2013年12月21日土曜日

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』および『ドット・コム・ラヴァーズ』書評・感想文募集!

私は今学期、学部長代理という役を務めていたのですが、昨日の教員会議をもってようやくだいたいの仕事は終わり、月曜日に書類処理を終え、冬休み中にいくつかの業務をメールでやりとりすれば、晴れてお役目終了となります。やれやれ、実に疲れる一学期でした。こういう役につくと、組織として日常的にこなさなければいけない諸々の事務作業に加えて、なぜよりにもよって今こういうことが起きるんだ、といった類の「問題」が次々と浮上し、その危機管理に心身を消耗します。なぜか今学期はとくべつそういった危機が多かったような気がしますが、もしかすると、自分が学部長でないときは知らないだけで、いつの学期にもこういうことが起こっているのかもしれません。ともかく、学部が崩壊することなく学期の終わりを迎えられそうなことに感謝。

さて、まるで関係ないですが、ふと思い立って、拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』および『ドット・コム・ラヴァーズ―ネットで出会うアメリカの女と男 』についての、書評・感想文コンクールを著者みずから主催することにいたしました。

自分の本が新聞や雑誌に紹介されたり、ウェブサイトやブログに書評を書いてくださるかたがいたり、知人友人そしてときには未知のかたがメールやフェースブックを通じて感想を送ってくれたりするようになって、本の読みかたというのは本当に人さまざまなんだなあということを、深く実感するようになりました。書評や感想を読むと、どういうポイントに読者が反応するのかがわかるだけでなく、著者が意図していなかったものを読者が感じ取ったり考えたりしているのを知ったり、読者からの疑問・質問から多くのことを学んだりします。また、「ああ、自分ではこういうことを伝えようとしたつもりだったんだけど、あの書き方ではいまいち伝わっていなかったんだな」とか、「そうか、あのあたりが書き足りなかったんだな」とか、反省点も見えてきます。なにより、自分の本をきちんと読んで、わざわざ時間を割いて感想を文章にしてくださる読者、それをいろいろな媒体に載せて他の人たちとシェアしてくださるかたがたがいる、というのが、著者としてはなによりありがたく、読者の反応をそのように手応えとして感じられるのが嬉しいのです。というわけで、10月発売になった『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』および、2007年発売の『ドット・コム・ラヴァーズ』について、書評・感想文を募集いたします。(ちなみに、『ドット・コム・ラヴァーズ』は現在の在庫がなくなったら増刷にはならないそうです。(泣)今ならまだ手に入りますので、どうぞお早めにお求めください。)募集要項は以下のとおりです。

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』または『ドット・コム・ラヴァーズ』の書評・感想文(両部門への応募ももちろん歓迎です)

形式自由・字数制限なし (すでにブログなどで書評や感想文を書いてくださっているかたの文章も対象内といたします。その場合は、文章のファイルやリンクをお送りください。その場合は他薦も可です。)

審査は、本の理解が核心を突いている・なにが面白かったか、なにに驚いたか、なにを学んだかなどを具体的に説明している・鋭い疑問や批判を提示している・本の内容に新しい視点をもたらす・読者自身の感じ方を素直に記述している、などなど、複数の基準や視点を組み合わせておこないます。審査員は著者のこのワタクシひとりです。ひとつ強調しておきたいのは、著者が審査員だからといって、本をほめればよいというものではない、ということです。本が気に入ったのであれば、どこがどう面白かったのかを具体的に書いていただければもちろん嬉しいですが、よい書評・感想文、とくに著者にとってもっとも勉強になる書評・感想文というのは、著者に考える題材を与えてくれるような文章です。本を痛烈に批判した文章でも、批判が的を得たものであれば、漫然とほめた書評よりも著者にとってはずっとありがたいものです。なにより重要なのは、読者が感じたこと・考えたことを素直に表現してあることです。

トップ受賞者の書評・感想文は、このブログで紹介させていただき、その書評・感想文へのコメントをワタクシが書かせていただきます。副賞は以下のとおり。

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?』部門

受賞者の居住地で受賞から1年以内に開催される、著者オススメの「アジア人」音楽家による演奏会のチケットを2枚差し上げます。ただし、受賞者の居住地によってはこれが不可能な場合もあるので、その場合は、本に登場する「アジア人」音楽家のアルバムを著者が5枚厳選してプレゼントいたします。

『ドット・コム・ラヴァーズ』部門

著者みずからが受賞者を「デート」にお連れいたします。ただし、著者はホノルル在住、日本への帰国はほぼ一年に数週間ですので、有効期限は無期限、実現可能なときに世界のどこかで、ということにいたします。ご了承ください。

応募締切 2014年2月28日(金)
応募先 件名に「書評・感想文コンクール応募」と明記の上、メールの添付ファイルとしてmyoshiha@hawaii.eduまでお送りください。
結果発表 2014年3月中旬 このブログにて

ふるってのご応募を楽しみにしております。


2013年12月16日月曜日

American Studies Association, 対イスラエル学術ボイコット決議を採択

私が所属するおもな学会であるAmerican Studies Association (2014年7月からは、この学会の学術誌であるAmerican Quarterlyの編集本部がわがハワイ大学にくることになり、なんと最初の5年間は私が編集長を務めます)が、対イスラエル学術ボイコット決議を採択し、世界的に大きな話題を呼んでいます。今日のニューヨーク・タイムズはこの話題をトップ記事で取り上げています。American Studies Associationがニューヨーク・タイムズのトップ紙面で扱われるなどということは、史上初めてのことだと思われます。対イスラエルのボイコットという、ひじょうに複雑な問題が、アメリカにおいて、そして世界においてもつ意味の大きさを示唆しています。

「対イスラエル学術ボイコット」とはなにか?ひじょうに複雑なこの問題を一言で説明するのは難しいのですが、要は、イスラエル占領下のパレスチナ人研究者や学生たちが、学問の自由や基本的人権を侵害され、イスラエルの大学ではパレスチナ人研究者や学生がさまざまな差別を受けていることなどから、人種差別や植民地主義などを批判的に研究・議論しあらゆる形の社会正義を提唱するアメリカ学会は、パレスチナ人の迫害に加担しているイスラエルの大学や学術団体などと組織的レベルでの交流を拒否する、と表明するものです。ただ、この一文では説明しきれない要素がたくさんあるので、実際の文面をこちらでごらんください。

このボイコット決議が学会会員全員の投票に委ねられるまでの数ヶ月、学会の内外でひじょうに大きな議論が繰り広げられました。ボイコット決議は、ちょうど一年前に、学会内のAcademic and Community Activism Caucusという部会が、役員会に検討を申請したことから始まりました。部会が役員会に申請した決議は、内容にかかわらず役員会で検討すると学会の規約で決められており、規約にしたがって役員会は提出された決議の内容を丁寧に議論してきました。その過程で、決議に反対する会員たちが強い抗議を表明し、ボイコット反対の署名運動を繰り広げたり、高等教育全体にかかわる話題をカバーするChronicle of Higher Educationという媒体で名の知れたブロガーがボイコット決議を強く批判する記事を投稿(その後、このブロガーは修正された決議の文面を読み、この決議をめぐって学会がとってきた手続きなどを知って、立場を変更、決議を支持する投票をしています)したりしたことで、この話題は当学会の外にも大きく広がっていきました。決議に反対する人たちのなかには、検討されているボイコットの具体的な内容や、決議の文面を実際に読まずに、「イスラエルに対するボイコット」という行為に抗議している人も少なくないことが、抗議の内容から明らかでしたが、決議の文面を熟読した上で、パレスチナ人研究者や学生の学問の自由や基本的人権を支持するという理念には賛同するものの、ボイコット決議には反対する、という人もたくさんいました。ボイコットに反対する人たちのなかには、「イスラエル一国をとりあげてボイコットのような制裁措置をとるのは、反セミティズムである」「特定の国の大学や学術団体との交流をボイコットするのは、相手国だけでなくアメリカを拠点とする研究者の学問の自由を侵害するものである」「アメリカ学会とは学術団体であって政治団体や思想団体ではなく、このような問題についてボイコットといった立場を表明するのは組織の主旨に反する」といった意見から反対する人もいましたが、「イスラエルの大学には、イスラエル国家の対パレスチナ政策に強い批判をする研究者も数多くいるなかで、そうした人たちを敵にまわしイスラエルの大学や学者たちとの交流を阻止するのは、パレスチナ支持という目的のむしろ妨げとなるものである」「アメリカ政府がイスラエルに対して巨大な軍事的・経済的支援を続けているなかで、アメリカ学会が自国の政策を棚に上げてイスラエル、しかもイスラエルの学術団体を批判するのは偽善的である」などという意見から決議に反対する人も少なくありませんでした。(注:この段階での議論は、もともと部会から提出された決議の文面にもとづいたもので、以下説明するように、今回会員の投票にふされた実際の決議の文面は、こうした意見をふまえてかなりの修正を加えたものになっています。)そのいっぽうで、さまざまな立場からボイコットを支持する研究者や学生たちも、インターネットをはじめとする多くの場で次々と発言を重ね、議論が白熱していきました。世界各地で展開されるBDS運動(イスラエルの対パレスチナ政策への抗議として、イスラエルに対しボイコット・投資接収・制裁措置をとる運動)の一部として、国際的に話題も広がっていきました。

こうした議論を受けて、学会役員会は、私も参加した先月11月ワシントンで開催された年次大会で、この決議についてじっくりと議論し(学会誌の次期編集長という立場で、私は投票権はないものの役員会には出席しました)、この決議についてさまざまな視点から議論するフォーラムを4日間の学会のあいだに3回主催し、そのうちのひとつは、会員誰でも発言権をもつオープンフォーラム。このフォーラムが真に「オープン」であらゆる立場の人が自由にそして平等に発言できるものになるよう、さまざまな配慮や工夫がなされました。(発言したい人はフォーラム開始前に紙に名前を書いて箱に入れ、進行役がその箱のなかからランダムに名前を抽出する。発言者はみな一様に2分間以内の発言をする。などなど。)私はこのオープンフォーラムは最後の15分ほどしか出席できなかったのですが、そこでの発言や聴衆の態度をみるかぎりは、発言者はみなとても思慮深く、知的で、建設的でかつ情熱に満ちた発言をし(とくに大学院生による勇気ある発言が感動的でした)、聴衆はすべての発言に集中して耳を傾け、中傷・嘲笑・妨害などの行為はまるでなく、きわめて民度の高い議論だと思いました。私が実際に聞いた発言は、ボイコットを支持するものばかりでしたが、後から聞いたところによると、このフォーラムでは決議に反対する人による強い発言もあったものの、発言した人たちの圧倒的多数は決議賛成の立場の人たちだったそうです。

