2010年5月31日月曜日

ダマされたと思ってとにかく観てほしい、『ラマラ・コンサート』

ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラ(West-Eastern Divan Orchestra)のワークショップと演奏ツアーの様子を追ったドキュメンタリー映画、『ラマラ・コンサート 』を昨晩DVDで観ました。あまりにも感動したので、観た直後にブログを書こうかとも思ったのですが、この映画で描かれていることはそんなにすぐさま頭に浮かぶ言葉で簡単に片づけてしまってはいけないような気がして、文字にするのはともかく一晩おいてからにすることにしました。とはいえ、こういうものを観た後では、いろいろな感情や考えがいっぱいで、すぐに眠りにおちることもできませんでした。

簡単に背景説明をすると、ウェスト=イースタン・ディヴァン・オーケストラというのは、ダニエル・バレンボイムとエドワード・サイードによって1999年に創設されたオーケストラで、メンバーはイスラエルそしてパレスチナをはじめとする中東諸国の若者たち。

イスラエル国籍の世界的な指揮者・ピアニストであるダニエル・バレンボイムについては、『現代アメリカのキーワード 』で私が執筆を担当しているのでよかったら読んでください。また、以前の投稿でも言及したように、大学院一年目でエドワード・サイードの『オリエンタリズム』を読んだことが私の学者としての第一歩となった(大学院に入るまで『オリエンタリズム』を読んだことがなかったという事実を告白するのもカッコわるいですが)のですが、ものごとの根幹を揺るがす妥協のない学術分析と、パレスチナの権利をめぐる勇気ある活動、そして彼の著述や活動の根底に流れる深いヒューマニズムには心からインスピレーションを受けます。ちょうど私がニューヨークで暮らしていた2003年の秋に、白血病で亡くなり、世界中に惜しまれていますが、彼の残した功績ははかり知れません。そして、バレンボイムとサイードの友情のありかたにも、人間として学ぶことが多いです(この二人の対話を本にしたものは、『バレンボイム/サイード 音楽と社会』)。

このふたりが、戦火のやまない中東諸国の、ユダヤ系・アラブ系の若い音楽家たちを集め、生活をともにしながら音楽を学び演奏する、という試みを始めたのが1999年の夏。初年はドイツのヴァイマールで、その後はスペインのセヴィリアを拠点に、毎夏数週間にわたり集中して研鑽を積み、その後ヨーロッパや米国に演奏ツアーをするのですが、2003年にははじめてアラブ圏のモロッコで演奏をし、2005年には緊迫した政情のなかパレスチナのラマラでの公演を実現します。参加している若い音楽家たちは、それぞれが複雑な状況を抱え、また、なかには親同士が敵として戦争で闘ったという人たちもいます。そうした音楽家たちが、ひとつのオーケストラで肩を並べ、お互いの音に耳を傾け、一緒に音楽を創りあげていく。そして大事なのが、このプロジェクトでは、「音楽は政治とは関係ない」といって政治的な議論を避けたりはせず、逆に、「各人が自由に発言でき、それと同時に他者の声にきちんと耳を傾けることができなければ、多民族・多宗教地域の中東に平和は実現しないし、また、異なる背景の人々がともに音楽を作ることもできない」という考えのもと、厳しいリハーサルと並行して、中東情勢をめぐる真剣な議論を連日交わす、ということです。視点がかみあわず議論が平行線で終わってしまうこともあるし、怒って席を立ってしまう若者が出ることもある。それでも、そうした対話を辛抱強く続け、寝食をともにしながらともに音楽を作っていくことで、お互いにも、曲を書いた作曲家とも、そして自分たちの演奏を聴く聴衆とも、いろいろな形の対話をしていきます。

このドキュメンタリーを観ると、「音楽は普遍なものである」とか「音楽は国境を超える」とかいった文句が、いっぽうではとても空虚なきれいごとに思えてきます。バレンボイム自身言っているように、このプロジェクトがいかに素晴らしいものであろうとも、このオーケストラが中東に平和をもたらすわけはないのです。中東平和は、諸国の政府や国民全体が、他者の歴史や現在をきちんと理解し、相手の声に耳を傾けなければ実現しえないし、このオーケストラは、軍事以外の方法で共存の道を探るという以外の政治的メッセージはもっていません。そしてまた、この若者達の奏でるベートーベンの音楽がどんなに超越的なものであろうとも、そしてコンサートホールでの数時間がいかに愛情と平和に満ちたものであろうとも、演奏会の直後には、彼らは身の安全のため、お互いにゆっくりとさよならを言う時間もろくにないまま、警護のついた車に乗せられて帰途につかなければいけないという現実があります。政情不安定により、翌年は参加できなくなる音楽家もいることでしょう。芸術の普遍性とか超越性とかいった言葉は、戦争や占領といった現実から目を背けたまま唱えていては意味をもたない、ということを知らされます。

