2018年3月29日木曜日

日本とのロマンス 『ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録』


出たばかりの邦訳を読んでいる友達に、「これは是非読むべき」とすすめられて、2008年に刊行された英語の原著Kindleで購入し、面白さのあまり一気に(先を読み進めたいあまり朝起きてパジャマ姿のまま昼過ぎまでずっと読み続けてしまった)読んでしまったのが、『ニッポン放浪記 ジョン・ネイスン回想録、原題 LivingCarelessly in Tokyo and Elsewhere

私は自分の研究の一環でこの著者が書いたソニーの企業史を数年前に読み、おおいにワクワクし、ある箇所では涙すら流した。企業の歴史を読んで涙するとは想像していなかった。 原著の副題がA Private Life となっているように、盛田昭夫氏や大賀典雄氏をはじめとする、 ソニーを戦後日本の経済成長を象徴する企業に育てていった人物たちに密接に迫り、ソニーの技術や経営そしてグローバル化の過程を内側から人間的に活き活きと描いた本。そしてその著者のプロフィールを見てみると、三島由紀夫や大江健三郎の翻訳を手がけた翻訳者でもあり日本文学者でもある人物で、なんと水村美苗さんともつながりがあるらしい。なぜ文学研究者がソニーの企業史を書くことになったのか、不思議に思ってさらにプロフィールを読むと、この人物、ドキュメンタリー映画の監督、CMのプロデュースなどもしているという。なんとも興味深い人物だなあとは思っていたものの、彼の他の著書はまだ手にとっていなかった。

すすめられてこの回想録を読んで、本当によかった。邦訳の帯に使われている水村美苗さんの文にあるように、「ひたすら面白い」。ニューヨークとアリゾナで育ったユダヤ系アメリカ人の青年が、ハーヴァードで勉強するうちに日本に魅せられ、卒業後1961に初めて日本を訪れて以来、何十年にもわたって日本とのかかわりを深めていく。ネイスンが日本に「深入り」していく時代は、私が今仕上げている日米関係にかんする(それ以上の具体的な内容はまだナイショ)著書で扱っている時代とちょうど重なるので、彼の目から見た日本像を垣間見るのも面白いし、彼が親交をもち一緒に仕事をするようになる、安部公房、大江健三郎、三島由紀夫、勝新太郎、勅使河原宏といった、文学界、映画界の大物たちの仕事ぶり、暮らしぶりが鮮やかに描かれている。文学、芸術、芸能といった世界の巨匠たち特有の、有無を言わせない引力やオーラに、魅了されつつ翻弄されもするネイスン。そしてまた、彼らとかかわることで、ネイスンは自分もまた大きくなった気持ちになりつつ、時に彼らとの距離や自らの立場を目の当たりにして自分を嗤う。受け入れられたい、認められたい、という気持ちが自分に強くあるのに折に触れて気づき、それをごく正直に捉えている。ネイスンは相当大きな身体の人らしいのだが、その身体的サイズと人間としての器量のサイズの差異を、自分で冷徹に受け止めていて、結果的にとても等身大で親近感の湧くネイスンの姿が浮かび上がってくる。

原題を直訳すれば、「東京やその他の場所で軽率に生きる」といったところになろうが、この「軽率」carelessというのがミソ。(この単語の意味するところは「放浪」という日本語でかなり捉えられるので、邦題はなかなかよいと思うのだが、ネイスンが放浪するのは日本だけではなく、ニューヨークやプリンストンやマサチューセッツやカリフォルニアを転々とするのも話の重要な一部なので、「ニッポン」だけに絞られてしまうのは残念だが、日本の読者に向けての本としては仕方ないだろう。) 作品であれ人物であれ、引力のあるものに出会うと素直に惹かれていき、夢中になるうちに大局を見失う。長期的計画を立てないまま興味のあることに没頭する。お金の出入りに無頓着。自分にとって大切な人間関係をおざなりにしてしまう。必然的に巻き込むことになる周りの人間への負担に配慮が回らない。などなど、彼が「軽率」であったからこそ 彩り豊かで波乱万丈な人生。それを大いに楽しみながらも、その過程で失ったものに気づき、落胆し、反省し、哀しむ。その感情の旅程を、読者もともに辿りながら、ネイスンという人間にも近づき、そして日本という社会を他の人間の目から見直すことにもなる。

男性アメリカ人の日本研究者は、日本人女性を妻にもつ人がとても多く、ネイスンも、まるで筋書き通りと言わんばかりに、まゆみさんという素敵なアーティストと結婚する。出会い、恋愛、そして結婚へのふたりの真剣で真摯な姿勢、ネイスンが彼女の家族に受け入れられていく過程は、読者の心も熱くさせる。その幸せな結婚生活はいずれピリオドを打つのだが、その原因の大きな一部であった自らの「軽率さ」をネイスンは冷静に振り返る。結婚生活はずっとは続かなかったとはいえ、まゆみさんも彼との関係を通じて大きな世界に出会い、そのなかで自分を模索し見出していったのだろう、ということが想像でき、そして、別の女性と結婚した後でも、ネイスンはまゆみさんのことを心から愛し続けているのだろうということが伝わってくる。