そして、このオープンフォーラムの翌日、役員会はふたたび会議を開き(これには私は不参加)、これまでの議論やフォーラムでの会員たちの発言をふまえて、次のステップを検討。その日2時間の会議では決定に至らず、結局、役員たちがそれぞれの拠点に散らばって行った後で数週間にわたり、メールや電話会議で審議が続けられたそうです。そして、それまでに寄せられたさまざまな意見をふまえた上で、決議の文面を修正し、決議採択の是非を会員全員の投票に付す、という決定が役員会全会一致でなされました。そして、投票した1252人の会員のうち66%が賛成、30.5%が反対、3.43%が棄権という、いわゆる「地滑り」的結果で、決議が採択されました。

人文・社会科学系の学会がこうした決議についてこれだけ白熱した議論を重ねるという状況、そして、この問題がアメリカ社会でどれだけ緊迫した議論を呼ぶかということは、なかなか日本ではわかりにくいかもしれません。私は、今回の決議は、とくに修正された文章は、歴史・政治・軍事などを専門とする研究者たちが各方面からの視点や意見を丁寧に検討した上で草案されたことが明らかな、立派な決議だと思います。私も決議を支持する投票をしました。ですから、決議が採択されてよかったと思いますが、それ以上に、私がもっとも強い帰属意識をもっているこの学会において、こうしたとても複雑な問題について、あらゆる立場の意見にきちんと耳を傾け、丁寧な議論を重ね、規約に沿った手続きを踏んで、民主的な方法でこの決議に至ったということに、一種の感動を覚えます。

学会のサイトで、決議にかんする情報や、この問題にかんしてのさまざまな人々の発言が読めますので、興味のあるかたはぜひ読んでみてください。いろいろな点で勉強になります。

2013年11月9日土曜日

同性婚法案、ハワイ州議会上下両院を通過

ここ数週間ハワイで最大の話題になっていたのが、州議会の特別会期で審議されているSB1同性婚法案。結果からいうと、昨晩、下院で審議されていた法案が30対19で通過し、すでに法案を通過させた上院と修正案などの具体点をめぐる交渉が来週なされ、正式に同性婚が可能になる模様です。

数年前に、法的な結婚とは違うものの同様のさまざまな権利や保護を同性同士のカップルに付与するシヴィル・ユニオンがハワイで制度化されたことはこのブログでも報告しましたが、これはシヴィル・ユニオンではカバーされない領域を含む、異性者同士の結婚と同じ「結婚」を同性者にも可能にするものです。ここ数年間で、アメリカ全体における同性愛をめぐる世論は確実に変化し、同性婚を認める州も次々に出てきていますが、ハワイでも同様。州議会のリーダーたちが同性婚を支持するようになってきたこと、また、Neil Abercrombie州知事が支持を表明していることから、州議会の特別会期が開催され、上院で提出された法案は難なく通過、その後、先週から下院で審議がされていました。この際、委員会の公聴会で、一般市民が証言をする機会を与えられたことから、何千人という市民が計50時間以上(ひとりに与えられる時間は2分間)にわたって議員たちの前で証言をしました。私は意見文を書面で提出しただけで実際に証言はしませんでしたが、私の友人や学生のなかにも、何時間も自分の順番を待って発言した人たちが何人もいます。

特別会期開催が決まった頃から、法案自体は通過がほぼ確実といわれていたものの、一般市民の証言の実況中継をネットでしばらく見ていると、ふだんの生活のなかでは浮上しない分裂が浮き彫りになり、とても暗い気持ちになりました。法案を支持するさまざまな人々(自身が同性愛者であるという人ももちろんたくさんいますが、そうでない人もたくさん証言しました)が、権利の平等を主張するいっぽうで、反対派の人々(そのほとんどが一部の保守キリスト教団体に属する人々)は、同性愛は神の意思や自然の摂理に反するもので、同性愛者に結婚を許すことは家族という形態ひいては社会全体の崩壊につながる、と説く。数年前のシヴィル・ユニオンの議論のときと比べると、同性愛を小児愛症や屍姦症などと結びつけて憎悪に満ちた攻撃をするといった類の発言は減り、むしろ、「私は同性愛者の同胞にも愛情をもっています。でもだからといって同性愛者の人たちが結婚するべきかというと、それは間違っています。結婚というのは男性と女性のあいだでなされるものです」という種類の証言が続きました。また、州議事堂の前には連日法案反対派の人たちがたくさん集まって道ゆく車に向かってLet the People Decide、つまり、この問題は議会での投票ではなく住民の直接投票によって決定されるべき、というプラカードを掲げていました。

昨日は朝から夜遅くまで州議事堂のまわり法案に賛成する人々・反対する人々の両方が多数集まり、私も午後1時間ほど行ってきました。





支持派は、ゲイ・プライドの象徴である虹色のカラフルな旗を振り回し、人々は虹色のレイを首にかけ、ポップな音楽を大音量でかけて、道行く車に向かって大きく手を振り声をかけながら歌ったり踊ったりして、一大パーティのようでした。

反対派ももちろん数多く集まって、審議がおこなわれている議事堂のなかにむかって抗議の意を表明していましたが、この日はレインボーカラーの元気に押され気味だった模様。この後、法案が正式に成立し、ハワイが同性婚を認める第16の州となれば、さらなる抵抗があるでしょうが、同性愛をめぐる感性や世論が徐々に変化していることは確実。

キリスト教の教義を主張して法案に反対する人々に向けた、Kaniela Ing議員の発言がとても立派だったので、以下紹介しておきます。

2013年10月24日木曜日

『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?—人種・ジェンダー・文化資本』本日発売!

拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか?──人種・ジェンダー・文化資本』が本日発売になりました!

小澤征爾、ヨーヨー・マ、内田光子、チョン・キョンフア、五嶋みどり、ラン・ランをはじめとする数多くの「アジア人」が西洋音楽の分野で世界的な活躍をするようになったのはなぜか。音楽と人種・性・社会階層にはどのような関係があるのか。音楽的・文化的アイデンティティとはなにか。「アジア人」音楽家たちはクラシック音楽をどのように体験しているのか。そうした問いを、歴史史料および民族誌的フィールドワークを通じて分析したものです。

この本は、もとはMusicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicというタイトルで、英文で出版したものを、日本の一般読者に向けて、私自身が翻訳したものです。自分が書いた英語を、自分の母語である日本語に訳すのだから、そんなに難しいことはあるまいと思ってのぞんだのですが、この翻訳の作業は、想像をはるかに超えたチャレンジでした。学術的な英語を一般読者のための日本語に訳すという実際的な問題もたくさんありましたが、もっと本質的な次元で、そもそも自分が設定した問いや議論の枠組みが、いかにアメリカ的なものであるかを、翻訳しながら痛感しました。「アイデンティティ」という単語がやたらと飛び交い、人種やジェンダーといったカテゴリーが軸になっている分析は、日本の読者にはピンとこない部分もあるかもしれません。でも、そうした前提や議論の違いを日本の読者に感じ取っていただくことも、意味のあることだと思っています。なるべく読みやすくわかりやすい文章にするため、日本の読者に向けて説明や修正を加えたり、高度に特化した学術議論は削除したりしました。また、クラシック音楽そのものに興味のある読者以外にも考える素材を提供するような本作りを心がけました。少しでも多くの読者に読んでいただけたら幸いです。

私が心から敬愛する水村美苗さんが、帯にとても素敵な推薦文を書いてくださいました。感謝感激です。



もとの研究を始めた2003年頃から続いてきた多くの音楽家たちとの交流や、私自身のピアノとのかかわりも、いろいろな形でこの本の一部となっています。本書に登場する音楽家たちの一部は、私のウェブサイトリンクページで紹介していますので、興味をもったかたはぜひ彼ら・彼女たちの音楽をのぞいてみてください!

2013年10月22日火曜日

11/9(土)佐藤康子二十五絃箏コンサート

何度かこのブログでも紹介している、私の親友の佐藤康子さんの二十五絃箏コンサートが11月9日(土)にあります。年に一度コンサートも今回ですでに7回目。毎度、私が日本にいない時期なのでみずからコンサートを体験できないのが無念でたまりませんが、彼女を通じて、邦楽にまるで馴染みがなかった私も、二十五絃箏という楽器のスゴさを少し知るようになりました。正直言って、「お箏」というと、お嬢様のたしなみごと、という程度のイメージしか抱いていなかったのですが、彼女の音楽は、そういう先入観を粉みじんに(といった単語がふさわしいくらいの強烈さ)打ち破ってくれます。迫力、鮮やかさ、哀しさ、強さ、優しさ、深み、伸び、などなど、それはそれは多くの音の感覚を体験できます。88の鍵とペダルでも平板な音しか出せずにへこんでいる私としては、たった二十五本の絃でこれだけの多様な世界を生み出す楽器そして演奏者に舌を巻くばかり。まだチケットが若干残っているようですので、みなさまぜひどうぞ。

11月9日(土)18:00開演
自由学園明日館ホール
前売り券 2,500円 当日券 3,000円
お問い合わせメール  contact@satoyasuko-koto.com

私の言葉だけでは伝わらないかもしれないので、演奏の動画をひとつだけご紹介しておきます。

2013年10月20日日曜日

ウェブサイト全面リニューアル

25日の新刊発売(これについては発売日にまた宣伝いたします)に合わせて、ちょっと古ぼけた感じになってきていたワタクシのウェブサイトを、全面的にリニューアルいたしました。コンテンツはこれまでとそれほど変わらないのですが、デザインが変わるとずいぶんと印象が違うものです。全ページで使っている木の年輪の模様は、5月にピアノのリサイタルをしたときに、グラフィックデザイナーの友達が作ってくれたチラシに使われた模様にヒントを得たものです。ぱっと見ると花かと思うけれど花ではなく年輪、というのがミソ。歪んだりヒビが入ったりもするけれど、年を重ねるごとに大きくたくましく成長していることを刻む年輪。その模様に、知的でもありエネルギッシュでもある色合いを重ねました。


これまでのウェブサイトと同様、このサイトをデザイン・制作してくれたのは、私の中学高校時代からの親友。私はこだわりのあることに関してはとにかくしつこく細かくうるさいので(他のことにかんしてはきわめて大雑把なのですが)、親友でなかったらさぞかし嫌がられただろうと思うくらい、連日ああでもないこうでもないと注文のメールを送り続け、別の国に住んでいるとは思えない密な連絡が何週間も続きました。彼女が気持ちよく辛抱強くそうした注文に耳を傾け、こちらの意図することを大小すべて汲み取り実現してくれたおかげで、私自身が隅々まで「これぞ私だ!」いや、少なくとも、「これぞ私が目指す私だ!」と思うようなサイトが出来上がりました。私自身が見ていて「よし、頑張るぞ〜!」という気持ちになるサイトです。どうぞごらんください。



