2019年8月24日土曜日

Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro 発売! 


2019825日は、20世紀を象徴するアメリカ、そして世界の音楽家、レナード・バーンスタインが生きていれば101歳の誕生日です。これまで1年間にわたり、世界各地でバーンスタイン生誕100周年記念のコンサートやイベントが開催されてきました。その記念すべき年の締めくくりになんとか間に合う形で、私がこれまで6年間取り組んできたプロジェクトが本となって発売になりました!題してDearest Lenny: Letters from Japan and theMaking of the World Maestro

6年前にワシントンの議会図書館の音楽部門にあるバーンスタイン・コレクションをリサーチに行ったとき、私はバーンスタインそのものを研究対象とするつもりはありませんでした。まったく別のプロジェクトのケーススタディのひとつとして、ケネディ・センターについての資料を集めていて、この舞台芸術施設が1971年にオープンした際のこけら落とし作品としてバーンスタインの『ミサ曲』が上演されたので、そのことについて調べていたのです。

ところがこのバーンスタイン・コレクション、一人の芸術家にまつわる資料コレクションとしては世界でも最大級と言われており、1700以上の箱にマニュスクリプトやビジネス書類など40万点以上が所蔵されている、研究者にとっては天国とも地獄とも言えるような膨大なアーカイブなのです。いったいそこに何が入っているのかを漠然と理解するだけでも一苦労。このコレクションの目録に目を通し、バーンスタインに手紙を送った、あるいはバーンスタインから手紙を受け取った人物の名前のリストをざっと見ているとき、私は聞いたことのないふたりの日本人の名前を見つけました。ひとりは、Kazuko Amanoさん。もうひとりは、Kunihiko Hashimotoさん。小澤征爾さんや五嶋みどりさんの名前ならリストされていても当然だけれども、このふたつの名前は聞いたことがない。ケネディ・センターについての研究とは無関係だろうと思いつつも、この二人がいったいどういう人物なのかに興味を引かれて、私はこれらの箱の閲覧請求をしました。そして、その箱が出てきた瞬間、私の研究はまるで方向を変えました。それらの箱との出会いは、研究者人生において一度でもあれば地に平伏して感謝するような、運命的な発見だったのです。

父親の駐在のためパリで育ちパリ音楽院でピアノの勉強をしていた天野(当時の姓は上野)和子さんは、戦争勃発のため一家で帰国します。戦時下の日本では満たすことのできなかった広い世界への好奇心や音楽への思いに駆られて、戦後、占領軍の文化政策の一環として運営されていた東京のCIE図書館(アメリカン・センターの前身)に通って英語の書物を読みあさっていた和子さんは、ある音楽雑誌に掲載されていた、レナード・バーンスタインという指揮者の短いエッセイを読み、深く感銘を受けます。バーンスタインは1943年に臨時のピッチヒッターとしてニューヨーク・フィルを指揮し衝撃的なデビューを飾っていたとはいうものの、まだキャリアとしては駆け出しの段階でした。その、初めて知る若い音楽家の文章に感銘を受けて、18歳の和子さんは、わざわざバーンスタインの誕生日を調べ、ファンレターを送ったのです。その人並み外れた行動力が実を結び、なんと一年ほど経ってから、和子さんはバーンスタインから返信を受け取ります。そこからふたりの書簡のやりとりが始まり、和子さんの最初のファンレターから14年を経た1961年にバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて初来日する時には、和子さんは夫と幼い子供ふたりと一緒に、バーンスタインと初の対面を果たし、その後、天野一家は家族ぐるみで熱烈なレニー・ファンとなっていきます。結婚、子供の誕生と成長、50代になってからの就職、といったさまざまな人生の段階を辿る過程で、和子さんにとって、バーンスタインへの愛情は特別な心のよりどころとなるのです。

