先日、オーケストラとアーカイブについての文章を書いたばかりのところに、今朝フェースブックで数人の知人が投稿している「巨匠の響きよ永遠に!藝大に遺されたレコード2万枚の危機を救う」というリンクを開いて蒼ざめました。
世界的SPレコード研究家であったクリストファ・N・野澤さんが収集した2万枚のクラシックSPレコードが、野澤さんが亡くなったあと東京藝術大学附属図書館に寄贈されたものの、資金不足により適切な保存・保管ができておらず、段ボール箱に入ったまま倉庫や図書館のすみに置かれている、とのこと。ぬぁ〜んと!SPレコードはLPよりもずっと重く割れやすいので、こんな状態で長く放置されていたら大変なことになるでしょう。
私は、もう10年以上も前のことですが、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』のための (正確に言えばその原本であるMusicians from aDifferent Shoreのための)研究の一部で三浦環について調べていた頃、知人の紹介でクリストファ・N・野澤さんのご自宅に伺い、コレクションの一部を聴かせていただいたことがあります。SPレコードというものを聴いたのはその時が初めてでしたが、鮮やかで立体的な音がするのに驚いた記憶があります。また、野澤さんの穏やかで誠実で知的な、「紳士」という単語がぴったりのお人柄にも感動しました。研究についてのご報告をする機会を逸したままになってしまったのを申し訳なく思っています。
さて、2万枚というこのコレクション。日本における洋楽受容史だけでなく、クラシック音楽そのものの歴史や、録音技術の発達に伴う音楽文化の歴史を辿る上で、きわめて貴重な資料であることは間違いありません。なにしろ2万枚もあれば、それだけで数多くの物語を語ることのできるたいへん立派な「アーカイブ」。 日本だけでなく世界の音楽家や研究者にとっても貴重なコレクションなのではないかと思います。
レコードというとまずは「音源」として扱われる、すなわち、そこに記録されている音の内容に目ならぬ耳が向けられるのは自然なことですが、きちんと保存されれば、「もの」としてのレコードにはもっと多様な意味があります。それぞれのレコードがどんな風にパッケージされていたのか、曲や演奏家についてどんな紹介文が掲載されていたのか、といった、商品としてのSPレコードを分析することもできるでしょうし、野澤さんのコレクションの形成の過程を分析することで、「コレクター文化」を語ることもできるでしょう。
などなど、このコレクションの可能性はいくらでも考えられる。しかもそれがまとまった形で東京藝術大学の附属図書館にある。(ちなみに私は去年と今年の夏、資料集めのためこの図書館に何度か通いました。学外者でも簡単な手続きだけで資料を閲覧できるのはありがたかったのですが、少なくとも建物の様子で見る限りは、東京藝術大学の図書館だったらこの十倍くらいは立派であってもよさそうなものだとの印象を受けました。来年秋から改修工事が行われるということなので、それによって、建物だけではなく肝心の資料の収集・保存・公開にもたくさんのリソースが注がれるとよいのですが。)それなのに、それが段ボールに眠っているなんてことは、現在そして将来の人類の知に対する一種の暴力といってもいいくらいだと思います。
現在、レコードをきちんと保存するための保存箱を手配するため、500万円を目標額にReadyforで資金集めがなされています。500万円なんてせこいことは言わずに、もっと大きなビジョンをもって、少なくとも数千万円の資金を、国や財団や篤志家から集めたらよいのに、と思います。そして、きちんとした保存・保管だけでなく、カタログ化や(少なくとも一部の)デジタル化をして資料を世界に公開し、コレクションを利用する音楽家や学生や研究者のために助成金を出し、また、コレクションからキュレートした一連の音楽会や放送番組をプロデュースする(あるいはそうしたプロデュースをしようという人や団体に助成金を出す)などして、閲覧や研究をさまざまな形で促進するような、大規模なプロジェクトにしたらよいのにと思います。
私は少し前に日本の文化政策について少し調べていたので、文化庁や関連の公的機関や民間財団にそうした財源がないわけではない、また、そういったプロジェクトをしようという人たちの意欲や知恵がないわけではない、ということはわかっています。ただ、グラントライター(さまざまな財団や公的機関の助成金に応募するための書類を作成する人)が専門職業として確立していて、芸術団体を含むそれなりの規模の非営利団体はグラントライターをスタッフとして雇っているのが一般的なアメリカと比べると、グラント文化がまだ未熟(「まだ」というといずれはそうした文化が発達するかのような表現ですが、そうなる兆しはあまり見えないし、そうなるのが望ましいかどうかも不明です)な日本では、そうした資金を提供する側も受け取る側も、そのノウハウがじゅうぶん発達していない、という印象。
