2018年9月27日木曜日

「アジアン」が消えた『クレイジー・リッチ!』日本公開




本日928日(金)に日本で公開になる映画『クレイジー・リッチ!』について、このブログに文章を投稿しようと思っていたところ、ちょうど『現代ビジネス』から現代アメリカ文化についての原稿依頼を受けたので、そちらに寄稿させていただきました。こちらの記事は本日公開ですので、読んでいただけたら嬉しいです。

記事でも書いたように、この映画は、アメリカでは、業界の予測も私の予想もはるかに上回る人気となっています。私も公開された週末に劇場に観に行きましたが、かなりの行列となっていました。ハワイは、複数の人種を属性とする人も含めると人口の半数以上がアジア系で、「アジア系アメリカ人」の歴史や社会もアメリカ本土とは違った要素がたくさんあるのですが、そのハワイでもこれだけこの映画が話題になっている、というのも興味深いです。

日本ではこの映画は公開されているのだろうか、されているのならいったいどのように受け取られるのだろう、と思って検索してみたところ、本日公開される日本版のタイトルからなんと「アジアン」が抜けているということを知り、驚愕するやら「そりゃそうだろうなあ」と頷くやらで、この文章を書きました。

限られた字数のなかでカバーできなかったポイントや、リンクをつけられなかったコンテンツについて、補足の参考資料として、以下リストアップしておきます。

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まず、記事の最後のほうで言及した、ヴィエト・タン・ウェンがニューヨーク・タイムズ紙に寄せた文章はこちら。ウェンは小説家であると同時に文学研究者でもあり、『シンパサイザー』がピュリッツァー賞を受賞してからはとくに、自らの影響力を社会啓蒙のために使っている真摯な姿勢に頭が下がります。『シンパサイザー』は邦訳も出ていますが、カルチュラル・スタディーズ的手法を使った彼の研究書NothingEver Dies もたいへん良書でオススメです。

ウェンの文章の最後のほうでも巧妙に示唆されているように、アジア系アメリカ人がみな手放しでこの映画を称賛している訳ではありません。この作品についての批判的な論評からもいろいろなことが学べるので、その例をいくつか挙げておきます。

この映画の製作と流通・消費の様相に見られる「アジア系アメリカ」と「アジア」の関係や、この作品におけるシンガポールの表象についての問題点を論じた記事はこちら。ちなみに、この記事で引用されているCheryl Narumi Naruseは、ハワイ大学在籍中に私が指導したこともある文学研究者です。

アメリカではCrazy Rich Asians Asiansの部分ばかりが注目を浴びていますが、日本版タイトルになっている『クレイジー・リッチ!』の部分、つまり、なぜこの物語に出てくる人々がここまで桁外れな富を築くに至ったのか、その物語がシンガポールで展開されるということにどのような意味があるのか、に焦点を当て、「アジア」の資本主義の歴史におけるシンガポールの位置づけを論じた文章はこちら。きちんと読むとたいへん勉強になります。

この映画における富の描写やシンガポールの表象についてさらに詳しく批評した文章はこちら。最後のほうで言及されている、ふたりの男性の親密なシーンについては、なるほどと思いました。

さて、ちょっと違う路線ですが、物語のクライマックスとなる、レイチェルとエレノアの一騎打ちのシーンの意味は、麻雀のルールを知らないと、うっすらとしか理解できません。私は、映画を観た後でこの解説を読んで「なるほどそういうことだったのか」と理解してから、記事を書くために後日もう一度観に行って、フムフムと納得しました。

そして、自分の記事のポイントに戻って、アメリカにおけるアジア人の表象の歴史については、私のかつての指導教授であるロバート・リーによる『オリエンタルズー大衆文化のなかのアジア系アメリカ人』(貴堂嘉之訳)が今では古典となっています。

もちろん、このようなことを気にかけず、単なるロマンチック・コメディとしてこの映画を楽しむのも、大いに結構なことです。ただ、そうやって楽しめる贅沢に感謝しながら、タイトルから消えた「アジアン」の意味について考えると、別の楽しみが増すとも思います。




