2021年11月7日日曜日

Symphony magazine:アメリカのオーケストラと「アジア人」音楽家 

コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。

そんな中で、今年6月に開催されたアメリカオーケストラ連盟のオンラインカンファレンスで企画されたパネルに登壇したのですが、それを契機に依頼された記事が、同組織の機関誌であるSymphony誌に掲載されました。クラシック音楽界、特にオーケストラにおけるアジア人音楽家の位置付けや扱いについて、主にオーケストラ業界の読者を想定して書いた文章なので、前回の投稿で紹介したショパンコンクールについての記事とはだいぶトーンが違っています。ただ、ショパンコンクールの出場者や入賞者にアジア人が多いこと、アメリカのオーケストラにアジア人が多いことは、クラシック音楽におけるアジア人への差別がないことの証明には決してならないことが伝われば幸いです。今なら無料でオンラインでアクセスできますので、ぜひお読みください。

2021年10月26日火曜日

ショパンコンクールが投げかける問い 「クラシック音楽」とは?

反田恭平さんと小林愛実さんの入賞で日本でも話題を集めたショパン・コンクール。なにしろ全部で87人も出場者がいるので、最初からずっと追っていた訳ではありませんが、第二ラウンドからは、早起きしたり夜更かししたりしながらネットで生配信をけっこう見ていました。演奏はどれも素晴らしく、審査結果も納得のいくものだったと思います。

このコンクールについて記事を書かないかと、日経新聞社の英語媒体であるNikkei Asiaに依頼を受けたので、このような文章を寄稿しました。日本ではどうしても日本人の話題ばかりに報道が集中しがちなので、今回の結果をより大きな文脈に位置づけて、「クラシック音楽とは何か?」を考えるような著述にしたつもりです。読んでいただけると幸いです。

2021年10月23日土曜日

『Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond 』刊行!

 私が企画編集してここ数年取り組んでいた、Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond が、無事にハワイ大学出版より発売となりました!

この本は、広義の「アメリカ研究」に従事する12人の日本出身の研究者たちが、どのような場や形で「アメリカ」と出会い、どのような経緯でその研究にキャリアを捧げることになったのか、自らにとって「アメリカ」とはなにか、といったことを語るパーソナルなエッセイを集めたものです。それぞれユニークで感動的な物語なのですが、それと同時に、そうしたきわめてパーソナルなものに思われる個人史が、帝国、植民・移民、戦争、占領、冷戦外交、貿易などによって色濃く刻印されていることも浮かび上がってきて、本全体でいろいろな角度から20・21世紀の日本とアメリカの出会いの力学や様相に光を当てるようになっています。

一口に「日本出身の研究者」と言っても、戦後占領下の沖縄で新聞配達少年として米軍基地を回った人、北海道のアメリカ人メノナイト宣教師のコミュニティで育った人、日本の家庭でありながら両親の教育方針で家では英語とスペイン語を話して育った人、戦争の歴史に巻き込まれて家族と離れ日本で人生を送ることになったアメリカ生まれの祖母からアメリカに移民して行った曽祖父母の話を聞いて育った人、父親が単身赴任で家を留守にしがちだったサラリーマン家庭で育った人、幼い頃に親の駐在でアメリカに渡り現地学校の教育を受けた人など、その背景や生い立ちは実にさまざまです。そしてまた、そうした人たちが出会った「アメリカ」も、時代、場所、状況などにおいて実に多様です。当たり前のことですが、「日本人アメリカ研究者」が共通の出発点からひとつの「アメリカ」に行った訳ではまったくないのです。そしてこの12人の現在も、どんな場所でどんな人たちに囲まれて暮らし、どんな学生を相手にどんな授業をし、何語でどんな著述をしてきたかなど、実にさまざまです。

私がこの本を企画するに至った背景には、もとはと言えばだいぶ前にこのブログでも書いた、松田武先生の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』への共感と疑問がありました。奨学金や学術交流、研究助成といった形の文化外交、その根底にある各国政府の思惑が、知のありかたに影響を及ぼすということには異論がないけれども、実際にそうした中で「アメリカ」に出会い、経験し、研究する人たちの道程を、もっと近い距離から見てみることも大事なのではないか。松田先生の本を読んでからずっとそう思っていたのですが、その問いに応えるひとつの手段としてのこの企画を、研究仲間とおしゃべりをしている時にふと思いついたのでした。

個人の物語と世界の力学がどのように交差して、その中で「知」がどのように作られるのか、「日本」にとっての「アメリカ」とは何を意味しているのか、そして研究者の役割とは何か。そうした大きなテーマが、きわめて具体的で個別的なストーリーを通じて語られています。アメリカ研究や日米関係史に携わる研究者にはもちろんですが、一般の読者にも興味を持って読んでいただける内容だと思います。是非どうぞ!



