2010年1月27日水曜日

オバマ大統領一般教書演説 & ハワード・ジン氏逝去

オバマ大統領の一般教書演説は、なかなかよかったと思いました。就任後1年たっても、失業率は上がりこそすれ下がらず、景気対策もなかなか目に見えた成果をあげず、戦争は続き、健康保険法案はなかなか実現しない、といった状況のなかで、議員たちそして一般国民の信用と協力を再び喚起し、この先もしばらくは続くであろう困難に立ち向かうための希望を与えるという意味では、オバマ氏特有の威厳がありかつインスピレーショナルな演説スタイルは有効だったと思います。党派政治に明け暮れて大事な仕事を遅らせてしまう議会に対してなかなか厳しいコメントもありましたが、演説のあいだの各党の反応(一般教書演説というのは、演説をしている大統領本人だけでなく、会場で聴きながら立って拍手をしたりしなかったりという議員その他の政治的パフォーマンスの場でもあるので、演説の内容自体がそれほど目新しくなくても、見ていてなかなか面白いのです)を見ていると、二大政党による議会政治の困難さがよくわかります。

この演説については、日本のメディアでもいくらでもコメントが出るでしょうが、日本ではおそらくあまり報道されないであろうもうひとつのニュースが、歴史家ハワード・ジン(Howard Zinn)氏逝去の知らせ。立派なひとが亡くなりました。ハワード・ジン氏は、左派の視点からのアメリカ史を語った『People's History of the United States』がミリオンセラーになった歴史家で、スペルマン・カレッジというアトランタの黒人女子大学で教鞭をとったあと(大学が公民権運動に積極的に参加しないことを公然と批判したことなどを理由に解雇された)、ボストン大学で教授をしながら、ベトナム反戦運動や労働運動などの第一線で運動家としても活動を続けました。People's History of the United Statesは、あまりにも明確な政治的立場から書かれた歴史であるがゆえに、客観性に欠けると批判する歴史家もいるものの、メインストリームの歴史書にはない視点から、新しい形のアメリカ史を提供しているということで、大学の教科書としてもひろく使われ、大きな影響力を与えています。日本語で入門を読みたいひとはこちらの『学校では教えてくれない本当のアメリカの歴史』〈上〉1492~1901年〈下〉1901~2006年をどうぞ。

ジュリー&ジュリア

やや風邪気味で、昨日は一日家でゆっくりするついでに、『ジュリー&ジュリア』をiTunesでダウンロードして観ました。ジュリア・チャイルドという名前が日本でどれだけ知られているか私にはわからないのですが、彼女の『Joy of Cooking』という本を持っていないアメリカの家庭はないと言われるくらい、アメリカではよく知られた料理家で、マサチューセッツ州ケンブリッジの自宅ではさまざまな分野の文化人を集めたサロンのようなものも定期的にひらき、料理の世界を超えた広い興味と人脈で知られた人物でした。この映画は、中年になってから料理家としての人生をスタートするジュリア・チャイルド自身の物語と、50年後にジュリア・チャイルドに触発され、1年間毎日彼女のレシピーに従って料理を作り、それについてブログを書きながら、自分自身に喝を入れる30歳の女性の物語を重ね合わせた映画です。風邪気味のときに家でゆっくり観るにはちょうどいいタイプの映画です。

ノラ・エフロンの脚本がずいぶんと話題になったのですが、私は脚本の作りとしてはいまいちだと思う点がいろいろありました。せっかく面白そうな話の糸口がいくつも開けられていながら、それが意味ある形でフォローされていない。ジュリア・チャイルドが長年文通だけで友情を育んだ親友の話とか、他の出版社が一般読者向けの料理本としては現実的でないとして彼女の原稿を拒否するなかで、先見の明を示して彼女と契約を結んだ女性編集者の話とか、企画を一緒に始めた仲間の女性の話とかが、もっと有機的に全体の物語のなかに組み込まれていればいいのに、と思いました。それでも、私にとっては、『ドット・コム・ラヴァーズ』に出てくる「ネイサン」(彼のブルックリンのキッチンは、この映画に出てくるクイーンズのキッチンよりもさらに一回り小さかったですが、そのなかで次々と夢のような料理が作られるのでした)が思い出されて面白かったです。陳腐ではありますが、人間やはり、自分が本当に好きなことを追求することが大事だ、ということ、そして、結婚するなら、自分のことを本当に信じて尊敬して応援してくれる相手とするべきである、ということが伝わってきます。メリル・ストリープももちろんいいですが、『プラダを着た悪魔』でも彼女と共演しているスタンリー・トゥッチがこれまたいい味を出しています。

これからオバマ大統領の演説を見なければ。

2010年1月25日月曜日

女性の学歴と収入は結婚の幸せにつながる?

