2014年3月5日水曜日

書評・感想文コンクール結果発表!『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門

書評・感想文コンクールに応募してくださった読者のみなさま、どうもありがとうございました。書評・感想文を書くのに必要な注意をもって丁寧に熟読し、読みながらいろいろなことを考え、考えたことをきちんとした文章にまとめて著者本人に送るというのは、多大な時間と思考力と労力を要するものです。しかも、受賞したらこのブログで文章が世間に公開されるし、そのいっぽうで受賞しなかったらそれだけ頑張って書いた文章がなんの日の目もみないことになる。そうした条件下で、わざわざ多くのかたが文章を送ってくださったということに、涙が出るほど感謝しております。書評・感想文はみなそれぞれ独自の視点をもっていて、そうした視点には私の著述がどのように映るのかが感じ取られて、とても興味深く、勉強になりました。なるほどね〜、と意外な発見をしたり新鮮な思いを抱くこともありました。

さて、本日はまず『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門の受賞者を発表いたします。ジャジャーン!

最優秀賞(同点二点)
 川上桃子さん  川上さんの文章はこちらでお読みいただけます。
 大八木崇史さん 大八木さんの文章は、本ブログの最後に添付いたします。
佳作
 安西洋之さん  安西さんの文章はこちらでお読みいただけます。

はからずも、最優秀賞受賞者二名は私の友人ですが、友人だからゲタをはかせたわけではありません。この二人が受賞する理由は、書評・感想文を読んでいただければわかるはずですが、まずはこの二人の文章に共通する素晴らしさを挙げておきます。

ひとつは、その精緻で正確な読解力。一般の読者にもなるべく読みやすいようにと心がけたものの、アメリカ文化研究の学術書として英文で書いた原作を日本語に訳したこの本は、専門外の読者には、寝っころがってスラスラ楽しく読める、という類いの本ではありません。(その点、『ドット・コム・ラヴァーズ』『性愛英語の基礎知識』とは、問題意識としてのある程度の共通点はあるものの、とても種類の異なる本ですし、同じくクラシック音楽を題材にしている『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール 』ともかなり違っています。)それぞれ専門性の高い分野で活躍しているとはいえ、私と異分野・異業種に属するだけでなく、クラシック音楽そのものについてとくべつな知識があるわけではない二人には、決して読みやすい本ではない(じっさい、文章のなかで二人ともその点を指摘しています)はずですが、そうしたハードルを超えて、私がこの本において意図したことの意義をきちんと理解し、私が分析を丁寧に追い、私が伝えようとした論を正確に把握している。(ごく基本的なことのようでありながら、この点をクリアしていない書評や感想文というのはかなり多いのです。)

そして、このプロジェクトのどういった点が新しく、どういった点が難しいのか、ということもちゃんと捉えている。「アジア人」および「アジア系アメリカ人」を対象としていながら、そもそもそのカテゴリー自体が様々な問題をはらんでいて、それらを既存のカテゴリーとして描写的に使うのではなく、そのカテゴリーを問題化することを目的のひとつとしているのだということをちゃんと理解している。そして、特定の問題意識をもってこのプロジェクトにのぞむ研究者としての私の視点と、「アジア人」「アジア系アメリカ人」音楽家たちの意識や経験は、多くの場合まるで違うものだという困難についても、シンパシーを示してくださっている。「そうなんです、そこが難しかったんです、わかってくれてありがとう」と二人の手を握りしめたい気分。(笑)