2021年10月4日月曜日

国際交流基金事業をめぐって

 つい数日前に、国際交流基金が主催するオンライン展覧会で予定されていた、在日精神病患者についての映像作品の発表が、基金の判断によって中止されたというニュースを読んだばかりでした。この記事によると、中止の理由としてあげられているのは、①暴力的な発言や歴史認識を巡って非生産的な議論を招きかねない場面が含まれるものだった、②全編を通して視聴すれば必ずしも懸念はあたらないのかもしれないが言葉は独り歩きしてしまう可能性がある、③主催者としては、作品に関してどこをどう修正すべきかといった指示はできないと考えている、④展覧会の開催日時も迫っており今後改めて協議を重ねる時間もない、という4点です。

①に関しては、議論が生産的か否かは誰がどう判断するのか?議論を「招きかねない」との曖昧な推測に基づいて作品の発表を中止することで、生産的な議論をもあらかじめ封じ込めてどうするのか?国際関係にかかわる難しい問題にもさまざまな視点を提供して議論を促進することこそが国際交流の根幹ではないのか?といった問いが次々と頭に浮かびます。

②に関しては、映像であれ文章であれ、その一部が文脈から切り離されて作者や主催者の意図せぬ方法で使われてしまう可能性はいつでもある。しかし、それを懸念して表現行為そのものをやめてしまったら言論や芸術は成り立たないし、そうした活動への後援も不可能になります。とくにアジア諸国を対象にする国際交流は出来なくなるでしょう。

③については当たり前のことで、わざわざ主張するようなことではないでしょう。

④は、主催者はどうしても必要ならば開催日程を変更できるはずで、これは口実にしか思えません。

ちょうど私は、まさに同じような状況に面していたのですが、この記事を読んで、どうやら私が経験したことが突発的な出来事ではなく、国際交流基金のさまざまな事業においてこうした事態が起こっているらしいことを知ることとなりました。日本社会が危険な方向に向かっているのを感じるので、以下長文になりますが、経緯を記しておきます。

数ヶ月前に、国際交流基金のスタッフから、相談を受けました。日本の若者にアメリカ社会や文化について興味を持ってもらうための企画として、一連の短い動画を制作し、ネットで配信することを考えており、数人のアメリカ研究者に相談をしているとのことでした。私と、私が昔から親しく一緒に仕事をしている矢口祐人さんは、そのお話を伺ったときに、正直言って、ビジョンが具体性や新鮮味に欠けていると感じ、また、アメリカのいろいろな側面を解説するような動画はすでに各種メディアにたくさんある中で、似たような企画を国際交流基金がやることの意義を感じられませんでした。そこで、わざわざ国際交流基金がアメリカ研究者を動員して企画するものであれば、学問的に知見に基づいた教育性の高い、かつ、通常の講義とは趣向の違う面白い内容にするのがよいのではと意見を述べました。私と矢口さんが次から次へとあれこれとアイデアを出すのに、担当スタッフのかたたちは最初は面食らっていたようですが、常に真摯に耳を傾け真剣に検討してくださり、結局、私と矢口さんがプロデューサーのような形で全体の企画を作り、スタッフのかたたちと一緒に進めることなりました。

そこでまとまっていた企画とは、「インターセクショナリティ」という概念を軸にして、全5本の動画それぞれで、日本のアメリカ研究者が「アメリカで出会った人」ひとりについて、私または矢口さんとの対話形式でお話していただき、その後でその話と「インターセクショナリティ」のつながりを私と矢口さんが数分間で解説する、というものでした。私たちが選りすぐったスピーカーの5人は、生い立ちや教育の背景も現在の在住地や専門も多様で、トピックとして選んでくださった人物とそのかたにまつわるお話も、活き活きとしてかついろいろな考察を促す、たいへん興味深いものでした。

スタッフのかたたちは、この企画に共感し、大いなる熱意をもって実現への準備を進めてくださっていました。そして、次の段階に進むのに必要な国際交流基金内での決済手続きを待っている時に、この企画について上層部から意見が出ており、一部修正を求められているとの連絡がありました。

その上層部からの要求のまず1点目は、「アメリカについて理解を促進するための5本の動画で、ひとりもアメリカ人が出演しないのはおかしい」というもので、1人か2人でも、スピーカーまたはコメンテーターとしてアメリカ人を入れられないか、というものでした。

アメリカのことを「アメリカ人」に語ってもらうこと自体は、きわめて単純ではありますが、理解できない発想ではありません。しかし、私たちが考えた企画は、日本で育った研究者たちが出会った鉤括弧付きの「アメリカ」や「アメリカ人」の話を通じて「インターセクショナリティ」を考えるというものであって、そこに国籍がアメリカだということだけで無理矢理「アメリカ人」をスピーカーやコメンテーターとして登場させれば、企画の整合性を損なうことになります。「アメリカ人」ってなんのこと?という基本的な問いもありますし、「アメリカ人」であればアメリカのことについて語れるのか、それならアメリカ研究者である私たちの立場はなんなのか、ということにもなります。という訳で、この提案は却下するとお伝えしました。