先日の投稿で紹介した、自分よりも高収入の女性と結婚する男性がアメリカで増えているというデータには、なかなか反響が多かったようで、それに関連する記事がいろいろなところで掲載されています。同じニューヨーク・タイムズにも、すでに数本の関連記事が出ていますが、なかでも興味深いのがこの記事。これによると、女性の教育程度や収入が高い夫婦ほど、幸せが持続する確率が高い、ということです。一般的に、女性が経済的に自立すればするほど、離婚率が高くなると思われているけれども、実際はその逆で、学歴や収入が高い女性ほど結婚にとどまる確率が高く、逆に、有償の仕事をもたない女性人口が多い州ほど離婚率が高いのだそうです。経済学者や社会学者の説明によると、これは、教育程度や収入の高い女性は、生活のために結婚をする必要がないので、結婚相手を選ぶときに、男性の収入よりも、お互いに尊敬し合えて、価値観を共有し、家事を分担できる相手というかどうかを重視して慎重に結婚相手を選ぶからだ、とのこと。そしてまた、経済的に自立している女性は、結婚してからも、結婚生活におけるさまざまなことを夫と調整し合う交渉力をもっているので、夫婦の関係もより公平で均衡のとれたものになり、女性が夫や結婚生活についての不満をうつうつと溜め込むということが少なくなる、とのことです。そして、そういう女性と結婚する男性は、自分もそうした均衡のとれた関係を望んでいるし、女性の収入が高いほうが生活水準も上がるので、男性も得るものが多い、とのこと。

自分の周りの夫婦を観察しても、なるほどそれはその通りだろうと思います。もちろん、この記事でも書かれているように、家のなかのことを含めなんでもかんでも話し合って交渉して力のバランスを調整するのは、双方にとって面倒でもあるし、女性が自分の領域としてコントロールすることに慣れている家事などについては、そのコントロールを譲渡することに女性が抵抗を感じることもある、ということです。うーむ、これも思い当たるフシあり...

ちなみに、今日のニューヨーク・タイムズには、このデータに関連して、さまざまな専門家がコメントしている特集もあります。読者の投稿コメントもなかなか面白いです。

2010年1月22日金曜日

ハワイ州シヴィル・ユニオン成立なるか?

去年度のハワイ州議会で、同性愛者にも異性愛者の結婚と同様の法的権利を与える「シヴィル・ユニオン」を制度化するかどうかについての法案が審議され、コミュニティを分断するとても辛い流れになったことは、去年の投稿でお伝えしました。結局去年度は法案は可決されず、今年度再び、LGBTコミュニティやシヴィル・ユニオンの制度化を支持する団体や人びとの努力によって、法案が州議会で審議されています。そして、つい先ほど、法案が18対7で上院を通過したというニュースが出ました。この後、法案は下院そして州知事の手に渡りますが、州知事が拒否権を発動できないようにするための3分の2の票を下院が獲得できるかがポイントとなります。

今回の法案は、去年度の法案とほぼ同じですが、重要な違いは、シヴィル・ユニオンを同性愛者ためのものでなく、希望すれば異性愛者も「結婚」でなくシヴィル・ユニオンを選択できるようにする、ということです。アメリカでは、「結婚」という制度は、教会などの宗教的権威、そして社会一般に認知される関係、という側面が強いのですが、シヴィル・ユニオンは、そうした要素を取り除いて、結婚が付与する法的な権利や特典を同性愛者にも取得できるようにする、というものです。法的な権利が得られることによって、それに基づく、配偶者の健康保険加入や社会保険、相続権などといった経済的権利にもアクセスできるようになるわけです。異性愛者のなかにも、宗教的・社会的認知はとくに求めていないし、自分たちが持っている権利を同性愛者が持っていないことは不当であると考える人は少なくないので、シヴィル・ユニオンが制定されて異性愛者も選択できるようになれば、あえて結婚ではなくシヴィル・ユニオンを選ぶ男女も出てくるだろうと予想されます。私も、相手がいればそれを考えると思います。ただ、結婚の場合は、ある州で結婚したカップルは合衆国の他の州でも結婚として認められるのに対して、シヴィル・ユニオンは、同性愛者の結婚やシヴィル・ユニオンを認めていない州では認知されないので、まだまだ結婚と比べると法的権利が限定されているのですが、それでも、とりあえずハワイ州でシヴィル・ユニオンが成立すれば、法的平等という意味では大きな一歩となります。現地で運動を応援したいところですが、今は日本にいるので、ニュースやFacebookでの友達の投稿を通じて動きを追っているだけなのが、ちょっと歯がゆい思いです。

