2016年12月13日火曜日

2万枚のSPレコード・コレクションの危機

先日、オーケストラとアーカイブについての文章を書いたばかりのところに、今朝フェースブックで数人の知人が投稿している「巨匠の響きよ永遠に!藝大に遺されたレコード2万枚の危機を救うというリンクを開いて蒼ざめました。

世界的SPレコード研究家であったクリストファN・野澤さんが収集した2万枚のクラシックSPレコードが、野澤さんが亡くなったあと東京藝術大学附属図書館に寄贈されたものの、資金不足により適切な保存・保管ができておらず、段ボール箱に入ったまま倉庫や図書館のすみに置かれている、とのこと。ぬぁ〜んと!SPレコードはLPよりもずっと重く割れやすいので、こんな状態で長く放置されていたら大変なことになるでしょう。 

私は、もう10年以上も前のことですが、『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』のための (正確に言えばその原本であるMusicians from aDifferent Shoreのための)研究の一部で三浦環について調べていた頃、知人の紹介でクリストファN・野澤さんのご自宅に伺い、コレクションの一部を聴かせていただいたことがあります。SPレコードというものを聴いたのはその時が初めてでしたが、鮮やかで立体的な音がするのに驚いた記憶があります。また、野澤さんの穏やかで誠実で知的な、「紳士」という単語がぴったりのお人柄にも感動しました。研究についてのご報告をする機会を逸したままになってしまったのを申し訳なく思っています。 

さて、2万枚というこのコレクション。日本における洋楽受容史だけでなく、クラシック音楽そのものの歴史や、録音技術の発達に伴う音楽文化の歴史を辿る上で、きわめて貴重な資料であることは間違いありません。なにしろ2万枚もあれば、それだけで数多くの物語を語ることのできるたいへん立派な「アーカイブ」。 日本だけでなく世界の音楽家や研究者にとっても貴重なコレクションなのではないかと思います。 

レコードというとまずは「音源」として扱われる、すなわち、そこに記録されている音の内容に目ならぬ耳が向けられるのは自然なことですが、きちんと保存されれば、「もの」としてのレコードにはもっと多様な意味があります。それぞれのレコードがどんな風にパッケージされていたのか、曲や演奏家についてどんな紹介文が掲載されていたのか、といった、商品としてのSPレコードを分析することもできるでしょうし、野澤さんのコレクションの形成の過程を分析することで、「コレクター文化」を語ることもできるでしょう。 

などなど、このコレクションの可能性はいくらでも考えられる。しかもそれがまとまった形で東京藝術大学の附属図書館にある。(ちなみに私は去年と今年の夏、資料集めのためこの図書館に何度か通いました。学外者でも簡単な手続きだけで資料を閲覧できるのはありがたかったのですが、少なくとも建物の様子で見る限りは、東京藝術大学の図書館だったらこの十倍くらいは立派であってもよさそうなものだとの印象を受けました。来年秋から改修工事が行われるということなので、それによって、建物だけではなく肝心の資料の収集・保存・公開にもたくさんのリソースが注がれるとよいのですが。)それなのに、それが段ボールに眠っているなんてことは、現在そして将来の人類の知に対する一種の暴力といってもいいくらいだと思います。 

現在、レコードをきちんと保存するための保存箱を手配するため、500万円を目標額にReadyforで資金集めがなされています。500万円なんてせこいことは言わずに、もっと大きなビジョンをもって、少なくとも数千万円の資金を、国や財団や篤志家から集めたらよいのに、と思います。そして、きちんとした保存・保管だけでなく、カタログ化や(少なくとも一部の)デジタル化をして資料を世界に公開し、コレクションを利用する音楽家や学生や研究者のために助成金を出し、また、コレクションからキュレートした一連の音楽会や放送番組をプロデュースする(あるいはそうしたプロデュースをしようという人や団体に助成金を出す)などして、閲覧や研究をさまざまな形で促進するような、大規模なプロジェクトにしたらよいのにと思います。 

私は少し前に日本の文化政策について少し調べていたので、文化庁や関連の公的機関や民間財団にそうした財源がないわけではない、また、そういったプロジェクトをしようという人たちの意欲や知恵がないわけではない、ということはわかっています。ただ、グラントライター(さまざまな財団や公的機関の助成金に応募するための書類を作成する人)が専門職業として確立していて、芸術団体を含むそれなりの規模の非営利団体はグラントライターをスタッフとして雇っているのが一般的なアメリカと比べると、グラント文化がまだ未熟(「まだ」というといずれはそうした文化が発達するかのような表現ですが、そうなる兆しはあまり見えないし、そうなるのが望ましいかどうかも不明です)な日本では、そうした資金を提供する側も受け取る側も、そのノウハウがじゅうぶん発達していない、という印象。 