けれどそのいっぽうで、現実の状況や、現に目の前にいる他者を見据えた上で、ともに音を聴き、音を作り出そうという行為は、とても困難で、大きな勇気を必要とするものであり、その産物は、音楽に造詣がある人以外にも、深いメッセージを送る、というのも真実なのだ、ということをこのドキュメンタリーは教えてくれます。ラマラの聴衆(ヨーロッパの絢爛豪華なホールに集まる聴衆とは違う種類の聴衆です)が、食い入るような表情で彼らの演奏を聴き、そのメッセージを理解しようとしている様子にもそれは表れているし、若い音楽家たちの表情そして音からもそれは伝わってきます。バレンボイムへの尊敬も深まるし、サイードの偉大さにも改めて感動します。なにしろ、サイードは、「他者」を理解するということの難しさ、そして無意識のうちにも我々すべてが内包しているイデオロギーや我々の置かれた構造的立場から独立した形で世界や人間を表象することの困難を、誰よりも鋭く分析した人です。その彼が、また同時に、クラシック音楽や近代文学をこよなく愛し、そこにこそ希望や慰めを見出した人物でもあるということに、私はヒューマニズムの力を見ます。

音楽は言葉に還元できるものではない。それでも、音楽についてあえて言葉で語ることを自分に強いることによって、その努力をはじめからしないよりは、ずっと深くきちんとものごとを考えることができるし、究極的には言葉や理屈で説明できないものについての情感や畏敬も深まるし、他者との対話をすることができる。だからこそ、私は言葉を使った職業を選んでいるのだと思います。音楽について言葉で考えるということの意味を、あらためて考えさせてくれたという点でも、このドキュメンタリーには大感謝です。

クラシック音楽についてはとくに興味がないという人も、中東情勢はまったくわからないという人も、サイードの名前を聞いたことがない人も、悪いことは言いませんから、ダマされたと思って、とにかく観てみてください。日本の普通のメディアを見ているだけでは、中東の人々の顔をじっくり見ることも少ないと思うので、「イスラエルやパレスチナやシリアやレバノンの人というのがどういう人たちか」というのを視覚的に経験するだけでもなかなか興味深いと思いますし、なにしろこのオーケストラの演奏するモーツアルトやベートーベンを聴いてください。買うにはちょっと高いDVDですが、買って絶対に損はしません(日本語字幕もついていますし、アマゾンなら注文して翌日届きます)。私はもう、10枚くらい買って友達に配ってまわりたいくらいの気持ちです。(私が10枚買うと、みなさんがアマゾンで注文して翌日届かなくなってしまいそうなので、買いません。)

2010年5月29日土曜日

NHK「ピアニスト辻井伸行〜心の目で描く"展覧会の絵"」

昨晩NHKで放送になった、「ピアニスト辻井伸行〜心の目で描く"展覧会の絵"」を興味深く見ました。

クライバーン・コンクール優勝後、猛烈なスケジュールで世界を演奏してまわっている辻井さんが、はたしてどうやってレパートリーを広げたりものを考えたりする時間を見つけているのだろうと、私は疑問と心配の混じった思いをもっていました。もちろん、どんな演奏家もつねに時間やプレッシャーと闘いながら音楽家としてのキャリアや世界を築いていくわけですが、演奏家として世界の舞台に立つことによって、そのプレッシャーのありかたはかなり本質的に変化するのではないかと私は想像します。コンクールであれコンサートであれ、たとえば半年後や一年後の大きな舞台を目標に、レパートリーを組んで集中的かつ計画的に練習を積み、自分が納得いくまで演奏を完成させていくのとは違って、数年後までびっちりとツアーの予定が埋まっている状況のなかでは、すでに熟知している演目について自分自身の新鮮な感動を保ち続けることも、また、まとまった時間のとりにくいなかで新しい演目を身につけ完成にもっていくことも、とても難しいはずです。

この番組では、辻井さんが米国ツアーに向けて新しく覚えたムソルグスキーの「展覧会の絵」と格闘し、自分独自のイメージやメッセージをもった演奏に仕上げていくまでのプロセスを追っていました。演奏ツアーの華々しさや聴衆の歓声といった表舞台ではなく、辻井さんが録音を聴きながら曲を覚えるその実際的な側面もさることながら、一連の絵を題材に作曲されたこの大曲を演奏するにあたって、目の不自由な辻井さんがどのようにしてその絵をイメージするのか、辻井さんくらいのレベルのピアニストが一通り音を覚えたあと演奏を創りあげていくにはどのような過程を経るのかといった、音楽の創造プロセスそのものに焦点が当てられていたのには好感がもてました。