2010年1月20日水曜日

高収入の女性と結婚する男性たち

アメリカでは、故テッド・ケネディ連邦上院議員の議席の補選で、多くの人の予想に反して共和党のスコット・ブラウン氏が勝利し、全国にかなりの衝撃を与えています。マサチューセッツ州は民主党の伝統が強い州ですし、なんといってもケネディ上院議員はひろく尊敬されていたので、まさかこういう結果になろうと思っていた人は少なかったわけです。当選を当然視していた民主党候補のマーサ・コークリー陣営は、あまり積極的な選挙運動を行わず、直前の世論調査の結果を見てあわてたときにはもう遅かった、ということらしいです。昨年から全国で草の根的に組織されてきたTea Party(アメリカ独立革命のときのボストン茶会事件にちなんでつけられた名前)と呼ばれる、増税やオバマ政権の諸政策に反対する保守派(といっても、伝統的な共和党支持者とはやや層が違う)の勢力を、民主党側が甘く見ていたようです。とにかく、この結果によって、ケネディ上院議員がキャリアを通じて尽力して、せっかく議会でいい線まできている健康保険改革も、この先どうなるのかわからない状況になってしまいました。やれやれ。

ところで、ニューヨーク・タイムズの記事の話ばかりですみませんが、昨日と今日の「もっともメールされている記事」のひとつに、「高収入の女性と結婚する男性が増加」という記事があります。アメリカでも、「家族を養うのが男の甲斐性」という伝統的なジェンダー観は根強いので、自分よりも学歴や収入の高い女性とつきあったり結婚したりすることに抵抗を示す男性は少なくないものの、社会通念の変化や経済状況の現実によって、より多くの男性が、自分よりも高収入の女性と結婚するようになっている、とのこと。身体的・精神的な観点からいえば、結婚によって得るものは女性よりも男性のほうが大きいというデータは、しばらく前から出ていたけれども、それは経済的なことにも当てはまる、という結果らしいです。とくに、失業率が10%前後にもなっているアメリカでは、既婚男性で失業している人が多いし、失業しないまでも給与が削られたりより低収入の仕事に転職しなければいけなかったりする男性が多いぶん、女性の収入が家計全体に大きな意味をもってくる、というわけです。1970年には、既婚男性のうち自分よりも収入の高い女性と結婚している男性は4%だったのに対し、2007年には22%にまで上がっている、とのこと。ちなみに、全体的な結婚率は下がってきているものの、大学卒の女性のほうが、より低学歴の女性よりも結婚する率は高いのだそうです。これは、日本の感覚からすると、ちょっと意外なような気もしますが、これは、結婚や家庭のありかたやそれらに求めるものの日米の差によるものかもしれません。アメリカでは、教育程度が高く専門職につくような人ほど、結婚相手に、生活を共にするだけでなく精神的にも強く結びついた親友、「魂のパートナー」であることを求め、家庭を自分の価値観を体現する場として考える傾向が強いですからねえ。

2010年1月18日月曜日

大学教授は左より?