2013年10月19日土曜日

報道スキャンダルから新聞ジャーナリズムの倫理を問う『A Fragile Trust』

昨日も引き続きハワイ国際映画祭(毎年とてもいい作品がたくさん集まる映画祭なのですが、時期的に忙しくて行けないことが多いので、1、2本でも観られると得した気分になります)に出かけ、A Fragile Trustという映画を観てきました。先日のDOCUMENTEDとならんで、こちらもドキュメンタリー。元ニューヨーク・タイムズの記者Jayson Blairが、多くの報道において盗用や捏造を重ねていたということが2003年に発覚し、 Blair本人の辞職にとどまらず、ニューヨーク・タイムズの信頼性を大きく揺るがすことになり、上層部の編集・経営責任者の辞任にも至るという、ジャーナリズム史に残る大スキャンダルがありましたが、その事件を追った作品。スキャンダルを通じて、組織としてのニューヨーク・タイムズ社の体質、2001年のテロ事件後の報道のありかた、紙媒体からデジタル媒体への移行が進むなかでの新聞の役割、ジャーナリズムにおける人種関係(Blairはアフリカ系アメリカ人)、精神疾患やアルコール・薬物依存の取り扱いなど、さまざまな視点から、Blairを悪質な行為に導いた要因を探っています。私は、事件のほとぼりが冷めてからはとくに注目していなかったので、ニューヨーク・タイムズというプレッシャーの高い職場でのストレス、とくに2001年テロ事件以後の、ジャーナリストにとって精神的にも身体的にも非常に大きな負担を課した環境のなかで、もともと躁鬱病の要素をもっていたBlairがどんどんと精神を病み、アルコールやコカインにはまって崩壊していった、ということは知りませんでした。また、このような形の盗用や捏造が生まれる背景には、現代の報道活動の形態、そしてとくにデジタル化がもたらす情報の変化によって、ジャーナリズムのありかたが大きく変わってきている、という文脈があることもよく伝わってきました。

映画のタイトルはA Fragile Trust、つまり、「もろい信頼」。ジャーナリストが記事を書くためには、取材相手の信頼をとりつけなければならず、しかし、取材にあてられるごく限られた時間のなかでは、そうやってできる信頼はごくもろいものでしかない、という意味が込められています。が、映画上映後の質疑応答の時間の監督の話を聞いて、この「もろい信頼」とは、取材相手がジャーナリストに向ける信頼のことだけではないのだ、ということがわかりました。この映画では、Blair本人とも何回もインタビューを重ね、彼自身による事件の説明も重要な一部となっています。が、彼の話を聞いても、聴衆は、彼に対して一種の同情は生まれても、共感を抱くことはほとんどなく、最後まで彼は、「信頼できる語り手」にはならない。自らジャーナリストである監督のSamantha Grantは、取材相手をじゅうぶんに信頼できない、という状況のなかでドキュメンタリー映画を作ることの困難について語っていましたが、そう考えると、この「もろい信頼」とは、ジャーナリストが被取材者に託す信頼のことでもあるわけです。もちろん、Blairはきわめて極端な例ではありますが、どんな報道においても、ジャーナリスト(研究者もそうです)は取材相手がつねに100パーセントの「真実」を語るわけではない、という前提のもとで、データの収集・分析や記事の執筆をしなければいけない。そうした意味で、ジャーナリズムという行為の複雑さを垣間みさせてくれる映画でもありました。

私は、2003年から2004年、つまりこの一連の騒ぎの最中にニューヨークに住んでいたのですが、なんと、ニューヨークの地下鉄で目の前にBlairが座っていたことがあります。ちょうど盗用・捏造が発覚してニューヨーク・タイムズを辞職し、大スキャンダルとなって、テレビなどで連日顔が出ていたときだったので、彼だとすぐわかったのですが、彼はそのとき地下鉄に座って、自分の(事件が発覚してまもなく、彼は自分の立場からこのスキャンダルについて語る本を出版しました)をじーっと読みふけっていました。もちろん、自分が書いたものが物理的な本として出来上がってから、それを新たな目で読み直してみる、ということは著者としてはいくらでもあることですが、彼をめぐるスキャンダルの性質上、「自分の本をそんなに珍しげに読みふけるということは、もしかするとその本も本当は自分で書いたんじゃないのでは?」という疑問が頭に浮かんだのを覚えています。

2013年10月18日金曜日

「非合法移民」の意味を追求する映画、DOCUMENTED

昨晩、現在開催中のハワイ国際映画祭の目玉のひとつとして上映された、DOCUMENTEDという映画を観て、その後この映画の主演・制作をつとめるJosé Antonio Vargasを囲んでのレセプションに参加してきました。たいへん考えさせられることの多い、インパクトの強い映画でした。

この映画は、Vargasみずからの生い立ちや家族の物語を通して、アメリカの移民制度、とくに「非合法移民」の扱いの問題点を追求するとともに、「アメリカ人」とはなにかを問うドキュメンタリー。Vargasは、アメリカに移住した祖父母に呼び寄せられて、非合法な米国入国を斡旋する業者のはからいで、12歳のときに単身フィリピンから渡米。子供ゆえ、自分の渡米の意味や法的な立場を理解するよしもなく、祖父母のもとで暮らしながらカリフォルニアでの生活に順応し、学校では成績優秀であらゆる課外活動で活躍する人気者となっていった。16歳のときに、自分が「非合法移民」であることを知った彼は、彼を応援する周囲の大人たちの支援のもとで、自分の夢を追求しながらアメリカ社会の一員として暮らしていく道を探るようになる。好奇心旺盛でさまざまな相手に「厄介な質問」をするのが好きだった彼は、大学ではジャーナリズムを専攻し、卒業後、ワシントン・ポストなどの一流メディアで報道にあたり、ピュリツアー賞も受賞するエリート記者のひとりとして活躍するようになったものの、それぞれの仕事の雇用の際、国籍・米国滞在資格については「アメリカ市民」と記入しながら、いつ事実が発覚して国外退去処分になるかとハラハラしながら10年以上暮らしていた。

さまざまな州での非合法移民の扱いや、連邦政府の移民法をめぐる議論が高まるなか、彼は2011年に自分が「非合法移民」であることを公開することを決意。高校の授業の最中に自分がゲイであることを告白した彼にとっては、2度目の「カミング・アウト」であったが、今度は、全国ネットのテレビ番組ですでに著名なジャーナリストとなった彼が「非合法移民」であるという事実を公開したことで、非常に大きな反響を呼ぶこととなった。自分の物語を通じて、移民法改正の議論に携わる政治家はもちろん、日常生活のさまざまな側面で非合法移民とかかわる一般の「アメリカ人」たちに、移民法のありかたについて考えてもらうきっかけを作ろうと、Vargasは、その後、自分の生い立ちについての長文記事をニューヨーク・タイムズで発表したり、各種メディアに出演したり、保守派の有力な地域で講演をおこなったりしながら、その様子をみずからドキュメンタリー映画として追っていく。その過程で、現在約1100万人と想定されるアメリカの「非合法移民」たちがその立場におかれるようになった経緯や生活ぶり、現行のアメリカ移民法の複雑さ、アメリカのさまざまな地域における人種をめぐる議論などが、多面的に映し出されます。そして、Vargasがフィリピンを離れてから20年間顔を合わせていない母親(本来は、息子を追って渡米する計画だったのが、移民ビザはもちろん、帰国資金が証明できないため観光ビザすら入手できず、フィリピンに残ったまま20年間が経過。渡米後数年間はVargasは母親と頻繁に文通をしていたものの、自分のアメリカでの立場に向き合うにつれ、そのような形で自分をアメリカに送り出した母親に対して冷たい気持ちを抱くようになった彼は、その後連絡を絶ち、ジャーナリストとして名を成してから母親がフェースブックで友達申請をしてきても拒否していた)とスカイプで対面するシーンには、とりわけ多くのことを考えさせられます。

「非合法移民」としてアメリカに居住する人々は、世界各地から来ているものの、とくにフィリピンは、米国植民地の歴史、マルコス政権期の政治経済体制、現在の経済状況などさまざまな要因で、とくにアメリカへの合法・非合法の移民を非常に多く送り出してきており、夫婦や親子が10年以上も離ればなれで暮らすことも珍しくありません。とくにアメリカや香港などでの家事労働者として働く女性たちは、自分の子供をフィリピンに置いたまま何年間も他人の子供の世話をすることで、フィリピンの家族を養うというケースが非常に多くなっています。こうした家族形態を生むグローバルな経済不均衡のなかで、人々がどのような経緯で、どのような思いで国境を越え、アメリカでどのような暮らしを送り、「アメリカ人」からどのような扱いや視線を受けているのか、「非合法」な人たちが「合法」な立場を手に入れることがなぜできないかが、生身の形で伝わってくる映画です。

上映後のレセプションでは、Vargasおよび司会者の意向で、参加者全員「移民」をめぐる話をtシェアし、さまざまな物語が交わされました。サモアやメキシコから非合法移民として入国して10数年がたつという人たちや、合法的な移民でありながらもアメリカ国籍に帰化する手続きに15年かかっているという原始物理学者を母親にもつという人の話を聞きながら、ハワイという、移民とその子孫が人口の大多数を占めている場所でも、現在移民法によってさまざまな形の差別が存在し、それと同時に合法的にこの土地で暮らしている人たちがそうした非合法な人たちの労働に依存している、という状況を、改めて実感しました。

「移民」とくに「非合法移民」というカテゴリーそのものが身近でない多くの日本の人たちに是非みてもらいたい作品です。

2013年9月29日日曜日

海を渡るキティちゃんの「ピンク・グローバリゼーション」

あるジェンダー研究の学術誌に書評を頼まれて読んだのが、ハワイ大学の同僚Christine R. Yanoによる、Pink Globalization: Hello Kitty's Trek Across the Pacific。その名のとおり、ハロー・キティの世界的な人気の意味を探る、文化人類学そしてカルチュラル・スタディーズの手法を使った研究。私は小学生の頃はキティちゃんを可愛いと思ったけれど、今ではむしろ不気味に感じるし、大のおとながキティちゃんグッズを持っているのを目撃すると、まったく大きなお世話ながら「アホかいな」という気持ちにすらなる。こういう子供向けのキャラクターが、銀行の通帳だの飛行機の機体だのについているのを見ると、腹立たしくすらなる、というのが正直なところ。で、いくら研究書とはいえ、わざわざハロー・キティ(「キティちゃん」とまるで知り合いかのような呼び方をしなければいけないことすら腹立たしい:))について勉強するために自分の貴重な時間を割こうとは思わないのですが、著者のChrisは、なにしろ私が心から尊敬する、知性と感性と文章力がピカイチの人物で、これまでの著書(彼女と私は同じ年にハワイ大学に就職したのですが、私が研究書を2冊出すあいだに彼女はすでに4冊出している)もすべて拍手したくなるほど素晴らしいので、書評を頼まれたのを機に読むことにした次第。

