2012年7月3日火曜日

PianoTexas 2012

テキサスで12日間過ごした後、昨日トロントにやってきました。テキサスにいるあいだにその興奮を伝えたかったのですが、滞在場所のインターネット環境が悪く、まとまった文章を書ける状況ではなかったので、投稿は断念していました。


クライバーン・コンクールのあるフォート・ワースのテキサス・クリスチャン大学で開催される、PianoTexas International Academy & Festivalというイベントに参加していたのですが、夏のテキサスの気温(なにしろ40度になることもある猛暑)にもかかわらず、天国に来たかと思うような素晴らしい日々でした。ウェブサイトを見ていただければわかりますが、PianoTexasとは1981年にクライバーン・コンクールと提携した形で創設されて以来毎年開催されているピアノフェスティバル。もとは若手ピアニストのためのプログラムだったのですが、1990年代からは大学や個人スタジオで教えるピアノ教師のためのプログラムと、私のようなアマチュアのためのプログラムが加えられました。さすがクライバーン・コンクールが開催される街の大学だけあって、テキサス・クリスチャン大学のピアノ科はたいへん充実していて、錚々たる教授陣がそろっているのですが、大学の教授に加えて、世界各地からゲスト・アーティストが招待され、演奏に加えマスタークラスや個人レッスンをしてくださる。今年は、伝説ともいえるPaul Badura-SkodaやLeon Fleisher、そして海老彰子さんがゲストアーティストでした。こうした人たちのマスタークラスを見ていると、「マスター」という単語の意味がしみじみと感じられます。真に深く幅広い知識をもち、あらゆる試行錯誤を経てさまざまな技術を身に付け、つねにより優れたものを志すと同時に、作曲家や作品への底知れぬ畏敬の念を抱き続け、芸術を次世代に伝えようと惜しみなく指導にあたる彼らは、顔つきから人間性がにじみ出ているのです。芸術家は往々にして独りよがりの暴君であるといったイメージがありますが、真に優れた芸術家は、謙虚でもありジェネラスでもあるのだ、と改めて感じさせられました。


プロの演奏家を目指す若手のピアニストたちがこうしたベテランの指導を集中的に受けるようなイベントは世界各地に存在しますが、アマチュアにもこれだけ充実したプログラムを提供してくれるところは他にないだろうと思います。素晴らしいピアニストたちに指導を受けられるだけでなく、普通だったらアマチュアが触る機会がないような立派な楽器(スポンサーとなっているメーカーが楽器を提供してくれるので、スタインウェイの他に、ベーゼンドルファー、ベクシュタイン、ヤマハ、カワイなどの超一流の演奏用ピアノを弾かせてもらえます)をちゃんとしたホールで弾かせてもらえるというのもすごい。私は、1989年のクライバーン・コンクールの優勝者であるJose Feghaliにマスタークラスでシューベルトの即興曲作品142第3番を指導していただいたほか(あー緊張した)、John OwingとGloria Linに個人レッスン、そしてさらに追加でPianoTexasの運営者であるTamas Ungarにレッスンをしていただきました。今回取り組んだのは、スクリアビンの左手のための前奏曲と夜想曲作品9、およびラフマニノフの楽興の時作品16の第1番と6番。ここ1年くらい練習してきて、5月のリサイタルでも演奏した曲なのですが、うーむ、まーだまだ肝心なことができていないことを実感。


ソロの他に、今年初めての試みとして、室内楽のセッションもあり、アメリカ各地から参加している若手の弦楽奏者たちと一緒に室内楽のリハーサル、マスタークラスを経てコンサートで演奏する、というオプションも設けられました。私は室内楽をほとんどやったことがないので、是非この機会にと思って、前から一度弾いてみたいと思っていたシューマンのピアノ四重奏作品47の第3楽章をやりました。いくらなんでも一度も弦楽器を合わせたことのないままテキサスに行くのもなんだと思って、ホノルル出発前に、ハワイ・シンフォニー・オーケストラの団員(ヴァイオリンはコンサートマスター、ヴィオラは首席、チェロは数年前に亡くなったホノルルで伝説的に素晴らしいピアノ指導者の娘でベテランのチェリストだったので、私なぞにはもったいないような顔ぶれ)の友達に頼んで合わせてもらったのですが、これがあまりにも刺激的で目ならぬ耳からウロコが落ちるような経験でした。今回は、初めて顔を合わせる人と一緒に、きわめて限られた準備時間で演奏にもっていかなければいけないというチャレンジがありましたが、それはそれで大変面白く、ソロとはまったく違う種類の音感の使い方を学び、おおいに勉強になると同時に楽しい経験をしました。室内楽の他に、歌曲の伴奏のセッションもあり、今回のPianoTexasはシューベルトがテーマだったので、若手の歌手たちによるシューベルト歌曲をたくさん堪能することができました。私は正直言って、シューベルトはあんまり好きではないなあと思っていたのですが、歌曲と室内楽をじっくり聴いてからピアノ曲を聴いたり弾いたりすると、今までどうもよくわからなかったことがずいぶんと合点がいくようになり、シューベルトも悪くないなあと思うようになりました(と、いかにも素人的なコメント)。


というふうに、自分自身のピアノの理解やスキル向上にはとてもよいプログラムなのですが、なんといっても一番素晴らしいのが、こうした場で育まれる仲間との絆。アマチュアプログラムに参加する人たちのレベルには結構幅があり、プロの演奏家にもまったくひけをとらないレベルの人もいれば、私のような純粋なアマチュアレベルの人もいるし、技術的には初級の上から中級の下といった人もいる。ベートーベンのピアノコンチェルトを堂々と弾く人もいれば、楽譜と鍵盤を必死に見ながらショパンのマズルカを弾く人もいる。けれど、スキルのレベルとは無関係に、なにしろピアノが好きで、どうしてもこの曲を自分なりに弾けるようになりたい、という気持ちはみな共通。その演奏から、それぞれの人生が垣間みられる。そして、コンクールと違って、演奏に誰かが優劣をつけられるわけではないので、参加者全員がよりリラックスしてお互いの音楽に心を開き、ちょっとくらいミスがあろうがなんだろうが、その人が伝えようとしていることをみんな熱心に受け止める。人のタイプも実に多様で、大きな身体をした、いかにもビールを飲みながらフットボールを見ていそうな男性が、緊張しながら一生懸命にドビュッシーのアラベスクを弾いたり、アメリカ人のステレオタイプを絵に描いたようなおおらかな男性が繊細なブラームスの間奏曲を弾いたり、これまた大きな身体をした年配の男性ふたりが椅子を並べてシューベルトのファンタジーの連弾をしたりしているのを見ると、「ああ、音楽というのはこういうものだった」と胸が熱くなります。なにしろあらゆる意味で素晴らしいプログラムですので、アマチュアピアノ愛好家のかたは、ぜひ来年以降の参加をご検討ください。


というわけで、興奮と刺激と感動に満ちた11日間が終わってしまって淋しいことこの上ないのですが、心機一転、これから8月上旬までトロントに滞在し、夏のあいだに仕上げなければいけない仕事を片付けます。