『ドット・コム・ラヴァーズ』への読者の反応のなかに、「大学教授がこんなことを書くなんて信じられない」という種類のコメントが多かったのに、私はかなり驚きました。私としては、自分が大学教授だからこそこの本を書いた、というか、自分が大学教授だからこそこの本が書けた、と思っていたからです。つまり、自分が個人的な生活体験としてアメリカを知っているだけでなく、学者としてアメリカ社会を研究し、また、学者特有のレンズでアメリカを観察するからこそ、ああいう本ができたと思っているわけです。でも、「大学教授がこんな本を書くなんて」という反応をする人は、そういうことではなくて、「大学教授が自分の私生活を本にするなんて」、それも要は「大学教授がセックスのことを書くなんて」という点について驚いているようです。これについての私の反応は、まず第一に「セックスのことなんて全然書いてないじゃん」、そして第二に「世間の人は大学教授というものにいったいどういうイメージをもっているんだろう?」というものです。私は、自分が大学生の頃は、学者を目指していたわけではまるでなく、職業としての大学教授にとくに興味をもっていなかったので、大学教授についてのイメージすらとくに持っていなかったのですが(自分が教わった大学教授たちはみなそれぞれ全然違ったタイプの人たちであまり共通点がないように思えたし)、ふーむ、なるほど日本の社会では、大学教授というのはデートや恋愛やセックスといったこととは連想されないのでしょうか。

アメリカでも、大学教授というカテゴリーにつきもののいろんなイメージがあり、実際に当たっているものもあればそうでないものもありますが、なかでも一番流布しているイメージ—そして、現実とかなりの確率で合致しているイメージ—は、政治思想において「リベラル」だというものです。もちろん、一口に大学といったっていろいろありますから、アイビーリーグと州立大学、リベラル・アーツ・カレッジとフットボールなどの大学スポーツがさかんな大学、特定の教会や宗派が母体となっている大学などでは、それぞれ文化がまるで違うのですが、それでも、全体としては、「大学教授というのはリベラルだ」というイメージは、人びとの意識に浸透していますし、実際に、「保守」を自称する人はアメリカの大学、とくに人文・社会系ではマイノリティです。それがなぜなのか、ということを分析した社会学の研究が、ニューヨーク・タイムズで紹介されています。

それによると、大学教授にリベラルが多いのは、リベラルでない人への直接的な差別があるから(リベラルでない人は採用されない)だという説を唱える人もいるが、それは皆無とは言えないまでもあまり正当性はない。むしろ、大学教授という職業のイメージがより大きな要因だ、ということです。看護士といえば女性というイメージ(歴史的にそれが事実であったからそういうイメージが定着したわけですが)があるために多くの男性は看護士という職業を選ぶのに抵抗があるのと同じように、大学教授といえばリベラルというイメージがある。だから、自称リベラルな若者は、大学教授という職業を選択肢のひとつとして考えるようになり、保守派の人たちは、それを遠ざけるようになる。

もちろん、大学教授がリベラルだというのは、単なる表面的なイメージだけではなく、実際の仕事の内容や性質とも結びついています。分野によってもかなりの差はあるものの、たとえば社会学などでは、社会階層や人種や性などを軸にした社会的不均衡の構造を分析するといったことが分野そのものの中心的な活動ですし、また、私自身の専門であるアメリカ研究という分野は、それまでの伝統的な文学史や歴史学では扱われてこなかった題材やトピック(マイノリティや女性など)に焦点をあてることで新しい形のアメリカ文化史を構築する、といったことが分野の起源にあるので、しぜんとリベラルな政治意識をもった人たちが集まってくるわけです。また、学者という仕事の性質—たとえば、長年にわたる下積み期間が必要とされる、宗教的にリベラルまたは無宗教の立場で議論をする、社会的に主流でないアイデアにもオープンである、教育程度に見合う収入が手に入らない(トホホ)—も、リベラルの人たちのほうがすでに持っている、または積極的に受け入れる確率が高い、というわけです。もちろん、「リベラル」とはなにか、「保守」とはなにか、というのは、日本とアメリカでずいぶん違う点もあるので、そのあたりはちょっとややこしいですが。

ちなみに、この調査によると、「リベラル」が多い職業は、大学教授、作家・ジャーナリスト、芸術家、社会科学者(「大学教授以外」ということなので、シンクタンクや公的機関で研究する人のことでしょう)、ソーシャルワーカー、バーテンダー。「保守」が多い職業は、自然科学者(これも「大学教授以外」なので、企業などの研究所で仕事をする人でしょう)、医師・歯医者、宗教職、警察官、ビル管理業者、graders and sorters(これはなんのことだかよくわかりません。試験の採点者のことかな?)など。なるほどねえ。



2010年1月14日木曜日

ハイチ救済

私はブラウン大学の大学院1年目に、今では国際的人気の作家となり作品が何冊も日本語にも訳されているエドウィージ・ダンティカと同じ寮の階に住んでいました。ハイチ地震の惨状の報道を見て、本当に心が痛みます。関西の大地震の記憶もまだそう古くはない日本の人びとも、新聞やテレビの画像を見てさまざまな思いを抱いていることでしょう。

