2021年8月18日水曜日

親中・嫌中では捉えられない海峡を超えた力学とネットワーク 『中国ファクターの政治社会学』

『中国ファクターの政治社会学 台湾への影響力の浸透』を読みました。(情報開示:この本の編者であり監訳者である川上桃子さんは、私の仲良しです。)

私は台湾からの優秀な学生を何人も指導していることや、台湾出身の素晴らしい仕事仲間がいることなどから、勝手にぼんやりとした親しみを感じている台湾。そして、アメリカの大学や音楽界の状況においても無視する訳にはいかない「チャイナ・ファクター」。香港から届く心痛ましいニュースに見る中国の影響。そんなこんなで、自分の専門分野とは違うのですが、とても興味を持って読みました。

私にとって一番面白いのが、第三章。アメリカ人(白人男性)研究者が中国人団体観光ツアーに同行して台湾を見るエスノグラフィー。中国の観光業者や台湾のガイドがどんな台湾をどうやって中国人の観光客たちに見せたり演じたりするか、それに対して観光客たちはどう反応するか、といった様相が、エスノグラフィーならではのthick descriptionで描かれていて、キョーレツに面白い。淡々とした語り口に笑ってしまうような箇所もありながら、ウームと考えさせられます。その前の第二章と合わせて、観光という一見政治とは無関係な活動が、どのように大きな地政学の中で実践されるか、いろいろなヒントを与えてくれます。

中国企業の台湾投資を扱った第五章も面白い。政治とは違ったロジックで動くビジネスの世界、でも当然ながら、政治から独立した形で資本が動くわけではなく、中国・台湾それぞれの政府の政治目的がさまざまな形で作用する中で、中国企業はひっそりと台湾での事業を展開し、台湾企業のほうもあれこれの思惑を検討しながら中国資本を受け入れる。なるほど。

第六章の教科書論争についての論考も、ごく基本的な次元で、そうか、教科書論争というのは台湾にもあるんだな、そしてこういう風に表出するんだなと、なるほどなるほどと思いながら読みました。
共編者であり監訳を担当した川上桃子さんがこの本について語るインタビューが、ブックラウンジアカデミアのポッドキャストで配信されたばかり。とてもわかりやすくて良いのでオススメです。(ちなみにこのブックラウンジアカデミアは、毎回とても面白くて、私は料理をしながら聴くのを楽しみにしています。すっかりファンになったので、自分もインタビュアーとして登場させてもらうことにしました。それについては追ってまたお知らせします。)

2021年8月9日月曜日

ピアノはモノである 田中智晃『ピアノの日本史』

 私は1968年生まれ。育った東京のマンションの4畳半の部屋にはヤマハのアップライトピアノがあり、3歳でレッスンを受け始めました。そのピアノは、今もその実家にカバーがかかり、物置き台となって残っています。私の世代の人たちの約五分の一が似たような経験をしているはず(1979年に国産ピアノの出荷台数はピークを迎え、2000年時点で日本におけるピアノの普及率は21%)。そして、日本の楽器産業は現在圧倒的に世界をリードしている。なぜそうなったのか?それを見事に解明してくれるのがこの本、田中智晃『ピアノの日本史 楽器産業と消費者の形成』。かなりどっしり感のある本ですが、面白くて一気に読了してしまいました。