そしてなにより嬉しかったのが、二人とも、クラシック音楽における「真正性」の問題を扱った第五章にとりわけ反応していること。本全体のなかでも、この章は書くのに一番苦労した章であると同時に、一番重要だと思っている章なのです。「クラシック音楽における『真正性』とはなにか」、「クラシック音楽において『正統性』という概念のもつ意義はなにか」、といった問いに明確な答があるわけはもちろんなく、私は研究の初期の段階でこれらの問いを、「アジア系・アジア系アメリカ人の音楽家たちは、クラシック音楽における『真正性』『正統性』といった概念をどのように理解し、自らと音楽との関係をどのように捉えているのか」という問いに定義し直したのですが、このあらたな問いに対しても、答はまったく一筋縄にはいかない。音楽の普遍性を信奉し、クラシック音楽において「アジア人」云々を問題にするのは人種差別である、という立場の人たちから、音楽という行為の文化的固有性をとらえた上で西洋に起源をもつクラシック音楽に自らの形で取り組む人たちまで、音楽家自身の考えは実にさまざまで、そうしたアイデアをきれいに整理するのも難しいし、整理したところでなにか意味のある結論に結びつくわけでもない。また、文化批評の立場からいえば、そうした普遍主義や固有主義どちらにも、いろいろな問題はあり、そうした論点を説明するのにはどうしても文章が学術的になってしまい、一般読者にどれだけ伝わっているかが不安。そしてまた、研究者としても音楽にかかわる人間としても、私自身がどちらの見方により共感するかといえば、それも答えにくい。そうしたなかで、クラシック音楽の伝統と現代における音楽活動の両方に「真正」であろうとして音楽に向き合う「アジア人」たちの意識や行為について論じた点が、二人にきちんと伝わってホッ。

次に、二人の文章で挙げられているいくつかの具体点についてコメント。

川上さんは、この本が「アジア人音楽家という存在に映るアメリカ社会」、具体的には「人種とジェンダーと経済(報酬のメカニズム、出身階層、階層帰属意識といった広義の"経済")の絡まり合いを見事に描きだしている」、と書いてくださっています。アメリカ研究そしてアメリカにおける人文科学や社会科学の多くの分野においては唱え文句のようになっているrace, gender, classといった概念が、アジア人音楽家にとって実際にはどのような意味をもち、彼らの人生やキャリアにどのような作用をもたらしているのか、といったことを伝えるのが本書の大きなミッションのひとつだったので、この点をちゃんと理解してくださったのは嬉しい。後から考えると、一般の日本の読者に向けては、そもそもアメリカにおいて「アジア人」「アジア系アメリカ人」というものがどのような位置づけにあって、そのカテゴリーに含まれるのはいったいどういう人たちで、彼らはどんな意識をもってアメリカで暮らしているのか、というごく基本的なことをもう少し本書で説明しておけばよかったかなという気もしている(長年アメリカで生活し、アメリカ研究を専門としている私にとっては、「人種」をめぐる議論のなかに日常的に身を置いている私には、自明のことすぎて、この点が説明要ということに思い至らなかったのです)のですが、この点がちゃんと伝わったのならば、アメリカ研究としての本書の一目的は達成したと思えます。

そして、音楽好きの親の方針で幼い頃からピアノの英才教育を受けたものの、クラシック音楽の演奏や「ピアノのおけいこ」の世界に長いこと違和感を感じていたという川上さんが、第五章における「真正性」をめぐるああでもないこうでもないという分析を読みながら、クラシック音楽の演奏というものについての「不可解さ」への違和感が少しずつほぐれていったというくだりは、「ああ、この本を書いてよかった、とくに苦労して第五章を書いてよかった〜」と思わせてくれます。この本の読者は、クラシック音楽は好きだけれども学術研究にはあまり縁がないという人、あるいはアメリカ社会や人種といったトピックには興味はあるけれどもクラシック音楽にはあまり馴染みがないという人が多いのではないかと思っています。この本を通じて、前者タイプの読者には、社会学的・文化人類学的・文化批評的視点からクラシック音楽という世界をみるとどんな問いが立てられ、どんなことが見えてくるのかを垣間みていただき、後者タイプの読者には、クラシック音楽という世界はどんな論理で動いていて、音楽家たちはどんな意識をもってどんな暮らしをしてどんなふうに音楽創造という営みをしているのかを少しでも知っていただけたら、と思っているので、川上さんのような読者に、こう感じてもらえて本当によかった。