2点目は、「国際交流基金は税金で運営されている国の機関である以上、政治性がある内容の発信は認められない。作成した動画について、そうした観点において問題点があった場合には、国際交流基金の判断で編集を行うという条件に同意できるか」というものでした。

これは1点目よりずっと大きく深刻な問題です。もちろん、特定の政党や政治家を推奨したり批判したりするような内容を扱うつもりは初めからありませんでしたが、そもそも私たちの携わっている学問は、社会におけるさまざまな力学とそこにある権力構造を問うもので、「インターセクショナリティ」とはその様相を理解するための概念です。そして、私たちの考えた企画は、具体的な人たちが、アメリカの具体的な場所や状況で出会った具体的な人物との交差を語ることで、社会や文化にあるさまざまな軸を考察するものです。そこにはもちろん「政治性」があり、それを考えるのがこの企画の本質であって、政治性を取り去っては、単なる「面白い話」にしかなりません。かくかくしかじかの内容は動画に含めることはできない、といったような具体的な提案や指示があるのであれば検討可能かもしれませんが、動画内容についての具体的な打ち合わせもしないうちから、ただ十把一絡げに「政治性のあるものは駄目」と言われるのは、発言に制約を課されるのと同じです。また、編集やカットを要求された場合には、スピーカーや私たちがそれに対して意見が述べられるのかどうか、意見が合わなかった場合にはどうなるのかと尋ねてみましたが、満足のいく答はいただけませんでした。

私たちは、国際交流基金が税金で運営されている公的機関であるからこそ、そして文化や学術を通じての国際交流を使命とする団体であるからこそ、検閲に当たるようなこのような行為は絶対にするべきではない、してはいけないと考えます。こうした問い合わせが私たちに対してなされること自体が、とても恐ろしい状況だと感じます。国際交流基金が普段の事業でかかわっている研究者や芸術家は、社会の中でもとくに、言論や思想や表現における自律性と独立性を自らの仕事の根幹に置いている人たちである筈です。そうした人たちの活動を支援し、難しい話題についてもさまざまな視点からの議論を促進することこそが国際交流だと思っています。ゆえに、ここで提示された要求については絶対に応じられないと、はっきりとお伝えしました。

担当のスタッフのかたたち及び事務局長のかたは、私たちの考えをよく理解してくださりましたし、もともと私たちと同じ意見ではあったのですが、上層部からの指示でこのようなことを私たちに伝えなければならなくなって、非常に心苦しく思っているとのことでした。ここ数年間、このような状況が組織内で強まってきているそうです。また、国際交流基金の中でも、上層部も含め他のかたたちはみなさんこの企画には賛同してくださっていて、上のような要求をしているのは一人だけとのことでした。それでも組織の性質上、その一人が了解しなければことは進められません。私たちの考えを聞いた上で、事務局長のかたが再度その一人を説得しようと協議をしてくださいましたが、結局は了解を得られなかったとの報告をいただきました。

このような経緯で、国際交流基金でのこの企画はなくなりました。

ここまで数ヶ月にわたってスタッフのかたたちが熱心に進めて下さっていた企画なので、そのみなさんがさぞかし落胆なさっているだろうと思うと心が痛みます。また、国際交流という使命に真剣な思いを抱いて基金に勤めていらっしゃるかたたちが、このような状況で仕事をしなければいけないことを、とても気の毒に思います。

それと同時に、私のように、ある程度安定した職業的地位にあり、学術や言論に携わる人間、そして日本の外にいるがために一定の距離に守られた人間こそが、こうした状況で言うべきことを言わなければいけないという思いをさらに強くしました。いったい誰が誰・何に忖度してこのような社会状況を作っているのだろうか、その構造をきちんと捉えて問い糺していかなければ、日本社会はとんでもないことになるのではないかと思っています。 国際交流基金の事業としてはボツになりましたが、企画自体はとても面白く意義深いと自画自賛中なので、別の形でぜひ実現したいと思っています。実現したらまたこちらでもお知らせいたします。

2021年8月18日水曜日

親中・嫌中では捉えられない海峡を超えた力学とネットワーク 『中国ファクターの政治社会学』

『中国ファクターの政治社会学 台湾への影響力の浸透』を読みました。(情報開示:この本の編者であり監訳者である川上桃子さんは、私の仲良しです。)

私は台湾からの優秀な学生を何人も指導していることや、台湾出身の素晴らしい仕事仲間がいることなどから、勝手にぼんやりとした親しみを感じている台湾。そして、アメリカの大学や音楽界の状況においても無視する訳にはいかない「チャイナ・ファクター」。香港から届く心痛ましいニュースに見る中国の影響。そんなこんなで、自分の専門分野とは違うのですが、とても興味を持って読みました。