地理的にも比較的近く、ハイチの政治にもさまざまな形で関与してきて、またハイチからの移民も多いアメリカでは、やはりハイチを専門に研究している人やハイチでさまざまな活動をしている人の層も厚く、そのぶん報道も日本のメディアとは比較にならないくらい多角的です。ニューヨーク・タイムズには、Tracy Kidderというピュリツアー賞を受賞したジャーナリストによる、思慮深い論説が載っています。また、さまざまな分野でのハイチの専門家たちによる考察の特集や、ハイチで援助活動をしている団体のリストと寄附の方法も載っています。人口あたりの援助団体は世界で一番多いにもかかわらず世界最貧国のひとつであるハイチでは、インフラの不備や政権の腐敗などの社会的要因で、そうした援助がなかなか効率的に住民の手に届かず、長期的な生活の安定や医療の整備などにつながりにくい、とのこと。そして今回の地震では、さまざまなNGOが首都ポートープランスに拠点を置きその事務所自体が壊滅してしまったことから、本格的な救済活動がなかなか始められず、医療や公衆衛生などどんどん状況が悪化しているようです。欧米に本拠地をもつ国際的なNGOは、どんなに善意と専門性があっても、本国からスタッフを派遣するための人件費をはじめとする運営コストがどうしても高くつき、せっかくの援助資金の多くが対象地域に残らないという傾向があるのに対して、数あるNGOのなかでも、より地元コミュニティに根ざし、住民と協力関係を築き、現地の人びとによって運営に関する意思決定がなされる援助団体もあります。とは言っても、現地のことを何も知らない素人には、そうした団体の区別はつけられないですから、自分が信頼する専門家のアドバイスに従うしかないでしょう。私のもとに集まった情報によると、Partners in Healthという団体は、いわゆる慈善事業だけでなく、対象地域の人びとや団体と持続的な協力関係を築き、経済・政治を含むさまざまなアプローチで問題に取り組むことで、医療や社会サービスのインフラを作っている団体だそうです。この団体はハイチの拠点が首都から離れたところにあるので、他の多くの団体と違って現在もフルに活動しているとのことです。

2010年1月11日月曜日

鬱の増加はアメリカ化のしるし?

普段アメリカに住んでいる私にとって、ここ十年ほどのあいだに、鬱との診断を受け投薬などの治療を受ける人が日本で急速に増えてきたのはなかなか興味深い現象です。『ドット・コム・ラヴァーズ』でも言及したように、アメリカではフロイトの流れをくむ精神分析の文化的影響も強く、とくに知識層のあいだではサイコセラピーとよばれるもののために、臨床心理学者やカウンセラーのところに通う人がとても多いですし、社会において精神医学が占める位置というのも、日本よりずっとメジャーです。以前からアメリカでは、恒常的または一時的に「自分は鬱だ」という人はとても多く、私はそれに文化的に強い違和感を感じることもあります。それでも、身体的あるいは社会的な要因で実際に鬱やそのほかの精神の病に苦しむ人はたくさん存在しますし、そうした人たちにとって、精神医学が助けになることももちろんです。私自身も、ときどきセラピストのところに話に行きますし、あまりにも落ち込んで身体的症状が出たときには、医者に行って薬をもらったこともあります。ですから、日本でも、鬱という症状についての社会的スティグマが多少は減り、鬱について普通に話ができるようになったのは、いいことだと思っています。そうやって社会の態度が変わることで、助けを必要とする人びとが割と普通に心療内科や精神科の門をたたけるようになり、職場や家族や友達の理解も多少は得られ、孤立してひとり苦しむことが少しは減っていると思うからです。それと同時に、あまりにも急速に鬱だという人が増えてきた(私の身近だけでも、鬱で入院や通院、休職などをしている人が何人もいます)のは、やはり社会的・文化的現象のひとつではあると思います。(ちなみに、アメリカに長年住んできた私からみると、日本での鬱患者の治療にはとても違和感があります。もちろん、鬱には分泌物のバランスといった化学的な要因もありますから、投薬も大事でしょうが、精神の症状である以上、その人の生活や人間関係でなにが起こっているかということをきちんと医者が理解し、セラピストやカウンセラーが定期的にじっくりと話を聞くということがなくては、よくなるはずがないのではと思うのですが、ひたすら投薬ばかりで医者に5分と話を聞いてもらっていないという鬱の人に何人も会います。)