私にとって一番胸に突き刺さったのは、ネイスンがソール・ベローに言われた一言。それがずっと引っかかって、ネイスンはかなり長い間日本と意識的に距離をおくようになる。この部分は本当に胸が痛んだ。東洋に傾倒する西洋人の眼差しを、オリエンタリズムとかエキゾチズムズムとかと批判して片付けるのは簡単。でも、ある程度の知性と感性をもった西洋人であれば、サイードを持ち出すでもなく、東洋に対する自らの姿勢や立場を理解したうえで、自分が愛するようになった文化や社会とどのように関わっていくか、もがきながらさまざまな形で模索し続けているのだろう。異文化を専門とする生涯をあえて選択している人を軽んじてはいけない。

私が夢中になって読んだソニーの企業史の本についての記述は、該当書を読んだだけではわからない、刊行後の顛末が明らかにしていて、「うーむ」と唸らされた。このプロジェクトだけでなく、勅使河原宏との映画製作にしても、勝新太郎を追ったドキュメンタリー監督にしても、三島由紀夫や大江健三郎の翻訳にしても、ネイスンは相手の信頼や親愛を獲得する人並外れた才能とパーソナリティがあることが感じられるいっぽうで、生身の人間を題材にして作品を創造するというということの複雑さが身に沁みる。

アメリカの大学で仕事をしている私としては、映画やCMの事業が経営破綻に陥ってからネイスンが学界に戻る決意をし、カリフォルニア大学サンタバーバラ校のポジションの面接を受けるくだりも面白かった。異文化研究(アメリカにおいて当然日本研究は「異文化」研究だ)の分野においてはとくに、彼のような経歴と背景をもった人物が研究や教育に携わるのは重要なことだと思う。しかし、日本と比べても、アメリカの学界というのは、学問のディシプリンを重んじる傾向が強く、また、アカデミアが独立した「界」として存在している。そのぶん、彼のような人間にとってアメリカの大学は必ずしも居心地の良い場所ではないのではないかと思う(だからこそアメリカのアカデミアにおいてこれ以上良い環境はないとすらいえるプリンストンの職を自ら去ったわけだし)し、彼のような非正統的な道程を辿ってきた人間を疎ましく思う研究者も周りにはいるだろうと想像する。それでも、家族を再び根こそぎ新たな環境に移植し、翻訳や研究そして教育という行為に情熱を向け、新たな人生を歩もうとする彼の決意に、ドキドキワクワクする。

最終章を読んで驚いたのだが、私がかつて研究の一環として調査しようと思っていた、「現代日本文学の翻訳・普及事業」(JLPP)は、なんともとはネイスンの発案だった!それはなんとも興味深い発見だったのだが、彼がその企画の概要を作ってからの展開が、あまりにも日本的でガックリする。そして、その最終章は、ネイスンが日本滞在の最終日にひとりで高尾山を登りに行き、楽しそうにする人々の姿を見ながら、「自分はこれまで日本でいったい何をしてきたんだろう」と疎外感、孤独感、無力感を感じるシーンで終わっている。彼とは逆に何十年もアメリカにかかわってきた日本人として、涙が出そうになるし、また、彼にこんな思いをさせるきっかけを作ったのが、自民党政治と文化庁の官僚体制だと思うと、日本を代表して「申し訳ありませんでした」とネイスンに頭を下げたくすらなってくる。

この本を読むようにすすめてくれた友達が、途中で気づいて教えてくれたのだが、邦訳バージョンには、原著が刊行された後で書かれたエピローグがついている。これこそ私が読むべきだ、とその友達がPDFにしてわざわざ送ってくれた。たしかに、このエピローグを読んで大いに救われる気持ちになった。漱石の作品との「再会」、そしてそれを通じて水村美苗さんとの出会いを経て、ネイスンは日本文学そして翻訳への情熱を新たにするのだが、その過程は、まるで恋愛小説の新たな一章を読むようで、こちらの心も熱くなる。

そう、この回想録は、ネイスンと日本の恋愛物語なのだ。そして、恋愛物語は近代小説の根幹である。次々と出てくる具体的なネタがあまりにも面白いので、「どうなるんだろう」とついどんどん先を読み進めてしまうけれど、この本を文学作品としてもう一度じっくり読み直してみたら、きっといろいろな発見があるのではないかと思う。

そして、 彼の書いた三島由紀夫の伝記はとくに、そして明るい陽のあたることのなかった彼の小説も含め、彼の他の著書をすべて読んでみたいし、彼の作った映画も観てみたい。彼に私の本を映画化してもらったらどんなに面白いだろう、などと妄想が膨らむのだが、この本をすすめてくれた友達曰く、この本を読むと、妄想することからチャンスは生まれる、ということがよくわかる。たしかにそうだ。私はお金にかんして小心者なので、ネイスンのような生き方はできないけれど、妄想するのに必要なのは夢と理想だけでお金はいらない。どんどん妄想しよう。