コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。
“We are not Americans!” という、聴衆が一瞬はっと息を呑んだ衝撃的な宣言の後で、彼女は「主権(sovereignty)とは何か」を、溢れ出る怒りを燃えるような視線に込め人差し指を立てた腕を振りながら、力強くこう論じました。----主権とは、気持ちの問題でもアロハの精神の問題でもハワイアンとしての誇りの問題でもない。そんなものは我々はすでに持っている。主権とは、自らの政府を持ち、自らの国家を持つことである。自らの政府を持つことでのみ、自らの権力を行使し、自らの土地を管理することができる。主権とは一にも二にも政治である。アメリカ合衆国は民主主義の国などではない。人種差別によって先住民の滅亡をもたらす世界最大の帝国である。ハワイ州はそのアメリカ合衆国の一機関である。行儀よく話し合いをしている場合ではない。憤り闘わなければいけない。私は憤っていることに誇りを持っている。ハワイアンであることに誇りを持っている。私は、そして私たちは、アメリカ人ではない。アメリカは私たちの敵である。闘うのだ。
ハワイで直接行動や政府機関を相手取っての活動を続けるうちに、トラスクはどんどんと雄弁になり、そのメッセージは先鋭化されていきました。ハワイ大学のキャンパス、そして新聞やテレビなどの公的メディアでの歯に衣着せぬ発言や議論を通じて、若い学生たちを初めとする多くのハワイアンやその運動を支持する人たちの尊敬を集め、一種のロールモデルとなっていきました。彼女へのバックラッシュもきわめて大きいものでしたが、それでも彼女は、ハワイ植民地化の歴史への無理解と根強い制度的差別に対し、つねに前面に歩み出て闘い続けていったのです。1970年代にはほとんどのハワイアンの人々が「主権(sovereignty)」という単語を口にすることさえ躊躇ったのに対し、1990年代には世代を超えて多くの人々が運動に参加し、ハワイ社会の支配層も無視できない勢力となりました。“We are not American.”演説のあった1993年には、ハワイ王朝の転覆そしてアメリカ合衆国への併合はハワイアンの意志に反して非合法に行われたことを認める「謝罪決議」がアメリカ連邦議会で可決され、クリントン大統領によって署名されました。大学でハワイの歴史や政治や言語を学ぶ学生も増え、いまだ不十分とはいえ、さまざまな分野でハワイアンの教員も採用されるようになっています。マウナケア山の30メートル望遠鏡(TMT)建設に抗議する活動家たちの多くは、トラスクの教えを受けた人々。彼女が身体を張って示したハワイアン主権の理論と実践は、ハワイ各地で若い世代に脈々と受け継がれているのです。