と思っていたところに、先日のニューヨーク・タイムズ日曜版の雑誌に、「精神病のアメリカ化」というタイトルの記事が載りました。これはとても興味深いです。いわゆる「精神病」と考えられる症状は、地域や文化によってとてもさまざまな種類があって、それらの多くは時代の特徴や社会通念と関連していると思われる。(たとえば、東南アジアでは、人を殺さんばかりの怒りにとらわれた後で記憶喪失になる男性や、男性器が身体の内側に埋まってしまうのではないかという恐怖にとらわれる男性が多い。中東では、とりつかれたようになって大声で笑ったり叫んだり歌ったりする人が多い、など。)ところが、最近では、世界各地で、数種類の特定の精神病—とくに、鬱、PTSD、拒食症—がまるで疫病のようなスピードで広がっている。それと同時に、アメリカ式の精神医学による診断や治療の方法も世界に広まり、それぞれの社会で伝統的にとられてきた対処方法に替わるものとなってきた、ということです。「病気」と「医学的理解」はニワトリと卵のようなもので、どちらが先に来るものとは言い切れない部分が多い。鬱のような症状があった人は、以前からもたくさんいたでしょうが、鬱という概念が社会で一般化して、医学用語として正当性を帯びることで、専門家もメディアもそして一般人も、その言葉でさまざまなことを理解するようになる。こうして「鬱」の人が増える、というわけです。

もちろん、ある症状を説明する言葉や概念が一般化するということは、悪いことではないですし、「言葉が一般化した」ということは、必ずしも症状そのものが言葉で作られただけの「気のせい」だというわけではありません。名前がつくことによって、対処のしかたもわかってくるし、本人にとっても力になることも多いでしょう。でも、精神病についての診断や治療はとくに、「病」とはどういうもので、どういう「治療」をするのが適切かという、きわめて特定の文化的理解のなかで形成されてきた部分が多く、アメリカ的な理解や治療方法を異文化に移植しても、問題は解決されるどころか悪化する可能性がある、ということです。なるほど。日本で鬱の人が増えてきたのは日本がアメリカ化してきたことのしるし—なのかどうかはわかりませんが、いずれにせよ、自他共に鬱とよぶ人が増えているからには、その人たちが暮らす文化や社会のなかでそれに対応していく方法がきちんと生み出されていかなくてはいけません。

2010年1月9日土曜日

Vic Chesnutt 追悼

音楽の話題ではほとんどクラシックのことしかこのブログでは書いていませんが、今回はちょっと系統の違う音楽関係の話題。ロック/フォークのシンガーソングライター、Vic Chesnuttが、先月クリスマスの日に自ら命を絶ったということを、ナショナル・パブリック・ラジオのインタビュー番組Fresh Airのポッドキャストで知りました。私は、ちょうど1ヶ月ほど前に、同じ番組で彼のインタビューを聞いたところでした。1964年生まれの彼は、18歳のときに飲酒運転で重大事故に遭い、以来ずっと車いす生活で、手の動きも一部失われていたのですが、事故の前も含めて何度も自殺未遂をしたという彼が、「死」や「生」との関わりについて語るときの、彼の誠実さが伝わってきて、とても暗いものを内に抱えこみながらも、とても優しく明るいものや人生の喜びや希望もたくさんもっていることが、彼の語りからも音楽からもよくわかります。最近リリースされたばかりの、At the Cutというアルバムに収録された、Flirted with You All My Lifeという曲は、恋人についての歌のようでありながら、実は死への思いを歌った歌で、生まれてからずっと自分は死とたわむれてきた、だけれども今はそれと訣別するという別れの歌で、暗く苦しいようでいて実は喜びに満ちた歌なんだ、と語っています。この会話からもわかるように、このときのインタビューでは、彼の精神状態はかなり良好で、少なくとも今後しばらくは元気に活動を続けるのだろうという印象だったので、そのぶん、番組ホストのTerry Grossも制作スタッフも、そしてリスナーも、このニュースには大ショックを受けています。追悼番組には、彼の親友だったR.E.Mのマイケル・スタイプ(Chesnuttがジョージア州のバーで演奏しているのをマイケル・スタイプが発見して、Chesnuttの最初のアルバムをプロデュースしたそうです)などが彼の人間と音楽について、とても愛情をこめて語っているのがまた感動的です。作詞家・作曲家としての彼の職人的な求道と誇りについても知ることができて、興味深いです。