それと同時に、音楽の創造プロセスというものを、1時間ほどの番組で映像としてまとめるのは、とても難しいものなんだなあということも実感しました。基本的な番組の筋をあえて言葉にしてまとめるならば、「想像を絶するような努力によって、一般人にとっては驚異的と思えるスピードで辻井さんは新曲を弾けるようになるけれども、ツアー直前になっても、そしてツアーが始まってからも、辻井さんはこの曲について自分なりのイメージを持ちきれず、焦燥感がつのっていた。それが、ツアー途中で、クライバーン・コンクールの同志であるソン・ヨルムの演奏を聴いたのをきっかけに、彼はひとりの人間として自分が音楽に向き合うという基本的な姿勢に立ち返った。そして、曲の最後をしめくくる、荘厳でありながら青く輝く門のイメージを、心のなかに明確にもつことができた。こうして、ツアー最後の演奏会で、彼は音楽家として、人間としての自分が描いた絵を聴衆に伝えることができた」というものです。それはそれで、筋も通っているし感動も与えるし興味深いのですが、音楽という芸術を言葉に還元しきることはできないのと同様、演奏の創造というプロセスにも、線的な物語とそれを表す映像という形では、汲み取りきれないものがたくさんあります。おそらく、音楽の創造プロセスにおいてもっとも重要な部分は、素人が映像として見ていてもあまり面白くはないような性質のものに違いありません。もちろん、なにかがきっかけで「あ、これだ!」というひらめきの瞬間を経験するようなことだって実際にあるでしょうが、創造過程を構成するほとんどは、悶々として苦悩と試行錯誤のなかでじわりじわりとアイデアや音が生まれたり消えたりしていくものだろうからです。そしてまた、じゃあ、ツアーが始まったときの辻井さんのこの曲の演奏と、ツアー最後での彼の演奏がどう違ったのかということを、番組の聴衆自身に感じ取ったり判断したりさせてくれるほど、演奏をまとまって聴かせてくれるような時間的なゆとりもこうした番組にはありません(それは、音楽を扱ったたいていの映画やドキュメンタリーに共通することです。クライバーン・コンクールのドキュメンタリー映画もそうです)。うーむ、なかなか難しい。

辻井さんの話題ついでにもう一度宣伝しておきますが、来週6/5(土)朝日カルチャーセンター新宿校で、「クライバーン・コンクールのドラマと舞台裏」という講座をおこないます。まだ定員いっぱいになるまで余裕があるようですので、興味のあるかたはぜひご参加ください。(ちなみに、私は昨日同じ朝日カルチャーセンターで、岡田暁生さんの講座を聞いてきましたが、2時間半で中世からルネッサンスまでの音楽をカバーし、しかもその時期の世界史の大筋やキリスト教、建築、美術などについての具体的な特徴を盛り込みながら、「クラシック音楽」誕生以前の西洋音楽の変遷を、非常にわかりやすく概説してくださって、たいへんたいへん勉強になりました。私の講座も同じくらい充実して面白いものになるように頑張ります。)

日時 6月5日(土) 10:30~12:00
受講料 会員 2,940円 一般 3,570円(入会不要)
場所 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター(申し込みは4階受付)

お申し込みは、朝日カルチャーセンター新宿校 Tel: 03-3344-1945(教養科直通)
ネットで申し込みの場合はこちら。

2010年5月27日木曜日

ハワイと異人種間結婚

今日のホノルル・アドバタイザー紙に、異人種間結婚の統計にかんする記事が載っています。この統計は、ハワイに住んでいる人にとってはとくに驚くことはなにもない(むしろ、日常生活で受ける印象からすると、この数字は予想より低い感じすらする)のですが、アメリカ本土や日本の人にとっては、なかなか興味深いのではないかと思います。

ハワイ先住民と白人植民と大量のアジア移民がまじわって歴史を形成してきたハワイは、もう何十年も、結婚している男女における異人種間結婚の割合がダントツで全米一であり続けてきました。現在では、ハワイで結婚する人々のうち3割近くが異人種間の結婚です。ただしこれは、国勢調査などでつかわれる「人種」カテゴリーを使って「異人種間」と定義されたものなので、たとえばフィリピン系の人と中国系の人が結婚した場合は、同じ「アジア系」同士の結婚とされ「異人種間結婚」には含まれません。このような「異民族間」の結婚も含めると、2007年にハワイで結婚したハワイ住民の約55%が「異人種・異民族間結婚」をしたという統計になっています。全国的にみると、異人種間の結婚は8%であることを考えると(全国的な異民族間結婚の数字はこの記事には載っていません)、ハワイがかなり特殊な場所であることがわかります。ちなみに、ハワイについで異人種間結婚が多い州はアラスカで19%だそうです。