私にとって一番面白いのが、第三章。アメリカ人(白人男性)研究者が中国人団体観光ツアーに同行して台湾を見るエスノグラフィー。中国の観光業者や台湾のガイドがどんな台湾をどうやって中国人の観光客たちに見せたり演じたりするか、それに対して観光客たちはどう反応するか、といった様相が、エスノグラフィーならではのthick descriptionで描かれていて、キョーレツに面白い。淡々とした語り口に笑ってしまうような箇所もありながら、ウームと考えさせられます。その前の第二章と合わせて、観光という一見政治とは無関係な活動が、どのように大きな地政学の中で実践されるか、いろいろなヒントを与えてくれます。

中国企業の台湾投資を扱った第五章も面白い。政治とは違ったロジックで動くビジネスの世界、でも当然ながら、政治から独立した形で資本が動くわけではなく、中国・台湾それぞれの政府の政治目的がさまざまな形で作用する中で、中国企業はひっそりと台湾での事業を展開し、台湾企業のほうもあれこれの思惑を検討しながら中国資本を受け入れる。なるほど。

第六章の教科書論争についての論考も、ごく基本的な次元で、そうか、教科書論争というのは台湾にもあるんだな、そしてこういう風に表出するんだなと、なるほどなるほどと思いながら読みました。
共編者であり監訳を担当した川上桃子さんがこの本について語るインタビューが、ブックラウンジアカデミアのポッドキャストで配信されたばかり。とてもわかりやすくて良いのでオススメです。(ちなみにこのブックラウンジアカデミアは、毎回とても面白くて、私は料理をしながら聴くのを楽しみにしています。すっかりファンになったので、自分もインタビュアーとして登場させてもらうことにしました。それについては追ってまたお知らせします。)

2021年8月9日月曜日

ピアノはモノである 田中智晃『ピアノの日本史』

 私は1968年生まれ。育った東京のマンションの4畳半の部屋にはヤマハのアップライトピアノがあり、3歳でレッスンを受け始めました。そのピアノは、今もその実家にカバーがかかり、物置き台となって残っています。私の世代の人たちの約五分の一が似たような経験をしているはず(1979年に国産ピアノの出荷台数はピークを迎え、2000年時点で日本におけるピアノの普及率は21%)。そして、日本の楽器産業は現在圧倒的に世界をリードしている。なぜそうなったのか?それを見事に解明してくれるのがこの本、田中智晃『ピアノの日本史 楽器産業と消費者の形成』。かなりどっしり感のある本ですが、面白くて一気に読了してしまいました。

戦前の複数の日本企業がピアノ製造法を学んで国内での生産と流通システムを作り、戦後にヤマハが高品質を保ちつつ大量生産を可能にする製造技術を開発し、日本の一般家庭にピアノを付随サービス付きで届けるとともに海外市場を開拓し、ブランドを確立して世界トップの楽器メーカーになる過程を、丁寧なデータ分析で解説。でも(少なくとも私にとって)この本で一番面白いのは、その生産の仕組みの部分ではなく、それを継続していくためにピアノ製造業者が考案してきたあれこれの市場開拓や流通システム整備の部分。ピアノとは音楽という芸術のための楽器であると同時に、近代産業の産物であり、モノであり、製品である。それも、やたらと部品が多くて生産には高度な技術が必要、安くなったとは言ってもそれなりに高価、たいていの消費者は一度買ったらそうそう買い換えない、買っても弾けるようになるためには相当の学習が必要、家のスペースを食う、騒音問題あり…など、あれこれややこしい性質を帯びたモノ。そうした性質ゆえ、いくら製造技術を改良し続けても、誰もがテレビや冷蔵庫を買うようにピアノを買うわけではないし、やがて市場は飽和状態になること、すなわち「斜陽化」を、製造業者はある時期からちゃんと見越していた。それに対応するために、あれこれの事業展開を進めてきた。その部分がたいへん面白いのであります。著者は流通史の専門家なので、特約店の仕組みはとりわけ丁寧に分析されていて、「なるほどそういうことだったのか」と腑に落ちることたくさん。私には、とくにヤマハ音楽教室の話がものすごく面白い。カワイが始めた予約販売の話(「ヤマハレディ」への言及がちょっとあるんだけど、もっと知りたい!)も面白い。電子楽器やプレイヤーピアノをめぐる試行錯誤の話も面白い。そしてまた、海外市場の話も面白い。…と、「面白い」という面白くない単語を何度も繰り返してしまうくらい、興味深いデータと分析が満載。テクニカルな情報が多いにもかかわらず、文章も明解で読みやすいです。
個人的には、国内外の労働面(工場の従業員とか、調律師の養成とか、ディーラーの研修とか)についてもっと知りたった気もします。マーケティングについてももっといろいろ分析できそう。また、実に素敵な表紙でも示されているように、一般消費者にとってピアノという楽器は特有のジェンダー化された意味づけがされているので、それが生産・流通・消費の過程でどう作用しているのか、もっと正面からの分析も欲しい(←自分でやれと言われそうなので、はい、やります)。そして、グローバル市場での「日本企業」としてのヤマハの意味付けも知りたい。最後の最後で触れられている、中古ピアノ市場についてももっと知りたい。…などなど、さらに知りたいことが次々に頭に浮かぶということ自体、脳を刺激するよい本の印。これじゃあ何が何だかわからないというくらい、付箋がいっぱいになってしまいました。オススメです! 


