2021年11月7日日曜日

Symphony magazine:アメリカのオーケストラと「アジア人」音楽家 

コロナ禍におけるアジア人への暴力の急増、ブラックライヴスマター運動などの流れの中で、アメリカの芸術界も正面から人種問題に向き合う動きが盛り上がってきています。メトロポリタンオペラのシーズンオープニングを飾ったオペラ、Fire Shut Up In My Bonesは、メト史上初(!)の黒人作曲家による作品上演で大きく話題を集めました。私もMet Live in HDをホノルルの映画館で観ましたが、作品も演奏も演出も本当に素晴らしく、深く感動しました。これまで何年にもわたって人種と音楽・表象について研究してきましたが、メトの舞台で黒人の物語が黒人の声や身体で演じられ語られるのを大画面で体験してみると、今までこうした作品が上演されてこなかったことが世界にとってどれほどの損失であったかを改めて感じました。モーツァルトもプッチーニもワーグナーも大いに結構、でも多様なアーティストによる多様な物語がいつも普通に上演されれば、「オペラ」についての人々の意識は大いに違ったものになり、もっともっと多くの人たちが劇場に足を運ぶようになる筈だし、オペラという芸術的な可能性が無限に広がるに違いない。そう思いました。

そんな中で、今年6月に開催されたアメリカオーケストラ連盟のオンラインカンファレンスで企画されたパネルに登壇したのですが、それを契機に依頼された記事が、同組織の機関誌であるSymphony誌に掲載されました。クラシック音楽界、特にオーケストラにおけるアジア人音楽家の位置付けや扱いについて、主にオーケストラ業界の読者を想定して書いた文章なので、前回の投稿で紹介したショパンコンクールについての記事とはだいぶトーンが違っています。ただ、ショパンコンクールの出場者や入賞者にアジア人が多いこと、アメリカのオーケストラにアジア人が多いことは、クラシック音楽におけるアジア人への差別がないことの証明には決してならないことが伝われば幸いです。今なら無料でオンラインでアクセスできますので、ぜひお読みください。

2021年10月26日火曜日

ショパンコンクールが投げかける問い 「クラシック音楽」とは?

反田恭平さんと小林愛実さんの入賞で日本でも話題を集めたショパン・コンクール。なにしろ全部で87人も出場者がいるので、最初からずっと追っていた訳ではありませんが、第二ラウンドからは、早起きしたり夜更かししたりしながらネットで生配信をけっこう見ていました。演奏はどれも素晴らしく、審査結果も納得のいくものだったと思います。

このコンクールについて記事を書かないかと、日経新聞社の英語媒体であるNikkei Asiaに依頼を受けたので、このような文章を寄稿しました。日本ではどうしても日本人の話題ばかりに報道が集中しがちなので、今回の結果をより大きな文脈に位置づけて、「クラシック音楽とは何か?」を考えるような著述にしたつもりです。読んでいただけると幸いです。

2021年10月23日土曜日

『Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond 』刊行!

 私が企画編集してここ数年取り組んでいた、Unpredictable Agents: The Making of Japan's Americanists during the Cold War and Beyond が、無事にハワイ大学出版より発売となりました!

この本は、広義の「アメリカ研究」に従事する12人の日本出身の研究者たちが、どのような場や形で「アメリカ」と出会い、どのような経緯でその研究にキャリアを捧げることになったのか、自らにとって「アメリカ」とはなにか、といったことを語るパーソナルなエッセイを集めたものです。それぞれユニークで感動的な物語なのですが、それと同時に、そうしたきわめてパーソナルなものに思われる個人史が、帝国、植民・移民、戦争、占領、冷戦外交、貿易などによって色濃く刻印されていることも浮かび上がってきて、本全体でいろいろな角度から20・21世紀の日本とアメリカの出会いの力学や様相に光を当てるようになっています。