全国的に、異人種間結婚の割合は2000年から20%増加しているものの、1990年から2000年のあいだには65%増加していたことをかんがみると、この増加の速度は急速に落ちているといえます。これにはさまざまな理由が考えられますが、アジア系やヒスパニック系などの移民やマイノリティが、自分と似たような背景で育ってきた相手と結婚する傾向が強くなってきたこと、また、マイノリティの増加に対して反動的な態度をとる白人も増えてきていることなどがあります。後者に関しては、ここしばらく移民政策の名のもとにここ最近アリゾナ州でマイノリティにたいして差別的な政策が次々と打ち出されている(これについては書きたいことがたくさんあるのですが、あまりにも次々ととんでもないニュースが出てくるので、考えて書くのが追いつかない状態です)ことにも表れています。というわけで、オバマ氏のような複数の人種・民族的背景をもつ人物が大統領になったことで、いかにもアメリカが「ポスト人種社会」になったかのような表象をされることも少なくないですが、さまざまな形で人種というカテゴリーはアメリカの人間関係や社会構造、文化のありかたに深い意味を持ち続けています。

同じハワイの話題であるという以外にはまるで関係ないですが、高校生の経済についての知識と教育を促進するためにゴールドマンサックス財団(!)の出資で開催されている、National Economics Challengeという全国大会で、ホノルルの名門私立高校のひとつであるイオラニ高校のチームが優勝しました。このチームのメンバーのひとりが私の友達の息子なのですが、彼が入っているディベート部も全国大会に出場し、そのトレーニングの様子を聞いているだけでも私は深いため息が出ます。アメリカの大学や高校でのディベート部は伝統があり、訓練の方式などもきわめて専門家されていて、アメリカのいわゆる優等生はディベート部の活動を経験した人がかなり多いです。こうした人たちがアメリカのエリートを形成し、そういう人たちと外交を含めさまざまな交渉をしていかなければいけないのだと思うと、正直言って日本の教育にはたいへん心細いものを感じずにはいられません。もちろんアメリカでも、情報をきちんと収集したり分析したり、それらをもとに筋道立てた議論をまとめ発言するということが効果的にできない学生は非常に多い(ことを私は常日頃から痛感している)のですが、それでも、こうしたアメリカの若いエリートたちの能力と気迫には、ドキッとさせられるものがあります。アメリカの優等生(アメリカでいう「おたく」なのかもしれませんが、ちょっと違うかも)というものの姿を見るだけでもなんだか面白いので、興味のある人はこのテレビのインタビューを見てみてください。

まったく関係ないですが、今日はワタクシの誕生日であります。この日はなんと、International Hug a Musician Dayなんだそうです。誰が決めたんだか、どういう意味があるんだか、さっぱりわかりません。今日本に住んでいてボーイフレンドもいない私は、今日ハグをされたりしたりすることはないような気がしますが、午後は岡田暁生さんの講演を聞きに行くので、よい一日となりそうです。

2010年5月21日金曜日

プロパブリカと調査報道

今朝の朝日新聞の「ひと」欄に、ピュリツァー賞を受賞した「プロパブリカ」の記者、Sheri Finkの紹介が載っていました。私はプロパブリカについては、ナショナル・パブリック・ラジオのインタビューを聞いたりニューヨーク・タイムズの記事を読んだりして興味を持っていたのですが、プロパブリカのウェブサイトを見てみると、想像していた以上に画期的な試みであることがわかりました。

プロパブリカは、公共性の高い調査報道のために作られた非営利組織で、2年前から記事を発表しています。新聞や雑誌や局といった独自の報道媒体をもたず、プロパブリカの記者が書いた記事はウェブサイトに掲載され、そして既存の印刷媒体やテレビ・ラジオ局などに無料で(!!!)提供されます。資金は財団や個人などからの寄付で成立している非営利組織でありながら、30人以上のフルタイムの専属記者を雇い、そのすべてが長期にわたる調査報道にあたっています。限られた人材や時間を有効に使うため、スタッフの話し合いで真に公共性が高く「道徳的な力」をもつトピックを選び、記者同士のみならず、写真家やウェブデザイナーなどとも密な協力体制をしいて、深く多角的な報道をする、というのがプロパブリカの方針。フルタイムの記者を雇うというのがきわめて重要なポイントで、フリーランスの記者はどうしてもそれぞれの仕事を速く仕上げようとするために、調査にかける時間や執筆にかける手間が少なくなってしまいがちなのに対して、サラリーで雇われているフルタイムの記者は、重要なトピックには必要なだけ時間や労力をかけることができる。また、普通の媒体ではとても考えられないような贅沢な量の時間がデータ収集や分析にあてられるだけでなく、記者は、プロパブリカの編集スタッフや、記事が掲載される媒体の編集者との協力のもと、驚異的な綿密さをもって記事の構成や流れを練り込み、文章を磨いていく、ということが、プロパブリカのウェブサイトから聞けるSheri Finkのインタビューでわかります。

紙の新聞や雑誌が次々と経営破綻を迎え、長期的な取材と深い分析にもとづいた調査報道に人材をあてられる媒体が少なくなってきているなかで、非営利組織という形態をとり、また制作コストの比較的少ないインターネットという媒体を使うことで、公共性と信頼性が高い調査報道を守っていこう、という理念がすばらしい。そして、プロパブリカのウェブサイトに掲載されている記事のほとんどは、きちんとリンクさえ掲載すれば、どこにでも無料で転載してよいことになっている。すごい!