2021年8月8日日曜日

「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」オンラインセミナー 8/22(日)より全3回

 南カリフォルニアで2週間を過ごし、10日前にホノルルに戻ってきたのですが、デルタ株によりハワイでは(も)新規感染者数が猛烈な勢いで増えています。ロスでは満員(!)のハリウッドボウルでデュダメル指揮、ヴァイオラ・デイヴィスのナレーションによる「ピーターと狼」を聴いてきましたが、今ではもう何時間も飛行機に乗ったりたくさんの人が集まるところには行く気にならず、行ける間に行っておいてよかったです。

さて、2週間後の8/22(日)より全3回で、オンラインセミナーをします!題して「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」。読んでいただいているかたにはすぐわかるように、拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? –– 人種・ジェンダー・文化資本』をもとにした内容です。この本が日本語で刊行されたのは2013年、原著である英語版が出たのが2007年、そしてメインのフィールドワークをしたのが2003〜2004年なので、それ以来けっこうな年月が経っているのですが、興味深いことに、ここ一年間立て続けに、このテーマについての取材や講演や執筆の依頼を受けています。つい最近も「ズーカーマン事件」とも呼ぶべき出来事があり、それを受けてニューヨーク・タイムズに掲載された記事でも、名前は載りませんでしたがかなり長時間の取材を受けました。クラシック音楽界におけるアジア人の活躍がさらに広がっているだけでなく、ブラック・ライヴズ・マター運動の流れの中で文化芸術界にもさまざまな問いかけがなされるようになり、また、コロナ禍で急増しているアジア人への暴力などの状況において、「西洋のもの」とされているクラシック音楽における「アジア人」の位置づけや、音楽と人種の関係といった問題が改めてレレバンスを持ってきているのを実感しています。

本を読んでいないかたにもわかりやすいように内容を紹介しながら、本の刊行後のクラシック音楽界やアメリカ社会の展開も視野に入れ、また、自分で本を振り返っての反省や、「今この本をアップデートするならこんな風に」といった話もするつもりです。聞き手は、去年のオンラインセミナーと同じく、坂元勇仁さんが務めてくださいます。見逃し配信もありますので、リアルタイムでの参加ができないかたも、ふるってお申し込みください!質問・コメント大歓迎です!

申し込みはこちらからどうぞ。


2021年7月3日土曜日

「我々はアメリカ人ではない!」 ハウナニ=ケイ・トラスクのレガシー

長年闘病を続けていたハウナニ=ケイ・トラスクが、しとしとと静かな雨が降る今日2021年7月3日午前、息を引き取ったとの知らせがハワイ中に伝えられました。

ハワイではその名を知らない人はいないくらい影響力の大きい人物でしたが、日本では一部のハワイ通を除いては彼女のことはあまり知られていないのではないでしょうか。研究者仲間と一緒に執筆中で来年刊行予定の本の中で、彼女についての文章を書いているので、ここではごく簡単に紹介するだけにしておきます。

とにかく見ていただきたいのがこのビデオ。


これは、約20分間にわたる彼女のスピーチの最初のごく一部ですが、ここで繰り返されている "We are not American!"、そう、「我々はアメリカ人ではない!」というシンプルな一文は、ハワイとアメリカ合衆国の関係の歴史を理解する上できわめて重要なものです。

このスピーチは、1993年1月17日、ホノルルの中心部にあるイオラニ宮殿の敷地内で行われたもの。100年前の1893年1月17日にハワイ王朝が非合法に転覆されたことへの怒りを悲しみを表し、ハワイアンの主権を主張するため、4日間にわたって行われた抗議行進・集会のクライマックスでした。当時すでにハワイアン主権運動のシンボル的存在だった彼女は、斜め前に建つハワイ州議事堂をじっと見つめて「我々はアメリカ人ではない!」と繰り返し叫び続けたのです。

19世期末に独立国家としてのハワイは滅亡し、列島はアメリカの領土となりました。第二次世界大戦後、住民の多く、とくに政財界のリーダーたちが、アメリカ合衆国におけるハワイの政治的地位を強化するために立州化を求め、1959年にそれが実現してハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。ゆえに、現在ハワイはアメリカ合衆国の一部であり、先住ハワイアンもアメリカ国籍を持ちます。しかし、そうして「アメリカ国民」「ハワイ州の市民」となることをハワイのすべての人々が歓迎したわけでは決してありませんでした。