一口に「日本出身の研究者」と言っても、戦後占領下の沖縄で新聞配達少年として米軍基地を回った人、北海道のアメリカ人メノナイト宣教師のコミュニティで育った人、日本の家庭でありながら両親の教育方針で家では英語とスペイン語を話して育った人、戦争の歴史に巻き込まれて家族と離れ日本で人生を送ることになったアメリカ生まれの祖母からアメリカに移民して行った曽祖父母の話を聞いて育った人、父親が単身赴任で家を留守にしがちだったサラリーマン家庭で育った人、幼い頃に親の駐在でアメリカに渡り現地学校の教育を受けた人など、その背景や生い立ちは実にさまざまです。そしてまた、そうした人たちが出会った「アメリカ」も、時代、場所、状況などにおいて実に多様です。当たり前のことですが、「日本人アメリカ研究者」が共通の出発点からひとつの「アメリカ」に行った訳ではまったくないのです。そしてこの12人の現在も、どんな場所でどんな人たちに囲まれて暮らし、どんな学生を相手にどんな授業をし、何語でどんな著述をしてきたかなど、実にさまざまです。

私がこの本を企画するに至った背景には、もとはと言えばだいぶ前にこのブログでも書いた、松田武先生の『戦後日本におけるアメリカのソフト・パワー』への共感と疑問がありました。奨学金や学術交流、研究助成といった形の文化外交、その根底にある各国政府の思惑が、知のありかたに影響を及ぼすということには異論がないけれども、実際にそうした中で「アメリカ」に出会い、経験し、研究する人たちの道程を、もっと近い距離から見てみることも大事なのではないか。松田先生の本を読んでからずっとそう思っていたのですが、その問いに応えるひとつの手段としてのこの企画を、研究仲間とおしゃべりをしている時にふと思いついたのでした。

個人の物語と世界の力学がどのように交差して、その中で「知」がどのように作られるのか、「日本」にとっての「アメリカ」とは何を意味しているのか、そして研究者の役割とは何か。そうした大きなテーマが、きわめて具体的で個別的なストーリーを通じて語られています。アメリカ研究や日米関係史に携わる研究者にはもちろんですが、一般の読者にも興味を持って読んでいただける内容だと思います。是非どうぞ!



2021年10月4日月曜日

国際交流基金事業をめぐって

 つい数日前に、国際交流基金が主催するオンライン展覧会で予定されていた、在日精神病患者についての映像作品の発表が、基金の判断によって中止されたというニュースを読んだばかりでした。この記事によると、中止の理由としてあげられているのは、①暴力的な発言や歴史認識を巡って非生産的な議論を招きかねない場面が含まれるものだった、②全編を通して視聴すれば必ずしも懸念はあたらないのかもしれないが言葉は独り歩きしてしまう可能性がある、③主催者としては、作品に関してどこをどう修正すべきかといった指示はできないと考えている、④展覧会の開催日時も迫っており今後改めて協議を重ねる時間もない、という4点です。

①に関しては、議論が生産的か否かは誰がどう判断するのか?議論を「招きかねない」との曖昧な推測に基づいて作品の発表を中止することで、生産的な議論をもあらかじめ封じ込めてどうするのか?国際関係にかかわる難しい問題にもさまざまな視点を提供して議論を促進することこそが国際交流の根幹ではないのか?といった問いが次々と頭に浮かびます。

②に関しては、映像であれ文章であれ、その一部が文脈から切り離されて作者や主催者の意図せぬ方法で使われてしまう可能性はいつでもある。しかし、それを懸念して表現行為そのものをやめてしまったら言論や芸術は成り立たないし、そうした活動への後援も不可能になります。とくにアジア諸国を対象にする国際交流は出来なくなるでしょう。

③については当たり前のことで、わざわざ主張するようなことではないでしょう。

④は、主催者はどうしても必要ならば開催日程を変更できるはずで、これは口実にしか思えません。

ちょうど私は、まさに同じような状況に面していたのですが、この記事を読んで、どうやら私が経験したことが突発的な出来事ではなく、国際交流基金のさまざまな事業においてこうした事態が起こっているらしいことを知ることとなりました。日本社会が危険な方向に向かっているのを感じるので、以下長文になりますが、経緯を記しておきます。

