2013年2月27日水曜日

ヴァン・クライバーン氏逝去

ピアノ界の伝説的人物、ヴァン・クライバーン氏がアメリカ時間の今日27日朝、テキサス州フォート・ワース近郊の自宅で亡くなったとの発表がありました。

末期の骨がんとの診断されたとの昨年報道されたので、余命はそう長くないだろうとは予想されていましたが、やはりとても悲しいニュースです。クライバーン氏の1958年のチャイコフスキー・コンクール優勝を讃えて1962年に開始されたヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール。辻井伸行さんの優勝によって日本でもおおいに話題になりましたが、そのコンクールはちょうど50周年を迎え、今年の5月から6月にかけては第14回コンクールが開催されます。そのオーディションがちょうど数日前に終わり、3月5日にはコンクールに出場する30名の顔ぶれが発表されるところです。コンクールでクライバーン氏の姿が見られないのは、出場者にとっても聴衆にとってもとても残念なことです。

拙著『ヴァンクライバーン 国際ピアノコンクール 市民が育む芸術イヴェント』で書いたように、クライバーン氏が冷戦さなかのチャイコフスキー・コンクールで優勝したことの意義は、音楽界をこえた広い世界で非常に大きなものでした。エルビス・プレスリーにも負けない人気を集め、国民的・そして国際的なスターとなったクライバーン氏のその後のピアニストとしてのキャリアは、けっして平坦なものとは言えず、しばらくすると彼は演奏の表舞台からはおおむね姿を消したものの、政治家や芸能界とのつながりを通じて、ピアノそして芸術が世界にもたらすものの意味を広く人々に伝えるという、重要な役割を果たしました。私はちょうど今、文化政策や芸術支援にかんする研究をしているのですが、連邦政府が直接芸術活動に関与しないというアメリカの「伝統的」流れを変えて、1965年にNational Endowment for the Artsが設立されたり、1971年にワシントンのJohn F. Kennedy Center for the Performing Artsの舞台が幕を開けたり、といった形でアメリカの文化政策が展開されていくなかでも、クライバーン氏はさまざまな役割を果たしていました。そしてなにより、(これは彼の功績を讃えてフォート・ワース地域の人々が始めたもので、クライバーン氏本人は運営にはかかわっていませんが)クライバーン・コンクールによって、数々のピアニストたちが演奏家としてのキャリアの一歩を踏み出したり、地域コミュニティのプライドやバイタリティが促進されたりもし、そうした意味でもクライバーン氏の残した遺産はとても大きいです。

また、これもクライバーン氏が直接かかわったものではないですが、クライバーン財団が主催する、アマチュア・ピアノ・コンクール。私は光栄にも2011年に参加することができ、そこでの出会いや体験は、いろいろな意味で自分の人生を変えるものでした。出場者ひとりひとりと優しく握手をして言葉をかけてくださったクライバーン氏の笑顔は、せっせと練習を積んでテキサスまで出かけていった我々にとって最高のプレゼントとなりました。思い出に写真を掲載しておきます。

心よりご冥福をお祈りいたします。

2013年2月25日月曜日

アカデミー賞一夜明けて & ソトマヨール判事、検事の人種偏見的発言に抗議

昨晩はアカデミー賞の授賞式。アカデミー賞がいかにアメリカじゅうで大騒ぎかということは、日本のかたたちにはちょっとわかりにくいかもしれません。これほどまでに国じゅうのみんなが同じテレビ番組を見るのは、他にはスーパーボウルくらいではないかと思われるくらい、多くの人が注目する一大イベントです。別の箇所でも書きましたが、映画というものの文化的な位置づけが日本とアメリカではかなり違います。DVDやインターネットの普及で、映画館離れが進んでいるのは確かですが、それでも、日本と比べると、とくに映画オタクでもない一般の人たちが映画館に足を運ぶ(または自宅で映画を観る)回数や、日常会話において映画の話題で盛り上がることは、はるかに多いことも事実です。そして、それぞれの映画について、なかなか深い洞察や好き嫌いを表現する人たちがとても多い。なので、アカデミー賞はやはり毎年の一大イベントで、フェースブックでも昨日はその話題ばかりでした。私は、今年の候補作は悲しいことに一本(監督賞を受賞したアン・リーのLife of Pi。これは一見の価値多いにありですしか観ていないし(アメリカ研究者なんだから、『リンカーン』くらい観ればよいのに)、なにしろハワイは時差のため、テレビで授賞式が放映される時間にはすでに結果がすべてわかっているので、あまり見る気がせず、最初と最後をちらりと見ただけでした。賞の結果はおおむね世間一般での予想通りだったようですが、一夜明けておおいに騒がれているのが、司会を務めたSeth McFarlaneの冗談が、女性に対する侮蔑や、人種マイノリティや外国人への偏見を露呈したものの連続で、きわめて趣味が悪かった、という点。こういう舞台では、司会が頑張りすぎて面白くもない冗談を言ってしまうということがありがちですが、今回はちらりと見ただけの私も、かなりひどいと思いました。社会問題を風刺したり、支配的な価値観を茶化すことで、斜めの視点から世の中のありかたを明らかにするのは、アメリカのエンターテイメントが得意とすることでもありますが、これはそうした種類のものではなく、単に低俗で悪趣味で多くの人たちに失礼な冗談ばかり。それと同時に、そうしたことがこれだけ各種メディアで議論される、というのもアメリカの面白いどころです。