いや〜、さすがChris。この白くて丸くてピンクのリボンをつけたネコから、こんなに多くのことを考えさせられるとは思いませんでした。かといって、この本を読み終わった私が、じゃあこれからキティちゃんグッズを店で買うかといったら答は大きな「ノー」ですが、ハロー・キティのもつ意味をもっと多面的に考える機会になったことは確かです。このネコを通じて、ジェンダー規範や性、人種のステレオタイプ、消費主義と表現の自由、芸術の創造性と企業のマーケティング戦略、政府の文化政策と企業や消費者の論理など、実にさまざまな大きなテーマを考えさせられるのです。

著者がこの本で枠組として使っているのが、「ピンク・グローバリゼーション」という概念。「『カワイイ』とされている商品やイメージが、日本からアメリカなどの先進国へと国境を越えて広がること」と著者は説明します。この独特な形のグローバリゼーションは、いろいろな意味で「典型的」なグローバリゼーションの常識や流れを揺さぶるもの。まずは、ポスト・フェミニズムの時代において、「カワイイものはカッコいい」とするこの独自の美学は、いわゆる「ピンク」なもの—つまり、可愛らしく、女性らしく、性的で、情感に訴えるもの—を、女性の重要な一部として賛美する。そして、女性(また男性も)はその「カワイイもの」を武器として、さまざまな自己表現をしたり社会への問いかけをしたりする。("Pink is the new black"だそうな。)ほほう。そしてまた、白人西洋社会から世界の他の地域へと流れる「グローバリゼーション」と違って、キティちゃんの「ピンク」なグローバリゼーションは、日本を出発点として、アメリカやラテン・アメリカ、アジアの他の地域などへと広がっている。しかし、このピンク・グローバリゼーションが従来の世界力学を覆しているかというと、そういうわけではない。ミッキーマウスやバービー人形、ケンタッキーフライドチキンやマクドナルドのおじさんなどのキャラクターが、そのキャラクターを超えてその背景にある「アメリカ」のライフスタイルや経済・文化を象徴するようになっている(そして世界が一面的に「ディズニー化」「マクドナルド化」するのを批判したりおそれたりする人たちがいる)のとは対照的に、キティちゃんがいくら世界で人気だからといって、それを日本による世界制覇の象徴とみて脅威を感じる人は少ない。キティちゃんのグローバリゼーションは、白人西洋中心の文化的ヘゲモニーを揺さぶるものではないのだ。なにしろ、キティちゃんの苗字は「ホワイト」で、キティちゃんとその家族はイギリスに住んでいて、キティちゃんはピアノとテニスが趣味で、ディア・ダニエルという名前のボーイフレンドがいるのだから。

著者は私が感心する名エスノグラファーで、インタビューで人から面白い話を聞き出すのが実に上手なのだが、この本でもそれが明らか。ハロー・キティのファンや収集家、キティちゃんをテーマにした作品を作っている各種メディアのアーティスト、サンリオの日本本社そしてアメリカの支社の代表者などとのインタビューをふんだんに盛り込みながら、ハロー・キティがもつ実に多様な意味を披露すると同時に、キティちゃんのピンク・グローバリゼーションを、より大きな歴史的・政治的・経済的な流れのなかに位置づけます。キティちゃんのファンは、少女たちだけではない。とくにアメリカでは、女性もいれば男性もいる。アジア系アメリカ人もいればヒスパニック系の人もいる。メディア・パーソナリティもいれば会社員もいる。パンク・ロッカーもいればポルノ女優もいる。ゲイの男性もいればレズビアンもいる。そして、みずからも異常と認めるほどキティちゃんグッズにお金や時間をかける人たちもいるいっぽうで、キティちゃん(が象徴するもの)を激しく批判する人たちもいる。キティちゃんの「可愛らしさ」を、幸せ、無垢、親密さなどの象徴とみる人たちがいるいっぽうで、幼稚さ、無力さ、人種や性のステレオタイプ、商品フェティシズム、少女や思春期の女性を消費者として狙い撃ちにする企業文化の象徴とみる人たちもいる。キティちゃん反対論者の多くは、キティちゃんには口がない、という点をとくに問題視する。口がないということは、声を発するすべを持たない、ということであり、アジア女性を無口で従順な存在とするステレオタイプを強調するものだ、という見方である。このように、キティちゃんが内包する「意味」は、実に多様で曖昧で相矛盾するものであり、著者はどの見方に軍配を上げるでもなく、それぞれを丁寧に読み解いていく。

著者の分析においてとくに重要なのが「遊び」と「ウィンク」という概念。ハロー・キティをこよなく愛する人も、痛烈に批判する人も、キティちゃんとのかかわりかたはきわめて意図的なもので、キティちゃんを通じて、消費主義、キッチュの美学、商品フェティシズムなどに対して、遊び心いっぱいに片目でウィンクしながら挑戦を投げかけている。こうした「ウィンク」のもつ先鋭性に、著者はピンク・グローバリゼーションの威力をみる。しかし、それと同時に、著者は、ピンク・グローバリゼーションの限界も見逃さない。消費者やアーティストたちが、キティちゃんを手に取り援用して独自の声を発し、さまざまな挑戦をしかけるいっぽうで、サンリオという企業は、そうした援用をさらに企業のマーケティング戦略に巧みに取り込んでいく。また、小泉首相が提唱した「クール・ジャパン」キャンペーンの一環で、キティちゃんをはじめとする「カワイイ」日本のキャラクターが「ソフト・パワー」外交の親善大使として使われるようになる。このような流れのなかで、創造性とキッチュ、芸術と商業、転覆と収斂、ピンクとブラック、そうした境界はきわめて曖昧なものである、ということを示して、「ピンク」や「ウィンク」のもつ可能性と限界の両方を露呈するのです。

ニューヨークのパーク・アヴェニューの企業オフィスの明かりがほんのりと光るだけの夜の暗闇を背景に、巨大な真っ白のキティちゃんの人形が空を浮いている画像の上に、ピンクの帯がタイトルを縁取っている表紙。「ピンク」と「ブラック」と「ホワイト」が象徴するものの相関関係を探る研究書の表紙としては、なんとも見事なデザインであります。

2013年9月22日日曜日

デジタル時代のリベラル・フェミニスト、シェリル・サンドバーグ

先日のハーバード・ビジネススクールについての投稿のなかで、Facebook社の最高執行責任者(COO)であるシェリル・サンドバーグ(Sheryl Sandberg)の名前をちらっと出しました。ある企画のために、彼女についての文章をちょうど書いたところだったのですが、ワタクシの勝手な事情で、その企画を当面棚上げということにしていただいたので、せっかく書いた文章を発表する場がなくなってしまいました。ボツにするのももったいないので、ちょっと長いですが、ここに掲載いたします。もとの企画というのは、『現代アメリカ女性25人』(仮題)、つまり、現在さまざまな分野で活躍する女性25人にについて、ちょっと突っ込んだ形で紹介する、というものだったので、そういう文脈でサンドバーグについて書いています。
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エリートとしての出発

 20133月に米国で発売され即座にベストセラーになったサンドバーグの著書、『Lean In: Women, Work, and the Will to Lead 』(邦題『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』)は、書店に並ぶ前から各種メディアで 大きな話題を呼んでいた。 サンドバーグは21世紀アメリカ女性のリーダーである、と賞賛する人々がいるいっぽうで、サンドバーグはアンチ・フェミニズムの象徴である、などと痛烈な批判をする論客も多く現れた。そのくらい、サンドバーグという女性の存在は大きい。じっさい、サンドバーグは2012年には『タイム』誌の「世界でもっとも影響力をもつ女性100人」のひとりに選ばれている。
 サンドバーグの「本職」は、とりわけ女性が入り込みにくいIT産業における企業経営であるが、彼女がこの業界に入ったのは2001年のことであり、それ以前は、経済政策に携わっていた。1991年にハーバード大学を経済専攻で卒業し、指導教授であったローレンス・サマーズ(Lawrence Summers)に引き抜かれ、世界銀行でインドの医療関係のプロジェクトに取り組む、というのが彼女の社会人としての仕事の第一歩であった。ハーバード・ビジネス・スクールでMBAを取得したのちは、マッキンゼー・アンド・カンパニーで経営コンサルタントを1年ほど務めたが、その後1996年から5年間にわたり、クリントン政権下で財務長官となったサマーズの首席補佐官となり、アジア諸国の金融危機の際の負債の取り扱いにかかわった。
 このように、サンドバーグの社会人としての出発 において、サマーズが大きな役割を果たしている。サマーズは、ハーバード大学総長就任中に、経済調査局での講演で「科学や工学で女性の功績が少ないのは、男女間に生まれつきの資質の差があるからではないか」との発言をして議論を巻き起こし、その他の騒動も重なって、総長辞任に追い込まれた経験をもつ人物である。サンドバーグは、この騒動にかんして、「サマーズの発言は本人も後で認めているように、たしかに不適切で感性に欠けたものだったが、彼のこれまでの実績からも、彼はつねに女性の地位や経済的自立の向上に献身している人物であることは間違いない」、と擁護している。

シリコン・バレーに乗り出す女性パイオニア

 2000年の選挙で民主党が敗退した後、サンドバーグは「世界の情報を自由に入手可能にする」というミッションに惹かれたサンドバーグは、西海岸のシリコン・バレーに移った 。政府機関や大企業での経歴を積んできた彼女が、西海岸の若者文化と男性優位のIT産業の体質に馴染むことができるかどうか、疑問を呈するものもいたが、サンドバーグは2001年にグーグル社に入社し、同社の広告・出版関連商品の販売やグーグル書籍検索の運営販売を担当し、副社長の地位についた。今でも女性の進出が少ないIT業界でこうしてリーダー的立場に立ったサンドバーグは、2007年のクリスマスパーティでFacebookの創設者であるマーク・ザッカーバーグ(Mark Zuckerberg)と出会い、以後数ヶ月にわたって、連夜遅くまで話し込む関係となった。
 20083月、Facebookはサンドバーグの採用を発表。当時、ワシントン・ポスト社のシニア・エグゼクティブの職を検討していたサンドバーグにとって、グーグル社から2004年に数人の大学生によって創設されたばかりのソーシャル・ネットワーク・サイトであるFacebookに移るのは、大きなリスクを伴うものであった。
 サンドバーグが入社した当時のFacebookは、「いいサイトを作れば利益はしぜんについてくる」という原理で動いており、利益追求についての明確な方針をもっていなかった。そうしたなかで、サンドバーグの指揮のもとFacebookは広告収入拡大の方針をとることで、2010年から収益をあげる企業となった。同社によると、サンドバーグは、販売、マーケティング、ビジネス開発、人材開発、コミュニケーションなどにかかわるビジネス運営を司っている。
 20136月時点で、Facebookは世界で699百万人のユーザーが毎日利用し、そのうちの約80パーセントが北米以外の地域在住という、まさにグローバルなソーシャル・ネットワーク・サイトとなっており、その影響力は友達同士のコミュニケーションを超えて、国際政治にまで及んでいる。しかし、Facebook20125月にNASDAQ証券取引所で新規株式公開をしたものの、その株価は低迷を続け、公開価格と同じ水準まで回復するのに1年以上の期間がかかっている。また、個人情報のセキュリティ管理について批判の声もあがり、「時の人」であるザッカーバーグは何度もFacebookの方針を弁護したり改めたりする立場に立たされてきている。そうしたなかで、経営手腕とともに政府や公的機関での職歴をもつサンドバーグの視点と能力は、Facebookに重要な役割を果たしているといえるだろう。