数ヶ月前に、国際交流基金のスタッフから、相談を受けました。日本の若者にアメリカ社会や文化について興味を持ってもらうための企画として、一連の短い動画を制作し、ネットで配信することを考えており、数人のアメリカ研究者に相談をしているとのことでした。私と、私が昔から親しく一緒に仕事をしている矢口祐人さんは、そのお話を伺ったときに、正直言って、ビジョンが具体性や新鮮味に欠けていると感じ、また、アメリカのいろいろな側面を解説するような動画はすでに各種メディアにたくさんある中で、似たような企画を国際交流基金がやることの意義を感じられませんでした。そこで、わざわざ国際交流基金がアメリカ研究者を動員して企画するものであれば、学問的に知見に基づいた教育性の高い、かつ、通常の講義とは趣向の違う面白い内容にするのがよいのではと意見を述べました。私と矢口さんが次から次へとあれこれとアイデアを出すのに、担当スタッフのかたたちは最初は面食らっていたようですが、常に真摯に耳を傾け真剣に検討してくださり、結局、私と矢口さんがプロデューサーのような形で全体の企画を作り、スタッフのかたたちと一緒に進めることなりました。

そこでまとまっていた企画とは、「インターセクショナリティ」という概念を軸にして、全5本の動画それぞれで、日本のアメリカ研究者が「アメリカで出会った人」ひとりについて、私または矢口さんとの対話形式でお話していただき、その後でその話と「インターセクショナリティ」のつながりを私と矢口さんが数分間で解説する、というものでした。私たちが選りすぐったスピーカーの5人は、生い立ちや教育の背景も現在の在住地や専門も多様で、トピックとして選んでくださった人物とそのかたにまつわるお話も、活き活きとしてかついろいろな考察を促す、たいへん興味深いものでした。

スタッフのかたたちは、この企画に共感し、大いなる熱意をもって実現への準備を進めてくださっていました。そして、次の段階に進むのに必要な国際交流基金内での決済手続きを待っている時に、この企画について上層部から意見が出ており、一部修正を求められているとの連絡がありました。

その上層部からの要求のまず1点目は、「アメリカについて理解を促進するための5本の動画で、ひとりもアメリカ人が出演しないのはおかしい」というもので、1人か2人でも、スピーカーまたはコメンテーターとしてアメリカ人を入れられないか、というものでした。

アメリカのことを「アメリカ人」に語ってもらうこと自体は、きわめて単純ではありますが、理解できない発想ではありません。しかし、私たちが考えた企画は、日本で育った研究者たちが出会った鉤括弧付きの「アメリカ」や「アメリカ人」の話を通じて「インターセクショナリティ」を考えるというものであって、そこに国籍がアメリカだということだけで無理矢理「アメリカ人」をスピーカーやコメンテーターとして登場させれば、企画の整合性を損なうことになります。「アメリカ人」ってなんのこと?という基本的な問いもありますし、「アメリカ人」であればアメリカのことについて語れるのか、それならアメリカ研究者である私たちの立場はなんなのか、ということにもなります。という訳で、この提案は却下するとお伝えしました。

2点目は、「国際交流基金は税金で運営されている国の機関である以上、政治性がある内容の発信は認められない。作成した動画について、そうした観点において問題点があった場合には、国際交流基金の判断で編集を行うという条件に同意できるか」というものでした。