みずから日本語・中国語・英語を駆使して研究に携わり、とくに研究や執筆のプロセスといったことについて私と関心を共有している川上さんは、「英語と日本語の学術書のスタイルの違い」についても鋭い指摘をし、本の最初で西洋帝国主義や近代化といった生硬な用語が本の最初からがんがん出てくるのには結構面食らった、と正直に書いています。第二章以降ではがぜん叙述が生き生きしたものになるので、冒頭部で挫折しないように、と読者に指示と応援までしてくださっているのですが、二章以降のほうが読みやすい、というのは私にはちょっと意外でした。第一章は西洋音楽が東アジアに受容され、それがまた西洋へと「逆輸出」されていく歴史的経緯を扱ったもので、たしかに帝国主義や近代化といった用語は出てくるものの(こうした用語なしにこの歴史を語ることはまず不可能)、話自体は時系列的な歴史著述なのに対して、二章以降は「人種」「ジェンダー」「階層」といった分析カテゴリーを軸にした記述になっているので、二章以降のほうが読者にはむしろ難しいかな、そして五章が一番難しいだろうな、と思っていたのです。まあこれは、読者によって感じ方は違うことでしょう。

「クラシック音楽の世界でのアメリカの位置づけはもっと丁寧に論じるべきだった」という指摘、まったくおっしゃる通りでございます!(佳作の安西さんも同じ指摘をなさっています。)アメリカが研究の対象とはいえ、ヨーロッパを起源とする音楽なのですから、その世界におけるヨーロッパとアメリカの関係はもっと詳しく論じるべきでした。

Chineseを「中国人」でなく「華人」と訳したほうがよかった、という指摘も、おっしゃる通り。原書の研究と執筆が英語を中心としたものだったので、この点に思い至りませんでした。

次に、大八木さんの文章について。

経済・金融を専門とする大八木さんが、階層としての音楽家、そして経済活動としてのクラシック音楽を扱っている第四章を「消化不良」と感じ、「『古典的なマルクス主義理論』という枠組みから分析を始めること自体、時代錯誤も甚だしい」と述べているのは、ある意味納得がいきます。私がこの章で意図していたのは、「経済学」としてクラシック音楽を分析することよりも(そうであれば、古典的マルクス主義理論から話を始めるのはたしかに時代錯誤でしょう)、「クラシック音楽家」をアメリカの社会経済のなかに位置づけ、職業・産業としてのクラシック音楽の状況を描きながら、音楽家自身の階層帰属意識や文化資本としてのクラシック音楽のありかたを分析することにありました。(それに必要な文化・社会批評理論の潮流は、さまざまに形を変えつつもマルクス主義に源がありますが、ここで「マルクス主義」というのは、厳密な意味での経済分析としてのマルクスよりも、経済とイデオロギーや文化の相関関係の分析としてのマルクスです。原書はそうした前提を共有するアカデミックな読者を主に想定していたので、そうした点は説明せず、経済活動や社会階層にしぼって枠組みを背景説明をしたのですが、日本語版ではもっと説明をしておけばよかったかと反省。)実は、私はこのプロジェクトを初めに構想したときは、このトピックでまるごと一冊本を書くつもりでいたのです。つまり、この研究を始めるにあたって、私はブルデューの一連の研究をふまえた上でアジア人にとっての「文化資本としてのクラシック音楽」のありかたを社会学的に分析することに主眼をおいていたのです。けれども、実際に研究を始めてみると、そうしたトピックの他に、「音楽そのもの」をめぐる問いがだんだんと大きくなってきて、結局この文化資本分析は五章のうちの一章となったのです。なので、大八木さんは「章としてそもそも蛇足なのかもしれない」と述べていますが、私にとってはこの章は蛇足どころかキリンの首(例えが変か?)のような存在なのです。この章をもっと最初のほうにもってきてもよかったくらいなのですが、そうすると、「人種」やアイデンティティといった枠組みが薄れてしまいそうだったので、第四章という位置づけになりました。