『リーン・イン』のメッセージ

 サンドバーグが、IT業界を超えて広く注目を集めるようになったのは、女性の社会進出にかんするテーマで講演や執筆活動をするようになってからである。グーグル勤務中の2004年に長年の親友であったデイヴィッド・ゴールドバーグ(David Goldberg IT業界の起業家で、現在はオンライン調査会社のSurveyMonkeyの取締役を務めている)と結婚し、翌年第一子を出産したサンドバーグは、自身のライフワークバランスの問題に直面するようになった。グーグルに勤める周囲の有能な女性が多くの場合出産後に仕事を辞めてしまうのを目の当たりにし、また、採用時には男女が同等に仕事を始めるにもかかわらず、何年かたつと男性のほうが積極的に新しい大きな企画に取り組み昇進していくようになる様子を見て、サンドバーグは働く女性をめぐる問題意識をもつようになり、女性のキャリアやライフワークバランスについての講演や執筆をするようになった。
 とくに、201012月に、多様な分野のリーダーたちの講演会を企画運営するグループTED (Technology, Entertainment, Design)で、「“Why we have too few women leaders”(なぜ世の中には女性のリーダーが少ないのか)」というタイトルの講演をし 、また翌年5月にはバーナード大学の卒業式で同様のテーマの講演をして大きな話題を呼んだ。 両方においてサンドバーグは、後に著書のタイトルとなるlean in、つまり、「前のめりになって一歩を踏み出す」ということの重要性を強調した。
 現代の若い女性が、母親や祖母の世代と比べるとずっと幅広い機会や権利を与えられているにもかかわらず、依然として社会全体においてリーダーシップを握る立場にいる女性が少ない理由の一部は、女性たち自身の姿勢や選択にある、というのがサンドバーグのメッセージの核にある。
 まず、有能で野心のある女性でも、多くの場合 、仕事につく時点ですでに男性に遅れをとる。職をオファーされた男性の57パーセントは、なるべく高い給与で採用されるよう積極的に交渉するのに対して、同様の交渉をする女性は7パーセントしかいない。入社後も、男性が自分の業績や企画をアピールして昇給や昇進を要求することはごく普通のことで、そうした姿勢は能力の一部として評価されるのに対して、同じような行動をする女性は「傲慢だ」「攻撃的だ」と受け取られがちで、女性自身もそうした行動をしないことが多い。結果的に、 仕事を始めてから数年のうちに、同レベルの能力や業績をもつ男女のあいだで、給与や役職に明らかな差が出る。職場の日常的な場面でも、女性は無意識のうちに男性よりも一歩後ろの位置に自分を置きがちである。重要な人物と席を共にする会議のときに、 誰に言われるでもなく、女性は後ろの席に座って「聞く側」に自らを置くのに対して、男性は真ん中のテーブルの席について積極的に発言しようとする。講演会で質疑応答の時間に、質問をしようと手を挙げているときに、「質問はあとひとつだけ受け付けます」と言われると、たいていの女性は挙げていた手を下ろしてしまうのに対して、男性は最後まで手を挙げ続ける。 そうした姿勢が、社会における男女の位置づけに大きな違いをもたらしている、と指摘するサンドバーグは、女性はまず職場において、自分の存在をアピールし、堂々と発言する立場の人間であるということを、周囲に明確にする必要がある、と主張する。
 またサンドバーグは、多くの働く女性は、出産時に一時的に職場を離れるが、実際に産休に入る前から、大きな企画への参加をためらったり、責任ある役割を辞退したりして、自ら一歩後ろの立場に下がってしまう場合が多く、それが業績 に反映され、出産後の職場復帰を困難にする結果になる、とも指摘する。このような傾向が、長期的に女性の活躍を妨げ、社会全体における女性進出を遅らせている、と観察するサンドバーグは、女性は、選択する職種や生き方にかかわらず、社会に出るときからずっと、全力を投球して、前のめりの姿勢で、仕事に向かうべきだ、と唱える。
 女性が社会で重要な役割を果たせるためには、家庭において男女が真に平等に役割分担をする「本物のパートナー」を選ぶ必要がある、というのもサンドバーグの重要なメッセージのひとつである。きわめて恵まれた境遇にある自分と夫にとっても、日々の子供の送り迎えから食事にいたるまで、仕事と子育ての両立は複雑であるというサンドバーグは、家事や子育てを平等に分担し、 仕事の上でも人生全般においても、相談相手かつ親友でいてくれる相手を伴侶としなければ、女性が仕事に全力投球することは難しい、と説く。
 さらに サンドバーグは、「メンター」の重要性 についても強調する。「メンター」とは、自分を指導したり相談にのったりしてくれる先輩で、かつ、自分を応援し後押ししてくれる後見人のような立場の人間を指す。プロフェッショナルな世界で仕事をする男性は、職場の人脈のなかでしぜんにそうしたメンターを何人ももつようになるのに対して、男性多数の環境で働く女性は、自分にとってのロール・モデルとなる人物が少なく、メンターとしての役割を演じてくれる人を見つけるのが難しい。しかし、メンターをもつことが重要だからといって、 忙しい先輩にむやみと「メンターになってもらえますか」などとアプローチするのは見当違いである、というのがサンドバーグの冷静なアドバイスだ。メンターというのは、お願いしてなってもらうものではない。真面目にいい仕事をしていれば、見ている人はちゃんと見ていて、後進を育てるためにすすんでメンターの役割を買って出てくれるものである。自分がお手本としたいような先輩に出会ったら、その人物に認められるようないい仕事をしながら、その人物の時間や労力を無駄にしない効率的な形で、積極的に質問や相談をもちかける。そうしているうちに、しぜんと自分の味方になってくれるメンターができる、という。
 
サンドバーグの「フェミニズム」が呼ぶ批判

 現代アメリカのビジネス界でもっとも成功している女性のひとりであるサンドバーグのこうしたアドバイスは、すべて職場や文化の現実に即していて実際的であり、女性に意欲と勇気を湧かせると同時に、自分自身の意識や行動を振り返させるものである。では、サンドバーグが熱烈なファンを集めるのと同時に、彼女が現代アメリカのフェミニストとして持ち上げられることを痛烈に批判する人たちが多いのはなぜだろうか。
 サンドバーグに向けられる批判は、いくつかの点にまとめられる。
 ひとつは、サンドバーグのような例外的なエリートが論じる「女性解放」は、一般女性の現実に適用できるものではなく、彼女のような人物が女性の「代表」としてフェミニズムを論じるのは問題である、という説。アメリカの政・財・学界でもっとも影響力をもつ人物であるサマーズの愛弟子としてハーバード大学を卒業し、官民ともにおいて強大なコネクションをもち、Facebookの株が公開されてからはアメリカの財界で最大の富をもつ女性のひとりとなった(2013年時点で、サンドバーグのFacebookでの基本給は328千ドル、ボーナスは277千ドル、それに加え、株公開による彼女の収入は846百万ドルと想定されている)サンドバーグが、たいへん恵まれた立場にいることは間違いない。 公的な医療保険制度がじゅうぶんに整備されておらず、育児休暇や保育制度においてほかの先進国よりずっと遅れをとっているアメリカにおいても、サンドバーグのような人物は、財力や人脈によって日常生活の多くの問題を解決することができる。そのような人物は、職にありつけず生活に困窮する女性、解雇をおそれて職場での不当な扱いに抗議することができない女性、子育てや介護をしながら仕事をする女性の現実を理解することができない、という論である。
 また、女性が自らの意識や行動を変える必要がある、と説くサンドバーグは、法的制度の不備や、文化的偏見、差別といった女性にとっての障壁を問題にするのではなく、女性自身を批判している、つまり、「被害者を責める」アプローチをとっている、という批判もある。たしかに、サンドバーグの講演や著書の重点は、制度的な問題よりも、女性自身の態度に置かれており、「女性がじゅうぶんな社会進出を果たしていないのは、女性自身に問題がある」というメッセージを読み取る読者が少なくないのも不思議ではない。そうした論者は、女性が必要としているのは、自身の意識や行動の変革ではなく、雇用の安定、 正当な給与、保育制度、心身の安全などである、と強調する。
 「私はいつも、自分が社会運動を運営する、具体的には非営利団体で仕事をすると思っていました。自分が民間企業で仕事をするようになるとは思っていませんでした」と語るサンドバーグの、「社会運動」や「フェミニズム」のビジョンを疑問視するものも少なくない。社会運動とは、誰かが「運営」しようと思って上から起こすものではなく、人々が草の根から集まって生まれるものである。また、社会運動としてのフェミニズムが目指すものは、女性の個人的充足や幸せではなく、権利の平等、機会の均等、心身の安全と健康、経済活動の健全、福祉制度の整備などといった社会正義を追求することであるはずが、サンドバーグ版のフェミニズムでは、「女性の問題」は、職場における発言力やライフワークバランス、個人の充足感の問題に還元されている、という批判である。
 さらに、「(女性の仕事についての問題を)真剣に取り上げようというのであれば、まずFacebook社で清掃士をしている女性たちが、毎月どれだけの給与を受け取っているのか、彼女たちには年金が与えられるのか、有給休暇はあるのか、どんな保育制度があるのかを、訊いてみるといいだろう」という例にみられるように、サンドバーグの主張と、自身の職場における女性の扱いの矛盾が取り上げられることもある。2013年には、サンドバーグが主催する財団LeanIn.Orgのスタッフが、 ニューヨーク事務所で 無給のインターンをFacebook上で募集したところ、「財団の活動にはおおいに賛同するし、そうした活動にかかわって経験を積みたい女性は数多くいるが、とくにニューヨークのような物価の高い都市で長期間無給で仕事をしながら生活できるような女性は、ごく限られた裕福な人たちだけであって、こうした経験を積む機会を実質的にそうした人たちに限定するのは、女性の社会進出を主旨とするLeanIn.Orgにふさわしくない」という批判がネット上にあふれた。こうした議論に応えて、同財団では、募集した無給インターンは、自由な時間に遠隔地でボランティアとして仕事に携わり、有給スタッフの代替として使われたものではないが、今後LeanIn.Orgで正式なインターンシップ制度を開始するにあたっては、有給制にする、との発表をしている。