編集長のStephen Engelbergのインタビューからは、彼はこうした形態の調査報道に大きな期待を抱いているのと同時に、きわめて現実的な視点も保っていることが明らか。つまり、このようなインターネット報道がどれほど成功したとしても、伝統的な印刷媒体によるジャーナリズムの代わりとなることはできないし、一部のネット読者層にだけ読まれるのでは真に公共性のある報道とは言えない。ゆえに、新聞や雑誌などの媒体と提携して記事を発信していくことが肝要なのだ、ということです。報道というのはそもそも公共性ゆえに意味をもつものなのだから、報道メディアを非営利組織として運営するというモデルがもっとたくさんあってもよさそうなものなのに、と思います。その点で、プロパブリカの今後の仕事を希望をもって追っていきたいと思います。

ちなみに、ピュリツァーを受賞したSheri Finkの記事は、ハリケーン・カトリナで被災した病院で、助かる見込みの少ない患者たちを安楽死させた医師たちの裁判についての、13,000ワード(本の一章ぶんくらいにもなる)の長文記事で、もとはニューヨーク・タイムズの日曜版雑誌に掲載されたものです。取材に2年半かけたというだけあって、深い考察と、人間的な描写に満ちていて、たいへん読み応えがあります。プロパブリカは「強者による弱者の搾取を明るみに出す」ということをミッションに掲げている、いわゆる「リベラル・メディア」には違いありませんが、だからといって一面的で偏った報道にならず、多角的に複雑な問題をとらえているところがエラい。もっとも新しいところでは、メキシコ湾の石油漏れについての報道がとても興味深い(というのも変か)です。

2010年5月19日水曜日

「独身」女性が「未婚」女性になるとき

辛口論評で知られるニューヨーク・タイムズの論説委員Maureen Dowdによる数日前の論説は、引退を表明したスティーブンス氏の後任としてオバマ大統領が最高裁判事に指名したエレナ・ケーガン(Elena Kagan)の表象のされかたについて。

50歳のケーガンは、議会に承認されれば、最年少の最高裁判事となり、また史上4人目の女性最高裁判事となります。ハーバード法科大学院の学部長(deanという単語を日本語では「学部長」と訳すのが一般的なようですが、ちょっと意味合いが違うんですが、まあここではその話はおいておきましょう)のあいだにカリキュラムの大幅な改革を行い、その後オバマ政権の連邦訴務長官を務めているケーガンの、法律家としての経歴や業績については、もちろんいろいろな議論があるのですが、独身である彼女がレズビアンであるという噂が流れ、本人は肯定も否定もしていないものの、その噂を打ち消すためにホワイトハウスの側が、彼女をさも「結婚できなかった女性」であるかのように描いていることに、憤怒を表した文章です。

曰く、結婚していない男性は、年齢にかかわらず「独身」という身分を堂々と名乗ることができる。年齢とともに社会的地位や財産や経験を積むにつれて、そうした独身男性は魅力を増すとも考えられる。それに対して、女性の場合は、40とか50とかいった年齢(それは「子供を産めない」年齢ということでもある)の線を超えると、「独身」ではなくて「未婚」というラベルを貼られるようになる。つまり、自らの選択で独身でいるのではなくて、女性としての魅力がなく、男性に求められないから、結婚したいのに仕方なく未婚のままでいる、と思われるようになる、と。もちろん、「セックス・アンド・ザ・シティ」のサマンサのように、セクシーでカッコいい独身女性の像というのも存在するけれども、それはあくまで例外であって、世間一般では、40や50で結婚していない女性、とくに、ちょっと太めであったり、髪型や服装のお洒落度がいまいちだったりする女性は、「独身」ではなく「未婚」というレッテルを貼られる、と。まるで、頭脳明晰で野心に燃えたケーガンが仕事に没頭し、男を見つけるのに失敗し、孤独を癒すためにますます仕事に没頭し、そして「独身」から「未婚」への境界線を超えてしまった、というかのように、そして彼女の「未婚」という立場がこのさき変わる可能性はありえない、というかのように、彼女はホワイトハウスにもメディアにも描かれている。彼女がワシントンで、オバマ時代の賢い独身男性と出会ったり、ミッシェル・オバマに素敵な男性を紹介されたり、ソトマヨール判事と一緒に独身女性のパーティを開いたり、JDate(『ドット・コム・ラヴァーズ』にもちらりと出てきますが、ユダヤ系の人々のためのオンライン・デーティング・サイト。ケーガンはユダヤ系)に登録したりして、最高裁判事という肩書きとともに新しい出会いを楽しむという話になぜならないのか、と。