日本語のタイトルが、本書の一番大切なメッセージを正確に伝えられなくなったきらいがある、という指摘(「歴史的な経緯を強調するようなこの日本語タイトル〜これは東アジアにおけるクラシック音楽の歴史的経緯と、著者がインタビューした演奏家のそれぞれがクラシック音楽家になった個人的な歴史・文化・社会的経緯の両方を含意しているのだろう」というのはまさにその通りです)は、まあおっしゃる通りなのですが... 本を何冊も出すうちにわかってきましたが、本のタイトルというのは、とても難しいのです。本書のタイトルについても、出版社のスタッフとああでもないこうでもないとのやりとりがさんざん続いた後でやっとこのタイトルに落ち着いたのです。原書は研究書なので、とにもかくにも内容が正確に伝わることが大事ですが、なるべく一般の読者、とくにクラシック音楽自体にそれほど興味がない読者にも手に取ってもらうことを心がけた日本語版では、「とにかく興味をもってもらう」タイトルであることが正確さと同じくらい重要。日本語だと「アジア人とアジア系アメリカ人」という用語をタイトルまたはサブタイトルに入れるのはあまりプラクティカルではないので「アジア人」に「 」をつけることでその問題に対応しましたが、『クラシック音楽と「アジア人」』(これも私自身が当初候補として挙げていたタイトルのひとつです)ではちょっとアカデミックな印象を与え、クラシック音楽に興味がある人以外にはアピールが低いのでは、という意見からボツになりました。

さて、この本では二カ所で、何人かの音楽家とのインタビュー内容をそのまま掲載していますが、大八木さんはこのインタビューが、「単に彩りを添えるということだけではなくて、本書に歴史的な資料価値を与えている」、つまり、21世紀初頭のアメリカ、特にニューヨークを中心としてクラシック音楽の世界におけるアジア人の生の声を記録することで、ここで語られていることの時代性を浮き彫りにし、「後になってその言葉から、現時点では見えない様々な要素を帰納的に導きだすことが可能になるかもしれない」と書いています。この点、とてもオモシロイ!インタビューをした時点、そしてインタビューの抜粋をそのまま本に入れようと決めた時点では、そうした時代性ということは考えていませんでしたが、言われてみるとその通りです。そして実際、私はこれらのインタビューを含むフィールドワークをおもに行った2003〜2004年からちょうど十年が経ったのを機に、「音楽家たちの十年」を調べてみたら面白いのではないかと思い、当時インタビューし今でも親交のある音楽家たちの数人に、あらたなインタビューをし始めているところなのです。音楽家個人の人生やキャリアにおけるさまざまな変化は、クラシック音楽業界や社会全体の変化といろいろな形で結びついています。この十年では、ラン・ランやユジャ・ワンといった「華人」音楽家がスーパースター的地位を占めるようになり、「アジア人」クラシック音楽家の台頭はさらに加速しています。また、インターネットによる音楽配信の急速な普及が、音楽業界に大きな様変わりをもたらしています。さらに、オバマ政権が実現し、アメリカにおける人種力学も、変化した部分もありそうでない部分もあります。そうしたなかで、「アジア人」音楽家たちの意識や音楽が、どのように変化しているかしていないか、前回と同じ音楽家たちそして新たな音楽家たちの両方をインタビューしてみたら、とても面白いと思うのです。なにかの形でこれをまとめて発表できますように。

最後に、私のことを、「優れたインタビューアであり、また、非常にテンポの良い文章を書く」と形容してから、「本書はそもそもが学術論文であるため、様々な制約下で、筆者のそのような才能が十分反映されていないと思う」という大八木さんの指摘。本のなかでも書いたように、この本を英語から日本語へ、そして学術書から一般書へと「翻訳」するのは、実に大変な作業で、こういう過程はもう二度とふむまい、と固く決意しているくらいなのです。同じ内容でも、原書を訳すのではなく、日本語は別物として書き下ろしていたら、議論展開も文章ももっと滑らかなものになったはずですし、学術的分析は副次的なものとして読み物としての面白さを主眼においた本づくりにすることも、しようと思えばもちろんできたのですが、新たなトピックでの研究をすでに始めているなかで、この同じ素材を別の形に書き換えるという作業もしたくなかったので、原書の翻訳という形になりました。まあ、『性愛英語の基礎知識』の著者は、こういう本も書くのだということを世の中の人に知っていただくという点では意味があったと思いたいです(笑)。