私が日本在住だったら、私自身何か働きかけたいところですが、とりあえず今は、自ら少額の購入予約をして、勝手に広報の一端を担うくらいしかできないので、こちらにてお知らせしておきます。

2016年12月8日木曜日

真珠湾攻撃75周年記念式典を(テレビで)見て

昨日は真珠湾攻撃75周年で、パール•ハーバー=ヒッカム共同基地のキロ埠頭で記念式典が行われました。

私はハワイで生活するようになって20年近くがたちますが、 127日を迎えるたびに、ハワイそしてアメリカの歴史観や歴史のナラティヴの中での真珠湾攻撃の位置づけにはっとさせられます。今年は、調査と短い旅行を兼ねて夏に広島に行くことになっていたので、どうせなら平和記念式典を見学してみようと、86日に合わせて行きました。せっかく広島の式典に出たので、太平洋戦争の記憶や表象の比較ということで、パール•ハーバーの式典にも出てみようかと思ったのですが、現地に行くためにはなんと朝の4時くらいに指定の駐車場に到着して、そこからシャトルに乗らなければいけない、そしてそんな時間に出かけて行っても一般人は式典会場内に入るのはまず無理で、別の場所に設置された大きなスクリーンで映像を見るだけだ、ということだったので、断念して家でテレビ放送を見ました。そこまでの混雑になるほど多くの人々がこの式典に出かけていく、ということ自体に、人々にとっての真珠湾攻撃の意味を再認識させられますが、今年は75周年という大きな節目で、例年よりもさらに深い意味づけがされています。

127日に至るまでのしばらくのあいだ、 地元の新聞やテレビは、75周年記念に向けてのさまざまな特集を組んでいました。その多くは、日本軍の攻撃作戦、攻撃当日のオアフ島の様子と破壊の状況、若いアメリカ兵士たちの勇敢な行動とアメリカ軍の素早い復興、生存者や退役軍人たちのその後、といった点に焦点が当てられていて、これまでのアメリカにおける真珠湾攻撃についての記述や表象と特に変わったことはないように思えました。ただ、存命中の真珠湾攻撃経験者や第二次世界大戦の退役軍人はすでに百歳前後で、彼らの生の声を聞けるのはそう長くはないこと、75周年が重要な歴史の一点である、ということは強調されていました。

当日は朝4時半からテレビで特集番組が始まり(私は6時半くらいまで寝ていたので、式典が始まる少し前からしか見ませんでしたが)、世界から現地に集まった数千人の参加者たち、なかでも攻撃生存者や退役軍人たちの姿を映していました。攻撃の始まった時間である755分には黙祷が捧げられ、続いてアメリカ合衆国の国家、もとハワイ王国の国家で現在はハワイ州の州歌であるハワイ•ポノイが演奏され、さらにカフと呼ばれるハワイの儀式を司る僧侶によるチャントと祈祷の言葉がありました。

パール•ハーバーにおける歴史の表象においてもアメリカの人々の意識においても、「真珠湾」とは「1941127日の日本軍による奇襲攻撃」とほぼ同義になっていて、日米戦争の始まりを意味するもの、として認識されています。アメリカの人々に限らず、たいていの日本人にとってもその認識は当てはまるでしょう。

真珠湾が「日米戦争の始まり」という歴史の一点としてしか認識されないということは、そもそも真珠湾はどういう「場所」であったのか、1941127日以前にはそこには何があったのか、という視点が失われることでもあります。より直接的に言えば、 アメリカ海軍の拠点になる以前には真珠湾はハワイアンの人々にとってどんな場所であったのか、アメリカ軍に占拠されることによって湾の自然環境にはどんな変化があったのか、そしてその近隣で暮らしていた人々はどうなったのか、といったことには、現代の人々はまず思いを巡らせることはない。

そういうなかで、真珠湾攻撃を記念する式典でハワイアンのカフが祈祷を捧げる、ということをどう解釈するべきなのかは複雑です。式典の企画委員会がハワイアンの歴史や文化や宗教に敬意を払っている印と見るべきなのか、それとも、ハワイアンの歴史を無視して真珠湾を「日米戦争の始まり」として記念式典をするなかで形だけハワイアンの文化を取り入れて収斂していると見るべきなのか。ハワイアンの祈祷に続いたのが、世界連邦日本宗教委員会の代表による祈祷挨拶であった、ということも、真珠湾をめぐるアメリカ合衆国とハワイと日本のあいだの力学を示しているように思えます。

