明日はいよいよ中間選挙。どういう展開になるにせよ、しばらくはその話題に注意が集中すると思われるので、ギリギリその前に公開されるよう、この記事を書きました。ここ数週間にわたってボストンの連邦裁判所で行われている、ハーバード大学の入学審査をめぐる訴訟についてです。字数制限のなかで、アメリカの大学の入学審査の仕組みや、アメリカの大学における「ダイバーシティ」の意味や価値、アファーマティヴ・アクションをめぐる抗争、「モデル・マイノリティ」としてのアジア系アメリカ人の複雑な位置づけなど、必要な背景をきちんと説明するのに苦労しましたが、読んでいただけたら幸いです。
佐藤仁さんの『教えてみた「米国トップ校」』についての投稿をしばらく前にしましたが、それと合わせて読んでいただけると補足になるかと思います。
多様な学生を入学させるということにそもそも大きな価値を置いていない日本の大学の入試システムも、大きな問題をはらんでいますが、アメリカの大学のいわゆる「人格総合評価」というのも、別のいろいろな問題がついてまわります。なにしろ、数量化できない基準で、しかもそれらの基準にどのような比重が置かれているのかが明らかにされない状態で、評価が行われるわけですし、「レガシー枠」などはどう考えても公平とは言えず(これに加えて、卒業生の子弟は優先されるという場合もよくあります)、いろいろな矛盾を抱えているシステムです。また、試験の点数が足りずに不合格になったというのなら、自分の勉強不足や(あまり勉強していなかった部分が試験に出てしまった、などという)運の悪さ、当日の体調不良などを理由に、しょうがないと自分を納得させることもできるでしょうが、不明瞭な基準の総合評価で不合格になると、まるで自分の人格すべてを否定されたような気持ちになり、若者にはとても大きな精神的ダメージになる、というのを、私も周りで見てきました。
完全に公平な入学審査方法というものは実現不可能かもしれませんが、大学の社会的ミッションとはなにか、をじっくりと考え議論した上で、審査方法を試行錯誤する、ということが必要なのだろうと思います。東京医大で女子の受験生の点数が一律減点されていた、という事件を連想せずにはいられない話題です。