安西さんの文章は、みずから音楽家ではないけれどもクラシック音楽の世界をよく知っている、イタリア在住のビジネスプランナーという立場ならではの、独自の視点から、本書の論点に興味深い反応を示してくださっています。考えてみると、今回の受賞者が全員、クラシック音楽にかかわる人たちではないということ、そして(少なくとも現時点では)日本の外で生活している人たちである、というのは興味深いです。これが偶然なのか、それとも日本の外で暮らしているからこそ「アジア人」ということの複雑な意味を理解しやすいのか、そしてクラシック音楽と直接関係がないからこそその世界の特有性をめぐる議論に反応しやすいのかは不明です。

受賞者のみなさんと相談の上で、副賞の内容を決めさせていただきます。応募していただいたみなさま、本当にどうもありがとうございました。また、コンクールは終了いたしましたが、本への感想やコメントはもちろんいつでも大歓迎ですので、今後もどうぞよろしくお願いいたします。『ドット・コム・ラヴァーズ』部門の選考結果は、追って発表いたします。

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           大八木崇史さんの書評・感想文


「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?-人種・ジェンダー・文化資本(吉原真里・著)を読んで。

力作である。

自身がアマチュアとして相当なピアノ奏者である著者が本書の執筆を始めたきっかけは、小澤征爾が指揮し、日本人観客が聴衆に混じるウィーン・フィルハーモニーの2001年の新年コンサートを目の当たりにした著者が、「アジアの中産階級が西洋クラシック音楽へ傾倒してきたという独特な歴史的・文化的現象を、私の個人的な体験と学問的知識の両方をもって分析できるのではないか、ということに突然思い至った」(はじめにp6)ことであった。これを受けて、主として東アジアにおけるクラシック音楽受容とその後の歴史的な経緯を説明した第1章が書かれている。第1章はそれ自体が一つのコンパクトに纏まった小論文である。

本書はこれに、「2003年から2004年にかけての1年余り、ニューヨーク周辺の音楽家たち約70名」(序章)へのインタビュー取材というフィールドワークをベースとした考察である第2章~第5章が続き、「アジア人とアジア系アメリカ人という特定の集団に焦点をあてることで、音楽家や聴衆の生活を構成するこのような『非音楽的』な要素が、どのように『音楽そのもの』と交差しあって、クラシック音楽特有の強く深い意味を生み出すのかを検討する」(おわりにp276)ことを執筆の目的としている。

ところで、この論文の執筆が苦労の連続であったであろうことは想像に難くない。著者が述べているように、そもそも「フィールドワークが進むにつれ、たいていのクラシック音楽家の日常生活や仕事は、アジア人としてのアイデンティティや東西関係の力学などといった問題を中心にまわっているのではないということに嫌でも気づかされた」(おわりにp280)うえに、「『アジア人』という単語は、固定したひとつの意味をもつものではなく、特定の歴史社会的・文化的な文脈のなかで具体的な意味を獲得するアイデンティティの印なのである。」(第5p279)という説明に象徴されているが、「アジア人」という多義的なコンテクストを包含しうる言葉は、分析の切り口として使うにはそもそも無理があるというか、控えめに言っても歯切れが悪い。そういうツールでは論理的に一つの明確な結論が出てこないからである。

つまり、本書が取り組んだ題材も枠組みも、はっきりした結論を出すことが「論文」にとっては本質的に重要であるという観点からすると、とても「筋の悪い」ものに見えるのだ。私が「力作である」といったのは、そういう勝ち目のなさそうな戦いに挑んだ著者の蛮勇と、しかしながらにして、結果としては、特に音楽の「真正性authenticity」という概念について、鋭い洞察を導くことに成功しているからである。

