信じたくないような政治状況のなかで、マーチに参加することで、近くにも遠くにも同志がこんなにたくさんいるんだと実感でき、「じゃあ頑張らなくっちゃ」という気持ちになれた、という意味ではとても意義深いイベントだったと思います。そして、終わった後でも皆が「いや〜、感動的だったね」としみじみ語り合いながら、マーチで味わったエネルギーや連帯感をどうやって具体的で地道なアクションにつなげていくか、フェースブックなどのソーシャルメディアでも実際に顔を合わせての会話でも、みんなでアイデアをシェアしている。それはとてもポジティブなことだと思います。私もこれから、最低でも一日ひとつ、なにか具体的なアクションをしていこう、という決意をしました。
そのいっぽうで、渦中の興奮は少し冷めたところで、振り返ってさらに考えさせられることもあります。
ホノルルのマーチでも、実に多様な人々が参加していたのは素晴らしかったのと同時に、多様であるからこその難しさもなかったわけではありません。たとえば、マーチが終わった後での州議事堂広場での集会で、いろいろな団体や立場を代表する女性たちのスピーチが続きましたが、そのなかでももっともパワフルだったのは、若い(多くは10代)先住ハワイアンの女性のグループ。ハワイアンの権利と尊厳の回復などを求める活動家でもあり、素晴らしいスポークン・ワード・アーティストでもあるJamaica Heolimeleikalani Osorioのリーダーシップのもとで、このグループは、トランプ政権が代表する世界観・価値観に強い異議を唱えると同時に、「今大勢のマーチ参加者が集まっているこの州議事堂は、ハワイアンの人々にとっては、自分たちの王国が非合法に転覆されたことを思い出させる場所であり、アメリカ合衆国とハワイの圧倒的に非均衡な歴史を象徴するものである。今日のマーチはトランプ政権に異議を唱えるものであるが、私たちハワイアンは、1897年以来ずっとアメリカ大統領を相手に闘ってきたのだ。トランプ政権に抗議し、アメリカそして世界における女性の権利を守っていくためには、ここハワイにおけるアメリカ合衆国の暴力の歴史を直視し、ハワイを脱植民地化し、脱軍事化しなければいけない」というメッセージを発し、ハワイ王国最後の女王リリウオカラニが王国転覆に抗議した文章をグループで読み上げ、現代ハワイにおけるもっとも強力な活動家であるハウナニ・ケイ・トラスクの言葉を借りて、拳を振り上げながら「私たちはアメリカ人ではない!私たちはアメリカ人ではない!私たちはアメリカ人ではない!私たちは死ぬまでハワイアンとしてあり続ける!」と声高らかに訴えました。
ハワイの歴史やハワイアン運動について知っている人たちにとっては、「その通りだ」という内容で、それを若いハワイアンの女性たちが、こうした舞台で声高に訴えているということが感動を呼ぶものでした。そのいっぽうで、マーチの参加者のごく一部にはこうした発言を快く思わない人もいたようです。彼女たちのパワフルな発言の最中に、「こうして女性の連帯を表明するためのイベントで、白人とハワイアン、アメリカとハワイを分断するような発言はふさわしくない」という意の苦情を口にしていた人たちがいた、というのを後で何人かから聞きました。
女性の連帯を強化すると同時に、「女性」というカテゴリーのなかに含まれる多様なアイデンティティ、「女性」を区別する人種や民族や国籍や階層やセクシュアリティや障害などのきわめてリアルな「差異」にどのように向き合っていくか、という問題は、1970年代からフェミニズム運動が格闘してきた難題です。アメリカの文脈では、そうした「差異」を隠蔽することなく正面から捉え、「女性」としての立場や経験は差異の軸によってまるで違うのだ、という認識が、第三次フェミニズムという流れになって、以前の投稿でも書いたインターセクショナルな思考がだいぶ広まってきたものの、このような場面では、幅広い問題意識を共有した人々のあいだでさえ、差異を直視した上での連帯というのは難しいんだなあということを改めて感じさせられます。