戦前の複数の日本企業がピアノ製造法を学んで国内での生産と流通システムを作り、戦後にヤマハが高品質を保ちつつ大量生産を可能にする製造技術を開発し、日本の一般家庭にピアノを付随サービス付きで届けるとともに海外市場を開拓し、ブランドを確立して世界トップの楽器メーカーになる過程を、丁寧なデータ分析で解説。でも(少なくとも私にとって)この本で一番面白いのは、その生産の仕組みの部分ではなく、それを継続していくためにピアノ製造業者が考案してきたあれこれの市場開拓や流通システム整備の部分。ピアノとは音楽という芸術のための楽器であると同時に、近代産業の産物であり、モノであり、製品である。それも、やたらと部品が多くて生産には高度な技術が必要、安くなったとは言ってもそれなりに高価、たいていの消費者は一度買ったらそうそう買い換えない、買っても弾けるようになるためには相当の学習が必要、家のスペースを食う、騒音問題あり…など、あれこれややこしい性質を帯びたモノ。そうした性質ゆえ、いくら製造技術を改良し続けても、誰もがテレビや冷蔵庫を買うようにピアノを買うわけではないし、やがて市場は飽和状態になること、すなわち「斜陽化」を、製造業者はある時期からちゃんと見越していた。それに対応するために、あれこれの事業展開を進めてきた。その部分がたいへん面白いのであります。著者は流通史の専門家なので、特約店の仕組みはとりわけ丁寧に分析されていて、「なるほどそういうことだったのか」と腑に落ちることたくさん。私には、とくにヤマハ音楽教室の話がものすごく面白い。カワイが始めた予約販売の話(「ヤマハレディ」への言及がちょっとあるんだけど、もっと知りたい!)も面白い。電子楽器やプレイヤーピアノをめぐる試行錯誤の話も面白い。そしてまた、海外市場の話も面白い。…と、「面白い」という面白くない単語を何度も繰り返してしまうくらい、興味深いデータと分析が満載。テクニカルな情報が多いにもかかわらず、文章も明解で読みやすいです。
個人的には、国内外の労働面(工場の従業員とか、調律師の養成とか、ディーラーの研修とか)についてもっと知りたった気もします。マーケティングについてももっといろいろ分析できそう。また、実に素敵な表紙でも示されているように、一般消費者にとってピアノという楽器は特有のジェンダー化された意味づけがされているので、それが生産・流通・消費の過程でどう作用しているのか、もっと正面からの分析も欲しい(←自分でやれと言われそうなので、はい、やります)。そして、グローバル市場での「日本企業」としてのヤマハの意味付けも知りたい。最後の最後で触れられている、中古ピアノ市場についてももっと知りたい。…などなど、さらに知りたいことが次々に頭に浮かぶということ自体、脳を刺激するよい本の印。これじゃあ何が何だかわからないというくらい、付箋がいっぱいになってしまいました。オススメです! 


2021年8月8日日曜日

「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」オンラインセミナー 8/22(日)より全3回

 南カリフォルニアで2週間を過ごし、10日前にホノルルに戻ってきたのですが、デルタ株によりハワイでは(も)新規感染者数が猛烈な勢いで増えています。ロスでは満員(!)のハリウッドボウルでデュダメル指揮、ヴァイオラ・デイヴィスのナレーションによる「ピーターと狼」を聴いてきましたが、今ではもう何時間も飛行機に乗ったりたくさんの人が集まるところには行く気にならず、行ける間に行っておいてよかったです。

さて、2週間後の8/22(日)より全3回で、オンラインセミナーをします!題して「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」。読んでいただいているかたにはすぐわかるように、拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? –– 人種・ジェンダー・文化資本』をもとにした内容です。この本が日本語で刊行されたのは2013年、原著である英語版が出たのが2007年、そしてメインのフィールドワークをしたのが2003〜2004年なので、それ以来けっこうな年月が経っているのですが、興味深いことに、ここ一年間立て続けに、このテーマについての取材や講演や執筆の依頼を受けています。つい最近も「ズーカーマン事件」とも呼ぶべき出来事があり、それを受けてニューヨーク・タイムズに掲載された記事でも、名前は載りませんでしたがかなり長時間の取材を受けました。クラシック音楽界におけるアジア人の活躍がさらに広がっているだけでなく、ブラック・ライヴズ・マター運動の流れの中で文化芸術界にもさまざまな問いかけがなされるようになり、また、コロナ禍で急増しているアジア人への暴力などの状況において、「西洋のもの」とされているクラシック音楽における「アジア人」の位置づけや、音楽と人種の関係といった問題が改めてレレバンスを持ってきているのを実感しています。

本を読んでいないかたにもわかりやすいように内容を紹介しながら、本の刊行後のクラシック音楽界やアメリカ社会の展開も視野に入れ、また、自分で本を振り返っての反省や、「今この本をアップデートするならこんな風に」といった話もするつもりです。聞き手は、去年のオンラインセミナーと同じく、坂元勇仁さんが務めてくださいます。見逃し配信もありますので、リアルタイムでの参加ができないかたも、ふるってお申し込みください!質問・コメント大歓迎です!