1778年にジェイムズ・クック率いるイギリス船が到着して以来、ハワイには世界各地から植民者や資本、文化が流入し、また疫病や環境の変化によって先住ハワイアンの人口は激減し、社会構造や生活様式が急激に変化していきました。歴代のハワイ政権は積極的に西洋近代の技術や政治制度を採用することで列強諸国と対峙しようとしたものの、土地の私有化によってハワイアンの人々は生活の基盤を奪われ、キリスト教化・西洋化によって宗教・言語・伝統文化の多くを失い、アメリカ人資本家たちにハワイ社会の実権を握られていったのです。


そして、政治力・経済力のさらなる拡大を図った少数のアメリカ人が、1893年に米海軍の支援をバックにクーデターを起こし、抗議宣言を発したリリウオカラニ女王をイオラニ宮殿に幽閉し、ハワイ王朝を転覆させ、翌年にはハワイ共和国が誕生しました。そして、クーデターへの米軍関与は不正であったと判断したクリーヴランド大統領の反対にもかかわらず、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。米海軍はハワイを太平洋地域最大の拠点とするため巨大な軍事施設を建設し、1941年に日本軍の真珠湾攻撃により第二次世界大戦の舞台となったハワイは戒厳令下に置かれました。戦後には、プランテーション農業の衰退とともに、ハワイの産業は観光と軍事に急速に移行し、環境破壊や経済格差、土地開発に伴う住民の強制移動などが進行しました。


1960年代にアメリカ本土で公民権運動、ブラック・パワー運動、先住民運動などが盛り上がりをみせる中、ハワイでも、植民地化や抑圧と差別の歴史を問い質し、先住ハワイアンの主権回復を訴える運動が起こりました。第二次世界大戦中に米軍に接収され、戦後も米海軍の爆撃演習地として使用され続けたカホオラヴェ島に、草の根運動家たちが乗り込み、身体を張って爆撃を停止させ、島を市民の手に取り戻したProtect Kahoʻolawe ʻOhana(PKO)運動や、先住ハワイアンへの正当な土地使用権の分配を訴えたり、資本の利益を優先した土地開発に反対したり、ハワイアンの教育や雇用の正当な機会を要求する運動が、急速に盛り上がっていったのです。キリスト教宣教師たちによって使用を禁じられていたために使用者が激減していたハワイ語や、フラやチャントを初めとするハワイの伝統文化、そして伝統様式の農業や漁業を復興する運動も、ハワイ各地で広がっていきました。

そうした中で、ハウナニ=ケイと妹のミリラニ・トラスクはハワイ主権運動のリーダーとなり、1987年に発足したハワイアン主権運動団体Ka Lāhui Hawaiʻiの創設メンバーとなったのです。ハワイ内外のさまざまなグループと連携しながら1993年の抗議行進・集会を数年間かけて準備したのもこの団体。 


“We are not Americans!” という、聴衆が一瞬はっと息を呑んだ衝撃的な宣言の後で、彼女は「主権(sovereignty)とは何か」を、溢れ出る怒りを燃えるような視線に込め人差し指を立てた腕を振りながら、力強くこう論じました。----主権とは、気持ちの問題でもアロハの精神の問題でもハワイアンとしての誇りの問題でもない。そんなものは我々はすでに持っている。主権とは、自らの政府を持ち、自らの国家を持つことである。自らの政府を持つことでのみ、自らの権力を行使し、自らの土地を管理することができる。主権とは一にも二にも政治である。アメリカ合衆国は民主主義の国などではない。人種差別によって先住民の滅亡をもたらす世界最大の帝国である。ハワイ州はそのアメリカ合衆国の一機関である。行儀よく話し合いをしている場合ではない。憤り闘わなければいけない。私は憤っていることに誇りを持っている。ハワイアンであることに誇りを持っている。私は、そして私たちは、アメリカ人ではない。アメリカは私たちの敵である。闘うのだ。


ハワイで直接行動や政府機関を相手取っての活動を続けるうちに、トラスクはどんどんと雄弁になり、そのメッセージは先鋭化されていきました。ハワイ大学のキャンパス、そして新聞やテレビなどの公的メディアでの歯に衣着せぬ発言や議論を通じて、若い学生たちを初めとする多くのハワイアンやその運動を支持する人たちの尊敬を集め、一種のロールモデルとなっていきました。彼女へのバックラッシュもきわめて大きいものでしたが、それでも彼女は、ハワイ植民地化の歴史への無理解と根強い制度的差別に対し、つねに前面に歩み出て闘い続けていったのです。1970年代にはほとんどのハワイアンの人々が「主権(sovereignty)」という単語を口にすることさえ躊躇ったのに対し、1990年代には世代を超えて多くの人々が運動に参加し、ハワイ社会の支配層も無視できない勢力となりました。“We are not American.”演説のあった1993年には、ハワイ王朝の転覆そしてアメリカ合衆国への併合はハワイアンの意志に反して非合法に行われたことを認める「謝罪決議」がアメリカ連邦議会で可決され、クリントン大統領によって署名されました。大学でハワイの歴史や政治や言語を学ぶ学生も増え、いまだ不十分とはいえ、さまざまな分野でハワイアンの教員も採用されるようになっています。マウナケア山の30メートル望遠鏡(TMT)建設に抗議する活動家たちの多くは、トラスクの教えを受けた人々。彼女が身体を張って示したハワイアン主権の理論と実践は、ハワイ各地で若い世代に脈々と受け継がれているのです。