さて、アカデミー賞を観ていないあいだ、私はオバマ大統領に任命された最高裁判事ソニア・ソトマヨールの回想録My Beloved Worldを読み始めていたのですが、今日のニュースに、彼女にかんする話題がひとつ。テキサスの高裁での陪審員裁判で、黒人の被疑者について、検事が人種偏見に満ちた発言をしたことに、ソトマヨール判事が強い抗議を表す声明文を発表。他の数名とともに麻薬の売買にかかわった、とされる被疑者について、検事が、「(ホテルの部屋に)黒人がいて、ヒスパニックがいて、大金の入った袋があったんです。それを聞いて、『麻薬取引だ』とピンと来ませんか?」と陪審員に問いかけた、という経緯。その発言に対して、被疑者の弁護士は異議を申し立てなかたったため(なぜ申し立てなかったんでしょう?)、控訴においてもこの点は議論されず、最高裁は控訴を棄却し、被疑者の15年受刑の判決は支持されたものの、ソトマヨール判事は別の声明文で強い抗議を表明。「この発言によって、この検事は、我が国の刑事裁判の歴史を通じて流れてきた、深く悲しい人種偏見に訴えかけた。21世紀に入って10年以上もたった現在、アメリカを代表する立場にある人間がこのような卑劣な手段を使うとは深い落胆に値するものだ。」被疑者の有罪を訴えるにあたって人種を使うとは、「我が国の刑事裁判の尊厳を損ない、法に対する信頼をおかすものである。政府とは正義を追求するものであって、恐怖心や偏見を煽り立てるものではない。」との強い文章。パチパチ。ちなみに、この声明に賛同を表明したのは、スティーヴン・ブライヤー判事ひとり。

ラテン系の女性として史上初アメリカ最高裁判事となったソトマヨール氏。ちょうど回想録を読み始めたところなので、いろいろと感じるところあるのですが、こうした立場を今後も貫いていってくれることを期待します。

2013年2月21日木曜日

ハワイ大学、非合法移民の学生に州民向けの授業料を適用

米国議会では、移民法改正の一部として、非合法移民にも合法移民になるための機会を与え、いずれはグリーンカードも取得できるようにする、という法案が議論されていますが、そうしたなかで、私の勤務するハワイ大学で、非合法移民で、一定の条件を満たす学生には、州民向けの授業料を提供する、という決定が理事会でなされました。カリフォルニアやニューヨークを初めとする他の12の州ではすでに同様の方針が施行されています。

アメリカの州立大学では、州の住民に教育の機会を提供するのが使命、という原理で、州の住民(「州の住民」の基準は州によって異なります)の授業料は州外からの学生よりもかなり低額に設定されています。ハワイ大学では、州外の学生の年間授業料は約2万2千ドルなのに対して、州民の学生は約9千ドルと、倍以上の違いがあります。これまで、非合法移民の学生は、「州民」としての基準を満たさないとして、州外の学生の授業料が課されてきました。しかし、たいていの非合法移民の学生は、自らの意思で「非合法移民」になったわけではなく、子供のときに親などに連れられてアメリカにやってきて、何年もアメリカで生活し、学校に通い、英語を学び、自分と家族のためになんとか安定した生活力を身につけようと一生懸命勉強しようと大学にやってきている若者。そして、そうした若者たちの多くは、州外学生向けの授業料がまかなえないために、大学進学をあきらめる場合が多い。そうしたなかで、移民たちの経済的・社会的上昇を可能にするもっとも重要な要素として機能する大学が、このような経済的な負担をこれらの学生に課しているのは理不尽である、との判断で、授業料の適用方針が変更された次第です。現在在籍中の学生でこの決定によって授業料が大幅に減額となるのは10人にも満たないけれども、長期的には、この変更によって大学進学が可能になる学生の数は300人ほどにもなるとの予測。