2010年代型「リベラル・フェミニズム」

 『LEAN IN』にまとめられている考えやメッセージ、そして、サンドバーグが巻き起こした議論は、さまざまな意味で、1970年代のアメリカのフェミニズム運動の歴史を彷彿とさせるもので、それに向けられる批判も含めてアメリカ2010年代型の「リベラル・フェミニズム」ともいえる。
 1963年に刊行されて大きな旋風を巻き起こしたベティ・フリーダン(Betty Friedan)の『Feminine Mystique(邦題『新しい女性の創造』)は、主婦としての生活に不満を感じながらも、 「女性らしさ」の神話に捉えられて苦悩する女性たちの「わな」を描いたものである。1966年にNational Organization for Women (NOW、全米女性連盟)の初代会長となったフリーダンは、女性の法的権利や政治参加、雇用均等などの諸問題の旗手として多大な影響力を発揮し、いわゆる「第二次フェミニズム(second-wave feminism)」の象徴となった。
 第二次フェミニズムの力は、制度的改革と同時に、女性個人の意識変革による部分が大きかった。フリーダンの著書に触発された女性たちは、アメリカ各地でconsciousness-raising groupと呼ばれる活動をするようになった。女性が小人数のグループで定期的に集まり、自らの日常生活 や人間関係を振り返り、個人的な経験を話し合うことで、各人の意識を覚醒し、家庭生活や恋愛関係をはじめとする「パーソナル」な領域から男女の力学を変革しよう、という主旨 で、とくに1970年代の多くの女性にとって大きなインパクトを与えた活動である。
 アメリカのジェンダー力学に非常に大きな変化をもたらした第二次フェミニズムであるが、やがて運動内部からさまざまな批判・対立や分裂が生まれた。すべての女性のための運動であるはずのフェミニズムは、実際にはミドルクラスの白人女性によって支配されており、ホワイトカラーの職場における男女機会均等などといった問題が運動の中心となってきた。非白人女性や移民女性、労働者階級の女性、レズビアンの女性などが日々直面する問題は、第二次フェミニズムが取り上げるものとは性質を異にするものである。さらに、consciousness-raising groupは、社会制度から「パーソナル」な問題に目をそらし、自己満足やナルシシズムを助長している 。こうした批判から、真の「女性解放運動」は、「女性」をより包括的に理解し、人種や社会階層やセクシュアリティなどとの相関関係において「女性問題」をとりあげる必要がある、と主張する女性たちが、1980年代からいわゆる「第三次フェミニズム」を提唱するようになったのである。
 いろいろな意味で、サンドバーグに向けられる批判は、こうした20世紀後半の フェミニズムの変遷を彷彿とさせるものである。女性の意識や行動を変革し、キャリアに全力で乗り出し、ライフワークバランスを実現しながら女性が職場そして社会のリーダーになっていくことを提唱するサンドバーグの「フェミニズム」は、たしかに、非合法移民であるために搾取的な環境での仕事を強いられながら助けを求められない女性や、家庭で夫や恋人に暴力を受けている女性など、現実に数多く存在する女性の目前の問題に対応するものではない。また、既存社会での女性の進出を目指す「フェミニズム」は、そもそも資本主義経済が内包する不均衡や、異性愛を軸とする家族形態の規範などを根本的に問い直すものではない。  
 巻き起こした旋風、そして火をつけた議論や批判の両方において、サンドバーグは、21世紀版のリベラル・フェミニズムの象徴といえる。実際、サンドバーグは、著書と併行して、 LeanIn.Orgという財団を主催し、10人前後の同年代の女性たちが「サークル」を作り、定期的に集まって、提供されたネット上の講演や ディスカッション・ガイドを使って、夢の実現を促進するという、 まさに、21世紀版のconsciousness-raising group活動を行っている。サンドバーグの21世紀型リベラル・フェミニズムが、この世代の女性たちにどのような遺産を残すかは、数十年後に明らかになるだろう。

参考文献


Maureen Dowd, “PompomGirl for Feminism,” New York Times (February 23, 2013)

Catherine Rottenberg, “Hijacking Feminism,” Al Jazeera English (March 25, 2013)

Sheryl Sandberg, Lean In: Women, Work and the Will to Lead (New York: Knopf, 2013) 邦題『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』川本裕子、村井章子訳 (日本経済新聞出版社、2013年)

2013年9月7日土曜日

ハーバード・ビジネス・スクールのジェンダー格差是正実験

日本のメディアや日本の友達のフェースブック投稿を見ていると、2020年オリンピックの東京開催の決定で国じゅうが大興奮しているのがよく伝わってきます。日本にいない私は、この決定に至るまでの経緯もフォローしておらず、日本に一時帰国中にオリンピック誘致活動についてのニュースを見たり読んだりしたときには、「日本が今すべきこととしてもっと大事がことが他にたくさんあるんじゃないだろうか」と疑問をもっていました。なので、海を隔てた場所からこの決定のニュースを見ると、「ほんまかいな」というくらいの気持ちで、そしてまた、オリンピックが今の日本のリソースを注入する対象として本当に正しいのか、という点については依然として疑問を抱くのが正直なところです。が、決定したからには、経済的なことだけでなく、あらゆる意味で、日本の元気につながること、そして、これを機に、日本がより世界に開かれた国になること、原発危機の処理問題を含めて、世界諸国のリーダーたちと共同でグローバルな問題に取り組んでいく国になっていくことを、願ってやみません。

さて、まるで違った話題ですが、今日のニューヨーク・タイムズの教育欄に掲載されている長文の記事がとても興味深いです。ここ2年間ハーバード・ビジネス・スクール(HBS)で実施されてきた、ジェンダー格差是正のための実験的な試みを扱ったもの。私はちょうど、フェースブックの最高責任執行者で、最近大きく話題になっている『LEAN IN(リーン・イン) 女性、仕事、リーダーへの意欲』の著者、シェリル・サンドバーグについての文章を書いていたところなので、なおさら興味深く読みました。

アメリカのビジネス・スクールのなかでもHBSは、すでにビジネス界で経験を積み、世界的大企業の幹部と血縁関係にある、といった学生たちを世界各地から集め、また経営のリーダー的立場に送り込む、トップの学校のひとつ。そのHBSでは、男女が同レベルの成績で入学しても、卒業までの2年間で女性が明らかに遅れをとる。また、教員側も、女性の教員が圧倒的に少なく、採用された女性教員でもテニュア(終身雇用権)をとらずに去っていくケースが非常に多い。というパターンがずっと続いてきた。実際のビジネスの世界でも、トップ企業の幹部には女性が非常に少なく、政治・法曹・学術などの分野と比較しても、男女格差が大きいことがかねてから指摘されてきていました。ハーバード大学初の女性総長となったDrew Gilpin Faust氏は、HBSのトップに新しい人物を採用し、彼の指揮のもとHBSは意識的そして徹底的にジェンダー格差是正に取り組んできた、とのこと。

その、意識的そして徹底的な取り組みというのが、まさに学校生活の各側面にわたる多岐なもの。ビジネス・スクールの授業では(ビジネス・スクールに限らずアメリカの大学ではたいていそうですが)、試験などの点数だけでなく、授業中のディスカッションなどにどれだけ積極的そして効果的に貢献したか、といった参加点が、成績の大きな部分を占める。そうしたなかで、多くの場合、女子学生は男子学生よりも発言に消極的であったり、また、実際に発言してもそれを教員に正当に評価されなかったりする。そうした問題を是正するため、女子学生には、授業での手の挙げかたや身のこなしかたに始まって、男性と同じ土俵で競争するための基本スキルを教え込む。また、無意識の性的バイアスによって教員が女子学生の発言を正当に評価しない、ということを避けるために、授業には速記者をつけ、学生の発言やディスカッションをすべて記録し、客観的な成績評価をする。ビジネス・スクールの教育の根幹と言われてきた、ケース・スタディ法すらも見直し、カリキュラム自体を改革する。学生がグループ単位で作業する課題については、グループ構成から勉強法まで、学校側が細かく手を入れる。テニュア取得前の女性教員には、授業観察を含めた個人コーチングをする。また、大学の外での社交が、学校での成績やその後のビジネス界での成功に大きく影響することから、キャンパス外のプライベートな社交において女性が不利な立場におかれることのないよう、学校が意識的な施策をする。などなど。

こうした努力の結果、ここ2年間で、HBSの女性学生の成績は目に見えて上がり、ジェンダーにかんする男性学生の意識も変わり、学校生活についての学生の満足度も高まり、おおむねこの「実験」は成功しているものの、こうした実験の成果が、卒業生が実業界に出てから長期的にどういった形で現れるのかは、もちろん未知数。また、なかには、なにかにつけてジェンダー問題を取り上げる学校のありかたに疑問をはさむ学生もいなくはない。けれども、こうやって正面からそして徹底的にジェンダー問題に取り組むことによって、もともと学校が意図したものとは違った、ビジネス・スクールそして経済界全体に流れる他のさまざまな規範や文化(財力や人脈、服装や体型などで、人間関係が決定され、そうした人間関係が学校そして仕事での成績につながる、といったこと)が問題視されるようになり、そうした問題を学生たちが堂々と議論できる空気が形成された、というのは、とても大きな意義のあることだと思います。また、ハーバードのようなトップの学校がこうした実験に取り組むことで、他の学校やビジネス界にも波及効果をもたらす可能性もあるでしょう。こうした実験的な取り組みは、とくに初期の段階では抵抗や失敗ももちろんあるでしょうが、試行錯誤を重ねながら理想に向かって取り組みを続けていくことで、長期的には重要な変革をもたらすはず。ともかくは、こうした実験をする勇気と実行力をもつHBSに、拍手。

2013年8月25日日曜日

リー・ダニエルスの『The Butler』

今週28日は、マーティン・ルーサー・キングJr牧師が「I Have a Dream」で知られる歴史的な演説をし、公民権運動の大きな節目となったワシントン大行進の50周年。今週末はワシントンで記念イベントが行われ、各メディアでも、ここ50年間でアメリカの人種関係がどれだけ前進したか・していないか、といった特集をしています。

