2009年10月25日日曜日

「市民感覚を強調」した判決理由に疑問

今回の帰国は、政権交代と同時に、裁判員制度の開始とも時期が重なったので、興味深くニュースを見ています。法制度については日本のこともアメリカのこともまったくの専門外なので、わからないことだらけなのですが、裁判についてのニュースを見たり読んだりする範囲では、アメリカの陪審員裁判との違いに驚くことが多いです。

今朝の朝日新聞に掲載された、「判決理由の表現 様変わり」という記事によると、裁判員が加わった裁判の数が増えるにつれ、裁判官が書く判決理由の書き方が、「市民感覚が生かされたことを強調する」「議論の経過や悩んだ様子を紹介する」ような表現に変化してきている、とのこと。この記事で例に挙げられている判決そのものについては、とくに異論はないにしても、この「市民感覚の強調」という点については疑問を感じます。「日々の生活に照らすと」とか「われわれの健全な社会常識に照らして」とか「一般的に抱かれるイメージは」とかいった表現が盛り込まれているらしいですが、「日常の生活」とは誰のどんな生活のことなのか、「われわれの健全な社会常識」の「われわれ」とは誰で、「健全」とは誰がどう判断するのか、「社会常識」を構成するものはなにか、「一般的」とは具体的にはなんなのか、「イメージ」はどのように形成されているのか、といったことがじゅうぶんに検討されることなく、究極的には定義不可能なこうした表現が法的な文章に使われるということは、かなり危険なことなのではないかと思います。法制度への市民参加を促すための裁判員制度を試行することはいいと思いますが、その過程において「市民感覚」を形成するものについての慎重な検討がないままそれが人を裁く材料として使われると、たいへんおそろしい事態も生みかねないと思うのですが、そうした議論はないのでしょうか。記事にももうちょっと突っ込んだ分析がほしいところです。(しかもこうした記事がオンライン版に掲載されないのが、日本のインターネット・コンテンツの困ったところです。)