そうだそうだ〜!そう考えてみると、私自身、数年前までは日本では私のことをよく知らない人には「まだ結婚しないの?」とか「結婚には興味がないの?」とかいう質問をされることがありましたが、最近はそういう質問もされなくなりました(ということに、この記事を読んで気づきました)。それは、この年齢で結婚していなかったら、もうできないだろう、という前提があるのではないでしょうか。まあ、日本ではそういった感覚が一般的だろうなとも思いますが、アメリカでもやっぱりそうか、と思うとがっくり。

2010年5月14日金曜日

6月5日(土)朝日カルチャーセンター「クライバーン・コンクールのドラマと舞台裏」

今月22日(土)に「音楽を語る会」でお話しすることはしばらく前にお伝えしました(こちらもまだ参加できますので、ご希望のかたはこちらからお申し込みください)が、その2週間後の6月5日(土)には、朝日カルチャーセンターの新宿校で、「クライバーン・コンクールのドラマと舞台裏」という公開講座をします。22日の講演では、クライバーン・コンクールの話題のほかにも、私自身の研究者としての仕事と音楽とのかかわりなどといった大きな話をするつもりですが、こちらはまるごとクライバーン・コンクールの話ですので、辻井伸行さんのファンのかたや、芸術イベントとしてのクライバーン・コンクールに興味のあるかたは、ぜひいらしてください。講座のチラシより内容紹介です。
2009年6月、ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクールでの優勝によって、辻井伸行さんが世界にはばたきました。審査員そして世界の聴衆に大きな感動を与えた辻井さんの演奏の他にも、クライバーン・コンクールにはたくさんの物語があります。歴史的視点および3週間にわたるコンクールを現地で見学した経験から、このコンクールのさまざまな顔を紹介し、現代文化におけるクラシック音楽の位置づけ、クラシック音楽におけるアジア人の位置づけ、芸術活動におけるコンクールの役割、芸術活動と地元社会の関わり、芸術と経済、芸術とメディアなどについて考えます。

日時 6月5日(土) 10:30~12:00
受講料 会員 2,940円 一般 3,570円(入会不要)
場所 新宿住友ビル7階 朝日カルチャーセンター(申し込みは4階受付)

お申し込みは、朝日カルチャーセンター新宿校 Tel: 03-3344-1945(教養科直通)
http://www.asahiculture-shinjuku.com

2010年5月13日木曜日

国際養子縁組のポリティクス

先日、特別養子縁組で血のつながっていない子ども三人を育ててきた夫婦、そして乳幼児を引き取る夫婦に焦点をあてたNHKドキュメンタリー「私の”家族”」をとても興味深く見ました。アメリカでは養子をもらうということはかなり一般的です。数は知りませんが、私の身の回りにも、自分が養子として育てられた人や、養子をもらって育てている人たちが何人もいるので、かなり一般的なことなのだと思います。それに対して、日本では、家族の事情で親戚に育てられたという人の話はたまに聞くことはあっても、まったく血のつながっていない子供を養子にするという話は周りでは聞いたことがありません。(私が推測するに、日本では「家」や「家系」というものがより重視された戦前のほうが、むしろ養子縁組は多かったのではないでしょうか。)私は、個人的にも養子については関心があるので、この番組にはとくに興味があったのですが、養子を引き取る親の気持ちや、家族のありかた、育ての親の他に生みの親がいると知って育ち思春期を迎える子供の複雑な感情などを、等身大に温かい視点から捉えていて、いい番組だと思いました。制作者が登場する人たちと相当に強い信頼関係を築けなければ、ああいう番組はできないと思うので、そうした意味でも尊敬できる番組作りでした。ただ、日本でどのくらい特別養子縁組というものが行われているのかとか、そうした斡旋をする団体はこの番組に出てくるNPOの他にどのくらいあるのかとか、そういった情報がもう少し紹介されていたらよかったのにと思います。

と思っていたところに、『ニューヨーカー』誌に、ハイチから養子をもらった著者によるエッセイが載りました。アメリカで養子をもらう家族のうちの多くは、中国や中南米(最近では東欧なども)などの海外の子供をもらいます。私の友達にも、中国から養子をもらった人が何人もいます(一人っ子政策のため、中国では生みの親に育てられない子供、とくに女の子がたくさんいるので。)このエッセイの著者と彼の妻は、すでに一人の子供がいるのですが、もう一人子供を育てよう、その子供は海外から養子としてもらおうと決め、国際養子縁組で定評のあるキリスト教系の団体を通じてしばらく前から手続きを始めていた。ハイチには以前から個人的なかかわりがあったので、もらうならハイチの子供を、と思ってはいたものの、ハイチは役所組織がきわめて複雑(フランス統治の名残らしい)なのと法的・社会的インフラが整っていないのとで、国際養子縁組のための手続きには何年もかかるのが普通で、それを覚悟で待っていたところ、ハイチ大地震が起きた。人道的救助の一環として、通常であればきわめて煩雑な手続きが簡素化され、思いがけず早くに生後12ヶ月の女の子をアメリカに連れて来ることができた。もちろん、期待よりも早く家族が一人増えたことは言葉では言い表せないくらいの喜びであるが、大地震という悲劇で現地の人々が苦しんでいるなかで、自分たちがまるで恩恵を受けたような気持ちにもなり、一連の経緯にはとても複雑な思いがある。という話なのですが、第二次大戦後にアメリカで広まった国際養子縁組というもののさまざまな力学について、考えさせられる文章です。