いっぽう、橋本邦彦さんがバーンスタインに出会ったのは1979年夏。ニューヨーク・フィルの日本ツアーの最終コンサートの後に知人の紹介でバーンスタインと会った橋本さんは、それまで憧れのアーティストであったマエストロを目の前にして、一瞬にして劇的な恋に落ちます。バーンスタインの東京での最後の夜を共にし、空港で彼を見送った後で、橋本さんは最初の長い長いラブレターを書きます。そしてその後、橋本さんはまるで日記を書くかのような勢いで、バーンスタインへの情熱的で切実で真摯な思いを書き綴り、送り続けるのです。バーンスタイン・コレクションに所蔵されている橋本さんの手紙は、全部でなんと350通以上。

結婚し子供3人と幸せな家庭生活を送ったバーンスタインが同性愛者でもあったことは、多くの人が知っていたことでした。妻となるフェリシアも、結婚前からそのことをじゅうぶん承知の上で、愛情と信頼によって家庭を築こうとバーンスタインに決意を伝えた手紙が残っています。結婚生活中も、フェリシアが1978年に亡くなってからも、バーンスタインには数多くの男性の恋人がいたことも、広く知られていることです。橋本さんは、バーンスタインにとって一人きりの恋人という訳ではなく、そのことも橋本さん自身はよく理解していました。でも、橋本さんはバーンスタインにとって単に行きずりの人物だったかというとそうではなく、きわめて特別な存在であったことは、バーンスタインが二度にわたって橋本さんをヨーロッパに招待し、仕事の合間に親密で素敵な時間を過ごしていることからもわかります。

当初は保険会社に勤めるサラリーマンだった橋本さんは、バーンスタインと出会って数年後に、一大決心をして会社を辞め、もともと情熱を抱いていた舞台芸術の世界に足を踏み入れます。劇団四季のオーディションに合格し、役者として舞台に立ちながら、編集プロダクションの会社を立ち上げ、新しい人生を歩み始めるのです。その過程で、橋本さんがバーンスタインとの関係を自分のキャリアのために利用するようなことは一切ありませんでした。親しいごく一握りの人たちを除いて、バーンスタインとの関係について橋本さんは誰にも話すことがなかったのです。やがて橋本さんは、バーンスタインのマネージメント会社を率いるハリー・クラウトの信頼を得て、なんとバーンスタインの日本代表の役割を担うことになります。そうして、バーンスタインの晩年の仕事の中でももっとも大きな意義を持ったプロジェクトである、1985年の広島平和記念コンサートや、1990年に札幌で開催されたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMFの企画運営に欠かせない人物として奔走するのです。

Dearest Lennyでは、天野さんと橋本さんがバーンスタインに送った、情熱的で誠実で聡明な書簡を読み解きながら、ふたりの愛情の形やバーンスタインとの関係の変遷を辿ります。そして、そのきわめてパーソナルな物語を、第二次大戦後の世界政治経済、アメリカ社会、世界における日本の位置付け、音楽産業の様相などの変化の大きな流れと絡ませて語っています。東京文化会館のオープニングや大阪万博、ソニー、小澤征爾さんなども物語において重要な役割を果たしています。日本に焦点を当てることで、これまでにたくさん論じられてきたバーンスタインの「世界のマエストロ」としてのありかたに、新たな光が当たるのです。

どうですか、面白そうでしょう?(と著者自ら言う)

生身の天野和子さんと橋本邦彦さんとの出会いを含め、この本が完成するまでには、本当にあれこれと紆余曲折がありました。これまでに何冊も本を書いてきましたが、この作品には特別の思い入れがあります。日本を舞台にした内容なので、いずれ日本語版も出版するつもりですが、それまでにはしばらく時間がかかりそうなので、英語を読もうというかたはぜひまずこの本を読んでいただきたいと思います。研究に基づいてはいますが、学者だけではなく広く一般読者のかたがたに読んでいただくことを念頭に置いて書いたので、文章は読みやすいはずだと思っています。

先週末に、英国ガーディアン紙の記事に本の内容を取り上げていただいたおかげで、世界各地でけっこう話題になっているようです。これからいろんなかたたちから本の感想を聞かせていただくのを楽しみにしています。

なお、本の発売に合わせて、私のウェブサイトを更新しました。本に出てくる音楽作品などのリンクを集めたDearest Lenny参考ガイドというページも作成しましたので、是非合わせてお楽しみください。