アメリカ海軍とともにこの式典の主催者の一部である、National Park Serviceの代表である女性ふたりのスピーチは、アメリカの歴史を保存•表象•記念するなかでの国立公園の役割について語っていて、真珠湾攻撃の記念式典でのスピーチとしては興味深かったです。アメリカの国立公園というものは確かに非常に面白く、研究もいろいろなされている(ことは知っていてもその中身はよく知らないので、勉強しなくては)のですが、一般の観光客が「パール•ハーバーに行く」ときに訪れるWorld War II Valor in the Pacific(このネーミングがこれまた象徴的)が、National Park Serviceによって運営されている国立公園である、ということに気づき、そのことの意味を考える人は、あまりいないのではないでしょうか。

いろいろ考えさせられることの多い式典でしたが、なかでも私が一番どきっとしたのが、海軍太平洋司令部のハリー•B•ハリスによるスピーチ。式典の性質上、そして海軍太平洋司令官という立場を考えると、このスピーチが、真珠湾攻撃で亡くなった人たちに祈りを捧げ、生存者や退役軍人の果敢な行動を讃える内容になることは予想していましたが、びっくりしたのが、彼は正式なスピーチ(文面はこちらで公開されています)を始める前に、国歌を演奏した海軍バンドを讃え、そして「私たちが今日敬意を表している人々、そして75年前のあの運命的な朝に命を落とした人々は、国歌が演奏されたときには必ず立ち上がり、跪くなどということは決してしなかったはずです」と強い口調で言ったのです。すると聴衆の多くは立ち上がり、声をあげてまる1分間以上拍手をしていました。

「国歌が演奏されたときに跪く」というのは、フットボールのサンフランシスコ49ersのクオーターバックであるコリン•カパーニックをはじめとする何人かの選手が、今年8月以来、試合開始前の国歌の演奏の際、慣習通り起立するかわりに、跪いて前を直視していることを指したものです。全国各地で次々に起こっている、アフリカ系アメリカ人への警察の暴力と、それに象徴される人種関係に抗議の意を表する行為で、カパーニックは「黒人やほかの有色人種を抑圧する国家の旗に(国歌の演奏中に起立をすることで)誇りを示すことはしない」「僕にとって、この問題はフットボールよりもずっと大きなもので、(無視できない大きなことが世の中で起こっているのに)あえて目をそらすというのは身勝手な行為だと思う。道で人が殺されていて、その殺人を犯した人間が有給休暇をもらっている(黒人に暴力をふるった警察官が処分を受けないことを指す)世の中なんだ」と公式に発言しています。その後、49rsの代表は「国歌の演奏は、これまでもそしてこれからも、試合の儀式の重要な一部です。それは、我々の国家に敬意を表し、アメリカ国民として与えられた自由に思いをはせる機会でもあります。宗教の自由や表現の自由といったアメリカの原理を尊重する上で、国歌の祝福という儀式に参加するかどうかの選択は、選手個人の権利であるということも我々は認識しています」と、彼の選択を認める公式発表をしています。しかし、カパーニックと彼に続いて国歌演奏中に跪くようになった選手たちの行為は、大きな議論や非難を巻き起こし、カパーニックは嫌がらせの標的になり、試合中に彼に向かってものを投げる観客も出てきています。自由や平等といった理念を国家やそれを代表する組織が裏切って、人々が抑圧されている以上、その状況に抗議することこそが愛国的な行為であると、彼に賛同しその勇気を讃える人々も多いいっぽうで、国歌の演奏中に起立しないのは国に対する冒涜である、と強く考える人も多いのです。

アメリカにおける人種関係の深刻さは、今回の選挙の展開にも見られる通りです。国歌の演奏中に起立を拒否するという象徴的な行為が政治的にもつ意味については、大いに議論されるべきことだとは思います。しかし、真珠湾攻撃の記念式典で、国のために命を落としたりキャリアを捧げたりした人々を讃えるのに、わざわざこの話題に言及することで平和的抗議活動を批判するというのは、とくに現在の政治•社会状況においては大きな問題だと思います。この発言に続く正式なスピーチでは、予想通りの内容に加えて、安全保障の重要性、日本をはじめとする環太平洋同盟の強化の必要性を訴えるものでした。トランプ政権誕生を前に、真珠湾攻撃という歴史の記憶とこうした軍事強化のメッセージが重なることで、ハワイ、アメリカ、日本、そして世界はどうなっていくのかと、ますます不安が深まる思いでした。