申し込みはこちらからどうぞ。


2021年7月3日土曜日

「我々はアメリカ人ではない!」 ハウナニ=ケイ・トラスクのレガシー

長年闘病を続けていたハウナニ=ケイ・トラスクが、しとしとと静かな雨が降る今日2021年7月3日午前、息を引き取ったとの知らせがハワイ中に伝えられました。

ハワイではその名を知らない人はいないくらい影響力の大きい人物でしたが、日本では一部のハワイ通を除いては彼女のことはあまり知られていないのではないでしょうか。研究者仲間と一緒に執筆中で来年刊行予定の本の中で、彼女についての文章を書いているので、ここではごく簡単に紹介するだけにしておきます。

とにかく見ていただきたいのがこのビデオ。


これは、約20分間にわたる彼女のスピーチの最初のごく一部ですが、ここで繰り返されている "We are not American!"、そう、「我々はアメリカ人ではない!」というシンプルな一文は、ハワイとアメリカ合衆国の関係の歴史を理解する上できわめて重要なものです。

このスピーチは、1993年1月17日、ホノルルの中心部にあるイオラニ宮殿の敷地内で行われたもの。100年前の1893年1月17日にハワイ王朝が非合法に転覆されたことへの怒りを悲しみを表し、ハワイアンの主権を主張するため、4日間にわたって行われた抗議行進・集会のクライマックスでした。当時すでにハワイアン主権運動のシンボル的存在だった彼女は、斜め前に建つハワイ州議事堂をじっと見つめて「我々はアメリカ人ではない!」と繰り返し叫び続けたのです。

19世期末に独立国家としてのハワイは滅亡し、列島はアメリカの領土となりました。第二次世界大戦後、住民の多く、とくに政財界のリーダーたちが、アメリカ合衆国におけるハワイの政治的地位を強化するために立州化を求め、1959年にそれが実現してハワイはアメリカ合衆国の50番目の州となりました。ゆえに、現在ハワイはアメリカ合衆国の一部であり、先住ハワイアンもアメリカ国籍を持ちます。しかし、そうして「アメリカ国民」「ハワイ州の市民」となることをハワイのすべての人々が歓迎したわけでは決してありませんでした。


1778年にジェイムズ・クック率いるイギリス船が到着して以来、ハワイには世界各地から植民者や資本、文化が流入し、また疫病や環境の変化によって先住ハワイアンの人口は激減し、社会構造や生活様式が急激に変化していきました。歴代のハワイ政権は積極的に西洋近代の技術や政治制度を採用することで列強諸国と対峙しようとしたものの、土地の私有化によってハワイアンの人々は生活の基盤を奪われ、キリスト教化・西洋化によって宗教・言語・伝統文化の多くを失い、アメリカ人資本家たちにハワイ社会の実権を握られていったのです。


そして、政治力・経済力のさらなる拡大を図った少数のアメリカ人が、1893年に米海軍の支援をバックにクーデターを起こし、抗議宣言を発したリリウオカラニ女王をイオラニ宮殿に幽閉し、ハワイ王朝を転覆させ、翌年にはハワイ共和国が誕生しました。そして、クーデターへの米軍関与は不正であったと判断したクリーヴランド大統領の反対にもかかわらず、1898年にハワイはアメリカ合衆国に併合されました。米海軍はハワイを太平洋地域最大の拠点とするため巨大な軍事施設を建設し、1941年に日本軍の真珠湾攻撃により第二次世界大戦の舞台となったハワイは戒厳令下に置かれました。戦後には、プランテーション農業の衰退とともに、ハワイの産業は観光と軍事に急速に移行し、環境破壊や経済格差、土地開発に伴う住民の強制移動などが進行しました。


1960年代にアメリカ本土で公民権運動、ブラック・パワー運動、先住民運動などが盛り上がりをみせる中、ハワイでも、植民地化や抑圧と差別の歴史を問い質し、先住ハワイアンの主権回復を訴える運動が起こりました。第二次世界大戦中に米軍に接収され、戦後も米海軍の爆撃演習地として使用され続けたカホオラヴェ島に、草の根運動家たちが乗り込み、身体を張って爆撃を停止させ、島を市民の手に取り戻したProtect Kahoʻolawe ʻOhana(PKO)運動や、先住ハワイアンへの正当な土地使用権の分配を訴えたり、資本の利益を優先した土地開発に反対したり、ハワイアンの教育や雇用の正当な機会を要求する運動が、急速に盛り上がっていったのです。キリスト教宣教師たちによって使用を禁じられていたために使用者が激減していたハワイ語や、フラやチャントを初めとするハワイの伝統文化、そして伝統様式の農業や漁業を復興する運動も、ハワイ各地で広がっていきました。