それと多少関連して、アメリカ以外の世界各地であれだけ今回のマーチが人を集めたのだから、東京でもあったはずだ、どんな感じだったんだろうと、ネットで検索してみました。ちょっとネット検索して引っかかったごく選択的な情報をもとに印象や意見を固めてしまうのは危険なのはわかっていながらも、見つけたものにだいぶ違和感を感じたので、感じたことをフェースブックに投稿し、友達に情報や分析や意見を求めたところ、とても参考になるコメントをいろいろともらいました。(コメントや情報くださったみなさま、どうもありがとう!以下、いただいた情報や知恵を拝借して書かせていただいてます。)まだ十分に考えが整理できていないし、情報もまだまだ足りないし、なんといっても現場にいない私は社会の「感じ」をつかめないので、おそらくきわめて不十分な考えなのだろうとは思いますが、上に書いたこととの関連で書いておきます。
もちろん東京でもウィメンズ・マーチは開催され、ごく一部ながら報道もされているけれど、参加者は主催者報告によると680人くらいと、その規模は他の世界の主要都市とは比べることもできないほど小さく(ゆえに英語媒体では世界の他の都市の写真はたくさん出てくるけれど東京の画像はまず出てこない)、しかも画像や動画を見る限り、参加者のほとんど、そして取材されている参加者はすべてが日本在住のアメリカ人あるいはその他の外国人で、日本人(らしき人)の姿はほとんど見えない。(参加した友達の観察だと、日本人らしき人は三割くらいだったとのこと。)参加者が行進しながら唱えるチャントや歌も、掲げているサインもみな英語。これにはかなり違和感を覚えた。
もちろん、私の検索に引っかかる情報が偏っている可能性はじゅうぶんあるけれど、アメリカ各地はもちろんヨーロッパ在住のFB友達のマーチに関する投稿は何百と連なっているのに、私のFB友達で東京のマーチに参加したという人はひとりだけ。とすると、国によってこのイベントへの関心の温度差はやはり現実としてありそうだ。この温度差はいったいどこからくるのだろう?
前回のブログでも書いたように、マーチに参加さえすれば活動家としてのお墨付きになるとか、マーチに参加しないのは社会的意識が低い証拠だとか、思っているわけではありません。マーチというのはあくまでもひとつの象徴的な行為であって、大規模で平和的なこのイベントを成功させた実績を、実際の政策に結びつけることができなければ、マーチの意義はない。そして、マーチという形の意識表明はひとつの文化なので、いくら世界各地でこのマーチが行われたからといって、それが普遍的な社会運動の印だとも言えない。それでも、日本でも集団的自衛権をめぐってはSEALDsをはじめとして若者を含む数多くの人たちが抗議行動に集まったのだから、マーチといった行動自体が今の日本の人たちにとって異質だとか、日本の人々の政治的関心が低いとか、そういうことはないと思う。では今回のマーチにかんするこの温度差はどこからくるのか?
考えられることとしては、
(1)トランプの行動や発言や掲げている政策には確かに問題点は多いとはいえ、民主的な選挙よってアメリカ国民が選んだ大統領なのだから、その政権に日本の人間が抗議する筋合いはない。実際にトランプ政権が日本に不利益をもたらすようであれば、その時点で日本の政財界リーダーが交渉力を発揮し、それでも不十分であれば日本の人々が抗議行動に出るかもしれないが、今の時点で日本人がマーチをするインセンティブはない、と考えられている。
(2)トランプ政権がもたらす危機が、日本の人々にじゅうぶんな現実感をもって伝わっていない。医療保険や移民政策において極端な立場を表明している、といったことは報道されていても、それはアメリカの人たちにとっての問題であって、日本にいる人たちには直接の影響はない、少なくともわざわざ寒いなか出かけていって行進するほどの切迫感はない、と捉えられている。
(3)ウィメンズ・マーチというと、女性の運動として限定的に捉えられやすい。そして、トランプ政権と女性の問題というと、女性の中絶の権利の問題に注目が集中しがちである。中絶の権利が現実の問題として感じられにくい日本では、女性の連帯といってもかなり抽象的な次元でしか感じられない。
(4)東京のウィメンズ・マーチを企画したのはロスアンジェルス出身のアメリカ人女性らしいが、企画チームが、日本の市民団体、女性団体と提携する努力が足りなかったのか、努力はしたけれど日本の団体側からの反応が足りなかったのか、とにかく、このウィメンズ・マーチの趣旨を日本の人々にとっての問題意識にじゅうぶんに結びつけ、広く日本の人々を動員することができなかった。