その50周年に合わせて公開となった、リー・ダニエルス監督の映画『The Butler』を観てきました。奴隷制廃止から50年以上たっても白人の暴力と搾取のもと南部の綿農場でシェアクロッパーとして働く黒人の両親のもとで生まれ、少年時に母親が暴行され父親が殺害されるのを目撃した主人公が、南部を逃れ、使用人としての修行を受け、やがてはホワイトハウスの執事にまで登りつめる。アイゼンハワー政権(実存の人物がホワイトハウスで務め始めたのはトルーマン政権からだったらしいですが、映画ではアイゼンハワー政権という設定になっている)からレーガン政権までの30年間、公民権運動やベトナム戦争の激動の時代を通じて、ホワイトハウスで大統領およびその家族やスタッフに仕えた実存の人物の生涯を描きながら、戦後アメリカの人種関係の歴史を追う大河ドラマです。

ハリウッド的な映画づくりになっているといえばもちろんその通りで、文句をつけようと思えばいくらでもつけられるでしょうが、全体としてはよくできた映画だと思いました。公民権運動というものがどれだけ危険に満ちたもので、運動に身を投じた人々がどんな覚悟で運動に参加していたか、ということも描かれているし、50年代から80年代までの公民権の拡大が、決して一直線のものではなく、それぞれの大統領の公民権問題へのかかわりかたも、単純なイデオロギーで整理ができるものではなかった、ということがよくわかります。そして、物語の中心となっているのが、ホワイトハウスの執事としての役割を徹底的に務めることを黒人として、また一個人としての誇りとしている主人公と、キング牧師の非暴力抵抗から武力行使も辞さないブラック・パンサー党の活動まで、平等と正義を求める運動に身を投じる長男とのあいだの葛藤。それぞれが自分の信じる形で黒人の地位向上を追求していながら、双方のあいだの溝はどんどんと深まっていく。親子やきょうだい同士でこうした分裂を経験した黒人の家族はじっさいに非常に多かったことと思います。(黒人だけでなく、第二次大戦中の強制収容を経験した日系人たちのなかにも、「日系アメリカ人として生きるとはどういうことか」をめぐって親子で大きな対立を経験した家族はとても多かったのです。)この父子関係を通じてアメリカの人種問題の複雑さが巧みに描かれています。また、2008年にオバマ大統領が当選したということが、黒人にとってどういう意味をもっていたか、ということも改めて考えさせられます。主人公を演じるフォレスト・ウィテカーと、彼の妻を演じるオプラ・ウィンフリーの演技が素晴らしい。

日本でいつ公開になるのか今のところ不明ですが、観る価値おおいにありですので、公開になったらぜひどうぞ。

2013年8月6日火曜日

デジタル時代の史料収集

まる2ヶ月もご無沙汰いたしました。この夏(日本だと学校もまだ夏休みが始まって間もない時期ですが、こちらではすでに夏は終盤、ハワイの公立学校ではすでに新学期が始まっています)はとりわけ忙しく、テキサスで1ヶ月を過ごした後、ホノルルでアロハ国際ピアノ・フェスティバルのアマチュア部門の企画運営のお手伝いをし(こじんまりとしながらとてもいいイベントとなりました。来年はさらに充実したイベントにするつもりですので、年齢・レベルを問わずふるってご参加ください)、その後すぐ日本で10日間を過ごし、そして2日間だけハワイに戻って、今度はワシントンDCとボストンで3週間のリサーチをし、1週間前にハワイに帰ってきました。どれもとても充実した素晴らしい時間でしたが、いろいろな時間帯を行ったり来たりしながらいろいろな意味で刺激を受け続けると、さすがに体力を消耗します。

2ヶ月のあいだに体験したこと、たくさん書きたいことがありすぎて困るので、今日はあえて本業にかかわる話題にしておきます。5月にテキサスのオースティンにあるジョンソン大統領図書館で1週間リサーチをしたことは以前書きましたが、それと同じプロジェクトで、ワシントンの議会図書館で2週間(本当はメリーランドにある国立公文書館にも行く予定だったのですが、時間が足りずに今回は断念)、およびボストンのケネディ大統領図書館で1週間史料集めをしてきました。議会図書館には以前にも何度も行ったことがあるのですが、この巨大な図書館、同じ図書館のなかでも部によってまったく違った文化があるのが面白い。Law Libraryと、Manuscript Reading Roomと、Performing Arts Reading Roomでは、そこで調べものをしている人たちの服装やふるまいがまるで違い、スタッフの人柄も違い、おまけに、資料をとりよせるための請求書の記入の仕方や資料を見るときのルールまで違う。Science, Technology, and Business Divisionや、American Folklife Centerや、Motion Picture & Television Reading Roomに行ったら、またそれぞれ全然違った雰囲気なんだろうなあと想像。そしてまた、世界各地の資料が集まったこの図書館で働いているスタッフ、そして調べものをしに通う人たちは、きわめて多様な人々で、お昼に食堂に行くと、実にいろいろな言語がまわりから聞こえてきます。この図書館内の文化を文化人類学的に観察したら、それだけでじゅうぶん面白い研究ができそう。そしてまた、ケネディ大統領図書館は、ジョンソン大統領図書館とはまた全然違った雰囲気で、ケネディ大統領が愛したボストン湾の海が目の前のガラスの巨大な窓一面に広がる、物理的にとても気持ちのいい資料室。たいてい研究図書館の資料室というのは窓がないものですが、こんな空間もありうるんだなあと、妙に感心しました。

さて、博士論文の研究をしているときから、いわゆる一次史料(とくに歴史的な文書)を調べるという作業はしてきたのですが、この夏のリサーチでは、研究者として改めて多くのことを学びました。

当たり前のことですが、一口に「史料」といっても、研究の性質によって史料のありかたはまるで違う、ということ。私がこれまで主にやってきたのは、いわゆる「文化史」。今回のプロジェクトも、「文化史」には違いないのですが、広義の「文化ポリティクス」ではなく、政府の活動そのものを調べる、という点では、これまで私がやってきた研究とは性質がずいぶんと異なります。しかも、博士論文転じて初の著書となったEmbracing the East: White Women and American Orientalismや、2作目のMusicians from a Different Shore: Asians and Asian Americans in Classical Musicの歴史分析の部分で扱ったのは、19世紀後半から20世紀半ばくらいまでの時代だったのに対して、今回のプロジェクトで調べているのは、1960年代から1970年代にかけての冷戦期。これらの違いが、リサーチという行為に実際的にどんなことを意味するかというと、ごくごく基本的な次元で、目の前に存在する資料の量が圧倒的に違う。私がこれまでやってきた種類の文化史では、具体的なトピックにもよりますが、一般的には、「なんとかコレクション」とか「だれそれペーパーズ」などといったまとまった史料が存在するわけではなく、いろいろなところから違った種類の史料を引っかき集めて、自分でそうした史料同士の関係を導き出し、論を生み出す、というのが主な作業。そうした探偵のような作業にこそ、難しさもあれば面白さもあるのですが、いったいどこに行ってなにを見れば自分が探しているものに関連する史料が見つかるのかわからず、なにも見つからないままどんどん時間が過ぎていくこともよくある。それに対して、議会であれホワイトハウスであれ、政府にかかわるものに関しては、とにかく「もう結構です」と言いたくなるほどの量の資料が存在する。ごくちょっとしたことをめぐっても、政府機関内のいろいろな人たちのあいだで、何十という書類のやりとりがある。しかもこの時代の書類は、当然ながらすべて紙の書類。もちろん、政府の活動がこうしてきちんと記録に残されているのは正しいことなのですが、調べる人間にとっては、頭を抱えたくなる量の紙が目の前に出てくることになります。

前の投稿でも書いたように、今回は初めてiPadで文書のデジタル写真を撮りまくるという方法を使ったのですが、限られた時間内で大量の史料を集め持ち帰る、というためにはたしかに有効ですが、この「少しでも関連のありそうなものはとにかく撮っておく」というやりかただと、せっかくの史料を自分で処理しきれなくなってしまうという可能性が大。資料がないよりはあったほうがいいに決まっていますが、この一夏だけでiPadに7,000枚以上集まってしまった写真を、果たしてこれからどのように整理して、いかに調理するか、考えただけでも頭が痛いです。分析という頭を使う作業に至る前に、まずはiPadにひたすらズラ〜ッと並んでいる写真を整理して、PDFに変換して、タグなりコメントなりをつけながら、なんらかのデータベースに入力しなければ、史料として使いものにならない。ほかの研究者はどうやってこういう作業をやっているのか、フェースブックなどで体験談を集めているのですが(いい知恵やテクのある人は、ぜひ教えてください)、こういうものはやはり、研究の性質によって、また人によって、やりかたはさまざまで、「このソフトを使ってこうやればよい」というひとつの解決策があるわけではなさそう。トホホ。ともかくは、いっぱいになってしまったDropboxの容量を増やし、iCloudの容量も増やし、古くなって遅くなってきたパソコンを買い替え、外付けのハードディスクを買い、せっかく集めた史料が消えてしまわないようにすることから始めましたが、さて、大変なのはこれから。とくに歴史研究の分野においては、史料収集がデジタル化されて、調査という作業の性質がかなり根本的に変わっているような気がしますが、果たしてこれによって本当に研究が促進されているのかどうか、たいへん興味のあるところです。学会などでも、こうしたプラクティカルなことにかんするセッションやワークショップをもっとやってほしいなあ...

とはいうものの、今回は、もともと探していたものとはほとんどまったく関係のないところで、心臓が止まるかと思うような史料を発見し、研究者としてはこんな出会いは一生に一度できれば大きな御の字、というような体験もしました。これについては、実際の分析や執筆が進むまで内緒にしておきますが、研究というのは、95%は(私の性格にまるで合わない)地味で地道な作業でありながら、残りの5%は、眠ることも忘れてしまうような本当に興奮に満ちたものである、ということを改めて実感するリサーチの夏でありました。

2013年6月10日月曜日

阪田知樹くんインタビュー

第14回クライバーン・コンクール終了の翌日、これまでコンクールを連日追ってきた人たちは、なんだか放心状態のまま今日一日を過ごしているのではないでしょうか。私も、会場で生演奏を共に経験した人たちだけでなく、ピアノ仲間たちとフェースブックでのチャットを通して、あの演奏はどうだったの、この人はどうだったのと、ほとんどリアルタイムで密な意見交換をしていたので、急にそれがなくなって、少しほっとしたような(いくらなんでも、音楽業界の人間でもないのに、あれ以上毎日ピアノ音楽ばかり聴き続けていたら、ちょっと気が変になりそうです)、でもやはり寂しいような、不思議な気持ちです。

さて、このコンクール最年少の出場者で見事本選進出を果たした阪田知樹くんに、先ほどインタビューをすることができました。昨日最後の本番そして結果発表があったばかりなのに、今日も写真撮影やインタビューなどが何時間も入って、演奏が終わってもなお忙しい日が続いているそうです。疲れがたまっているはずなのに、とても気持ちよくインタビューに応じてくださって、感謝しています。以下、インタビューを一部抜粋してご紹介します。