そうした中で、ハウナニ=ケイと妹のミリラニ・トラスクはハワイ主権運動のリーダーとなり、1987年に発足したハワイアン主権運動団体Ka Lāhui Hawaiʻiの創設メンバーとなったのです。ハワイ内外のさまざまなグループと連携しながら1993年の抗議行進・集会を数年間かけて準備したのもこの団体。 


“We are not Americans!” という、聴衆が一瞬はっと息を呑んだ衝撃的な宣言の後で、彼女は「主権(sovereignty)とは何か」を、溢れ出る怒りを燃えるような視線に込め人差し指を立てた腕を振りながら、力強くこう論じました。----主権とは、気持ちの問題でもアロハの精神の問題でもハワイアンとしての誇りの問題でもない。そんなものは我々はすでに持っている。主権とは、自らの政府を持ち、自らの国家を持つことである。自らの政府を持つことでのみ、自らの権力を行使し、自らの土地を管理することができる。主権とは一にも二にも政治である。アメリカ合衆国は民主主義の国などではない。人種差別によって先住民の滅亡をもたらす世界最大の帝国である。ハワイ州はそのアメリカ合衆国の一機関である。行儀よく話し合いをしている場合ではない。憤り闘わなければいけない。私は憤っていることに誇りを持っている。ハワイアンであることに誇りを持っている。私は、そして私たちは、アメリカ人ではない。アメリカは私たちの敵である。闘うのだ。


ハワイで直接行動や政府機関を相手取っての活動を続けるうちに、トラスクはどんどんと雄弁になり、そのメッセージは先鋭化されていきました。ハワイ大学のキャンパス、そして新聞やテレビなどの公的メディアでの歯に衣着せぬ発言や議論を通じて、若い学生たちを初めとする多くのハワイアンやその運動を支持する人たちの尊敬を集め、一種のロールモデルとなっていきました。彼女へのバックラッシュもきわめて大きいものでしたが、それでも彼女は、ハワイ植民地化の歴史への無理解と根強い制度的差別に対し、つねに前面に歩み出て闘い続けていったのです。1970年代にはほとんどのハワイアンの人々が「主権(sovereignty)」という単語を口にすることさえ躊躇ったのに対し、1990年代には世代を超えて多くの人々が運動に参加し、ハワイ社会の支配層も無視できない勢力となりました。“We are not American.”演説のあった1993年には、ハワイ王朝の転覆そしてアメリカ合衆国への併合はハワイアンの意志に反して非合法に行われたことを認める「謝罪決議」がアメリカ連邦議会で可決され、クリントン大統領によって署名されました。大学でハワイの歴史や政治や言語を学ぶ学生も増え、いまだ不十分とはいえ、さまざまな分野でハワイアンの教員も採用されるようになっています。マウナケア山の30メートル望遠鏡(TMT)建設に抗議する活動家たちの多くは、トラスクの教えを受けた人々。彼女が身体を張って示したハワイアン主権の理論と実践は、ハワイ各地で若い世代に脈々と受け継がれているのです。


ハワイの独立と主権を奪ったアメリカ合衆国の独立を祝うような日にはもう付き合っていられない、私はアメリカ人じゃないんだから、とでも言わんばかりに、7月4日のアメリカ独立記念日の前日にこの世を去っていったトラスク。いかにも彼女らしい旅立ちだと思います。


彼女の著書の中でももっともよく知られるFrom a Native Daughter: Colonialism & Sovereignty in Hawaiʻi は、『大地にしがみつけ----ハワイ先住民女性の訴え』というタイトルで邦訳も出ています。現在、ハワイではコロナ禍がだいぶ落ち着いて、観光客もかなり戻ってきています。日本からも再びたくさんの人が訪れるようになるでしょう。ハワイに旅する日本の人たちにも、トラスクのことを知って、ハワイの歴史や社会について理解していただきたいです。 

2021年6月16日水曜日

99%のための音楽史宣言『バイエルの刊行台帳』

 

かつては週に数回も書いていたことのあるこのブログ、2020年にはなんと1回しか投稿がなく、それもオンラインセミナーの宣伝で、これではブログと呼べないトホホな状態になってしまいましたが、気を取り直して新たな投稿をしようという気持ちにさせてくれたのが、この本、小野亮祐・安田寛『バイエルの刊行台帳 世界的ベストセラーピアノ教則本が語る音楽史のリアル』。 

安田さんの『バイエルの謎』を読んだときに私は大いにコーフンして、2012年5月にこちらのブログでも紹介しました。それから10年近くが経ち、私はリアルでお会いしたこともない安田さんと、お互いのオンラインセミナーを視聴したり一緒にzoom読書会をしたりする仲になっていて、人生というのは生きてみるものです(笑)。で、この本は『バイエルの謎』の続編として、安田さんの研究仲間の小野さんと共著で書かれたもの。「面白くて、ためになる」本というのがこの手の読みものの魅力ですが、その点においてこの本は満点! 