(5)カナダやヨーロッパ、オーストラリア・ニュージーランドなど、先住民と入植者の関係や人種問題と格闘してきた歴史、移民の大量流入とその排斥の歴史をもち、現在も移民や難民の流入とそれに対する政府や社会の一部の反応に向き合っている国々では、トランプが象徴するようなファシズム的ナショナリズムのもたらす危機を、自分たちの問題として引きつけて考えやすい。ゆえにそうした国々では、トランプ政権そのものに抗議するということを超えて、自国の政府や社会に対する訴えとしても、多くの人たちが、マーチに参加した。それに対し、日本ではトランプ政権を自分たちにレレバントな問題として捉えるとっかかりが少ない。
(6)アメリカ国外であれだけマーチに人が集まったのは、大国アメリカが象徴的に担ってきた、そして実際にリードしたり維持に貢献してきた、自由や平等を追求する姿勢や多様性や開放性を尊ぶ価値観が、トランプ政権によって損なわれてしまう、という強い危機感を内発的に抱いた人々が、アメリカでのマーチをきっかけにやむにやまれず自ら行動に出た、という要素が強い。日本はアメリカの同盟国であり人々はおおむね親米的な心情であるとはいえ、社会全体としてはアメリカが象徴するそうした価値観を見習おうという姿勢はそもそもそれほど強くない。ゆえにトランプ政権に抱く危機感もそれほど強くない。あるいは、内発的危機感はあったとしても、人々の多様な危機感を求心的に行動に結びつけるようなリーダーシップや組織力が不在だった。
今の時点で思いつくのはこのくらいです。それぞれの点について「そうはいってもねえ」と言うことはいくらでもできるのですが、それはともかく、上で書いたハワイアンの問題との関連で一番引っかかっているのが(4)。私の知り合いのなかで唯一東京のマーチに参加した友達によると、彼女はマーチの二日前に在仏アメリカ人の友人からの情報でイベントの趣旨を知って参加したものの、東京のマーチに関して日本語での呼びかけは目にしなかった、とのこと。また、「反トランプ」を唱えるのが主な目的ではなく、「人権・多様性・自由・平等」の価値を尊重していることを示すための静かな行動を目指していること、ウィメンズ・マーチといっても性別・ジェンダーに関係なく誰でも参加できる、というマーチの趣旨やイベントの具体的な情報は、日本では広く拡散されていなかった。東京のマーチの共催団体は(アメリカ)在外民主党、ということで、党派性もあった。ということだったようで、そう考えるとやはり企画者が「アメリカの政治に関する抗議マーチ」という以上の訴えかけを日本の人々にしなかったのではないかと推測します。
日本でマーチをするにあたって、日本語で情報を拡散せず、日本の人々の関心を喚起するようにマーチの大きな趣旨をきちんと説明せず、日本の各種団体への働きかけなどをしなかったんだとしたら(本当にしなかったのかどうかは、きちんと調べてみないとわかりません)、それは呆れる姿勢だと思います。日本在住アメリカ人が東京でトランプ政権に抗議するマーチをするのは、それはそれで結構だと思いますが、どうせするんだったら、この危機が日本の人々にどのようにレレバントであるか、なぜこれが「アメリカの問題」を大きく超えた世界の問題であるかを説明し、日本の人々との連帯を育むようなイベントとして企画するべきではなかったのか。日本語で広報する必要を感じなかったのだとしたら、それはあまりにも日本に対する無知・無神経の表れではないか。ある意味コロニアルではないか。インターセクショナルどころか、このマーチの趣旨に相反するものではないか。
などと考えると、これだけ世界の人々を動員したマーチでも、差異を認識した上で深い意味での連帯を築くというのは、実に難しいものなのだなあ、こうした困難がこれから必要なたくさんのアクションでマイナスに表面化しないといいなあ、マーチ大成功万々歳と喜んでばかりいる場合ではないなあ、という気持ちになります。
トランプ政権は「アメリカの問題」を大きく超えて世界の問題である、という現実はトランプ大統領就任三日目の今日にしてすでにいくつもの具体的な形になって表れていますが、それらについてはまた追って書いていくつもりです。