これは1点目よりずっと大きく深刻な問題です。もちろん、特定の政党や政治家を推奨したり批判したりするような内容を扱うつもりは初めからありませんでしたが、そもそも私たちの携わっている学問は、社会におけるさまざまな力学とそこにある権力構造を問うもので、「インターセクショナリティ」とはその様相を理解するための概念です。そして、私たちの考えた企画は、具体的な人たちが、アメリカの具体的な場所や状況で出会った具体的な人物との交差を語ることで、社会や文化にあるさまざまな軸を考察するものです。そこにはもちろん「政治性」があり、それを考えるのがこの企画の本質であって、政治性を取り去っては、単なる「面白い話」にしかなりません。かくかくしかじかの内容は動画に含めることはできない、といったような具体的な提案や指示があるのであれば検討可能かもしれませんが、動画内容についての具体的な打ち合わせもしないうちから、ただ十把一絡げに「政治性のあるものは駄目」と言われるのは、発言に制約を課されるのと同じです。また、編集やカットを要求された場合には、スピーカーや私たちがそれに対して意見が述べられるのかどうか、意見が合わなかった場合にはどうなるのかと尋ねてみましたが、満足のいく答はいただけませんでした。

私たちは、国際交流基金が税金で運営されている公的機関であるからこそ、そして文化や学術を通じての国際交流を使命とする団体であるからこそ、検閲に当たるようなこのような行為は絶対にするべきではない、してはいけないと考えます。こうした問い合わせが私たちに対してなされること自体が、とても恐ろしい状況だと感じます。国際交流基金が普段の事業でかかわっている研究者や芸術家は、社会の中でもとくに、言論や思想や表現における自律性と独立性を自らの仕事の根幹に置いている人たちである筈です。そうした人たちの活動を支援し、難しい話題についてもさまざまな視点からの議論を促進することこそが国際交流だと思っています。ゆえに、ここで提示された要求については絶対に応じられないと、はっきりとお伝えしました。

担当のスタッフのかたたち及び事務局長のかたは、私たちの考えをよく理解してくださりましたし、もともと私たちと同じ意見ではあったのですが、上層部からの指示でこのようなことを私たちに伝えなければならなくなって、非常に心苦しく思っているとのことでした。ここ数年間、このような状況が組織内で強まってきているそうです。また、国際交流基金の中でも、上層部も含め他のかたたちはみなさんこの企画には賛同してくださっていて、上のような要求をしているのは一人だけとのことでした。それでも組織の性質上、その一人が了解しなければことは進められません。私たちの考えを聞いた上で、事務局長のかたが再度その一人を説得しようと協議をしてくださいましたが、結局は了解を得られなかったとの報告をいただきました。

このような経緯で、国際交流基金でのこの企画はなくなりました。

ここまで数ヶ月にわたってスタッフのかたたちが熱心に進めて下さっていた企画なので、そのみなさんがさぞかし落胆なさっているだろうと思うと心が痛みます。また、国際交流という使命に真剣な思いを抱いて基金に勤めていらっしゃるかたたちが、このような状況で仕事をしなければいけないことを、とても気の毒に思います。

それと同時に、私のように、ある程度安定した職業的地位にあり、学術や言論に携わる人間、そして日本の外にいるがために一定の距離に守られた人間こそが、こうした状況で言うべきことを言わなければいけないという思いをさらに強くしました。いったい誰が誰・何に忖度してこのような社会状況を作っているのだろうか、その構造をきちんと捉えて問い糺していかなければ、日本社会はとんでもないことになるのではないかと思っています。 国際交流基金の事業としてはボツになりましたが、企画自体はとても面白く意義深いと自画自賛中なので、別の形でぜひ実現したいと思っています。実現したらまたこちらでもお知らせいたします。

2021年8月18日水曜日

親中・嫌中では捉えられない海峡を超えた力学とネットワーク 『中国ファクターの政治社会学』

『中国ファクターの政治社会学 台湾への影響力の浸透』を読みました。(情報開示:この本の編者であり監訳者である川上桃子さんは、私の仲良しです。)

私は台湾からの優秀な学生を何人も指導していることや、台湾出身の素晴らしい仕事仲間がいることなどから、勝手にぼんやりとした親しみを感じている台湾。そして、アメリカの大学や音楽界の状況においても無視する訳にはいかない「チャイナ・ファクター」。香港から届く心痛ましいニュースに見る中国の影響。そんなこんなで、自分の専門分野とは違うのですが、とても興味を持って読みました。