貧しい国の孤児院で育つよりも、豊かな社会で子供をほしがっている家族に愛されて育ったほうが、子供にとっては幸せだ、という見方ももちろんできますが、そのいっぽうで、子ども自身には選択の余地が与えられないまま、人種も言葉も文化も違う場所で育てられ、自分の生来の土地や文化とのつながりを持てないまま大人になることが、本当に幸せと言えるのか、という批判もあります。実際にそうして養子としてアメリカで育てられた人が、思春期を迎えたり成人してから生まれ故郷を訪問し、その結果がけっして幸せなものとは言えない場合もありますし、養子として育てられたことに恨みを抱くようになる人もいます。また、国際関係としても、貧しい国から豊かな国へ子供が連れて行かれるのは、人身取引のような搾取であるとの見方もできます。そうした議論をじゅうぶん認識した上で、あえて血のつながりのない海外の子供を育てようという著者の文章に、中国からの養子を育てている私の友達の姿が重なり、深く考えさせられます。家族とはなにか、子育てとはなにか、親とはなにか、アイデンティティとはなにか、そうした問いに、親も子供も日々格闘しながら「家族」の暮らしを営んでいくのでしょう。

2010年5月11日火曜日

幸せな結婚の科学

今日のニューヨーク・タイムズでもっとも多くの読者が知人にメール送信している記事というのが、「幸せな結婚の科学」という記事。それにしても、ニューヨーク・タイムズには、実に見事な頻度でこのような結婚に関する記事が掲載されます。それ自体が、アメリカ社会において結婚や家庭の占める位置を示唆しているような気がします。また、アメリカの人の多く(少なくともニューヨーク・タイムズを読むような人たちの多く)が、実に意識的に結婚生活というものについて考えているんだということが感じられます。

なんでも、最近の研究によると、安定した結婚生活を長く送る人と、長期的な「コミットメント」をするのが苦手な人とのあいだには、脳のホルモン分泌を統制する遺伝子に違いがある、とのこと。(ただしこのデータは男性の被験者のみにもとづいた結果で、女性についての調査はこれからおこなわれるそうです。)しかし、だからといって、その遺伝子をもっていない人が幸せな結婚ができないかというとそんなことはなく、コミットメントというのは訓練によって身につけられるそうです。恋愛や結婚にコミットしている人は、自分のパートナー以外の魅力的な男性や女性が身近に現れても誘惑に惑わされにくい。しかしまた、ここで興味深いのが、男性と女性のあいだでは誘惑に対する反応に違いがあり、男性よりも女性のほうが、現在自分がもっている関係を脅かすような状況や人物が出現すると、それに敏感に反応する、とのことです。つまり、女性のほうが、結婚や恋愛を脅かすものに対して、より早期に気づいて反応するシステムを身につけているらしい。むむむ。

さらに興味深いのは、お互い強いコミットメントを抱いているカップルにとって、そのコミットメントとは、必ずしもお互いへの愛情とか忠誠心といったものからのみ生まれるものではないらしい、ということ(これはデータから導き出された結論というよりも、推論らしい)。むしろ、夫婦間の絆を強めるのに大事なのは、相手と一緒にいることによって、刺激的な経験ができ、自分の世界が広がり、よりよい人間になるという気持ちになれる、とお互い感じられることだ、ということです。ある実験によると、なにかの課題に一緒に取り組み、困難を乗り越えて最終的に目標を達成したカップルは、そうした経験を共有していないカップルよりも、お互いへの愛情や満足度が高くなる、との結果が出たそうです。まあそりゃあそうだろう、という気もしますが、ポイントとしては、夫婦や恋愛の絆を強化しようと思ったら、なにごともなく平穏に日々を過ごそうとするよりも、あえて二人で一緒に難しいことにチャレンジして、努力や達成感を共有することで二人の関係に刺激を与えることのほうが大事、ということらしいです。ふむふむ。確かに、その人と一緒にいることで、自分がよい自分でいられる、そしてさらによい人間になろうという気持ちにさせられる、ということはとても大事ですね。お互いへの愛情はとてもたくさんあるのに、なぜか一緒にいるといがみ合ってばかりいて、自分の嫌なところばかりが出てきてしまう、という相手もいるのに対して、この人と一緒にいるときの自分はよい自分である、一緒にいることでお互いのよいところを引き出し合える、と思える相手もいます。それはもう相性とか「ケミストリー」という言葉でしか表現できないものなのかもしれません。