人がこうして命を絶つ背景には、親しい人を含め回りには理解のできないようなさまざまな要因があるはずですが、彼の場合、彼の内面的な苦悩に加えて、アメリカの医療制度の問題が現実の一部ではあったようです。アメリカでは、四肢の機能の多くを失った彼のような人、とくにミュージシャンのように組織に所属していない人は、「既往疾患」を理由に一般の健康保険への加入が拒否されます。そのため、彼は身体的なことでも精神的なことでも、診断や治療を受けるためには巨額のお金が必要で、よほどの緊急事態でもないかぎり病院に行けない、という状態でした。極端な鬱状態に陥ったときに、彼は友達や医療機関などにさまざまな形で助けを求め、周りもできる限りのことはしたにもかかわらず、いろいろな形の医療システムの欠陥が、こうした結果をもたらす一因となってしまったことも否めないようです。もっとも医療を必要としている人が保険に入れないといった信じがたいシステムが、オバマ政権でだいぶ改善されるようですが、Chesnuttにとっては間に合わなかったということになります。

とにかく、彼の音楽そして語りには、本当に心を揺さぶる誠実さがあるので、是非、1ヶ月前に放送されたもとのインタビュー、そして追悼番組、そして彼の最新CD、At the Cut
を聴いてみてください。

2010年1月7日木曜日

非クライバーン・コンクール的才能発掘

去年の5月から6月にかけて行われたヴァン・クライバーン国際ピアノコンペティション(通称クライバーン・コンクール)についての本をただ今せっせと執筆中なのですが(このブログを読んでいるであろう出版社のKさんとMさん。書いてますよ!:))、一昨日のニューヨーク・タイムズに、クライバーン・コンクールのような形式とはまるで違った形で若い才能を発掘し支援する賞についての記事載っています。

4年に1度発表されるギルモア芸術賞という音楽家のための賞を今回受賞するのが、ロシア出身アメリカ国籍のKirill Gersteinというピアニスト。この賞を受賞するのは彼が6人めで、過去の受賞者には日本でも大人気のアンスネスなどが含まれています。この賞は、30万ドルという、芸術家のための賞としては巨額な賞で、そのうち初めにぽーんと与えられる5万ドルはなんでも好きなことに使ってよく、残りの額は受賞者の芸術家としてのキャリアや活動を促進する目的で、賞主催者の許可をとれば、なんにでも使ってよい、ということになっています。この賞を運営しているギルモア財団の創設者は、ミシガン州の資産家ギルモア氏。デパート経営で財をなした家族の資産を相続し、みずからは小さなアパートに住んで質素な生活を営みながら、アマチュア・ピアニストでもあり、自分の財産を音楽家支援に使いたいと思って財団を設立したということです。毎年、学問や芸術の分野で創造的な活動をしている20数名に50万ドルの賞金を与えるMacArthur Fellows(世間では通称Genius Award、つまり天才賞と呼ばれている)というプログラムは有名ですが、このギルモア賞はそのピアノ版のようなものです。クライバーン・コンクールのような、非人間的ともいえるほど過酷でプレッシャーの高い状況のなかで音楽家たちを競争させるのではなく、この賞は、選考委員が推薦を募り(国籍や年齢の制限はなし)、候補者たちの数々のレコーディングや演奏を本人たちには内緒で聴き、審査をする、という仕組みになっています。候補者たちは、自分が賞の候補になっていることを知らないので、今回のGernstein氏がそうであったように、ある日突然受賞を知らされて仰天するわけです。過去の受賞者は、30万ドルを、楽器を買ったり、演奏活動をしばらく休んで練習に集中するための生活費にあてたり、作曲家に作品を委嘱したり、広報スタッフを雇ったりすることに使うのが一般的でした。Gernstein氏はすでに各種のピアノ5台をもっていることから、楽器を買うことには使うつもりはないが、作品を委嘱したり、ブゾーニの作品をレコーディングしたり、視覚メディアやダンスと音楽を合わせたプロジェクトを考えている、とのことです。