例えば、「『戦略的な本質主義』―つまり、自らの歴史・文化・アイデンティティの特定の要素を意図的に喚起すること―は、共通の政治的目的のために連帯を組もうとするマイノリティにとっては、有効な手段なのである。クラシック音楽を、ヨーロッパに固有の伝統ととらえ、アジア人をその領域の他者と位置づける人々も、同様の論理で真正性という概念を使い、クラシック音楽という芸術形態の歴史的・文化的な固有性を重視すべきだと主張しているのだ」(第5p235)という逆説的な視点は、新鮮である。また、「音楽家たちの実に多様な経験や考えをみると、音楽という行為の現実をふまえることなく理論的な次元でそうした批評をすることの欠陥が明らかとなる。アジア人音楽家たちの経験や活動は、音楽の原作および現代それに携わる音楽家自身の両方―つまり、クラシック音楽の伝統と現代における音楽活動の両方―に忠実な『真正性』の概念を提示しているのだ。」(第5p236)という指摘は本書の真骨頂であると思う。

いくつか難を言えば、ないことはない。例えば、第4章は、著者自身が「クラシック音楽家を経済関係における階層的主体として分析することは非常に困難である」と述べているように、消化不良の感は否めない。結論として否定はしているものの、「古典的なマルクス主義理論」という枠組みから分析を始めること自体、時代錯誤も甚だしい。ただし、仮に効用関数が云々といったような近代的な経済分析を施したところで、これまた何かしら有意な結論を導くことが出来るとも思えない。章としてそもそも蛇足なのかもしれない。

また、日本語のタイトル「『アジア人』はいかにしてクラシック音楽家になったのか?」もしっくり来ない。原題のAsians and Asian Americans in Classical Musicが本書の主たる内容をストレートに伝えるものであった。これが「学問言語から一般言語への翻訳」(あとがきp287)をするなかで、歴史的な経緯を強調するようなこの日本語タイトル~これは東アジアにおけるクラシック音楽の歴史的経緯と、著者がインタビューした演奏家のそれぞれがクラシック音楽家になった個人的な歴史・文化・社会的経緯の両方を含意しているのだろう~にしたことによって、本書の一番大切なメッセージをタイトルが正確に伝えられなくなった嫌いがある。

最後に、著者は、「私はこの本をあくまで学者として書いている。自分が見聞きしたことを、批評分析したりより大きな文脈に位置づけたりすることなく、そのまま受け入れたのでは、学者としての知的な役割を放棄することになる。」(はじめにp9)と言っているが、一方で、何人かの音楽家たちのインタビュー内容をそのまま掲載もしている。この試みは成功していると思う。これらのインタビューは、単に彩りを添えるということだけではなくて、本書に歴史的な資料価値を与えている。本書は「21世紀初頭のアメリカ、特にニューヨークを中心とした、アジア系音楽家へのインタビュー」 が主なベースになった研究である。私は、インターネットで情報が軽々と国境を越えるようになった現在において、時代性そのものが地域性よりも人々の考え方により大きな影響を与えるようになってきており、また均質化の速度も上がっているのではないかという仮説を持っている。こうした文脈の中で、本書は、著者の意図に拘らず、歴史的にみると、あくまで21世紀初頭という特定の時代の社会的断面を切り取った研究として位置付けられていくのではないかと思えるのである。インタビューそのものを掲載しておくことにより、後になってその言葉から、現時点では見えない様々な要素を帰納的に導き出すことが可能となるかもしれない(例えば時代性。定義として、同時代にいる人間には見えない)。このインタビューのお陰で、ある程度の時間を経て、本書の面白みが増すかもしれないのである。ちょうど、良いワインが時間を経て熟成するかのように。今から30年後の世代の音楽家に同様のインタビューをして、その答えと本書のインタビュー対象者の回答がどう違ってくるかを想像するだけでも楽しい。その際は「アジア人」という題材・切り口での分析が一層困難になっていると思料するが、どうだろうか。

著者はそのキャリアの冒頭で学者ではなく新聞記者になることも考えていたという経歴の持ち主で、優れたインタビューアであり、また、非常にテンポの良い文章を書く。本書はそもそもが学術論文であるため、様々な制約下で、筆者のそのような才能が十分反映されていないと思う。少々乱暴ではあるが、筆者が仮に学者としての矜持を捨てて、インタビューを中心に綴った本として本書を再構成していたら、読者としてはこれまた違った面白さが味わえたかもしれないと思う。まあ、こういうことを、ない物ねだりというのだが。