2018年9月8日土曜日

USオープン ウィリアムズ=大坂 ドラマにみるマイノリティ女性選手の葛藤と連帯

私は普段テニス(だけでなくスポーツほぼ一般)をほとんど見ないのだけれど、大坂なおみさんについてのニューヨーク・タイムズの記事を少し前に読んで、非常に興味を持っていた。試合前から、報道やインタビューで「日本人初」とやたらと強調される(これはアメリカの報道でも同じ)なか、「日本代表として出場はしていても、父親はハイチ人で、私はハイチも代表しています」と当たり前のようにさらっと言う、その姿にとても好感を持った。今日のUSオープン決勝はさすがに歴史的な組み合わせでは、と思って生で見たら、とんでもない展開に。最後のほうは見ているだけで動揺して、授賞式を見ながらも、見終わってからも、しばらく涙が止まらなかった。
なんと言っても、確実な実力と、あんな状況のなかでも落ち着きと集中力を失わない驚異的な精神力で勝利したのに、素直に喜べない大坂さんが気の毒でならない。それと同時に、不当な警告に抗議したことがさらに警告へとつながり、まる一ゲームも取られてしまうという極端なペナルティで、公正な試合をさせてもらえないという思いを強めるセリーナ・ウィリアムズの、これまでに積もり積もってきた思いと、彼女が背負っている女性アスリートの歴史を思うと、ますます涙が出る。あんな警告がなく、通常の試合をした結果だったら、彼女だって潔く女王の座を笑顔で譲っただろうに。それにしても、FBでの友達の投稿を見る限り(きわめて限定されたサンプルであることは百も承知ですが)、どうもこの試合についての反応が、日本とアメリカでずいぶん違うみたいだなあ、と思っていたのだけど、日本の新聞の文章などを見てちょっとわかった気が… 
私はアメリカのテレビ中継を生で見ていたのだけど、日本の報道の形容と私がアメリカのメディアを通して見たものは、かなり違う。アメリカでは、テレビ解説者の試合中とその後のコメントにしても、メディアでの報道にしても、審判の警告は行き過ぎであり、「男性選手だったらもっと酷いことを言ったりしたりしても警告など受けないのに、抗議をしたことで一ゲームも取るのは女性アスリートへのセクシズムである、というウィリアムズには言い分がある」という論調が主流。これは、単なるアメリカ贔屓、ウィリアムズ贔屓ということだけではなく、スポーツにおける女性、とくにマイノリティ女性の位置付けの歴史の背景がある、というのはアトランティック誌の記事などをみるとよくわかる。
それに対して、たとえば朝日新聞の記事では、「主審に対して『私に謝りなさい。あなたはポイントも奪ったから、泥棒』と口汚く罵倒し、1ゲームの剝奪を言い渡された」との記述があるので驚いた。ウィリアムズの発言は、確かにとても強い口調での抗議ではあったけど、「口汚く罵倒」などはしていないし、You owe me an apology.を「私に謝りなさい」という命令調に訳すのも誤解を呼ぶ。日経新聞には「次第にS・ウィリアムズはイライラを爆発させ、警告を受けた」という文があるが、これはプレーが自分の思うとおりにいかないことにイライラしていたような印象を与える。さらに、授賞式での大坂さんについて、「ブーイングの中で始まった優勝インタビューでは『勝ってごめんなさい』とひと言」という文もあるが、これは明らかな誤訳で、彼女は「勝ってごめんなさい」などとは言っていない。I'm sorry it had to end like this.は「このような終わり方になったことは残念です」であって、謝罪ではない。(sorryという単語が出てくると謝罪だと思うのは間違い。たとえば親しい人を亡くした人に、I'm so sorryというのは普通のことで、悲しみやシンパシーや遺憾の意を表現するのにもsorryは使われる。)テニスの試合の報道でもこのようなことがあるのだから、国際情勢についての報道でどれだけこうしたことがあるのかと思うと、恐ろしい気持ちになる。
日本の報道がある程度「日本贔屓」になるのは仕方ないかもしれないし、日本を代表する選手が勝利したのは、私も単純に嬉しい。でも、今日の展開は、日本人とハイチ人の親のもとで主にアメリカで育った日本代表選手と、スポーツの中でもとくに黒人が入りにくかった歴史をもつテニスで女王の座を築いてきたウィリアムズの対戦だったということで、「国」や「国籍」以上に、歴史的にとても意義深いものだったはず。憧れの対戦相手が苦い思いをする試合となってしまった、観客が新しいスターの誕生を祝福するどころかブーイングまでする(もちろん観客がブーイングしていたのは大坂選手に対してだけでなく、審判やそれが象徴する歴史や体制だけれど)結果となってしまった、そのなかで表彰台に上がり涙する大坂さんを見て、肩を抱いて力づけ、観客に「もうブーイングはやめましょう」と言うウィリアムズ。We'll get through this.という彼女が指すweとは、テニス界を率いたり応援する人々であり、日々セクシズムと闘う女性たちやレイシズムと闘うマイノリティたちであり、このような展開で試合に陰りができてしまった大坂さんと自分のことであろう。そのウィリアムズの姿と言葉に、これが本物の女王だと感じると同時に、マイノリティ女性が次世代のマイノリティ女性を勇気づけて世界の頂点に引き上げる絆と連帯を見て、少し救われた気がした。大坂さんはとても賢く成熟した人間なのは明らかなので、落ち着いた頃に、不公平なことには堂々と抗議するウィリアムズへの憧れをまた強くするだろうし、これから長いキャリアを積んで自らもそのようなロールモデルになるだろう、と期待。

2018年9月1日土曜日

アイオワ、言語、アメリカ、歴史−−柴崎友香『公園へ行かないか?火曜日に』

 友達に薦めてもらい、出版社の人に送ってもらった、柴崎友香『公園へ行かないか?火曜日に』を読了。

 『新潮』その他の文芸誌に掲載されたエッセイを加筆修正してまとめたものなので、章から章へと話が順に展開されていくわけでもないし、話が前後したり繰り返しがあったりするし、各章で扱われているトピックによって、私には共感の温度にだいぶ差があったけれど、それがまた、メモワールとも紀行文とも小説とも評論ともつかぬ不思議な魅力の仕上がりの一要素になっている。