「大学として絶対的に正しいことをしたまで」と理事は発言していますが、この記事で言及されていないのは、この決定にいたるまでのプロセス。この理事会で全会一致で支持されたこの案は、理事会の内部から出てきたものではなく、Unruly Immigrants: Rights, Activism, And Transnational South Asian Politics in the United Statesという南アジア系の移民たちのトランスナショナルな社会運動についての研究の著者で、私の仲良しでもあるMonisha Das Gupta率いる、エスニック・スタディーズ学部の教授陣や学生たちが、この案を作成し、大学じゅうをまわって署名を集め、さまざまな委員会での審議を経て今回の理事会までもっていった、という経緯。私のクラスにも、この署名運動をリードしている学生ふたりがプレゼンテーションをしにやってきて、私の学生たちと活発なディスカッションをして、署名をたくさん集めていきました。教授が、若者に大学教育の機会を与えるためのこうした運動に献身し、このような具体的な成果をあげるのも本当に立派なことだと頭が下がりますが、学部生たちがこうした活動に一生懸命にかかわる姿を見るのも、心を打たれます。こうやって確実な成果があがることで、彼らは社会運動の意義をあらたな形で理解することでしょう。パチパチ。

2013年2月18日月曜日

Great Aloha Run初体験

今朝、ホノルルでの恒例イベント、Great Aloha Runという8.15マイル(13.1キロ)のレースを初体験してきました。とくに高い志があったわけではなく、せっかく体力・体型向上のために朝5時半のブートキャンプにもせっせと通っていることだし、一度くらいこういうものを体験してみようかと思って、ぎりぎりになって申し込んだのですが、トレーニングのためのワークショップにも2回行っただけで、真剣に取り組んだとはとても言えない状態。私はランニングというよりもたらたらとしたジョギングというペースなので、わざわざ公開するに値するタイムでもありません。でも、経験としてはおおいに面白かった。なにしろ、2万5千人の人が参加するとは聞いていたけれど、2万5千人の人が一同に走るという状況がどういうことなのか、いまいち頭に浮かんでいなかった私は、朝6時半にスタート地点付近まで行って(『ドット・コム・ラヴァーズ』に登場する「ジェイソン」に車で送ってもらいました)その人混みに仰天。ダウンタウンの道路いっぱい、人、人、そしてまた人。簡易トイレの列にも、各列百人は並んでいる。朝7時スタートにもかかわらず、その時点ではまだスタート地点から数ブロックの脇道にいた私は、その人混みのなかでちょろりちょろりと歩いて前進し、スタート地点に到達するまでに10分以上が経過。走り始めてからも、初めの4マイルくらいは、あまりにも人が多すぎて、もっと速く走りたくても前がつかえて進めない。コース自体は、ダウンタウンのアロハ・タワーから空港方面のアロハ・スタジアムまで、工業地帯の高速道路の下を走るので、美しくはないのですが(ホノルル・マラソンのコースのほうがよっぽど美しい)、高速の下なので陰で涼しいし、ほぼ平坦だしで、走るのはトレーニングのときよりずっと楽でした。


それにしても、世の中の人たち、それも、とくに速いランナーでもない人たちが、なぜこういうレースに好き好んでやるのか、少し気持ちが理解できました。走るという行為はともかくとして、これは要はお祭り。これだけ多くの人たちと、同じことをしているというだけで、なんだか高揚感を感じるし、路上で、中学や高校のブラスバンドや太鼓のグループが演奏してくれたり、給水所で子供たちが水を配ってくれたり、「あと何マイル、頑張って!」と声援を送ってくれたりすると、「コミュニティ」の意識が不思議と湧いてくる(このあたり、私の頭や心はけっこう単純)。走ったり歩いたりしている人たちも、老若男女ほんとういいろんな人たちがいて面白い。なるほどねえ。まあ、このレースはまたやってもいいかなと思ったけれど、これ以上距離をのばしてハーフマラソンやフルマラソンをやってみたいかというと、うーん、ま、いいや。。。(苦笑)

まるで関係ないですが、日本時間では今日の19日(火)から毎週火曜4回にかけて、讀賣新聞の夕刊で私の「米国大学教授の流儀」というコラムが載ります。毎回500字という、ごくごく短いものなのですが、よかったら読んでみてください。

それでは、これからマッサージとブランチに行ってきます。

2013年2月4日月曜日

性を超えて/変えて生きるということ サラ・デイヴィス・ビュークナーの人と音楽

以前、私が運営を手伝っている、アロハ・インターナショナル・ピアノ・フェスティヴァルというイベントについてこのブログで紹介したことがありますが、去年のフェスティヴァルにゲスト・アーティストとして参加したピアニスト、サラ・デイヴィス・ビュークナーによるエッセイが、昨日のニューヨーク・タイムズに掲載されました。