吉原:最後の演奏と結果発表から一晩たって、今の気分はどうですか。
阪田:やりとげた、という気持ちです。こんな大きな舞台で本選まで行けたということで、自分にとっては大きな収穫でしたし、もちろんとても光栄なことでもありました。そして、自分が持ってきたレパートリーを全部弾けたのでとてもよかったです。また、アメリカの聴衆はとても反応がよく、自分がよく弾けたと思うとみなさんが本当にそれに応じた反応をしてくださるので、気持ちよく演奏できました。もちろん、完璧な演奏ができたわけではありませんが、自分としてはいい結果だったと思っています。
吉原:今回このコンクールに出ることにしたのはなぜですか。数ある国際コンクールのなかでも、クライバーンを選んだのはなぜですか。
阪田:そうですね、今回はクライバーンとエリザベート妃コンクールが重なっていたので、どっちにしようか、両方出してみようかなどと考えていたのですが、決めるにあたってまず、自分の演目が、アメリカとベルギーのどちらに合うか、ということを考えました。それから、僕はこれまでアメリカに行ったことがなく、自分が好きなピアニストがアメリカで活躍しているので、そのアメリカに行ってみたかった、というのもあります。2009年に辻井伸行さんが優勝したときの様子をテレビで見て、バス・ホールの大きさに驚いて、あんな大きな舞台で演奏してみたい、といった憧れももっていました。
吉原:去年の浜松のコンクールでの演奏を聴いた人によると、そのときから半年しかたっていないとは思えないほどの上達ぶりだ、ということでしたが、このコンクールの準備のためには具体的にはどんなことをしてきましたか。
阪田:とくに普段の練習と変わった準備はしていないのですが、演奏に対する姿勢が変わってきた、というのはあると思います。前は、とにかく上手く弾こう、ということしか考えていなかったのが、だんだん、自分でしかできない演奏をしよう、と思うようになりました。今回のコンクールだと、予選のリサイタルはそれぞれ45分間弾くわけですが、その45分間のあいだに、聴いている人を退屈させない責任が自分にあるんだ、と思うようになりました。そして自分だからこそできる演奏を、最大限提供する、ということを心がけるようになりました。
吉原:香港でのオーディションに合格して、ここに来ることが決まってからは、どんな気持ちでしたか。
阪田:僕は、オーディションやコンクールでも、それほど結果を気にしないたちなので、あまり気にかけていなかったのですが、出場が決まると、ネット上でも名前が発表されるので、周りの人たちからの注目が増えました。
吉原:それをプレッシャーに感じましたか。
阪田:僕は30人の中に入って、予選で45分のリサイタルを2回弾かせてもらえるだけでも大きな収穫だと思っていたので、あまりプレッシャーとは思っていませんでした。初めてアメリカに来て、最年少の19歳でもあるので、とくにプレッシャーを負う必要もなく、とにかく楽しまなければ損だと思ってのぞみました。
吉原:2009年の辻井さんの優勝の話が出ましたが、そのときコンクールの様子を追っていましたか。
阪田:2009年には僕はまだ高1で、国際コンクールに自分が出るなんてことは考えたこともなかったので、辻井さんのことも、テレビで結果を見て知ったくらいでした。ですから、今回自分が出ることになっても、辻井さんの優勝のことをとくに意識するということはありませんでした。
吉原:クライバーン・コンクールについては毎回ドキュメンタリー映画が制作されていますが、そういうものを見たことはありましたか。
阪田:自分がこのコンクールを受けることが決まってからDVDを見ました。そして、出場が決まると、東京まで取材の人が来たりしたのでびっくりしました。
吉原:今回のコンクールに出場するにあたって、自分の目標はなんでしたか。
阪田:とにかく自分らしい演奏をする、ということだけ考えていました。ですから、本選まで行って、その6人のなかに自分がいることが信じられない、という気持ちでした。他の人たちと比べて引け目を感じるということではありません。これまでも、いろいろな立派な先生たちの前で弾く機会をいただいて、よいと言われていたので、ファイナルに残ったほかの人と比べて自分が劣っているとか、そういうことは感じないのですが、それより、以前の自分との違いに驚いた、ということです。ここ数年、年々自分がまるで違う位置にいる、ということを実感しています。高1のときに国内のコンクールに出て、その翌年高2のときにヨーロッパに行き、そして高3のときにまた海外のコンクールに出たりコンサートをしたりするようになり、大学に入ってここに来る、というふうに進んできて、変に背伸びすることなく自分が成長してこられたと思っています。
吉原:そうして着実に大きな世界の舞台に立つようになって、そうした経験が自分の音楽の糧になっていると感じますか。
阪田:そうですね。やはり、舞台に出て聴衆の前で弾く経験の回数が、演奏に対する態度に表れるようになっていると思います。
吉原:阪田くんにとって、ヴァン・クライバーンとはどういう存在ですか。
阪田:クライバーンのCDは子供のときからよく聴いていました。そして、クライバーンの演奏は、音楽への気持ちがとてもよく伝わる演奏だとずっと感じていました。単に上手いだけでなく、本当にやりたくて音楽をやっている、暖かみのある音楽だと思います。数年前に、彼がチャイコフスキー・コンクールで優勝したときのCDを買ったのですが、そのとき、チャイコフスキーの1番とラフマニノフの3番の順で弾いたあと、委嘱の新曲をアンコールで弾いているのですが、それを聴くと、彼が熱狂的に支持された理由がわかった気がします。彼でしかできないスター性をもっていた人だと思います。
吉原:ヴァン・クライバーンといえばチャイコフスキー1番、と多くの人が思っているなかで、チャイコフスキーの1番を選ぶのはとても勇気のある選択だと思いましたが、この作品を選んだ理由はなんですか。
阪田:そうですね、やはり、バス・ホールでのクライバーン・コンクールでチャイコフスキーを弾いてみたい、そういう気持ちはあったのですが、自分が、24歳とか28歳とかだったら、こわくてそんなことはできなかったと思います。でも本当に、この場所でチャイコフスキーの1番を弾くのは、大変なことなので、ファイナルに出ると決まったとき、正直言って、嬉しいと同時にこわい気持ちにもなりました。チャイコフスキーはこれまでオーケストラと演奏したこともなかったですし。でも、本番では吹っ切れて、19歳の自分だからできること、自分だからこそできるチャイコフスキーを弾こう、という気持ちでのぞみました。
吉原:初めてこの曲をオーケストラと演奏したということですが、リハーサル、そして本番についての、自己評価はどうですか。
阪田:リハーサルの1回めは、本選進出が決まった後眠れなかったので、とにかく体力的にきつく、なにがなんだかわからない状態でのリハーサルでした。2回めはまあうまくいったと思います。本番では、もっといい演奏ができたと思うのですが、悔いが残るような思いもありません。今回のコンクールでは、予選の2回のリサイタルも、準本選でも、比較的どれも上手くいったと思っていますし、モーツァルトも自分では満足のいく演奏ができました。チャイコフスキーについては、自分はやはりまだまだですが、クライバーンがチャイコフスキー・コンクールで優勝したときは20代半ばだったわけですから、自分はその年齢に達するまでまだ何年もあることだし(笑)、これからたくさん勉強しようと思っています。
吉原:このコンクールの過程で一番難しかったことはなんですか。
阪田:僕は今回が国際コンクールに出るのは4回目で、本選まで進んだのは初めてです。初めて本選まで進むコンクールとしては、ヘビーなコンクールだったと思います。やはり、本選まで精神力・体力を保ち続けるのが大変でした。本選まで行くと、ホストファミリーの家まで取材が来ます。1曲目のモーツァルトの準備をしているときにも来ましたが、2曲目のチャイコフスキーのときには、取材で3時間も時間をとられ、練習の時間がとれず、また、ホストファミリーの家とコンクール会場との往復でも、時間がけっこうとられるので、思うように練習ができなかったのが辛かったです。
吉原:4年後もまたこのコンクールに出ようと思いますか。
阪田:いやあ、思わないですね。コンクールに絶対、という結果はありません。審査員や聴衆によっても反応は違うし、自分のコンディションによっても演奏の結果は全然違うので、今回本選まで行ったからといって、次回もまた同じようにいくとは限りません。でも、ホストファミリーをはじめ、テキサスの人たちは本当にみな温かくていい人たちで、この土地で過ごすのは楽しいので、コンクールではなく、コンサートといった形で演奏をしにここに戻ってこれたらいいな、と思っています。
吉原:自分が好きなピアニストでアメリカで活躍している人が多い、との話でしたが、好きなピアニストはたとえばどんな人たちですか。
阪田:僕は、今生きていない人たちが好きなんです。(笑)ヨセフ・ホフマンとかいった人たちが好きです。僕が持っているCDに、ホフマンのメトロポリタン歌劇場ライブ、という2枚組のCDがあるのですが、そのCDのジャケットの写真が、メトロポリタン歌劇場を舞台側から満員の客席に向かって写したもので、舞台に一台ピアノが置いてある、というものなんです。そのジャケットを見て、僕もいつかこれをやりたい、と思いました。(笑)
吉原:そうして、実際にバス・ホールの大きな舞台に立って満員の客席を見てみて、どうでしたか。
阪田:そうですね、やはり嬉しかったです。
吉原:予選のリサイタルにあったアルベニスの「トリアナ」は、私も最近勉強したんですが、とても難しい曲ですよね。インターネットで見つけた阪田くんの少し前の演奏と比べると、今回の演奏は信じられないくらい進歩していたと思いましたが、どうですか。
阪田:アルベニスは、去年、大学1年生の5月に、デビュッシー生誕200周年記念コンサートというイベントで弾いたんです。デビュッシーのエチュード第1巻と、ベルグのソナタと、アルベニスを弾きました。そのとき初めてアルベニスを弾いたんですが、あの曲は慣れるまでにずいぶん時間がかかりました。あの曲は、いろんな色合いがあって楽しいし、かつちょっとエキゾチックなところがあって、本当に素晴らしい曲だと思うので、それを聴衆とシェアしたかったんです。自分の好きな曲が弾けてよかったです。

阪田くんの聡明さ、そして彼がコンクールに正しい姿勢でのぞんでいることがよくわかる、インタビューでした。本選に進出し上位3位に入らなかった阪田くんを含む3人には、賞金1万ドルに加え、今後3年間にわたり各地でのコンサートのマネージメントがつきます。プロのピアニストとしての演奏の機会が増え、また、さらなる勉強の時間も確保することができて、変な言い方ですが、阪田くんのような若い音楽家にとっては最善の結果となったのではないでしょうか。このコンクールを踏み台にして世界の舞台にはばたき、さらにどんどんと豊かな音楽性を身につけて、阪田くんらしい音楽を披露し続けてくれることを楽しみにしています。

ちなみに、彼が言及しているホフマンのCDとは、こちらですね。