真に才能のある芸術家をどうやって見極めるのか、そして彼らの才能や活動をさらに伸ばしていくにはどういう形の支援がもっとも有効なのか、というのはとても難しい問題です。1958年にチャイコフスキー・コンクールで優勝した後のクライバーン氏自身も、また、過去にクライバーン・コンクールで優勝したピアニストたちの多くも、せっかくコンクールで華々しいデビューを飾りながらも、そこで得た知名度がかえって災いして、各地でひっぱりだこになって練習をしたりゆっくりものを考えたりする時間がなくなり、芸術家としての成長が滞ってしまう、ということもあります。その点、賞金を、まさに演奏活動を休止して勉強に励むために使える、というのはとても立派なことです。また、コンクールのような人工的な状況のもとでのパフォーマンスよりも、実際の聴衆を前にした本来の演奏活動を審査の素材にする、というこの賞の方針も、おおいに納得できる部分もあります。それと同時に、芸術というのは、評価のための一律な基準もないし、才能や活動の形もさまざまなので、どういう形の審査が「公平」なのかは、答の出しようがない問題でもあります。

この記事のリンクから、Gerstein氏の演奏のレコーディングもずいぶんたくさん聴けますので、よかったらどうぞ。

2010年1月4日月曜日

ウガンダ反同性愛法案

あけましておめでとうございます。私は元旦から昨日まで関西の親戚のところに行っていました。私は日本に住んでいた20余年のあいだ、大学受験の年を除いては律儀に毎年お正月(だけでなく、夏休みも春休みも)は関西に行って親戚と集まっていたので、日本のお正月というのはそういうものだと信じていました。が、そんなふうに毎年親戚じゅうで集まっておせち料理を食べるような家族は今ではむしろ少なくなっているらしい、ということに気づいたのは最近のことです。『ドット・コム・ラヴァーズ』で、アメリカのサンクスギヴィングやクリスマスに、楽しいばかりでなくドロドロとした家族ドラマが展開されがちであることは説明しましたが、私にとっての日本のお正月はまさにそれと同じ。なにが起こるかわからないので、楽しみなのとオソロしいのと両方の気持ちをもってのぞみましたが、幸いにしてオソロしいことはとくに起こらず、平和で賑やかな元旦となりました。(親戚のなかにもこのブログを読んでいる人がいることが判明したので、この話題はこのくらいでおしまいにしておきましょう、はい。:))

さて、アメリカのメディア(といっても、私が今日常的に触れるアメリカのメディアは、ニューヨーク・タイムズやウオール・ストリート・ジャーナル、およびナショナル・パブリック・ラジオの各種番組のポッドキャスト、そしてRachel Maddowという才媛キャスターがホストをつとめるRachel Maddow Showのポッドキャストくらいですが)ではここ1ヶ月くらいしきりに報道されているにもかかわらず、日本では報道を見たことがない話題が、ウガンダで議会に提出された反同性愛法案です。アフリカでは同性愛を非道徳的なものとみなし法的・社会的にもさまざまな差別的扱いをする国が多いですが、このウガンダの法案はきわめて極端で、エイズを患っている同性愛者は死刑、同性愛者としての生活を送っている人は死刑ないし終身刑、同性愛者を弁護したり手助けしたりした人にも処罰、外国に居住するウガンダ国籍の同性愛者は強制送還などの項目が入れられています。こうした法案成立の背景には、アメリカの保守的な福音主義キリスト教会のリーダーたちの支援があると言われており、ウガンダで行われた集会で、アメリカの「専門家」たちが、同性愛者を「矯正」して異性愛者に変える方法を指導したことや、アメリカの右派政治家とウガンダの政治リーダーたちのあいだに「政治」の領域を超えた関係があることが報道されています。しかし、今回のウガンダの法案には、当然ながら人権保護の立場から国際的に大きな抗議の声があがっており、これまでウガンダのリーダーたちと交友関係を築いてきたアメリカの教会関係者や政治家たちも、この法案の極端さには反対の意を表し、ウガンダからは距離をとる態度を示しています。先日のニューヨーク・タイムズにもこの件についての記事がありますので、是非読んでみてください。ナショナル・パブリック・ラジオのFresh Airでは、有力な政治家もメンバーとなっている保守のキリスト教団体The Familyに長年かかわっていたBob Hunterという人のインタビューがあり、このウガンダ法案についても言及されています。