ハワイの独立と主権を奪ったアメリカ合衆国の独立を祝うような日にはもう付き合っていられない、私はアメリカ人じゃないんだから、とでも言わんばかりに、7月4日のアメリカ独立記念日の前日にこの世を去っていったトラスク。いかにも彼女らしい旅立ちだと思います。


彼女の著書の中でももっともよく知られるFrom a Native Daughter: Colonialism & Sovereignty in Hawaiʻi は、『大地にしがみつけ----ハワイ先住民女性の訴え』というタイトルで邦訳も出ています。現在、ハワイではコロナ禍がだいぶ落ち着いて、観光客もかなり戻ってきています。日本からも再びたくさんの人が訪れるようになるでしょう。ハワイに旅する日本の人たちにも、トラスクのことを知って、ハワイの歴史や社会について理解していただきたいです。 

2021年6月16日水曜日

99%のための音楽史宣言『バイエルの刊行台帳』

 

かつては週に数回も書いていたことのあるこのブログ、2020年にはなんと1回しか投稿がなく、それもオンラインセミナーの宣伝で、これではブログと呼べないトホホな状態になってしまいましたが、気を取り直して新たな投稿をしようという気持ちにさせてくれたのが、この本、小野亮祐・安田寛『バイエルの刊行台帳 世界的ベストセラーピアノ教則本が語る音楽史のリアル』。 

安田さんの『バイエルの謎』を読んだときに私は大いにコーフンして、2012年5月にこちらのブログでも紹介しました。それから10年近くが経ち、私はリアルでお会いしたこともない安田さんと、お互いのオンラインセミナーを視聴したり一緒にzoom読書会をしたりする仲になっていて、人生というのは生きてみるものです(笑)。で、この本は『バイエルの謎』の続編として、安田さんの研究仲間の小野さんと共著で書かれたもの。「面白くて、ためになる」本というのがこの手の読みものの魅力ですが、その点においてこの本は満点! 

グーテンベルクの活版印刷で知られるマインツにある老舗楽譜出版社、ショット社の廊下に、ある作曲家の肖像が飾られている。あの「バイエル」である。日本でピアノをやった人は誰でもその名を知っているとは言え、ドイツに限らず音楽史において今ではまったく無名となったバイエルの肖像が、ベートーヴェンやワーグナーの楽譜を出版したこの会社でわざわざ飾られているのはなぜか? という問いからこの物語は始まる。 

その問いを解明するのに大きな鍵となるのが、ショット社の刊行台帳。一口に「バイエル教則本」といっても、実にいろいろな版が次から次へと出版されている。刊行台帳と睨めっこしながら、いつ何がどのくらいの部数刊行されたのかという基本的な情報を、著者は丹念に追っていく。そして、バイエルの教則本が、当時の楽譜市場においてどういう位置付けにあったのか、他にはどんな教則本が出回っていて、それらと比べて「バイエル」の内容は何がどう魅力的だったのか、といったことを、出版史や文化史の文脈から辿っていく。(注・とくに付録が大事。)そしてまた、それほどたくさんの教則本を書くに至ったバイエルのキャリアの道程と意味を探るために、彼が青春時代を過ごし、音楽家としての夢と挫折を味わったライプツィヒの街の音楽文化を描く。 

その辺りまでもたいへん興味深いのですが、いよいよ謎が深まり、核心に迫っていくのが第4章。ミステリー映画であれば、不穏な音楽がバックに流れ、主人公が暗い廊下をそうっと進んで、奥にある一枚の扉を開けようとするところ。(とは言っても、私はミステリー映画をあまり観ないのでこれは無知な想像で、まったく的外れかもしれません、あしからず。)この本でそれは、暗い廊下の奥にある扉ではなく、ミュンヘン国立図書館の仰々しい大階段を上がって音楽部門に到着し、それまでに閲覧希望の資料についてあれこれやり取りを重ねていた担当司書のザビーネさんが取り出してきて見せてくれる、ある手書きの楽譜。(ここでワーグナーの和音のようなドラマチックな効果音。)ネタバレにならないよう、その具体的な内容はここでは明かしませんが、読みながら私は思わず「おおお〜!」と声を上げました。 

