「カワイイ」日本のキャラクターが「ソフト・パワー」外交の親善大使として使われるようになる。このような流れのなかで、創造性とキッチュ、芸術と商業、転覆と収斂、ピンクとブラック、そうした境界はきわめて曖昧なものである、ということを示して、「ピンク」や「ウィンク」のもつ可能性と限界の両方を露呈するのです。

ニューヨークのパーク・アヴェニューの企業オフィスの明かりがほんのりと光るだけの夜の暗闇を背景に、巨大な真っ白のキティちゃんの人形が空を浮いている画像の上に、ピンクの帯がタイトルを縁取っている表紙。「ピンク」と「ブラック」と「ホワイト」が象徴するものの相関関係を探る研究書の表紙としては、なんとも見事なデザインであります。