グーテンベルクの活版印刷で知られるマインツにある老舗楽譜出版社、ショット社の廊下に、ある作曲家の肖像が飾られている。あの「バイエル」である。日本でピアノをやった人は誰でもその名を知っているとは言え、ドイツに限らず音楽史において今ではまったく無名となったバイエルの肖像が、ベートーヴェンやワーグナーの楽譜を出版したこの会社でわざわざ飾られているのはなぜか? という問いからこの物語は始まる。 

その問いを解明するのに大きな鍵となるのが、ショット社の刊行台帳。一口に「バイエル教則本」といっても、実にいろいろな版が次から次へと出版されている。刊行台帳と睨めっこしながら、いつ何がどのくらいの部数刊行されたのかという基本的な情報を、著者は丹念に追っていく。そして、バイエルの教則本が、当時の楽譜市場においてどういう位置付けにあったのか、他にはどんな教則本が出回っていて、それらと比べて「バイエル」の内容は何がどう魅力的だったのか、といったことを、出版史や文化史の文脈から辿っていく。(注・とくに付録が大事。)そしてまた、それほどたくさんの教則本を書くに至ったバイエルのキャリアの道程と意味を探るために、彼が青春時代を過ごし、音楽家としての夢と挫折を味わったライプツィヒの街の音楽文化を描く。 

その辺りまでもたいへん興味深いのですが、いよいよ謎が深まり、核心に迫っていくのが第4章。ミステリー映画であれば、不穏な音楽がバックに流れ、主人公が暗い廊下をそうっと進んで、奥にある一枚の扉を開けようとするところ。(とは言っても、私はミステリー映画をあまり観ないのでこれは無知な想像で、まったく的外れかもしれません、あしからず。)この本でそれは、暗い廊下の奥にある扉ではなく、ミュンヘン国立図書館の仰々しい大階段を上がって音楽部門に到着し、それまでに閲覧希望の資料についてあれこれやり取りを重ねていた担当司書のザビーネさんが取り出してきて見せてくれる、ある手書きの楽譜。(ここでワーグナーの和音のようなドラマチックな効果音。)ネタバレにならないよう、その具体的な内容はここでは明かしませんが、読みながら私は思わず「おおお〜!」と声を上げました。 

そしてそこからさらに謎解きは続く。56歳で亡くなったバイエルが遺した楽譜をショット社に売った妻とその子供たちはどうなったのか?「V.」とは何者?ショット社はあくどい悪徳商法で「バイエル」の名を使い回していたのか?そして、資料にある印刷譜に押されているとあるゴム印の意味は???などなどのハテナが、安田さんならではの、読者をグイグイ引き込む謎解きスタイルの筆致で綴られていて、まあとにかく面白く、謎が解けたときにはこちらも思わず大きく溜息をつく。 

といった調子でおおいに楽しめるのですが、私が一番ドキドキワクワクゾクゾクするのは、この謎解きから話を深め広げて、これまで一般的に「音楽史」と呼ばれてきたものに大きな挑戦を投げかける第5章。ここでは、音楽史からすっかり名が消えてしまったバイエルを、同じくショット社のお抱えで、こちらはまぎれもなく西洋音楽史に大きく名を残すワーグナーと並べて論じることで、19世紀ヨーロッパで音楽がどのように演奏され聴かれ学ばれていたのかを、鮮明に描いてみせてくれる。「マイスタージンガー」の楽譜の刊行の実態----マイスタージンガーのどの部分のどんな形態の楽譜を、誰が買ってどう使っていたのか----を知ると、ワーグナーという存在、オペラという芸術形態、そして音楽を「する」という行為や活動についての理解が、大きく転回するのです。「作品番号によってではなく、プレート番号によって書かれる音楽史のリアル」と著者が表現しているように、偉大な作曲家として名を残した人たちの列伝とその作品分析ではなく、そうした「偉人」を取り囲み、いや彼らを支える形で、無数の楽曲を作曲したり編曲したりしていた音楽家たちの営みに光を当てることで、これまでとはまったく違った「音楽史」が浮かび上がってくる。これはまさに、「99%のための音楽史宣言」なのであります。 