 すべての章の素材となっているのは、アイオワ大学のIWP (International Writing Program)に参加するため、2016年の大統領選に重なる時期に3ヶ月アメリカに滞在した著者の体験。IWPについては、『日本語が亡びるとき』の最初の部分で水村美苗さんが活き活きと描いているし、私の優秀な教え子が博士論文で扱っていることもあって、個人的に興味津々。水村さんのように、長いアメリカ生活経験をもち、英語で会話だけでなく文学作品を読み書きをすることもできるような参加者はともかくとして、世界各国から集まってくる、多くは英語を母語としない作家たちにとって、アイオワでの毎日は実際のところどういうものなのだろう、そこで何を感じたり学んだりするんだろう、と思っていた。舞台芸術や視覚芸術なら、言葉ではなくその芸術媒体を通してコミュニケーションが成立する部分も多いだろうけど、なにしろ作家である彼らの媒体は言葉。共通言語である英語の能力もまちまちだし、お互いの作品をその人の使っている言語で読むことができないなかで、参加者同士の意思疎通はいったいどんなものなのだろう、と単純な疑問を抱いていた。これまでに日本人作家たちも数多く参加してきたらしく、そのほとんどは水村さんと比べると英語力がかなり低いのではないかと想像すると、彼らのアイオワ体験は果たしてどんなものだったんだろう、と、正直言って覗き見趣味的な興味もあった。

 そうした関心にこの作品は大いに答えてくれるだけでなく、他にもたくさん考えたり感じ入ったりする材料を提供してくれた。

 表題作からして、なんとも不思議な雰囲気の文章。気軽でのどかで呑気な散歩に出かけたつもりが、「公園」というものの理解が目の前で覆されることによって、著者の頭の中ではそれが生きるか死ぬかという話に発展し、その体験から、自分とアメリカのあいだ、そして参加者同士のあいだにある、文化や言語ひいては世界観の深く大きな溝を認識するようになる。その洞察の過程が、柔らかくて優しく、そして著者の限定された英語の理解力や表現力をも表している不思議な日本語で綴られていて、そのミスマッチかんがなんともいえない。他の章の文章も、あまり気にせずに読んでいると面白くさらっと読み流してしまいがちなのだけど、よく考えてみると、言葉を介して世界を体験したり表現したりする、ということの意味が、作文上のありとあらゆる選択に込められていて、同じ内容を伝えるにしてもストレートな評論文では実現しにくい効果が発揮されている。

 私にとって一番パワフルだったのは、「ニューオーリンズの幽霊たち」。ここで描かれている、ホイットニー・プランテーションや第二次大戦博物館の展示の様子は、アメリカ研究、とくにミュージアムなどを通しての歴史の表象ということへの私の学問的関心からしても、「そうそう、そうなのだ〜!」と思うことばかりだけれど、それがあくまで個人的な体験や反応という形で書かれているということに、この文章の迫力がある。

 著者は、一般的にアメリカのミュージアム展示というものがお金も知恵も工夫も凝らされて作られているということの理解とそれへのリスペクトをもち、人間として、また作家としての純粋な知的関心も強くもっている。それと同時に、歴史のナラティブというのはどんなものでも特定の人間や集団の視点や立場から作られていて、そのナラティブを受け取るほうもまた、特定の人間や集団の視点や立場からそれに反応する、ということが、そんなよーけごっつい言葉使わんとも(著者の真似して大阪弁で書いてみたけど、私にとって大阪弁は物真似でしかないので、大阪の人はそんな表現はしないかもしれない)、鮮明に伝えられている。米軍の潜水艦と日本の船団との交戦を再生した展示で、自ら発射した魚雷の異常航行で9人の生存者だけを残して潜水艦が沈んだ、という結果を「体験」して呆然とする著者。日本では普通、日米戦争においてアメリカを被害者ととらえる歴史に触れることはないし、しかもアメリカが勝利した第二次大戦におけるアメリカの功績を記念する博物館で、真珠湾攻撃の展示ならともかく、台湾海峡での日本との交戦の展示でアメリカの潜水艦が沈没するのを体験するとは想像していなかった、しかもそれを大学の文学プログラムに招かれてアメリカにやってきた日本人ビジターとして体験するということの位置付けをどのように考えたらいいのか。頭も心もどっと疲れた著者の様子が、ミュージアムを出て路面電車を探すなにげないシーンに見事に描かれている。その文章の中で出てくる、著者の父親についての話も、強烈に印象的で、歴史とは、文化体験とは、ということを別の角度から考えさせられる。

 最終章の「言葉、音楽、言葉」で語られている、大阪弁、共通語、英語についての考察は、水村美苗さんの論とつながる部分もあってとても鋭いと思ったし、この考察のなかで音楽の話、そしてボブ・ディランのノーベル文学賞受賞の話が入っているのも、とても納得。

 他にもいろいろコメントしたいことはあるのだけど、この本を読んでいると自分が書きたいことがあれこれ出てくるので、そちらに向かうことにします。