私にとって一番面白いのが、第三章。アメリカ人(白人男性)研究者が中国人団体観光ツアーに同行して台湾を見るエスノグラフィー。中国の観光業者や台湾のガイドがどんな台湾をどうやって中国人の観光客たちに見せたり演じたりするか、それに対して観光客たちはどう反応するか、といった様相が、エスノグラフィーならではのthick descriptionで描かれていて、キョーレツに面白い。淡々とした語り口に笑ってしまうような箇所もありながら、ウームと考えさせられます。その前の第二章と合わせて、観光という一見政治とは無関係な活動が、どのように大きな地政学の中で実践されるか、いろいろなヒントを与えてくれます。

中国企業の台湾投資を扱った第五章も面白い。政治とは違ったロジックで動くビジネスの世界、でも当然ながら、政治から独立した形で資本が動くわけではなく、中国・台湾それぞれの政府の政治目的がさまざまな形で作用する中で、中国企業はひっそりと台湾での事業を展開し、台湾企業のほうもあれこれの思惑を検討しながら中国資本を受け入れる。なるほど。

第六章の教科書論争についての論考も、ごく基本的な次元で、そうか、教科書論争というのは台湾にもあるんだな、そしてこういう風に表出するんだなと、なるほどなるほどと思いながら読みました。
共編者であり監訳を担当した川上桃子さんがこの本について語るインタビューが、ブックラウンジアカデミアのポッドキャストで配信されたばかり。とてもわかりやすくて良いのでオススメです。(ちなみにこのブックラウンジアカデミアは、毎回とても面白くて、私は料理をしながら聴くのを楽しみにしています。すっかりファンになったので、自分もインタビュアーとして登場させてもらうことにしました。それについては追ってまたお知らせします。)

2021年8月9日月曜日

ピアノはモノである 田中智晃『ピアノの日本史』

 私は1968年生まれ。育った東京のマンションの4畳半の部屋にはヤマハのアップライトピアノがあり、3歳でレッスンを受け始めました。そのピアノは、今もその実家にカバーがかかり、物置き台となって残っています。私の世代の人たちの約五分の一が似たような経験をしているはず(1979年に国産ピアノの出荷台数はピークを迎え、2000年時点で日本におけるピアノの普及率は21%)。そして、日本の楽器産業は現在圧倒的に世界をリードしている。なぜそうなったのか?それを見事に解明してくれるのがこの本、田中智晃『ピアノの日本史 楽器産業と消費者の形成』。かなりどっしり感のある本ですが、面白くて一気に読了してしまいました。