私もDearest Lennyのための調査で、バーンスタインのレコードの売り上げ明細と睨めっこしたり、バーンスタインの仕事を管理したアンバーソン社と楽譜出版社の間でやりとりされた書簡を読んだりして、驚いたことも、いやでも考えてみれば驚くことではないのかもと思ったりすることも沢山あったのですが(そのあたりはとくに第3章で書いてあります)、そういう商業市場としての音楽のリアルな状況は、バイエルの時代にすでにあったのでした。そして、さまざまな経緯を経て、ごくごく一部の作曲家が音楽史のキャノンを形成していく陰で、今では誰もその名を知らない数え切れないほどの人たちが、音楽を生み出し続け、その人たちの書いた教則本をブルジョアのお嬢さんたちがせっせとさらい、その人たちが編曲した楽曲を母娘や姉妹で連弾し、その人たちがピアノ伴奏用に編曲したオペラ曲のヴォーカルスコアを見ながら家庭のサロンコンサートで歌ったりしていた。そうしたお嬢さんたちが殿方に見染められ、やがて結婚し家庭を持ち、またそれらの教則本や連弾符やヴォーカルスコアを使って子供たちと音楽を楽しんでいた。それが19世紀ヨーロッパの音楽活動だった。「その人たち」の人生は幸せだったのか、そうでなかったのか。そんな問いは大きなお世話である。「その人たち」はまさに「音楽」をしていたのである。ドキドキしたり哀しくなったり胸が熱くなったりしながら、そんなことに思いを馳せ、知的にも情感的にもドラマチックな体験をさせてくれる一冊です。 

さて、小野さんのあとがきにちょっと書かれているけれど、私としては、小野さんと安田さんの共著のプロセスがもっと知りたかった。本文中ずっと、「僕」という一人称単数が主語になって謎解きがされていく。『ブッデンブローク家の人々』を上着のポケットに入れてフランクフルトに降り立った「僕」は、小野さんなのか、安田さんなのか、それともやはり二人の魂の複合体なのか? 資料探して三千里(?)マインツやミュンヘンに飛んで行ったのは小野さんなのか(ショット社の前で小野さんが立っている写真が後半に掲載されている)、それとも安田さんと二人で一緒に行ったのか?親子ほど歳の離れた(実際に安田さんは小野さんのお父様と同い年だそうです)、キャラもだいぶ違う(私は小野さんとは面識がないのですが、オンラインセミナーでお二人のお話を視聴した印象だと、安田さんとはだいぶキャラが違う印象)この二人が一緒に旅したのだとしたら、なんだか愉快な珍道中だったのではないかと想像でき、その様子についても知りたい。小野さんが一人で出かけて行って、発見したことを安田さんにその都度報告していたのだとしたら、そのやり取りの様子も知りたい。そしてこの本を二人で一緒にこういう文章にするまでに、どんな密な作業がなされたのかも知りたい。そうした話はいつかどこかで聞けるかな… 

とにもかくにも、是非ご一読を!


2020年8月22日土曜日

『愛するレニーへ、日本からの手紙』オンラインセミナー 9月6日(日)より全3回

 2020年の想像を絶する展開に背筋が凍る思いをしているあいだに、前回の投稿からまる一年が経ってしまいました。そしてまた、その投稿でお知らせした拙著Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro の刊行からちょうど一年が経とうとしています。

本来は夏に日本で本の内容を紹介する講演をいくつかする予定だったのですが、帰国そのものができなくなってしまったので、代わりにオンラインセミナーを開催することにしました。コーラスカンパニー主催で、日本時間で9月6日(日)をはじめとして全3回にわたって、本で扱っている内容をインタビュー形式でお話しします。聞き手を務めてくださるのは、「学び舎遊人」シリーズの坂元勇仁さん。

レナード・バーンスタインやクラシック音楽全般、また戦後の日米文化関係に興味があるかたにはもちろんですが、それ以外の一般のみなさんにも、人間の愛情の物語として、ゼッタイに面白く聞いていただけるとお約束いたします!リアルタイムで視聴いただければ、ご質問やコメントにお応えできますが、日時の都合が悪くても期間限定で録画をご覧いただける設定になっています。どうぞふるってお申し込みください。

これに先立ち、先週末は、私の友達(とその友達)向けのプライベートなトークイベントをZoomで開催しました。多様な分野の読者の感想を、と思って素敵なコメンテーターを4人もお願いしていたのですが、お盆の最中でもあり、聴衆が全然いなかったらどうしよう、と少し心配していました。でも、インフルエンサーでもあるコメンテーターの集客力もあって、予想の倍以上の参加者に熱心に聞いていただき、とてもよい質問やコメントが続いて、予定時間を大幅にオーバーして、刺激的で楽しい時間を過ごしました。オンラインセミナーでも、参加者のみなさまとの交流を楽しみにしています。


2019年8月24日土曜日

Dearest Lenny: Letters from Japan and the Making of the World Maestro 発売! 