そしてそこからさらに謎解きは続く。56歳で亡くなったバイエルが遺した楽譜をショット社に売った妻とその子供たちはどうなったのか?「V.」とは何者?ショット社はあくどい悪徳商法で「バイエル」の名を使い回していたのか?そして、資料にある印刷譜に押されているとあるゴム印の意味は???などなどのハテナが、安田さんならではの、読者をグイグイ引き込む謎解きスタイルの筆致で綴られていて、まあとにかく面白く、謎が解けたときにはこちらも思わず大きく溜息をつく。 

といった調子でおおいに楽しめるのですが、私が一番ドキドキワクワクゾクゾクするのは、この謎解きから話を深め広げて、これまで一般的に「音楽史」と呼ばれてきたものに大きな挑戦を投げかける第5章。ここでは、音楽史からすっかり名が消えてしまったバイエルを、同じくショット社のお抱えで、こちらはまぎれもなく西洋音楽史に大きく名を残すワーグナーと並べて論じることで、19世紀ヨーロッパで音楽がどのように演奏され聴かれ学ばれていたのかを、鮮明に描いてみせてくれる。「マイスタージンガー」の楽譜の刊行の実態----マイスタージンガーのどの部分のどんな形態の楽譜を、誰が買ってどう使っていたのか----を知ると、ワーグナーという存在、オペラという芸術形態、そして音楽を「する」という行為や活動についての理解が、大きく転回するのです。「作品番号によってではなく、プレート番号によって書かれる音楽史のリアル」と著者が表現しているように、偉大な作曲家として名を残した人たちの列伝とその作品分析ではなく、そうした「偉人」を取り囲み、いや彼らを支える形で、無数の楽曲を作曲したり編曲したりしていた音楽家たちの営みに光を当てることで、これまでとはまったく違った「音楽史」が浮かび上がってくる。これはまさに、「99%のための音楽史宣言」なのであります。 

私もDearest Lennyのための調査で、バーンスタインのレコードの売り上げ明細と睨めっこしたり、バーンスタインの仕事を管理したアンバーソン社と楽譜出版社の間でやりとりされた書簡を読んだりして、驚いたことも、いやでも考えてみれば驚くことではないのかもと思ったりすることも沢山あったのですが(そのあたりはとくに第3章で書いてあります)、そういう商業市場としての音楽のリアルな状況は、バイエルの時代にすでにあったのでした。そして、さまざまな経緯を経て、ごくごく一部の作曲家が音楽史のキャノンを形成していく陰で、今では誰もその名を知らない数え切れないほどの人たちが、音楽を生み出し続け、その人たちの書いた教則本をブルジョアのお嬢さんたちがせっせとさらい、その人たちが編曲した楽曲を母娘や姉妹で連弾し、その人たちがピアノ伴奏用に編曲したオペラ曲のヴォーカルスコアを見ながら家庭のサロンコンサートで歌ったりしていた。そうしたお嬢さんたちが殿方に見染められ、やがて結婚し家庭を持ち、またそれらの教則本や連弾符やヴォーカルスコアを使って子供たちと音楽を楽しんでいた。それが19世紀ヨーロッパの音楽活動だった。「その人たち」の人生は幸せだったのか、そうでなかったのか。そんな問いは大きなお世話である。「その人たち」はまさに「音楽」をしていたのである。ドキドキしたり哀しくなったり胸が熱くなったりしながら、そんなことに思いを馳せ、知的にも情感的にもドラマチックな体験をさせてくれる一冊です。 

さて、小野さんのあとがきにちょっと書かれているけれど、私としては、小野さんと安田さんの共著のプロセスがもっと知りたかった。本文中ずっと、「僕」という一人称単数が主語になって謎解きがされていく。『ブッデンブローク家の人々』を上着のポケットに入れてフランクフルトに降り立った「僕」は、小野さんなのか、安田さんなのか、それともやはり二人の魂の複合体なのか? 資料探して三千里(?)マインツやミュンヘンに飛んで行ったのは小野さんなのか(ショット社の前で小野さんが立っている写真が後半に掲載されている)、それとも安田さんと二人で一緒に行ったのか?親子ほど歳の離れた(実際に安田さんは小野さんのお父様と同い年だそうです)、キャラもだいぶ違う(私は小野さんとは面識がないのですが、オンラインセミナーでお二人のお話を視聴した印象だと、安田さんとはだいぶキャラが違う印象)この二人が一緒に旅したのだとしたら、なんだか愉快な珍道中だったのではないかと想像でき、その様子についても知りたい。小野さんが一人で出かけて行って、発見したことを安田さんにその都度報告していたのだとしたら、そのやり取りの様子も知りたい。そしてこの本を二人で一緒にこういう文章にするまでに、どんな密な作業がなされたのかも知りたい。そうした話はいつかどこかで聞けるかな… 

とにもかくにも、是非ご一読を!