ちなみに、「コミットメント」をはじめとして、この記事に出てくる表現の多くは、来月新潮新書から発売になる私の新著『性愛英語の基礎知識』を読むとよくわかります。(笑)これは『新潮45』に連載していたエッセイをまとめ加筆したものです。発売の頃にまた宣伝いたしますが、その予習としてこの記事を読んでみるといいかもしれません。(笑)

2010年5月8日土曜日

とびきりのゴールデンウィーク




普段ハワイに住んでいる私は、春が来る、暖かくなるということのありがたみを、しばらく忘れていました。勇気を奮い立たせることなくジョギングや散歩に行けるというのは、本当に素晴らしいことですねえ。

ゴールデンウィークは全国的に天気に恵まれたようですが、私は実にとびきりの連休を過ごしました。前半は原稿整理でしたが、まず5月2日には、ラフォルジュルネに行って竹澤恭子さんの演奏を聴きました。ラフォルジュルネについては噂は聞いていたし、『クラシックの音楽祭がなぜ100万人を集めたのか ~ラ・フォル・ジュルネの奇跡~』も読んだので、催しとして興味を持っていたのですが、いつもはその時期に日本にいないので、実際に足を運んだのは今回が初めてでした。もっとたくさん演奏を聴きたかったのですが、私がカンボジアに行っているあいだに前売券はほとんど売り切れてしまっていて、今年はひとつのコンサートに行くだけとなりましたが、なるほどイベントとしてはとても面白い企画だと思いました。単純に言って、クラシック音楽のイベントにあれだけの人を集められるのは確かにすごい。それに、子供を連れて来られるというのも、子供を生演奏に触れさせるという意味でも、普段は子育てで忙しくてコンサートに行きたくても行けない親にその機会を与えるという意味でも、とてもよい。45分というコンサートの長さも、熱心なファンにはちょっと物足りなくても、クラシックの演奏会に行き慣れていない人にはちょうどいいし、コンサートのハシゴをするにもよい。それと同時に、東京国際フォーラムという立地条件とゴールデンウィークの集客力があるのだったら、もっといろんなことができる可能性を秘めているだろうとも思いました。来年もこの時期には日本にいることになりそうなので、次回は取材をさせていただこうかと考えています。

そしてその後の3日間は、兵庫県豊岡市但東町に行ってきました。大学の同級生が、そこで自給自足の生活を目指して農業をしているというので、いったいどんな生活なのか、友達ふたりと一緒に見に行ってきたのです。その同級生は、大学卒業後は普通のサラリーマン(勤務先は政府系機関だったので、「会社員」とはちょっと違うものの、スーツを着てオフィスに通うサラリーマン)をしていたのですが、思うところあって仕事を辞め、造園業の修業に入り、数年後には家族とともに今の場所に住むことを決め、今ではときどき樹木医の仕事をしながら農業をしています。冬は寒さと雪の厳しい過疎の町(一番近い駅までは車で40分)で、天候や、せっかく作った作物を荒らして食べてしまう鹿やイノシシと闘いながらの生活は、決して楽しいといったものではないようで、そういう暮らしに勝手にロマンを感じる都会の人間は実に愚かだというのが感じられますが、それでも、いわゆるメインストリームの生き方と訣別して、自分が正しいと思う生き方を貫いている姿には頭が下がります。彼のような生き方は誰にでもできるものでもないし、誰もがそうした生活を目指すべきだとは思いませんが、彼にとってそれが大事なのと同じくらい、自分が人生において大事だと思うものはなにかということを、今一度考えてみよう、という気持ちにはさせられます。そしてまた、彼の家族の姿、とくに今年小学一年生の長男の、感動的なまでにまっすぐな育ち方(天真爛漫で明るく大人とも楽しくよくしゃべるいっぽうで、よくしつけられていて大人同士がしゃべっているときには邪魔をせずおとなしくしているし、じっくり集中してものごとを考えることが好きだし、論理的に考えて言いたいことをきちんと言葉で伝えることができる、本当に素晴らしい子です)が、彼の選んだ生き方の正しさを物語っていると思いました。彼に連れて行ってもらって見たコウノトリや天の橋立もとてもよかったけれど、そんなことよりなにより、彼の生活ぶりを垣間みて、彼の家族と時間を過ごすことができたことで、自分の人生が豊かになった気がします。その家族の様子を写真でお伝えしたいところですが、せっかくそういう生活を選んでいる人たちの顔をこうした場で公開するのは不適切だと思うので、家と田畑(今年はまだ田植えが始まっていないのでまだなにもないですが)、そして山菜採りとタケノコ堀りに行く後ろ姿だけ、お楽しみください。「鶴瓶の家族に乾杯」のような雰囲気でしょう。