2019825日は、20世紀を象徴するアメリカ、そして世界の音楽家、レナード・バーンスタインが生きていれば101歳の誕生日です。これまで1年間にわたり、世界各地でバーンスタイン生誕100周年記念のコンサートやイベントが開催されてきました。その記念すべき年の締めくくりになんとか間に合う形で、私がこれまで6年間取り組んできたプロジェクトが本となって発売になりました!題してDearest Lenny: Letters from Japan and theMaking of the World Maestro

6年前にワシントンの議会図書館の音楽部門にあるバーンスタイン・コレクションをリサーチに行ったとき、私はバーンスタインそのものを研究対象とするつもりはありませんでした。まったく別のプロジェクトのケーススタディのひとつとして、ケネディ・センターについての資料を集めていて、この舞台芸術施設が1971年にオープンした際のこけら落とし作品としてバーンスタインの『ミサ曲』が上演されたので、そのことについて調べていたのです。

ところがこのバーンスタイン・コレクション、一人の芸術家にまつわる資料コレクションとしては世界でも最大級と言われており、1700以上の箱にマニュスクリプトやビジネス書類など40万点以上が所蔵されている、研究者にとっては天国とも地獄とも言えるような膨大なアーカイブなのです。いったいそこに何が入っているのかを漠然と理解するだけでも一苦労。このコレクションの目録に目を通し、バーンスタインに手紙を送った、あるいはバーンスタインから手紙を受け取った人物の名前のリストをざっと見ているとき、私は聞いたことのないふたりの日本人の名前を見つけました。ひとりは、Kazuko Amanoさん。もうひとりは、Kunihiko Hashimotoさん。小澤征爾さんや五嶋みどりさんの名前ならリストされていても当然だけれども、このふたつの名前は聞いたことがない。ケネディ・センターについての研究とは無関係だろうと思いつつも、この二人がいったいどういう人物なのかに興味を引かれて、私はこれらの箱の閲覧請求をしました。そして、その箱が出てきた瞬間、私の研究はまるで方向を変えました。それらの箱との出会いは、研究者人生において一度でもあれば地に平伏して感謝するような、運命的な発見だったのです。

父親の駐在のためパリで育ちパリ音楽院でピアノの勉強をしていた天野(当時の姓は上野)和子さんは、戦争勃発のため一家で帰国します。戦時下の日本では満たすことのできなかった広い世界への好奇心や音楽への思いに駆られて、戦後、占領軍の文化政策の一環として運営されていた東京のCIE図書館(アメリカン・センターの前身)に通って英語の書物を読みあさっていた和子さんは、ある音楽雑誌に掲載されていた、レナード・バーンスタインという指揮者の短いエッセイを読み、深く感銘を受けます。バーンスタインは1943年に臨時のピッチヒッターとしてニューヨーク・フィルを指揮し衝撃的なデビューを飾っていたとはいうものの、まだキャリアとしては駆け出しの段階でした。その、初めて知る若い音楽家の文章に感銘を受けて、18歳の和子さんは、わざわざバーンスタインの誕生日を調べ、ファンレターを送ったのです。その人並み外れた行動力が実を結び、なんと一年ほど経ってから、和子さんはバーンスタインから返信を受け取ります。そこからふたりの書簡のやりとりが始まり、和子さんの最初のファンレターから14年を経た1961年にバーンスタインがニューヨーク・フィルを率いて初来日する時には、和子さんは夫と幼い子供ふたりと一緒に、バーンスタインと初の対面を果たし、その後、天野一家は家族ぐるみで熱烈なレニー・ファンとなっていきます。結婚、子供の誕生と成長、50代になってからの就職、といったさまざまな人生の段階を辿る過程で、和子さんにとって、バーンスタインへの愛情は特別な心のよりどころとなるのです。