現在ヴァンクーヴァーのブリティッシュ・コロンビア大学で教えながら世界各地で演奏活動やマスタークラスをして活躍しているサラ・デイヴィス・ビュークナーのアイデンティティについてあれこれ言う人はもうほとんどいなくなったものの、ここ10年間の彼女のキャリアはとても厳しいものでした。彼女は、もとはデイヴィッド・ビュークナーという名で、チャイコフスキー・コンクールに入賞し、世界トップレベルのオーケストラと年間50の演奏をする、国際的に活躍する男性ピアニストだったのです。しかし、子供の頃から、自分は女性であるべきだと意識して生きてきた「彼」は、家族の反対を押し切って、自分の性的アイデンティティに忠実に生きることを選択し、まず1998年に、トランスジェンダーとしてカム・アウトし、サラ・デイヴィス・ビュークナーという名を公私ともに名乗ることにし、さらに2003年にタイに渡って性転換手術を受けました。ニューヨークに住んでいながらわざわざタイまで行って手術を受けたのは、同じ手術をアメリカで受けると6倍もの費用がかかり、性転換手術に適用される保険もなかったから。そのタイでの手術でひどい傷を負ってしまった後、ニューヨークに戻って、その傷を治す手術をするはめになった彼女にとって、その手術は苦難のごく一部でしかありませんでした。それまでは各地でひっぱりだこだったにもかかわらず、サラとしてカム・アウトしてからは、ぴたりと演奏の依頼がこなくなり、その後5年間は、地元の小さなコンサートをのぞいては、年間にほんの数回の演奏の機会しかなく、オーケストラとの共演は皆無の状態が続きました。当時マンハッタン音楽院で講師をしながら、フルタイムの教職を探していた彼女を雇ってくれる大学はアメリカじゅうのどこにもありませんでした。

マンハッタンを後にしてブロンクスに住み、子供たちにピアノを教えながら細々と演奏活動をしていたサラを、ジュリアード音楽院時代の同級生が見つけ、マネージャーになると申し出、「とにかくサラの演奏を世に知らしめなくては」と、せっせと演奏の契約をとりつけるようになります。そうするなかで、ヴァンクーヴァーのブリティッシュ・コロンビア大学での教職のポストが空き、採用されたサラは、2003年にカナダに移住しました。彼女の性的アイデンティティが採用の際にまったく問題にならなかったというわけではないものの、ピアノの教授としての仕事において、そんなことよりずっと重要な要素をたくさん彼女はもっていた、という大学の関係者。カナダでは2005年には同性婚が認められ、サラはデイヴィッドであった頃からずっと交際中であった日本人女性と正式に結婚することもできました。アメリカでは見向きもされなかったサラが、カナダでは次々と大きな舞台での演奏を依頼され、カナダで演奏を重ねることによってアメリカでも次第に彼女への門戸が開かれるようになりました。2009年にはニューヨークのマーキン・ホールでのリサイタルが大喝采を受け、演奏家としてのサラのキャリアも再び軌道に乗っています。

ゲイやレズビアンの人々に対する意識や態度は、アメリカではゆっくりと、しかし確実に、変化しつつあり、ひとつまたひとつと、同性婚を合法化する州も増えています。そのいっぽうで、トランスジェンダーやトランスセクシュアルの人々に対しては、依然として無理解や差別が強いのは確かです。アメリカのなかでももっとも多様な人々が集まると信じられているニューヨークで、サラがマンションを購入しようとすると、マンションの理事会に理由を告げられないまま断られる(ニューヨークのco-op式のマンションは、このような決定権を理事会が握っているのです)などの扱いを受けるいっぽうで、カナダではずっと自由に生きられる、という彼女の体験に、いろいろなことを考えさせられます。そしてまた、こうした文章を発表する彼女の勇気から、音楽においても文章においても人生においても、自分に真摯で誠実であることこそが人の心を打つのだ、ということを学ばされます。

私自身は、彼女と知り合ったのはほんの一年前ほど、彼女がサラになってからずいぶんたってからのことです。私が知る人のなかでももっとも温かくおおらかな人物のひとりで、アロハ・インターナショナル・ピアノ・フェスティヴァルのアマチュア・プログラムでも、ほんとうに親切で丁寧でポイントを突いた指導をしてくれました。ちなみに、彼女は阪神タイガースの熱狂的なファンでもあり、六甲おろしをテーマにした曲を委嘱したりもしています(笑)。辻井伸行さんが「盲目のピアニスト」などではなく、立派なひとりの芸術家であるのと同様、サラ・デイヴィス・ビュークナーの音楽家としての価値は、彼女の性的アイデンティティなどとは無関係のところにあり、「トランスジェンダーのピアニスト」などと呼ばれるのは彼女が望むところではまったくないはず。サラの、ダイナミックでかつ繊細で表情豊かな演奏を聴くと、そんなことはすぐに忘れてしまいます。彼女の辿ってきた道程を紹介した2009年の記事のリンクから、演奏の抜粋も聴けますので、ぜひどうぞ。