月末にオバマ大統領と安倍首相が真珠湾を訪問するとの発表がなされたばかり。オバマ大統領の広島訪問に次ぐこの真珠湾での会合は、歴史的にも政治的にも意義深いものになるとは思います。それについで、ムスリムの「登録制」を検討しているトランプ氏の大統領就任前に、マンザナー(ここもまた国立公園となっていますが、私はまだ行ったことはありません)などの第二次大戦中の日系人強制収容所の記念地を訪問してほしい、と私は思っています。

現在の政治そして社会の将来を方向づけていくなかで、歴史の記憶というものの重要性を再認識する75周年でした。式典の全容はこちらで見られます(放映権の関係で、もしかするとアメリカ国外では閲覧できない設定になっているかもしれません)。上述したハリス氏の発言は51:25くらいからです。


2016年12月2日金曜日

オーケストラと「アーカイブ」

NHK交響楽団の月刊機関誌『フィルハーモニー』に「オーケストラのゆくえ」という連載があり、12月号に私の文章が掲載されています。12月中にN響のコンサートに行くかたは現物が手に入りますが、そうでないかたはこちらでPDF全文をご覧いただけますので、読んでいただけたら嬉しいです。(私の文章はp.38~41です。)

題して「音楽文化のリソース・センターとして−−開かれるアーカイブ」。アメリカ研究者としてさまざまな調査をしていると、「アーカイブ」というものをめぐる意識や姿勢の日米での違いに驚くことが多く、いずれアメリカのアーカイブ文化について本を書いてみたいと思っているのですが、今回の文章では、現在進行中の研究で大いにお世話になっている、ニューヨーク・フィルハーモニックのデジタル・アーカイブを紹介しました。

このアーカイブ、なにしろスゴい。そもそも、オーケストラが専属のアーキビストをスタッフとして配置しこれだけのありとあらゆる資料を保存・整理・公開しているということ自体に、演奏活動ということを広く超えてオーケストラのミッションを捉えている、そして「アーカイブ」というものの意味を深く理解している(たいていの人は「こんなものを保存していていったいなんの役に立つんだろう」と思うであろうようなメモでも、他のさまざまな情報を合わさると貴重な資料となって、時代や社会や組織を映し出す)ということが見てとれる。さらに、リンカーン・センターに足を運ぶことのできる人以外も利用できるようにするため、その莫大な資料を漸次的にデジタル化しようという心意気に、情報公開に対する積極的な態度、そしてニューヨーク・フィルをニューヨークの人のためのものではなく世界の人のためのものにしよう、という姿勢が見られる。さらには、相当な費用と労力のかかるそのデジタル化企画に資金を提供する篤志家や財団が存在するという事実に、アーカイブというものの価値への社会的理解が感じられる。

このデジタル・アーカイブのおかげで、私はハワイの自宅にいながらにして、バーンスタインの書き込みのあるスコアを見ながら彼の指揮するマーラーの交響曲の録音を聴くことができる。そればかりではない。家のソファに寝そべったまま、1961年のニューヨーク・フィルの初来日ツアーの際の演目をめぐるやりとりの書簡や、そのツアーではバーンスタインのアシスタントであった小澤征爾氏が1970年の次のニューヨーク・フィルの日本ツアーまでには正真正銘の国際的指揮者として認められるようになったことがわかる資料、ツアーの道中団員がどんな場所をまわってどんな日本を経験したのかを伝える写真や文書などを見ることができる。

文中でも紹介した「サブスクライバース・プロジェクト」もまたスゴい。こうしたプロジェクトに、音楽学者ではなく社会学者が携わっている、というところにも、各種資料の幅広いレレバンスが見てとれる。社会学の他にも、歴史学、経済・経営学、文化人類学、人文地理学など、このアーカイブの用途の可能性を考えると、研究者としてはそれだけでワクワクするのです。

現在デジタル化されているのは1943年から1970年までの、ニューヨーク・フィルのいわゆる「国際化時代」のものだけですが、繰り返して言いますがこれだけでもとにかくスゴい。試しに検索画面で、Seiji OzawaとかGlenn Gouldと入力してみてください。(公演プログラムももちろんたくさん出てきますが、画像やビジネス文書のほうがむしろ面白いです。)特に音楽ファンの人は、あれこれ見ているあいだにあっという間に数時間くらいたってしまうでしょう。

私が現在取り組んでいる研究では、このアーカイブに加えて、ワシントンの議会図書館にあるレナード・バーンスタイン・コレクションが主な一次資料なのですが、これがまたさらにスゴい。これについてはまた別の機会にたっぷりと書くつもりです。