私が日本在住だったら、私自身何か働きかけたいところですが、とりあえず今は、自ら少額の購入予約をして、勝手に広報の一端を担うくらいしかできないので、こちらにてお知らせしておきます。
私は、もう10年以上も前のことですが、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』のための (正確に言えばその原本であるMusicians from aDifferent Shoreのための)研究の一部で三浦環について調べていた頃、知人の紹介でクリストファ・N・野澤さんのご自宅に伺い、コレクションの一部を聴かせていただいたことがあります。SPレコードというものを聴いたのはその時が初めてでしたが、鮮やかで立体的な音がするのに驚いた記憶があります。また、野澤さんの穏やかで誠実で知的な、「紳士」という単語がぴったりのお人柄にも感動しました。研究についてのご報告をする機会を逸したままになってしまったのを申し訳なく思っています。
さて、2万枚というこのコレクション。日本における洋楽受容史だけでなく、クラシック音楽そのものの歴史や、録音技術の発達に伴う音楽文化の歴史を辿る上で、きわめて貴重な資料であることは間違いありません。なにしろ2万枚もあれば、それだけで数多くの物語を語ることのできるたいへん立派な「アーカイブ」。 日本だけでなく世界の音楽家や研究者にとっても貴重なコレクションなのではないかと思います。
レコードというとまずは「音源」として扱われる、すなわち、そこに記録されている音の内容に目ならぬ耳が向けられるのは自然なことですが、きちんと保存されれば、「もの」としてのレコードにはもっと多様な意味があります。それぞれのレコードがどんな風にパッケージされていたのか、曲や演奏家についてどんな紹介文が掲載されていたのか、といった、商品としてのSPレコードを分析することもできるでしょうし、野澤さんのコレクションの形成の過程を分析することで、「コレクター文化」を語ることもできるでしょう。
などなど、このコレクションの可能性はいくらでも考えられる。しかもそれがまとまった形で東京藝術大学の附属図書館にある。(ちなみに私は去年と今年の夏、資料集めのためこの図書館に何度か通いました。学外者でも簡単な手続きだけで資料を閲覧できるのはありがたかったのですが、少なくとも建物の様子で見る限りは、東京藝術大学の図書館だったらこの十倍くらいは立派であってもよさそうなものだとの印象を受けました。来年秋から改修工事が行われるということなので、それによって、建物だけではなく肝心の資料の収集・保存・公開にもたくさんのリソースが注がれるとよいのですが。)それなのに、それが段ボールに眠っているなんてことは、現在そして将来の人類の知に対する一種の暴力といってもいいくらいだと思います。
現在、レコードをきちんと保存するための保存箱を手配するため、500万円を目標額にReadyforで資金集めがなされています。500万円なんてせこいことは言わずに、もっと大きなビジョンをもって、少なくとも数千万円の資金を、国や財団や篤志家から集めたらよいのに、と思います。そして、きちんとした保存・保管だけでなく、カタログ化や(少なくとも一部の)デジタル化をして資料を世界に公開し、コレクションを利用する音楽家や学生や研究者のために助成金を出し、また、コレクションからキュレートした一連の音楽会や放送番組をプロデュースする(あるいはそうしたプロデュースをしようという人や団体に助成金を出す)などして、閲覧や研究をさまざまな形で促進するような、大規模なプロジェクトにしたらよいのにと思います。
私は少し前に日本の文化政策について少し調べていたので、文化庁や関連の公的機関や民間財団にそうした財源がないわけではない、また、そういったプロジェクトをしようという人たちの意欲や知恵がないわけではない、ということはわかっています。ただ、グラントライター(さまざまな財団や公的機関の助成金に応募するための書類を作成する人)が専門職業として確立していて、芸術団体を含むそれなりの規模の非営利団体はグラントライターをスタッフとして雇っているのが一般的なアメリカと比べると、グラント文化がまだ未熟(「まだ」というといずれはそうした文化が発達するかのような表現ですが、そうなる兆しはあまり見えないし、そうなるのが望ましいかどうかも不明です)な日本では、そうした資金を提供する側も受け取る側も、そのノウハウがじゅうぶん発達していない、という印象。
私が日本在住だったら、私自身何か働きかけたいところですが、とりあえず今は、自ら少額の購入予約をして、勝手に広報の一端を担うくらいしかできないので、こちらにてお知らせしておきます。