いっぽう、橋本邦彦さんがバーンスタインに出会ったのは1979年夏。ニューヨーク・フィルの日本ツアーの最終コンサートの後に知人の紹介でバーンスタインと会った橋本さんは、それまで憧れのアーティストであったマエストロを目の前にして、一瞬にして劇的な恋に落ちます。バーンスタインの東京での最後の夜を共にし、空港で彼を見送った後で、橋本さんは最初の長い長いラブレターを書きます。そしてその後、橋本さんはまるで日記を書くかのような勢いで、バーンスタインへの情熱的で切実で真摯な思いを書き綴り、送り続けるのです。バーンスタイン・コレクションに所蔵されている橋本さんの手紙は、全部でなんと350通以上。

結婚し子供3人と幸せな家庭生活を送ったバーンスタインが同性愛者でもあったことは、多くの人が知っていたことでした。妻となるフェリシアも、結婚前からそのことをじゅうぶん承知の上で、愛情と信頼によって家庭を築こうとバーンスタインに決意を伝えた手紙が残っています。結婚生活中も、フェリシアが1978年に亡くなってからも、バーンスタインには数多くの男性の恋人がいたことも、広く知られていることです。橋本さんは、バーンスタインにとって一人きりの恋人という訳ではなく、そのことも橋本さん自身はよく理解していました。でも、橋本さんはバーンスタインにとって単に行きずりの人物だったかというとそうではなく、きわめて特別な存在であったことは、バーンスタインが二度にわたって橋本さんをヨーロッパに招待し、仕事の合間に親密で素敵な時間を過ごしていることからもわかります。

当初は保険会社に勤めるサラリーマンだった橋本さんは、バーンスタインと出会って数年後に、一大決心をして会社を辞め、もともと情熱を抱いていた舞台芸術の世界に足を踏み入れます。劇団四季のオーディションに合格し、役者として舞台に立ちながら、編集プロダクションの会社を立ち上げ、新しい人生を歩み始めるのです。その過程で、橋本さんがバーンスタインとの関係を自分のキャリアのために利用するようなことは一切ありませんでした。親しいごく一握りの人たちを除いて、バーンスタインとの関係について橋本さんは誰にも話すことがなかったのです。やがて橋本さんは、バーンスタインのマネージメント会社を率いるハリー・クラウトの信頼を得て、なんとバーンスタインの日本代表の役割を担うことになります。そうして、バーンスタインの晩年の仕事の中でももっとも大きな意義を持ったプロジェクトである、1985年の広島平和記念コンサートや、1990年に札幌で開催されたパシフィック・ミュージック・フェスティバル(PMFの企画運営に欠かせない人物として奔走するのです。

Dearest Lennyでは、天野さんと橋本さんがバーンスタインに送った、情熱的で誠実で聡明な書簡を読み解きながら、ふたりの愛情の形やバーンスタインとの関係の変遷を辿ります。そして、そのきわめてパーソナルな物語を、第二次大戦後の世界政治経済、アメリカ社会、世界における日本の位置付け、音楽産業の様相などの変化の大きな流れと絡ませて語っています。東京文化会館のオープニングや大阪万博、ソニー、小澤征爾さんなども物語において重要な役割を果たしています。日本に焦点を当てることで、これまでにたくさん論じられてきたバーンスタインの「世界のマエストロ」としてのありかたに、新たな光が当たるのです。

どうですか、面白そうでしょう?(と著者自ら言う)

生身の天野和子さんと橋本邦彦さんとの出会いを含め、この本が完成するまでには、本当にあれこれと紆余曲折がありました。これまでに何冊も本を書いてきましたが、この作品には特別の思い入れがあります。日本を舞台にした内容なので、いずれ日本語版も出版するつもりですが、それまでにはしばらく時間がかかりそうなので、英語を読もうというかたはぜひまずこの本を読んでいただきたいと思います。研究に基づいてはいますが、学者だけではなく広く一般読者のかたがたに読んでいただくことを念頭に置いて書いたので、文章は読みやすいはずだと思っています。

先週末に、英国ガーディアン紙の記事に本の内容を取り上げていただいたおかげで、世界各地でけっこう話題になっているようです。これからいろんなかたたちから本の感想を聞かせていただくのを楽しみにしています。

なお、本の発売に合わせて、私のウェブサイトを更新しました。本に出てくる音楽作品などのリンクを集めたDearest Lenny参考ガイドというページも作成しましたので、是非合わせてお楽しみください。