戦前の複数の日本企業がピアノ製造法を学んで国内での生産と流通システムを作り、戦後にヤマハが高品質を保ちつつ大量生産を可能にする製造技術を開発し、日本の一般家庭にピアノを付随サービス付きで届けるとともに海外市場を開拓し、ブランドを確立して世界トップの楽器メーカーになる過程を、丁寧なデータ分析で解説。でも(少なくとも私にとって)この本で一番面白いのは、その生産の仕組みの部分ではなく、それを継続していくためにピアノ製造業者が考案してきたあれこれの市場開拓や流通システム整備の部分。ピアノとは音楽という芸術のための楽器であると同時に、近代産業の産物であり、モノであり、製品である。それも、やたらと部品が多くて生産には高度な技術が必要、安くなったとは言ってもそれなりに高価、たいていの消費者は一度買ったらそうそう買い換えない、買っても弾けるようになるためには相当の学習が必要、家のスペースを食う、騒音問題あり…など、あれこれややこしい性質を帯びたモノ。そうした性質ゆえ、いくら製造技術を改良し続けても、誰もがテレビや冷蔵庫を買うようにピアノを買うわけではないし、やがて市場は飽和状態になること、すなわち「斜陽化」を、製造業者はある時期からちゃんと見越していた。それに対応するために、あれこれの事業展開を進めてきた。その部分がたいへん面白いのであります。著者は流通史の専門家なので、特約店の仕組みはとりわけ丁寧に分析されていて、「なるほどそういうことだったのか」と腑に落ちることたくさん。私には、とくにヤマハ音楽教室の話がものすごく面白い。カワイが始めた予約販売の話(「ヤマハレディ」への言及がちょっとあるんだけど、もっと知りたい!)も面白い。電子楽器やプレイヤーピアノをめぐる試行錯誤の話も面白い。そしてまた、海外市場の話も面白い。…と、「面白い」という面白くない単語を何度も繰り返してしまうくらい、興味深いデータと分析が満載。テクニカルな情報が多いにもかかわらず、文章も明解で読みやすいです。
個人的には、国内外の労働面(工場の従業員とか、調律師の養成とか、ディーラーの研修とか)についてもっと知りたった気もします。マーケティングについてももっといろいろ分析できそう。また、実に素敵な表紙でも示されているように、一般消費者にとってピアノという楽器は特有のジェンダー化された意味づけがされているので、それが生産・流通・消費の過程でどう作用しているのか、もっと正面からの分析も欲しい(←自分でやれと言われそうなので、はい、やります)。そして、グローバル市場での「日本企業」としてのヤマハの意味付けも知りたい。最後の最後で触れられている、中古ピアノ市場についてももっと知りたい。…などなど、さらに知りたいことが次々に頭に浮かぶということ自体、脳を刺激するよい本の印。これじゃあ何が何だかわからないというくらい、付箋がいっぱいになってしまいました。オススメです! 


2021年8月8日日曜日

「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」オンラインセミナー 8/22(日)より全3回

 南カリフォルニアで2週間を過ごし、10日前にホノルルに戻ってきたのですが、デルタ株によりハワイでは(も)新規感染者数が猛烈な勢いで増えています。ロスでは満員(!)のハリウッドボウルでデュダメル指揮、ヴァイオラ・デイヴィスのナレーションによる「ピーターと狼」を聴いてきましたが、今ではもう何時間も飛行機に乗ったりたくさんの人が集まるところには行く気にならず、行ける間に行っておいてよかったです。

さて、2週間後の8/22(日)より全3回で、オンラインセミナーをします!題して「アジア人ですが、なにか? 〜クラシック音楽と人種・ジェンダー・文化資本の力学」。読んでいただいているかたにはすぐわかるように、拙著『「アジア人」はいかにしてクラシック音楽家になったのか? –– 人種・ジェンダー・文化資本』をもとにした内容です。この本が日本語で刊行されたのは2013年、原著である英語版が出たのが2007年、そしてメインのフィールドワークをしたのが2003〜2004年なので、それ以来けっこうな年月が経っているのですが、興味深いことに、ここ一年間立て続けに、このテーマについての取材や講演や執筆の依頼を受けています。つい最近も「ズーカーマン事件」とも呼ぶべき出来事があり、それを受けてニューヨーク・タイムズに掲載された記事でも、名前は載りませんでしたがかなり長時間の取材を受けました。クラシック音楽界におけるアジア人の活躍がさらに広がっているだけでなく、ブラック・ライヴズ・マター運動の流れの中で文化芸術界にもさまざまな問いかけがなされるようになり、また、コロナ禍で急増しているアジア人への暴力などの状況において、「西洋のもの」とされているクラシック音楽における「アジア人」の位置づけや、音楽と人種の関係といった問題が改めてレレバンスを持ってきているのを実感しています。

本を読んでいないかたにもわかりやすいように内容を紹介しながら、本の刊行後のクラシック音楽界やアメリカ社会の展開も視野に入れ、また、自分で本を振り返っての反省や、「今この本をアップデートするならこんな風に」といった話もするつもりです。聞き手は、去年のオンラインセミナーと同じく、坂元勇仁さんが務めてくださいます。見逃し配信もありますので、リアルタイムでの参加ができないかたも、ふるってお申し込みください!質問・コメント大歓迎です!

申し込みはこちらからどうぞ。